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第85話 帰る場所があると知った翌日、その場所へ行くのが少し難しくなった

 河川敷へ戻った翌日、春日悠真はいつものようにマグカップを置いた。


 青灰色のコースター。

 白いマグカップ。

 取っ手は右。


 昨日は河川敷だった。

 最初に彼女と出会った場所。


 缶チューハイを片手に、どう見ても人気女優なのに「本人じゃない」と言い張っていた地味なお姉さん。

 その人が年末の大きな番組で白瀬アカリとして光の中に立ち、帰る場所を知る表情を見せ、世間から称賛され、それでも最後には同じ河川敷に戻ってきた。


 何かが一区切りついた気がした。


 けれど、朝のニュースアプリを開いた瞬間、その区切りが次の始まりでもあることを思い知らされた。


『白瀬アカリ、年末特番後に注目度急上昇』

『“帰る場所”を知る表情で新境地』

『自然体の白瀬アカリに出演オファー殺到か』

『いま最も次回作が待たれる女優へ』


 悠真はスマホを少し伏せた。


 嬉しい。

 誇らしい。


 でも、それだけではない。


 白瀬アカリの名前が大きくなるほど、彼女が河川敷で缶チューハイを飲むことも、悠真の部屋へふらりと来ることも、少しずつ難しくなっていく。


 たぶん、そういうことなのだ。


 悠真はマグカップの写真を撮った。


『今日もあります』


 送信。


 少し迷ってから、もう一文。


『昨日の河川敷も、ちゃんとあります』


 送ったあとで、少しだけ手が止まった。


 河川敷はある。

 でも、これからも同じように行けるかは分からない。


 しばらくして、既読がついた。


『見た』


 続けて、


『昨日の河川敷、ちゃんとあった』


 さらに少し間が空いて、


『でも、しばらく控えたほうがいいかもって理沙さんに言われた』


 悠真は、画面を見たまま静かに息を吐いた。


 やっぱり。


『人目の問題ですか』


 送る。


 既読。


『うん』


『年末番組のあと、ちょっと見られやすくなってる』


『地味にしてても、前より危ないかもって』


 胸の奥が、少しだけ沈んだ。


 覚悟していたことだった。

 でも、実際に言葉で届くと寂しい。


 帰る場所があると知ったばかりなのに、その場所へ簡単には行けなくなる。


 なんとも皮肉だった。


『分かりました』


『安全第一です』


 既読。


『理沙さん側』


『はい』


『彼氏側は?』


 悠真は指を止めた。


 彼氏側。


 最近、彼女はその言葉を以前より自然に使うようになった。

 そのたびに胸が少し鳴る。


『彼氏側も、安全第一です』


 送る。


 既読。


 返事は少し遅れた。


『強い』


 さらに、


『でも、ちょっと寂しい』


 悠真はマグカップを見た。


『俺もです』


 送る。


『でも、河川敷は逃げません』


『部屋もあります』


『来られない日も、あります』


 既読。


『それ、朝から効く』


『ならよかったです』


『出た』


 いつもの言葉が返ってきた。


 けれど、いつもより少しだけ寂しさを含んでいた。


    ◇


 昼休み、三崎はすでにニュース記事を読んでいた。


「春日」


「何」


「白瀬アカリ、完全に来てるな」


「言い方」


「いや、来てるだろ。年末番組のあと、明らかに記事増えてる」


「そうだな」


「しかも、ただ綺麗とか人気とかじゃなくて、演技の話で増えてるのが強い」


 悠真は弁当の蓋を開けながら、少しだけ頷いた。


 三崎はもう、普通に白瀬アカリのファンだった。

 しかも、かなり面倒くさい寄りのファンになりつつある。


「でもさ」


 三崎が唐揚げをつまみながら言う。


「売れると大変だよな」


 悠真は顔を上げた。


「何が」


「いや、芸能人ってそうだろ。仕事増えるし、記事も増えるし、ちょっとした発言も拾われるし」


「……そうだな」


「白瀬アカリ、最近の“自然体”みたいな評価で、余計に見られる範囲広がりそう」


「見られる範囲」


「うん。演技だけじゃなくて、私生活とか、素の言葉とか、そういうのまで見たがる人が増えそうじゃん」


 悠真は箸を持つ手を止めた。


 本当に、三崎は何も知らずに核心の近くを歩いてくる。


 私生活。

 素の言葉。


 河川敷で缶チューハイを飲む彼女。

 部屋でマグカップを洗う彼女。

 蜂蜜入りのミルクティーを両手で包む彼女。


 それは、白瀬アカリの人気が増すほど、守らなければならないものになる。


「春日?」


「いや」


「また顔」


「顔ばかり見るな」


「今日は“嬉しいけど心配してるファン”の顔」


「分類を増やすな」


 三崎は笑った。


 けれど、すぐに少しだけ真面目な顔になる。


「まあ、でも白瀬アカリって、守るの大変そうだよな」


「守る?」


「イメージとか、距離感とか。近く見せすぎると危ないし、遠すぎると今の良さが消えるし」


 悠真は、内心で驚いた。


 理沙さんが聞いたら、少しだけ評価するかもしれない。


「お前、マネージャーみたいなこと言うな」


「ファン仲間として真面目に考えてるだけ」


「真面目なファンだな」


「面倒くさいファン二号だ」


「二号なのか」


「一号はお前」


「認定するな」


 三崎は楽しそうに笑った。


 その軽いやり取りに救われながらも、悠真の胸にはひとつの事実が残り続けていた。


 彼女は、今までより見られる。

 ずっと広い場所で。


 そして、そのぶん、近い場所を守ることが難しくなる。


    ◇


 午後、しらいさんから写真が届いた。


 紙コップ。

 青灰色のカードケース。

 青灰色のハンカチ。

 そして、机の上に置かれた数枚の打ち合わせ資料。


 端に、雑誌名のようなロゴが見えた。


『取材増えた』


 悠真は返信する。


『年末番組の反響ですか』


 既読。


『うん』


『演技の話と、自然体の話』


『蜂蜜の話も聞かれた』


 悠真は、会社のデスクで思わず口元を押さえた。


『まだ聞かれるんですね』


『聞かれた』


『恥ずかしい』


『でも、嫌じゃない?』


 既読。


 少し間。


『嫌じゃない』


『でも、気をつけないとって思った』


『どこまで話すか』


 悠真は、理沙さんの顔を想像した。


 きっと理沙さんは、すでに何度も線引きをしているはずだ。

 温かい飲み物の話はいい。

 小さな習慣もいい。

 でも、誰かの部屋、誰かのマグカップ、帰っておいでのメッセージはだめ。


 境界線は、これからますます大事になる。


『理沙さんと確認しながらがいいと思います』


 送る。


 既読。


『完全に理沙さん側』


『彼氏側も同じです』


『今日は強すぎる』


『心配なので』


 送ってから、少しだけ恥ずかしくなる。


 けれど、既読のあとで届いた返事はやわらかかった。


『心配されるの、ちょっと嬉しい』


『でも、心配かけすぎないようにする』


『無理はしないでください』


『うん』


 少し間が空く。


『今日、部屋行けるかまだ分からない』


『無理しないでください』


『でも行きたい』


『来られるなら、待っています』


『来られなくても、あります』


 既読。


『それ、最近すごく効く』


『ならよかったです』


『出た』


 いつものやり取り。


 でも、そのあとに来た一文で、空気が少し変わった。


『来られない日が増えるかも』


 悠真は、スマホを握る手に少しだけ力を入れた。


 分かっていた。

 でも、言葉にされるとやはり寂しい。


『分かっています』


 送る。


『でも、来られない日も、帰れない日にはしません』


 既読。


 長い沈黙。


 そして、


『春日くん』


『はい』


『仕事中にそれはだめ』


 悠真は少し笑った。


『すみません』


『謝るところではある』


『でも、ありがとう』


    ◇


 夜、しらいさんは来られなかった。


 取材が長引き、翌朝も早いという。

 理沙さんからも「今日は直帰」と言われたらしい。


 メッセージを受け取ったとき、悠真は少しだけ残念だった。


 でも、それをそのまま彼女に渡すのは違う。


『今日は休んでください』


『理沙さん側』


『彼氏側もです』


 既読。


『強い』


『でも、マグカップ写真ほしい』


『送ります』


 悠真はローテーブルの前に座った。


 いつものように、コースターの上にマグカップを置く。


 今日は少しだけ引きの写真にした。

 彼女の座る場所も、空けたまま写るように。


 送信。


『今日もあります』


『空いています』


 既読は少し遅れてついた。


『見た』


『空いてる』


 さらに、


『そこに座りたい』


 胸が少し痛くなる。


『いつでも』


『来られる日に』


 送る。


 既読。


『来られない日も?』


『あります』


『はい』


『来られない日も、そこはあります』


 既読。


 返事はしばらく来なかった。


 五分ほどして、短く届く。


『今、泣きそう』


 悠真はすぐに返した。


『今日は泣かないでください』


『喉と明日の仕事があります』


『理沙さん側』


『完全に』


 少し間。


『彼氏側は?』


 悠真は、ゆっくり打った。


『泣きたくなったら、正式予約にしてください』


『今日は仮予約で』


 既読。


『仮予約』


『うん』


『次に行けた日に使うかも』


『用意しておきます』


『ミルクティーも?』


『蜂蜜多めで』


 既読。


『また蜂蜜』


『大事な習慣なので』


『うん』


    ◇


 短い通話ができたのは、二十二時過ぎだった。


 しらいさんの声は少し疲れていた。

 けれど、張りつめている感じではない。


「もしもし」


「春日くん」


「おつかれさまです」


「春日くんも」


「今日は来なくて正解です」


「分かってる」


「えらいです」


「雑」


「本当に」


「じゃあよし」


 いつものやり取りで、彼女の声が少しだけ柔らかくなった。


「今日ね」


「はい」


「取材で、年末番組の表情の話を聞かれた」


「はい」


「どういう気持ちで演じたんですかって」


「答えられましたか」


「うん。役として、帰れる場所を思い出した瞬間を大事にしましたって」


「はい」


「春日くんのことは言ってない」


「もちろんです」


「でも、心の中にはいた」


「……はい」


「あと、蜂蜜も聞かれた」


「はい」


「最近、温かい飲み物に蜂蜜を入れるのが好きですって言った」


「いいと思います」


「春日くんのミルクティーのことは言ってない」


「もちろんです」


「でも、心の中にはあった」


 悠真は、ローテーブルのマグカップを見る。


「それでいいと思います」


「うん」


「全部を言う必要はありません」


「うん」


「でも、なかったことにしなくてもいい」


 電話の向こうで、彼女が少し黙った。


「春日くん」


「はい」


「それ、今の私に必要」


「言えてよかったです」


「出た」


「出ます」


「うん」


 しらいさんは、小さく息を吐いた。


「来られない日が増えるって言ったでしょ」


「はい」


「言ってから、自分で少し寂しくなった」


「はい」


「前は、来られないなら来ないだけだったのに」


「はい」


「今は、来られないのが寂しい」


「はい」


「贅沢になった」


 その言い方が、少し痛かった。


「贅沢ではないと思います」


「そう?」


「帰る場所ができたから、帰れない日が寂しくなるんだと思います」


「……」


「それは、悪いことではないです」


 しらいさんは、すぐには返事をしなかった。


 しばらくして、小さく言う。


「春日くん、今日ずるい」


「すみません」


「謝らないで」


「はい」


「でも、そうか」


「はい」


「帰る場所ができたから、帰れない日が寂しい」


「はい」


「それなら、悪くない」


「はい」


「寂しいけど」


「寂しいですね」


「春日くんも?」


「はい」


「でも?」


「待っています」


 電話の向こうで、彼女が少し笑った。


「強い」


「強くはないです」


「強いよ」


「そうですか」


「うん。春日くんが待ってるって言うと、帰る日が残る」


 その言葉に、悠真は胸が熱くなった。


「残します」


「うん」


「来られない日も、帰る日を消さないようにします」


「うん」


    ◇


 通話の終わり際、しらいさんがふいに言った。


「春日くん」


「はい」


「今度、部屋じゃなくて、別の戻り方も考えたい」


「別の戻り方?」


「うん。部屋に行けない日が増えるなら、写真とか電話だけじゃなくて」


「はい」


「何か、私がちゃんと帰ってこられる小さな合図」


 悠真は少し考えた。


「合図」


「うん」


「マグカップの写真以外で?」


「それも大事。でも、もっと外でもできること」


「例えば」


「まだ分からない」


 彼女は少しだけ笑った。


「でも、考えたい」


「分かりました」


「春日くんも考えて」


「はい」


「宿題」


「三崎みたいですね」


「え」


「最近、過去作を観ろと宿題を出されるので」


「三崎さんと同じこと言った?」


「はい」


「少し複雑」


「そう言うと思いました」


「春日くん、最近読んでくる」


「少し慣れました」


「慣れないで」


「慣れて。でも慣れないで」


「また先に言われた」


 二人で少し笑った。


 電話を切ったあと、部屋は静かになった。


 悠真はマグカップを棚に戻し、コースターを整えた。


 来られない日が増える。


 その言葉が、まだ胸に残っている。


 でも、それは終わりではない。


 帰る場所ができたから、帰れない日が寂しくなる。

 なら、帰り方を増やせばいい。


 写真。

 電話。

 言葉。

 小さな合図。


 白瀬アカリがさらに遠くへ行くなら、しらいさんが戻ってこられる道も、少しずつ増やせばいい。


 悠真は、青灰色のコースターを見つめながらそう思った。

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