第87話 蜂蜜の日が、少しだけ世間のものになった
蜂蜜の日は、思っていたより早く外側へ漏れた。
もちろん、本当に漏れたわけではない。
しらいさんと春日悠真が、部屋に来られない日のために「温かい飲み物へ蜂蜜を入れる」という小さな合図を決めたことを、誰かが知ったわけではなかった。
けれど翌日の昼休み、三崎がスマホを見ながら言った。
「春日」
「何」
「白瀬アカリのファン、もう蜂蜜で遊び始めてるぞ」
悠真は箸を止めた。
「蜂蜜で遊ぶって何だよ」
「ほら」
三崎が画面をこちらに向ける。
そこには、SNSの投稿をまとめた記事が表示されていた。
『白瀬アカリさんの蜂蜜発言に癒やされる』
『今日は白瀬アカリさんを見習って蜂蜜入り紅茶』
『年末で疲れたので蜂蜜の日にします』
『白瀬アカリさんの“温かい飲み物に蜂蜜”発言、生活に取り入れたい』
悠真は、しばらく画面を見つめた。
蜂蜜の日。
その言葉が、外にある。
もちろん、しらいさんと決めたものとは違う。
ファンが特番の発言を受けて、好意的に使っているだけだ。
分かっている。
でも、ほんの少しだけ胸がざわついた。
昨日、二人だけで決めた小さな合図が、偶然とはいえ外側の言葉と重なってしまった。
「春日?」
三崎が顔を覗き込む。
「また顔」
「何の顔だよ」
「蜂蜜を世間に取られたファンの顔」
「そんな分類を作るな」
「でも今、完全にそうだった」
否定しきれなかった。
三崎は笑ったが、すぐに少しだけ真面目になる。
「まあ、白瀬アカリの発言がそれだけ届いたってことだろ。いいことじゃん」
「そうだな」
「何か複雑そうだけど」
「……複雑だな」
「なんで?」
悠真は、言葉を探した。
言える範囲で。
「白瀬アカリの言葉が広がるのは嬉しい」
「うん」
「でも、広がるほど、本人の小さい習慣まで見られる感じがして少し心配になる」
三崎は、カフェラテを持ったまま頷いた。
「ああ、それは分かる。ファンが盛り上がるのはいいけど、本人が言った何気ないことが急に意味持ちすぎるやつな」
「そう」
「蜂蜜好きって言っただけなのに、蜂蜜キャラみたいになったら困るもんな」
「蜂蜜キャラ」
「かわいいけど、たぶん本人は困る」
悠真は、思わず少し笑った。
しらいさんが聞いたら、間違いなく「蜂蜜キャラは嫌」と言う。
「でも、悪意はないんだよな」
三崎は続けた。
「みんな、白瀬アカリの言葉がよかったから真似してるだけで」
「そうだな」
「そこが難しいな。好意で広がるのも、見られる側にはちょっとしんどいときあるだろうし」
本当に、三崎はときどき鋭い。
悠真は弁当の卵焼きを口に運びながら、心の中でその言葉を持ち帰ることにした。
好意で広がるものも、見られる側にはしんどいことがある。
しらいさんに話すとき、きっと必要になる。
◇
午後、しらいさんからメッセージが来た。
『蜂蜜、見た?』
短い。
でも、そこに少し困ったような空気があった。
悠真はすぐに返す。
『見ました』
『蜂蜜の日、少し広がっていますね』
既読。
しばらく返事が来なかった。
やがて、
『昨日決めたばかりなのに』
と届いた。
悠真は、胸の奥が少し痛くなるのを感じた。
『偶然です』
『分かってる』
『誰も知らない』
『うん』
『でも、ちょっとびっくりした』
その気持ちはよく分かる。
二人だけの小さな合図にしようと思ったものが、外側にも似た形で存在し始めている。
秘密が漏れたわけではない。
けれど、秘密にしたかった手触りが少し薄まる。
『嫌ですか』
送る。
既読。
『嫌じゃない』
『嬉しい』
『私の言葉を、誰かがいいと思ってくれたから』
『でも、ちょっと寂しい』
悠真は、スマホを見つめながら静かに息を吐いた。
やはり両方だった。
『三崎も似たことを言っていました』
『何て?』
『好意で広がるものも、見られる側にはしんどいときがある、と』
既読。
『三崎さん』
『本当にたまに鋭い』
『はい』
『かなり』
『移ってる』
『かなり移っています』
少しだけ軽さが戻る。
でも、すぐにしらいさんから次の文が来た。
『蜂蜜の日、やめる?』
悠真は、すぐには返せなかった。
やめたほうがいいのか。
外で広がってしまった言葉を、二人の合図として使い続けるのは危ういかもしれない。
でも、昨日の夜、たしかに彼女は蜂蜜で少し帰ってこられた。
それをすぐ捨てるのも違う気がした。
『やめなくてもいいと思います』
ゆっくり打つ。
『ただ、少しだけ変えませんか』
既読。
『変える?』
『蜂蜜を入れること自体は、外でも普通にあります』
『でも、二人だけに分かる小さな部分を足す』
『たとえば、写真を送るときにスプーンを右側に置くとか』
既読。
少し間。
『スプーン右』
『はい』
『それ、すごく地味』
『地味なほうが安全です』
既読。
『地味なお姉さん向き』
『本人じゃない人向きです』
既読。
『そこ乗るんだ』
『乗りました』
『よし』
画面の向こうで、少し笑っている気がした。
『じゃあ、蜂蜜の日は続ける』
『でも、本当の合図はスプーン右』
『はい』
『蜂蜜は外にもある』
『スプーン右は、春日くんに帰る合図』
悠真は、その文をしばらく見つめた。
春日くんに帰る合図。
仕事中のデスクで読むには、かなり危険な文だった。
『仕事中にそれはだめです』
送る。
既読。
『春日くんが言った』
『いつもの逆ですね』
『うん』
『でも、ありがとう』
◇
その夜、しらいさんはまた部屋には来られなかった。
取材が増え、移動が増え、理沙さんの管理も少し厳しくなっているらしい。
けれど、二十二時前に写真が届いた。
白いカップ。
蜂蜜のスティック。
そして、カップの右側に置かれた小さなスプーン。
たぶん、意識しなければ誰も気づかない。
でも、悠真にはすぐ分かった。
『蜂蜜の日』
続けて、
『スプーン右』
悠真はローテーブルの前で、胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。
すぐに、自分のカップを用意する。
蜂蜜入りのハーブティー。
カップの右側にスプーン。
その奥には、青灰色のコースターと、しらいさんのマグカップ。
写真を撮って送る。
『こちらもスプーン右です』
既読。
『見た』
『帰った』
悠真は、少しだけ笑った。
『おかえりなさい』
既読。
『ただいま』
短い返事。
けれど、今日はそれだけでは終わらなかった。
『外では蜂蜜が広がってるけど』
『このスプーンは、まだこっちのもの』
悠真は、その文を何度も読んだ。
外へ広がるもの。
内側に残すもの。
これからは、その線引きがますます必要になる。
『はい』
『大事にしましょう』
送る。
既読。
『うん』
◇
短い通話は、昨日より少し遅い時間につながった。
しらいさんの声は疲れていたが、少しだけ明るかった。
「もしもし」
「春日くん」
「スプーン右、見ました」
「見つけた?」
「すぐに」
「よかった」
「かなり地味ですね」
「そこがいい」
「はい」
「外の人には、ただのスプーン」
「はい」
「春日くんには、ただいま」
「……はい」
「また仕事中じゃなくてよかった」
「本当に」
彼女は小さく笑った。
その笑い声を聞くだけで、少し安心する。
「蜂蜜、ちょっと広がってたね」
「はい」
「びっくりした」
「そうですね」
「嫌じゃないんだけど、ちょっと怖かった」
「はい」
「私が何気なく言ったことが、誰かの中で形になる」
「はい」
「それは嬉しい」
「はい」
「でも、私が自分のために持っていたものが、少し外に出る感じもした」
「そうですね」
「だから、スプーン右ができてよかった」
しらいさんは少しだけ息を吐く。
「蜂蜜は外にもある」
「はい」
「スプーン右は、内側」
「はい」
「そう思ったら、落ち着いた」
「よかったです」
「出た」
「出ます」
いつもの言葉が戻る。
けれど、今日の会話はいつもより少し大事だった。
白瀬アカリの言葉が広がる。
その中で、しらいさんの場所をどう守るか。
それはこれから何度も出てくる問題なのだろう。
「春日くん」
「はい」
「私、これからまた何か言うたびに、外に広がるかもしれない」
「はい」
「小さい習慣とか、好きなものとか、言葉とか」
「はい」
「それが嬉しい日もあるし、怖い日もあると思う」
「はい」
「そのたびに、全部隠すんじゃなくて」
「はい」
「外に出すものと、内側に残すものを分けたい」
「そうしましょう」
「手伝ってくれる?」
「もちろんです」
「理沙さんにも相談する」
「はい」
「春日くんにも相談する」
「はい」
「三崎さんの外側の感想も、たまに持って帰ってきて」
「分かりました」
「三崎さん、便利」
「本人に言ったら調子に乗ります」
「言わないで」
「言いません」
二人で少し笑った。
◇
通話の終わり際、しらいさんがふいに言った。
「今日、部屋に行けなかったけど」
「はい」
「スプーン右で、思ったより帰れた」
「はい」
「でも、やっぱり本物の音が聞きたい」
「ことん、ですか」
「うん」
悠真は、ローテーブルのマグカップを見た。
しらいさんのマグカップは、コースターの上にある。
「今、鳴らしましょうか」
「え」
「通話越しに」
「……聞きたい」
悠真は、マグカップをそっと持ち上げた。
それから、青灰色のコースターの上へ置く。
ことん。
小さな音が、部屋に落ちた。
電話の向こうで、しらいさんが黙った。
「聞こえましたか」
「聞こえた」
「よかったです」
「だめ」
「うれしいほうですか」
「うん」
「ならよかったです」
「出た」
しらいさんの声が少し揺れていた。
「春日くん」
「はい」
「今の音、保存したい」
「録音しますか」
「しない」
「しないんですか」
「録音したら、いつでも聞けちゃう」
「はい」
「いつでも聞けると、たぶん頼りすぎる」
悠真は少し黙った。
支えにする。
依存しない。
ここにも、その線がある。
「では、必要なときだけ鳴らします」
「うん」
「言ってください」
「うん」
「でも、毎日はだめです」
「分かってる」
「スプーン右で足りる日は、スプーン右で」
「うん」
「本物の音が必要な日は、言ってください」
しらいさんは、静かに息を吐いた。
「それ、すごくいい」
「はい」
「帰り方が増えた」
「はい」
「蜂蜜の日」
「スプーン右」
「ことんの音」
「部屋」
「河川敷」
「電話」
「写真」
「春日くんの、おかえりなさい」
最後の言葉で、悠真の胸が少し詰まった。
「何度でも言います」
「知ってる」
彼女はいつものように言った。
でも、今日の「知ってる」は、少しだけ安心した声だった。
◇
通話を切ったあと、悠真はしばらくマグカップを見ていた。
蜂蜜は、少しだけ世間のものになった。
白瀬アカリの自然体な言葉として、外へ広がった。
それは嬉しいことだ。
彼女の言葉が届いた証でもある。
でも、全部を外へ出す必要はない。
スプーン右。
誰にも分からないほど地味な合図。
それだけで、しらいさんは今日、少し帰ってこられた。
悠真はカップの右側に置いたスプーンを見た。
何でもない金属の小さなスプーン。
けれど、今日からそれは二人だけの道しるべになった。
白瀬アカリがさらに遠くへ行くほど、しらいさんが戻る道を増やしていく。
その道は、大げさでなくていい。
誰にも見えなくていい。
むしろ、見えないほうがいい。
ことん。
もう一度、マグカップを置いてみる。
今度は誰にも聞こえない。
でも、悠真にはちゃんと聞こえた。
ここにある。
帰る場所は、まだここにある。




