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第88話 スプーン右の写真が、君のただいまになった

 しらいさんが部屋に来られない夜は、前より少し増えた。


 それは、悪いことではなかった。


 映画が評価され、テレビ特番で言葉が届き、年末番組の短い芝居が話題になった。

 白瀬アカリという女優が、今までよりずっと多くの人に見つかり始めている。


 それは、誇らしい。


 春日悠真は、心からそう思っていた。


 朝のニュースアプリに彼女の名前が出る。

 通勤電車の中吊り広告に、次号の雑誌予告として白瀬アカリの名前がある。

 昼休みに三崎が「このインタビュー読んだか」と、いつの間にか自分より早く情報を拾ってくる。


 嬉しい。

 とても嬉しい。


 でも、帰宅してローテーブルの前に座ったとき、青灰色のコースターの上に置いたマグカップだけが静かにあると、少しだけ寂しくもなる。


 今日は来られない。


 そういうメッセージが届く日が、少しずつ増えていた。


 理沙さんの判断は正しい。

 仕事の量も増え、人目も増え、移動も増えた。

 いま無理に部屋へ来ることは、しらいさんの体にも、白瀬アカリの立場にもよくない。


 それは分かっている。


 分かっているから、悠真はいつも返す。


『今日は休んでください』


『理沙さん側です』


『彼氏側もです』


 すると、しらいさんはだいたいこう返す。


『強い』


 そのあと少しして、


『でも、行きたい』


 と続く。


 その一文を見るたびに、胸の奥が少しだけ痛む。


 来てほしい。


 そう思う。


 でも、来なくていい。


 いや、来なくていいわけではない。


 来られる日に来てほしい。


 来られない日は、来られないまま帰ってきてほしい。


 そんなややこしい気持ちを、悠真はまだうまく一言にはできなかった。


 だから、その夜も、ローテーブルの上を整えた。


 青灰色のコースター。

 白いマグカップ。

 蜂蜜の瓶。

 自分用のカップ。

 そして、カップの右側に置いた小さなスプーン。


 昨日決めたばかりの、小さな合図。


 蜂蜜の日。

 スプーン右。


 外ではただの蜂蜜でも、ただのスプーンでも、二人の間では少し違う意味を持つ。


 悠真は、自分用のカップにハーブティーを注ぎ、蜂蜜を少し入れた。

 スプーンでゆっくり混ぜると、ほのかに甘い香りが湯気に混じる。


 そのスプーンを、カップの右側へ置く。


 写真を撮った。


『今日もあります』


 続けて、


『スプーン右です』


 送信。


 既読はすぐにはつかなかった。


 今日は取材が三本あると言っていた。

 そのうち一本は、年末番組の反響を受けたロングインタビューらしい。


 蜂蜜の話をまた聞かれるかもしれない、と昼間のメッセージで少し困っていた。


 悠真はスマホを置き、テレビもつけずにカップを手に取った。


 静かな部屋だった。


 以前なら、この静けさはただの静けさだった。

 けれど今は、誰かを待つ静けさになっている。


 マグカップがある。

 でも本人はいない。


 それは少し寂しい。


 でも、いないのに場所があるということは、悪いことではないのかもしれない。


 そんなことを考えていると、スマホが震えた。


『見た』


 短い返事。


 それだけで、部屋の空気が少し変わった気がした。


 続けて写真が届く。


 白いカップ。

 小さな蜂蜜スティック。

 そして、カップの右側に置かれたスプーン。


 背景は控室ではなさそうだった。

 どこかの移動先の小さなテーブル。

 紙ナプキンと水のペットボトルが端に写っている。


『こっちもスプーン右』


 悠真は、写真をしばらく見つめた。


 ただのカップ。

 ただのスプーン。


 でも、それはしらいさんからの「ただいま」だった。


『おかえりなさい』


 送る。


 既読。


 少し間があって、


『ただいま』


 と返ってきた。


 悠真は、カップを持ったまま少しだけ笑った。


 部屋には来ていない。

 声も聞いていない。


 それでも、今、たしかに帰ってきた。


    ◇


 翌朝、しらいさんから届いた写真には、またスプーンが右にあった。


 今度は紙コップだった。

 横に置かれた小さな木のマドラー。

 右側にそっと寄せられている。


『これも右?』


 彼女からのメッセージ。


 悠真は少し笑った。


『かなり右です』


 既読。


『かなり判定』


『厳しめです』


『でも帰った』


『おかえりなさい』


 既読。


『ただいま』


 それだけのやり取りだった。


 けれど、朝の支度をしながら、その短い言葉が何度も胸に戻ってきた。


 スプーン右。


 地味すぎる。

 本当に、誰にも気づかれないくらい地味だ。


 でも、それでよかった。


 外に出すものと、内側に残すもの。


 蜂蜜は外へ少し広がった。

 白瀬アカリの自然体な発言として、ファンにも取材にも拾われるようになった。


 でも、スプーン右はまだ二人の内側にある。


 それが、しらいさんの息を少しだけ楽にしている。


 悠真にも、それが分かった。


    ◇


 昼休み、三崎は今日も白瀬アカリの記事を読んでいた。


「春日」


「何」


「白瀬アカリ、また蜂蜜の話してる」


 悠真は弁当の蓋を開ける手を止めた。


「またか」


「このインタビュー。『忙しい日の小さな習慣は?』って聞かれて、温かい飲み物に蜂蜜を少し入れることって答えてる」


 三崎はスマホをこちらへ向けた。


 画面には、白瀬アカリのインタビュー記事が表示されている。


 写真の中の彼女は、穏やかに笑っていた。

 白瀬アカリとして、柔らかく、きちんとしている顔。


 記事の文章には、たしかに蜂蜜の話があった。


 温かい飲み物。

 少しの蜂蜜。

 一日の終わりに、自分の呼吸を整える時間。


 きれいな言葉だった。


 そして、嘘ではない。


 でも、全部ではない。


 悠真はそれを知っている。


「どうした」


 三崎が聞く。


「いや」


「また複雑?」


「少し」


「蜂蜜が外に出ていく顔」


「本当に分類を増やすな」


「でも当たってるだろ」


 当たっていた。


 三崎はカフェラテを飲みながら、画面を自分のほうに戻す。


「でも、この記事はいいと思うぞ」


「そうか」


「うん。蜂蜜キャラに寄せすぎてない。ちゃんと“休むための小さい習慣”って話になってる」


「……なるほど」


「白瀬アカリ、こういう話うまくなったな。昔なら、もっと綺麗にまとめて終わってた気がする」


 悠真は、少しだけ三崎を見た。


「昔のインタビュー、まだ読み比べてるのか」


「読んでる。お前が沼に落としたから」


「それは責任取れない」


「取れ」


 三崎は笑った。


 けれど、すぐに真面目な顔になる。


「でも、白瀬アカリの言葉って、最近ちょうどいいんだよな」


「ちょうどいい?」


「全部さらけ出してるわけじゃない。でも空っぽでもない」


 悠真は、胸の奥が静かに反応するのを感じた。


 全部さらけ出しているわけじゃない。

 でも空っぽでもない。


 それは、しらいさんがずっと探している場所だ。


 外へ出す言葉と、内側に残す言葉の境目。


「いい感想だな」


「また褒められた」


「調子に乗るな」


「もう乗った」


 三崎は楽しそうに唐揚げを口に入れた。


 その横顔を見ながら、悠真は思った。


 三崎は、外側から見てくれる。


 白瀬アカリを、普通のファンとして。

 記事を読み、番組を見て、何も知らないまま感想を言う。


 その言葉が、今のしらいさんにはきっと必要だ。


 近すぎる自分には分からないものを、三崎は拾う。


 それは少し複雑で、でもありがたい。


    ◇


 午後、悠真はしらいさんにメッセージを送った。


『三崎が今日のインタビューを読んでいました』


 少しして既読がつく。


『蜂蜜?』


『はい』


『うわ』


『でも、蜂蜜キャラに寄りすぎていなくていいと言っていました』


 既読。


 少し間。


『三崎さん、本当に外側の番人』


『本人に言ったら調子に乗ります』


『言わないで』


『言いません』


 続けて送る。


『全部さらけ出しているわけではない。でも空っぽでもない。最近の白瀬アカリの言葉はちょうどいい、と』


 既読。


 長い沈黙。


 仕事中なので、悠真はスマホを伏せようとした。

 けれど、その前に返信が来た。


『それ、すごくほしかった』


 悠真は画面を見つめた。


『言葉の距離感、怖かったから』


『外から見て、ちょうどいいなら少し安心する』


 悠真は、ゆっくり返信した。


『ちょうどよく見えていると思います』


『少なくとも、三崎には』


 既読。


『春日くんには?』


 その問いに、悠真は少しだけ迷った。


 近すぎる自分の答え。

 でも、今はそれも必要なのだろう。


『俺には』


『白瀬アカリとして外に出した言葉と』


『しらいさんが内側に残した言葉の両方が少し見えます』


『だから、ちょうどいいというより』


『よく頑張って線を引いていると思います』


 送ってから、これは仕事中に重すぎたかもしれないと思った。


 既読。


 しばらく沈黙。


 やがて、


『春日くん』


『はい』


『仕事中にそれはだめ』


 悠真は小さく笑った。


『すみません』


『謝るところではある』


『でも、ありがとう』


 さらに、


『今日、夜遅いけどスプーン右する』


 と届いた。


『待っています』


 既読。


『帰るから』


 悠真は、少しだけ目を伏せた。


『おかえりなさいの準備をしておきます』


    ◇


 その夜、しらいさんから写真が届いたのは、かなり遅い時間だった。


 日付が変わる少し前。


 悠真は眠気を感じながらも、ローテーブルの前で待っていた。


 眠ってもよかった。

 実際、しらいさんにも「寝ていて」と言われていた。


 でも、今日は待ちたかった。


 スマホが震える。


 写真。


 暗めの部屋。

 白いカップ。

 蜂蜜のスティック。

 右側のスプーン。


 そして、いつもより短いメッセージ。


『スプーン右』


 疲れているのだろう。


 言葉が少ない。


 悠真は、すでに用意していた自分のカップを撮る。


 同じように、カップの右側にスプーン。

 奥には青灰色のコースターと、しらいさんのマグカップ。


『こちらもスプーン右です』


『おかえりなさい』


 送信。


 既読はすぐについた。


 少しして、


『ただいま』


 続けて、


『今日はこれだけで泣きそう』


 悠真はすぐに返す。


『今日は泣かずに寝てください』


『仮予約にしましょう』


 既読。


『仮予約、多い』


『正式予約の日を決めましょうか』


 既読。


 少し間。


『まだ決めない』


『でも、近いうち』


『分かりました』


『用意しておきます』


 既読。


『ミルクティー』


『蜂蜜多め』


『スプーン右?』


 悠真は少し笑った。


『部屋では必要ありません』


 既読。


『そうだった』


『部屋には本物の音がある』


 悠真は、マグカップを見た。


『鳴らしますか』


 送る。


 既読。


 少し時間が空いた。


『今日は我慢する』


『依存しない』


 悠真は、その文を読んで胸が熱くなった。


『すごいです』


『本当に』


 既読。


『それ、今日ほしかった』


 しらいさんは続ける。


『寝る』


『おやすみ、春日くん』


『おやすみなさい』


 メッセージはそこで止まった。


    ◇


 悠真はしばらく、スマホを置けなかった。


 今日はことんの音を求めなかった。

 聞きたいはずなのに、我慢した。


 スプーン右だけで帰ってきて、スプーン右だけで眠る。


 それは、きっと小さなことではない。


 帰り方が増えるというのは、何でもかんでも頼れるものを増やすことではない。

 頼りすぎないための道を増やすことでもあるのだ。


 蜂蜜の日。

 スプーン右。

 ことんの音。

 マグカップの写真。

 電話。

 河川敷。


 それぞれに、少しずつ違う強さがある。


 毎日ことんの音が必要なわけではない。

 毎回部屋へ来なくてもいい。

 それでも、帰ることはできる。


 悠真は、自分のカップを一口飲んだ。


 少し冷めたハーブティー。

 蜂蜜の甘さが、まだ残っている。


 ローテーブルの上には、カップの右側に置かれたスプーン。


 何でもないものなのに、今日はとても大事なものに見えた。


 悠真は静かにスマホを伏せ、しらいさんのマグカップを棚に戻した。


 ことん、と鳴らさないように、そっと。


 今日は、音を鳴らさない日。


 それでも帰ってきた日。


 そういう日も、これから必要になるのだと思った。

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