表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
86/173

第87話 蜂蜜の日が、少しだけ世間のものになった

 蜂蜜の日は、思っていたより早く外側へ漏れた。


 もちろん、本当に漏れたわけではない。


 しらいさんと春日悠真が、部屋に来られない日のために「温かい飲み物へ蜂蜜を入れる」という小さな合図を決めたことを、誰かが知ったわけではなかった。


 けれど翌日の昼休み、三崎がスマホを見ながら言った。


「春日」


「何」


「白瀬アカリのファン、もう蜂蜜で遊び始めてるぞ」


 悠真は箸を止めた。


「蜂蜜で遊ぶって何だよ」


「ほら」


 三崎が画面をこちらに向ける。


 そこには、SNSの投稿をまとめた記事が表示されていた。


『白瀬アカリさんの蜂蜜発言に癒やされる』

『今日は白瀬アカリさんを見習って蜂蜜入り紅茶』

『年末で疲れたので蜂蜜の日にします』

『白瀬アカリさんの“温かい飲み物に蜂蜜”発言、生活に取り入れたい』


 悠真は、しばらく画面を見つめた。


 蜂蜜の日。


 その言葉が、外にある。


 もちろん、しらいさんと決めたものとは違う。

 ファンが特番の発言を受けて、好意的に使っているだけだ。


 分かっている。


 でも、ほんの少しだけ胸がざわついた。


 昨日、二人だけで決めた小さな合図が、偶然とはいえ外側の言葉と重なってしまった。


「春日?」


 三崎が顔を覗き込む。


「また顔」


「何の顔だよ」


「蜂蜜を世間に取られたファンの顔」


「そんな分類を作るな」


「でも今、完全にそうだった」


 否定しきれなかった。


 三崎は笑ったが、すぐに少しだけ真面目になる。


「まあ、白瀬アカリの発言がそれだけ届いたってことだろ。いいことじゃん」


「そうだな」


「何か複雑そうだけど」


「……複雑だな」


「なんで?」


 悠真は、言葉を探した。


 言える範囲で。


「白瀬アカリの言葉が広がるのは嬉しい」


「うん」


「でも、広がるほど、本人の小さい習慣まで見られる感じがして少し心配になる」


 三崎は、カフェラテを持ったまま頷いた。


「ああ、それは分かる。ファンが盛り上がるのはいいけど、本人が言った何気ないことが急に意味持ちすぎるやつな」


「そう」


「蜂蜜好きって言っただけなのに、蜂蜜キャラみたいになったら困るもんな」


「蜂蜜キャラ」


「かわいいけど、たぶん本人は困る」


 悠真は、思わず少し笑った。


 しらいさんが聞いたら、間違いなく「蜂蜜キャラは嫌」と言う。


「でも、悪意はないんだよな」


 三崎は続けた。


「みんな、白瀬アカリの言葉がよかったから真似してるだけで」


「そうだな」


「そこが難しいな。好意で広がるのも、見られる側にはちょっとしんどいときあるだろうし」


 本当に、三崎はときどき鋭い。


 悠真は弁当の卵焼きを口に運びながら、心の中でその言葉を持ち帰ることにした。


 好意で広がるものも、見られる側にはしんどいことがある。


 しらいさんに話すとき、きっと必要になる。


    ◇


 午後、しらいさんからメッセージが来た。


『蜂蜜、見た?』


 短い。


 でも、そこに少し困ったような空気があった。


 悠真はすぐに返す。


『見ました』


『蜂蜜の日、少し広がっていますね』


 既読。


 しばらく返事が来なかった。


 やがて、


『昨日決めたばかりなのに』


 と届いた。


 悠真は、胸の奥が少し痛くなるのを感じた。


『偶然です』


『分かってる』


『誰も知らない』


『うん』


『でも、ちょっとびっくりした』


 その気持ちはよく分かる。


 二人だけの小さな合図にしようと思ったものが、外側にも似た形で存在し始めている。

 秘密が漏れたわけではない。

 けれど、秘密にしたかった手触りが少し薄まる。


『嫌ですか』


 送る。


 既読。


『嫌じゃない』


『嬉しい』


『私の言葉を、誰かがいいと思ってくれたから』


『でも、ちょっと寂しい』


 悠真は、スマホを見つめながら静かに息を吐いた。


 やはり両方だった。


『三崎も似たことを言っていました』


『何て?』


『好意で広がるものも、見られる側にはしんどいときがある、と』


 既読。


『三崎さん』


『本当にたまに鋭い』


『はい』


『かなり』


『移ってる』


『かなり移っています』


 少しだけ軽さが戻る。


 でも、すぐにしらいさんから次の文が来た。


『蜂蜜の日、やめる?』


 悠真は、すぐには返せなかった。


 やめたほうがいいのか。


 外で広がってしまった言葉を、二人の合図として使い続けるのは危ういかもしれない。

 でも、昨日の夜、たしかに彼女は蜂蜜で少し帰ってこられた。


 それをすぐ捨てるのも違う気がした。


『やめなくてもいいと思います』


 ゆっくり打つ。


『ただ、少しだけ変えませんか』


 既読。


『変える?』


『蜂蜜を入れること自体は、外でも普通にあります』


『でも、二人だけに分かる小さな部分を足す』


『たとえば、写真を送るときにスプーンを右側に置くとか』


 既読。


 少し間。


『スプーン右』


『はい』


『それ、すごく地味』


『地味なほうが安全です』


 既読。


『地味なお姉さん向き』


『本人じゃない人向きです』


 既読。


『そこ乗るんだ』


『乗りました』


『よし』


 画面の向こうで、少し笑っている気がした。


『じゃあ、蜂蜜の日は続ける』


『でも、本当の合図はスプーン右』


『はい』


『蜂蜜は外にもある』


『スプーン右は、春日くんに帰る合図』


 悠真は、その文をしばらく見つめた。


 春日くんに帰る合図。


 仕事中のデスクで読むには、かなり危険な文だった。


『仕事中にそれはだめです』


 送る。


 既読。


『春日くんが言った』


『いつもの逆ですね』


『うん』


『でも、ありがとう』


    ◇


 その夜、しらいさんはまた部屋には来られなかった。


 取材が増え、移動が増え、理沙さんの管理も少し厳しくなっているらしい。


 けれど、二十二時前に写真が届いた。


 白いカップ。

 蜂蜜のスティック。

 そして、カップの右側に置かれた小さなスプーン。


 たぶん、意識しなければ誰も気づかない。


 でも、悠真にはすぐ分かった。


『蜂蜜の日』


 続けて、


『スプーン右』


 悠真はローテーブルの前で、胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。


 すぐに、自分のカップを用意する。


 蜂蜜入りのハーブティー。

 カップの右側にスプーン。

 その奥には、青灰色のコースターと、しらいさんのマグカップ。


 写真を撮って送る。


『こちらもスプーン右です』


 既読。


『見た』


『帰った』


 悠真は、少しだけ笑った。


『おかえりなさい』


 既読。


『ただいま』


 短い返事。


 けれど、今日はそれだけでは終わらなかった。


『外では蜂蜜が広がってるけど』


『このスプーンは、まだこっちのもの』


 悠真は、その文を何度も読んだ。


 外へ広がるもの。

 内側に残すもの。


 これからは、その線引きがますます必要になる。


『はい』


『大事にしましょう』


 送る。


 既読。


『うん』


    ◇


 短い通話は、昨日より少し遅い時間につながった。


 しらいさんの声は疲れていたが、少しだけ明るかった。


「もしもし」


「春日くん」


「スプーン右、見ました」


「見つけた?」


「すぐに」


「よかった」


「かなり地味ですね」


「そこがいい」


「はい」


「外の人には、ただのスプーン」


「はい」


「春日くんには、ただいま」


「……はい」


「また仕事中じゃなくてよかった」


「本当に」


 彼女は小さく笑った。


 その笑い声を聞くだけで、少し安心する。


「蜂蜜、ちょっと広がってたね」


「はい」


「びっくりした」


「そうですね」


「嫌じゃないんだけど、ちょっと怖かった」


「はい」


「私が何気なく言ったことが、誰かの中で形になる」


「はい」


「それは嬉しい」


「はい」


「でも、私が自分のために持っていたものが、少し外に出る感じもした」


「そうですね」


「だから、スプーン右ができてよかった」


 しらいさんは少しだけ息を吐く。


「蜂蜜は外にもある」


「はい」


「スプーン右は、内側」


「はい」


「そう思ったら、落ち着いた」


「よかったです」


「出た」


「出ます」


 いつもの言葉が戻る。


 けれど、今日の会話はいつもより少し大事だった。


 白瀬アカリの言葉が広がる。

 その中で、しらいさんの場所をどう守るか。


 それはこれから何度も出てくる問題なのだろう。


「春日くん」


「はい」


「私、これからまた何か言うたびに、外に広がるかもしれない」


「はい」


「小さい習慣とか、好きなものとか、言葉とか」


「はい」


「それが嬉しい日もあるし、怖い日もあると思う」


「はい」


「そのたびに、全部隠すんじゃなくて」


「はい」


「外に出すものと、内側に残すものを分けたい」


「そうしましょう」


「手伝ってくれる?」


「もちろんです」


「理沙さんにも相談する」


「はい」


「春日くんにも相談する」


「はい」


「三崎さんの外側の感想も、たまに持って帰ってきて」


「分かりました」


「三崎さん、便利」


「本人に言ったら調子に乗ります」


「言わないで」


「言いません」


 二人で少し笑った。


    ◇


 通話の終わり際、しらいさんがふいに言った。


「今日、部屋に行けなかったけど」


「はい」


「スプーン右で、思ったより帰れた」


「はい」


「でも、やっぱり本物の音が聞きたい」


「ことん、ですか」


「うん」


 悠真は、ローテーブルのマグカップを見た。


 しらいさんのマグカップは、コースターの上にある。


「今、鳴らしましょうか」


「え」


「通話越しに」


「……聞きたい」


 悠真は、マグカップをそっと持ち上げた。


 それから、青灰色のコースターの上へ置く。


 ことん。


 小さな音が、部屋に落ちた。


 電話の向こうで、しらいさんが黙った。


「聞こえましたか」


「聞こえた」


「よかったです」


「だめ」


「うれしいほうですか」


「うん」


「ならよかったです」


「出た」


 しらいさんの声が少し揺れていた。


「春日くん」


「はい」


「今の音、保存したい」


「録音しますか」


「しない」


「しないんですか」


「録音したら、いつでも聞けちゃう」


「はい」


「いつでも聞けると、たぶん頼りすぎる」


 悠真は少し黙った。


 支えにする。

 依存しない。


 ここにも、その線がある。


「では、必要なときだけ鳴らします」


「うん」


「言ってください」


「うん」


「でも、毎日はだめです」


「分かってる」


「スプーン右で足りる日は、スプーン右で」


「うん」


「本物の音が必要な日は、言ってください」


 しらいさんは、静かに息を吐いた。


「それ、すごくいい」


「はい」


「帰り方が増えた」


「はい」


「蜂蜜の日」


「スプーン右」


「ことんの音」


「部屋」


「河川敷」


「電話」


「写真」


「春日くんの、おかえりなさい」


 最後の言葉で、悠真の胸が少し詰まった。


「何度でも言います」


「知ってる」


 彼女はいつものように言った。


 でも、今日の「知ってる」は、少しだけ安心した声だった。


    ◇


 通話を切ったあと、悠真はしばらくマグカップを見ていた。


 蜂蜜は、少しだけ世間のものになった。

 白瀬アカリの自然体な言葉として、外へ広がった。


 それは嬉しいことだ。

 彼女の言葉が届いた証でもある。


 でも、全部を外へ出す必要はない。


 スプーン右。


 誰にも分からないほど地味な合図。


 それだけで、しらいさんは今日、少し帰ってこられた。


 悠真はカップの右側に置いたスプーンを見た。


 何でもない金属の小さなスプーン。


 けれど、今日からそれは二人だけの道しるべになった。


 白瀬アカリがさらに遠くへ行くほど、しらいさんが戻る道を増やしていく。


 その道は、大げさでなくていい。

 誰にも見えなくていい。

 むしろ、見えないほうがいい。


 ことん。


 もう一度、マグカップを置いてみる。


 今度は誰にも聞こえない。


 でも、悠真にはちゃんと聞こえた。


 ここにある。


 帰る場所は、まだここにある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ