第86話 帰れない日のために、君と小さな合図を決める
翌朝、春日悠真は少しだけ迷ってから写真を撮った。
青灰色のコースター。
白いマグカップ。
いつもの位置。
そこまでは変わらない。
ただ、今日はマグカップの横に、自分用の小さなスプーンを置いた。
蜂蜜をすくうためのスプーンだ。
昨日の通話で、しらいさんが言った。
部屋に来られない日が増えるなら、別の戻り方を考えたい。
写真や電話だけではなく、外でもできる小さな合図がほしい。
その宿題を、悠真は朝まで考えていた。
大げさなものではだめだ。
誰かに見られて意味を勘繰られるものも困る。
けれど、二人には分かるものがいい。
マグカップは部屋にある。
河川敷は人目がある。
カードケースはしらいさんの鞄の中。
ハンカチも、蜂蜜も、温かい飲み物も、全部これまで二人の間で少しずつ意味を持ってきた。
でも、外でもできる合図となると難しい。
悠真は、写真を撮って送った。
『今日もあります』
続けて、
『宿題、考えています』
送信。
しばらくして、既読がついた。
『見た』
『スプーンある』
すぐに気づく。
やっぱり、彼女はよく見ている。
『蜂蜜用です』
送る。
既読。
『朝から蜂蜜』
『大事な習慣なので』
『テレビで拾われたやつ』
『まだ気にしていますね』
『する』
そのあと少し間が空いた。
『宿題、私も考えてる』
悠真はスマホを見つめた。
『いい案は出ましたか』
『まだ』
『でも、帰れない日の合図があるって思うだけで少し楽』
その一文に、胸の奥が静かに温かくなる。
部屋へ来る。
河川敷へ行く。
電話をする。
それができない日でも、帰る道を残す。
そういうことが、これからの二人には必要になるのだろう。
『今日も忙しいですか』
送る。
既読。
『取材二本と打ち合わせ』
『夜は遅い』
『今日は来られないと思う』
分かっていた。
それでも、少し寂しい。
『分かりました』
『帰れない日ではなく、来られない日にしましょう』
既読。
しばらく返事がなかった。
やがて、
『それ、朝からだめ』
と来た。
『うれしいほうですか』
『うん』
『来られない日』
『帰れない日じゃない』
悠真は、ゆっくり返信する。
『はい』
『帰る場所はあります』
『今日は写真で』
既読。
『うん』
『写真で帰る』
◇
昼休み、三崎は白瀬アカリの新しい記事を読んでいた。
もう完全に日課になっている。
「春日」
「何」
「白瀬アカリ、雑誌の表紙も増えるっぽいな」
「そうなのか」
「たぶん。年末番組の反響で取材ラッシュって記事出てる」
「……そうか」
「お前、嬉しそうなのに眉間が少し重い」
「眉間が重いって何だよ」
「ファンの心配が出てる」
悠真は弁当の蓋を開けながら、軽く息を吐いた。
三崎の顔分類も、だいぶ細かくなってきた。迷惑な進化だった。
「忙しすぎるのは心配だろ」
「まあな。ファンとしては分かる。売れてほしいけど、消耗してほしくはない」
その言葉に、悠真は少しだけ顔を上げた。
売れてほしい。
でも、消耗してほしくない。
ファンとしての言葉なのに、かなり近い。
「三崎」
「何」
「お前、最近ちゃんとファンだな」
「最初からちゃんとしてる」
「最初は映画を観ただけだっただろ」
「そこから育った」
「自分で言うな」
三崎は笑ったあと、少し真面目に言った。
「でも、白瀬アカリって、休むの下手そうだよな」
悠真は箸を止めた。
「どうしてそう思う」
「昔のインタビューとか、最近の発言とか見てると、ちゃんとしようとする感じが強い。弱音吐く前に自分で何とかするタイプっていうか」
悠真は、古いインタビューの記事を思い出した。
弱音を吐く前に、自分ができることを探すタイプです。
あの言葉は、今でも胸に少し残っている。
「そう見えるか」
「見える。最近は少し変わってきたけど、それでも根っこはそういう人なんじゃないかって」
「……」
「だから、戻れる場所とか小さな習慣が大事なんだろ」
三崎は何も知らない。
それなのに、今日もちゃんと見ている。
「お前、今日も鋭いな」
「今日も褒められた」
「調子に乗るな」
「もう乗ってる」
三崎は楽しそうに笑った。
その軽さに助けられながら、悠真はふと思った。
三崎は白瀬アカリの外側を見ている。
でも、外側からでも分かることがある。
しらいさんの忙しさ。
休むのが下手そうなところ。
ちゃんとしようとする癖。
自分だけが気づいているわけではない。
それが少し嬉しく、同時に少し怖かった。
「春日」
「何」
「また穴」
「今度はどんな穴だよ」
「推しの健康を心配するファン穴」
「穴の名前が長い」
「でも当たりだろ」
「……少し」
三崎はカフェラテを飲みながら頷いた。
「まあ、祈るしかないな。ちゃんと休めよって」
悠真は、思わず小さく笑った。
祈るしかない。
普通のファンなら、そうだ。
でも悠真には、もう少しだけできることがある。
彼女が帰ってこられる小さな合図を、一緒に考えること。
◇
午後、しらいさんから写真が届いた。
紙コップ。
青灰色のカードケース。
青灰色のハンカチ。
資料の束。
そして、珍しく小さなスプーンが写っていた。
コンビニのヨーグルトについてくるような、白いプラスチックのスプーン。
『スプーン見つけた』
悠真は思わず笑った。
『蜂蜜用ですか』
既読。
『違う』
『昼のヨーグルト』
『でも朝の写真思い出した』
『少し帰った』
悠真は、その文を静かに読んだ。
小さなスプーン。
何でもないもの。
でも、朝の写真とつながった。
『それ、合図に近いかもしれませんね』
送る。
既読。
『スプーン?』
『はい』
『でも、外でスプーン見るたびに帰るの?』
『頻度が高そうですね』
『コンビニ行くたび帰る』
『それはそれでいいのでは』
『仕事にならない』
悠真はデスクで少しだけ笑いをこらえた。
やり取りが軽い。
でも、こういう軽さも大事だ。
『スプーンではなく、蜂蜜はどうですか』
送る。
既読。
『蜂蜜』
『もう公にも少し出ているので、不自然ではありません』
『でも二人には意味がある』
既読。
少し間。
『蜂蜜を入れたら、帰る合図?』
『はい』
『部屋に来られない日に、温かい飲み物へ蜂蜜を少し入れる』
『それで、今日は帰る準備をした、という合図にする』
送ってから、少し恥ずかしくなる。
我ながら、かなり真面目に考えている。
既読。
返事はしばらく来なかった。
数分後、届く。
『それ、いい』
悠真は、思わず画面を見つめた。
『本当ですか』
『うん』
『外でもできる』
『誰に見られてもただの蜂蜜』
『でも春日くんには分かる』
『私にも分かる』
そのあと、
『帰れない日じゃなくて、蜂蜜の日』
と届いた。
悠真は、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。
蜂蜜の日。
少しおかしい。
でも、とても二人らしい。
『いいですね』
『蜂蜜の日』
既読。
『ちょっと恥ずかしい』
『でもいい』
『今日は蜂蜜の日にしますか』
少し間。
『する』
『夜、温かい飲み物に少し入れる』
『写真送る』
『無理のない範囲で』
『うん』
そのあと、しらいさんからもう一通。
『部屋には行けないけど、帰る』
悠真は、ゆっくり返信した。
『おかえりなさいの準備をしておきます』
◇
その夜、しらいさんはやはり来られなかった。
取材と打ち合わせが長引き、帰宅も遅くなったらしい。
けれど、二十二時過ぎに写真が届いた。
カップの中の温かい飲み物。
湯気は写真では分からないが、たぶんハーブティーだろう。
横には小さな蜂蜜のスティック。
背景は自宅のテーブルらしく、余計なものはほとんど写っていない。
『蜂蜜の日』
その一文だけ。
悠真は、ローテーブルの上にマグカップを置いた。
自分も蜂蜜入りのハーブティーを作っていた。
今日のために。
写真を撮る。
しらいさんのマグカップではなく、自分用のカップ。
でも隣には青灰色のコースターと、彼女のマグカップもある。
『こちらも蜂蜜の日です』
送る。
既読。
少しして、
『見た』
『帰った』
悠真は、画面を見つめた。
『おかえりなさい』
送る。
既読。
『ただいま』
短い返事。
そのあと、少し間が空いた。
『部屋に行ってないのに、ちょっと帰った感じがする』
悠真は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
『よかったです』
『これから、来られない日は蜂蜜の日にしますか』
既読。
『毎回だと蜂蜜摂りすぎる』
悠真は思わず笑った。
『では、必要な日だけ』
『うん』
『ちゃんと帰りたい日』
『はい』
『来られないけど、帰りたい日』
『蜂蜜の日』
既読。
『決定』
その二文字で、小さな約束ができた気がした。
◇
短い通話は、そのあとにつながった。
しらいさんの声は眠そうだった。
かなり疲れている。
でも、昨日のように張りつめてはいない。
「もしもし」
「春日くん」
「眠そうですね」
「眠い」
「今日は短くしましょう」
「うん。でも、少し話したかった」
「はい」
「蜂蜜の日、よかった」
「はい」
「ちゃんと帰れた感じがした」
「よかったです」
「出た」
「出ます」
しらいさんは、小さく笑った。
「部屋に行けないって、今日ちょっと寂しかった」
「はい」
「でも、蜂蜜入れたら、少しだけ部屋を思い出した」
「はい」
「マグカップの音はなかったけど」
「はい」
「春日くんの写真が来て、音が聞こえた気がした」
「ことん、ですか」
「うん」
「なら、蜂蜜の日成功ですね」
「成功」
彼女は少しだけ満足そうに言った。
その声を聞いて、悠真も少し安心する。
「春日くん」
「はい」
「こういうの、増やしていけたらいいね」
「そうですね」
「部屋に行けない日が増えても」
「はい」
「帰り方が増えたら、少し怖くない」
「はい」
「でも、部屋には行きたい」
「もちろんです」
「河川敷も」
「はい」
「でも無理はしない」
「はい」
「理沙さん側?」
「彼氏側もです」
「強い」
しらいさんは笑ったあと、小さく欠伸をした。
「もう寝ましょう」
悠真が言うと、彼女は素直に「うん」と答えた。
「おやすみ、春日くん」
「おやすみなさい」
「蜂蜜の日、おかえりって言ってくれてありがとう」
「こちらこそ、帰ってきてくれてありがとうございます」
「お礼合戦」
「今日は引き分けで」
「うん」
電話が切れたあと、部屋は静かだった。
悠真は自分のカップを見た。
蜂蜜入りのハーブティーは、少し冷めている。
しらいさんのマグカップは、青灰色のコースターの上にある。
今日は彼女は来なかった。
それでも、帰ってきた。
蜂蜜の日。
小さくて、少し変で、誰にも分からない合図。
でも、これからの二人には必要なものになるかもしれない。
白瀬アカリが遠くへ行くほど、しらいさんが帰る道を増やしていく。
悠真は、カップを一口飲んだ。
少し甘い。
それが、今日はとてもよかった。




