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第84話 君が最初に嘘をついた河川敷で、僕は本当のおかえりを言った

 年末番組の反響は、思っていたより長く続いた。


 翌日だけでは終わらなかった。

 翌々日も、その次の日も、白瀬アカリの名前はニュースアプリの芸能欄に残っていた。


 大きな見出しではない日もある。

 けれど、映画のヒット、テレビ特番の自然体な発言、年末番組のドラマ企画で見せた表情。


 それらが少しずつ繋がって、白瀬アカリという女優の印象を変えていく。


 春日悠真は、それを会社の休憩時間や、通勤電車の中で何度も見た。


『白瀬アカリ、“帰る場所”を知る表情に反響』

『年末特番で見せた一瞬の演技に称賛』

『派手ではないのに残る、白瀬アカリの静かな芝居』

『自然体な言葉と繊細な表情で新境地へ』


 読むたびに、胸の奥が少しだけ熱くなる。


 嬉しい。

 誇らしい。

 そして、少しだけ遠い。


 でも、その遠さはもう、ただ怖いだけのものではなかった。


 遠くへ行ったあと、彼女は帰ってくる。

 泣く予約を使いに来る日もあれば、来られないまま写真だけで戻ってくる日もある。

 電話の声だけの日もある。

 短い「ただいま」だけの日もある。


 それでも、戻ってくる。


 だから悠真は、以前より少し落ち着いて記事を読めるようになっていた。


 昼休み、三崎が言った。


「春日、白瀬アカリ、完全に次の段階行ったな」


「何だ、その言い方」


「いや、ファン仲間としてはそう見える」


「ファン仲間を便利に使うな」


「便利だから」


 三崎は唐揚げ弁当を食べながら、スマホをこちらへ向けた。


 そこには、白瀬アカリの年末番組の場面を分析した記事が表示されている。


「あの表情、切り抜かれてもちゃんと強いんだよな」


「……そうだな」


「大げさじゃないから、何回見ても飽きない」


 悠真は少しだけ黙った。


 たぶん三崎は、もう何度か見返している。


 自分も見返した。

 何度も。


 スマホを見る一瞬。

 息が変わるところ。

 帰っていいと知った人の目。


 そのたびに、春日悠真の部屋で練習したしらいさんを思い出す。


 玄関から歩いてきて、マグカップを見て、少しだけ力を抜いた彼女を。


「でもさ」


 三崎が続ける。


「これから大変だろうな」


「何が」


「こういう繊細な演技できる人って分かったら、そういう仕事が増えるだろ。白瀬アカリ、求められるものが増える」


 悠真は、箸を止めた。


 本当に、三崎は時々鋭い。


 求められるものが増える。


 それはまさに、しらいさんが怖がっていることだった。


 白瀬アカリが大きくなる。

 自然体な言葉が求められる。

 帰る場所を知っている表情が求められる。

 弱さを隠す人、でも少しだけ本音を見せる人。


 そんなイメージが、彼女の仕事を広げる。

 同時に、彼女を縛るかもしれない。


「……そうだな」


「お前、今日も複雑な顔してる」


「まあ、少し」


「でも前より落ち着いてる」


「分かるのか」


「顔分類の専門家だから」


「やめろ」


 三崎は笑った。


「でも、いい顔だと思うぞ」


「急に何だよ」


「いや。推しが遠くに行くのを、ちゃんと見送ってる顔」


 悠真は、すぐには返せなかった。


 見送る。


 たしかに、そうなのかもしれない。


 白瀬アカリが大きな場所へ行く。

 自分はその背中を、テレビの前や会社の昼休みから見送る。


 そして、しらいさんが帰ってきたら迎える。


 それが、今の春日悠真にできることなのだ。


    ◇


 その日の夕方、しらいさんから短いメッセージが届いた。


『今日、河川敷行きたい』


 悠真は、会社のデスクでその文字を見て、一瞬だけ指を止めた。


 河川敷。


 その言葉だけで、いろいろなものが胸に戻ってくる。


 最初に出会った場所。

 缶チューハイを飲んでいた地味なお姉さん。

 どう見ても人気女優なのに、本人は絶対に認めなかった人。


 あの夜の、少し冷えた風。

 街灯。

 川の音。

 ベンチ。


 すべての始まりの場所。


『行きましょう』


 送る。


 すぐ既読。


『部屋じゃなくていい?』


『はい』


『今日は河川敷がいいです』


 既読。


『うん』


『私も』


 少し間が空く。


『缶チューハイ買っていく』


 悠真は思わず笑った。


『最初に戻りますね』


 既読。


『本人じゃないので』


 その返事を見て、悠真はしばらく画面を見つめた。


 変わらない嘘。


 でも、もうその嘘の意味は変わっていた。


    ◇


 夜の河川敷は、あの頃より少し寒かった。


 年末に近い風が、川面を撫でるように吹いている。

 遠くの橋には車のライトが流れ、土手の上を歩く人影が時々通り過ぎる。


 悠真がベンチに着いたとき、しらいさんはすでにいた。


 黒いキャップ。

 大きめのマスク。

 地味なコート。

 手には、コンビニの袋。


 その姿は、初めて会った夜とよく似ていた。


 けれど、全然違ってもいた。


 あの頃の彼女は、白瀬アカリであることを隠すために地味なお姉さんをしていた。

 今の彼女は、白瀬アカリであることを知ったうえで、しらいさんとしてここに座っている。


 悠真が近づくと、彼女は顔を上げた。


「来た」


「お待たせしました」


「遅くない」


「寒くないですか」


「寒い」


「じゃあなぜ外に」


「河川敷だから」


「理由になっていません」


 しらいさんは、少しだけ笑った。


 コンビニ袋から缶チューハイを一本取り出す。

 それから、もう一本ではなく、温かいお茶のペットボトルも出した。


「春日くんはこっち」


「お茶ですか」


「うん。寒いから」


「しらいさんは?」


「缶チューハイ」


「寒いのに」


「河川敷だから」


「それ、万能理由ですか」


「便利」


 彼女は缶のプルタブを開けた。


 小さな音が、夜の空気に抜ける。


 その音を聞いた瞬間、悠真は本当に最初の夜へ戻ったような気がした。


 あのときも、こういう音がした。

 そして彼女は、白瀬アカリ本人ではないと言い張った。


「しらいさん」


「何」


「今さらですけど」


「うん」


「初対面のとき、嘘が下手でしたよね」


 しらいさんは缶チューハイを口元に運びかけて、止まった。


「今それ言う?」


「河川敷なので」


「便利に使ってる」


「はい」


 彼女は少しだけ悔しそうに目を細めた。


「本人じゃないから」


「まだ言うんですか」


「うん」


「テレビに出ていた白瀬アカリさんと、完全に同じ顔ですが」


「偶然」


「年末番組にも出ていましたが」


「他人の空似」


「映画の舞台挨拶にも」


「よく似てる人」


 悠真は笑ってしまった。


 しらいさんも、マスク越しに笑っているのが分かった。


 くだらないやり取りだった。


 でも、そのくだらなさが、やけに大事だった。


 白瀬アカリは年末の大きな光へ行った。

 テレビの中で、帰る場所を知っている人の顔をした。


 そして今、河川敷で缶チューハイを持ちながら、本人じゃないと言い張っている。


 その落差が、たまらなく彼女らしかった。


    ◇


 しばらく、二人は川を見ていた。


 風は冷たい。

 けれど、不思議と居心地は悪くない。


 しらいさんは缶チューハイを少し飲んでから、息を吐いた。


「戻ってきた」


 小さく言った。


 悠真は横を見る。


「河川敷に?」


「うん」


「最初の場所ですね」


「最初、私ここで何してた?」


「缶チューハイ飲んでました」


「他には?」


「本人じゃないと言い張っていました」


「それは今も」


「今もですね」


 彼女は少し笑った。


 それから、缶を両手で包む。


「でも、あのときは本当に隠れたかった」


「はい」


「白瀬アカリじゃないふりをして、少しだけ呼吸したかった」


「はい」


「誰にも見られないところで、缶チューハイ飲んで、何でもない人のふりをしたかった」


 その声は静かだった。


 年末番組の反響も、映画の評価も、テレビ特番の記事も、ここでは少し遠い。


「春日くんに見つかったけど」


「見つけました」


「最初から面倒くさいファンだった?」


「最初はファンというより、困っている人を見つけた感じでした」


「困ってた?」


「かなり」


「かなり」


 しらいさんは、少しだけ笑う。


「困ってたね」


「はい」


「白瀬アカリでいるのが、少ししんどかった」


「はい」


「でも、しらいさんとして帰る場所もなかった」


「……」


「だから河川敷にいた」


 悠真は何も言わずに聞いた。


 川の音が、小さく流れている。


「今は?」


 悠真が聞くと、しらいさんは少しだけ空を見た。


 冬の空には、街の光で薄く霞んだ星がいくつか見える。


「今も、しんどい日はある」


「はい」


「白瀬アカリが大きくなるの、怖い」


「はい」


「求められるものが増えるのも怖い」


「はい」


「でも、隠れたいだけじゃなくなった」


 彼女は缶チューハイを見つめた。


「帰る場所ができたから」


 その言葉に、悠真の胸が静かに鳴った。


「部屋ですか」


「うん」


「河川敷も?」


「うん」


「理沙さんも」


「うん」


「カードケースも」


「うん」


「三崎さんの変な感想も、少し」


「三崎が聞いたら喜びます」


「言わないで」


「心の中で」


「それなら」


 しらいさんは笑った。


 それから、少しだけ真面目な顔になる。


「春日くんも」


「はい」


「かなり」


「かなりですか」


「かなり」


 その言い方が、いつもの彼女で、悠真は少しだけ目元が熱くなった。


    ◇


 川沿いのベンチに座っていると、遠くの街の音が少しだけぼやけて聞こえる。


 テレビの中の拍手や、年末番組の派手な音楽とは違う。

 もっと低くて、薄くて、生活に近い音。


 しらいさんは缶チューハイを半分ほど飲んだところで、ふと言った。


「春日くん」


「はい」


「昨日の私、遠かった?」


「遠かったです」


「今日の私は?」


「近いです」


「白瀬アカリは?」


「遠いです」


「しらいさんは?」


「近いです」


「同じ人?」


「同じ人です」


 彼女は少しだけ黙った。


 それから、ゆっくり頷く。


「最近、それが少し分かってきた」


「はい」


「遠い私と、近い私が、どっちかだけじゃなくていいんだって」


「はい」


「白瀬アカリの仕事に、しらいさんを少し使ってもいい」


「はい」


「でも、しらいさん全部を仕事に渡さなくていい」


「はい」


「春日くんの言葉も、少し借りていい。でも、ずっと握ってなくてもいい」


「はい」


「帰っておいでって言葉も、仕事に持っていって、終わったらここに戻せばいい」


「そうですね」


 しらいさんは、少しだけ目を細めた。


「ここに戻す」


「はい」


「この河川敷にも」


「はい」


「部屋にも」


「はい」


「私の中にも」


「はい」


 彼女は缶を膝の上に置いた。


「昨日、番組のあと、すごく遠くまで行った気がした」


「はい」


「でも、今日ここに来たら、最初の場所に戻った」


「はい」


「不思議だね」


「かなり」


「移ってる」


「もう戻りません」


「戻らないんだ」


「便利なので」


 しらいさんは笑った。


 その笑い声が、夜の河川敷に小さく溶けた。


    ◇


 しばらくして、しらいさんは缶チューハイを飲み終えた。


 空き缶をコンビニ袋に入れ、代わりに温かいお茶を両手で持つ。


「最後はお茶なんですね」


「寒いから」


「最初からそうすれば」


「河川敷だから」


「またそれ」


 二人で笑う。


 くだらない。

 でも、こんなふうに笑えるまで、ずいぶん遠回りをした気がする。


「春日くん」


「はい」


「第一章、終わった感じしない?」


 悠真は少しだけ驚いた。


 物語の章という意味ではなく、彼女の中の区切りとして。


 きっと、そう言っている。


「します」


「だよね」


「最初の河川敷に戻ってきたので」


「うん」


「でも、同じ場所じゃないです」


「うん」


「同じ人でも、同じままではないです」


 しらいさんは、静かに頷いた。


「最初の私は、本人じゃないって嘘をついてた」


「はい」


「今も言うけど」


「はい」


「今は、嘘というより避難所みたいなものかな」


「避難所」


「うん。本人じゃないって言うと、少しだけ楽になる」


「はい」


「でも、春日くんにはバレてる」


「バレています」


「それが、ちょうどいい」


 彼女は温かいお茶を一口飲んだ。


「白瀬アカリでもあって、しらいさんでもあって、本人じゃないって言い張る地味なお姉さんでもある」


「全部ですね」


「全部」


「欲張りですね」


「うん」


 彼女は、少しだけ笑った。


「でも、全部持てるようになってきた」


 その言葉は、とても静かだった。


 大きな決意ではない。

 でも、確かに前へ進んだ人の声だった。


    ◇


 帰る前、二人は土手の上まで歩いた。


 川の近くより、少し風が強い。


 しらいさんはマスクを押さえながら、街の明かりを見た。


「次は、もっと忙しくなると思う」


「はい」


「映画の次もあるかもしれない。ドラマも。取材も。今日みたいに反響が怖くなる日も、たぶんある」


「はい」


「また泣く予約するかも」


「用意しておきます」


「ミルクティーも?」


「蜂蜜多めで」


「テレビで拾われた蜂蜜」


「今では大事な習慣です」


「うん」


 しらいさんは、少しだけ嬉しそうに笑った。


「春日くん」


「はい」


「また遠くに行ったら」


「はい」


「帰っておいでって言って」


「言います」


「でも、私も自分で帰る」


「はい」


「支えにして、依存しない」


「はい」


「でも、帰ってきたら、おかえりって言って」


「何度でも」


 しらいさんは、少しだけ目を細めた。


「知ってる」


 いつもの言葉。


 その言葉が、今日は河川敷の風の中で少しだけ違って聞こえた。


 最初の夜にはなかった信頼が、そこにあった。


 駅へ向かう道で、しらいさんはふいに立ち止まった。


「春日くん」


「はい」


「私、白瀬アカリ本人じゃないから」


 悠真は、笑った。


「はいはい」


「信じてない」


「信じていません」


「ひどい」


「でも」


 悠真は少しだけ歩調を緩めた。


「本人じゃなくても、帰ってきてください」


 しらいさんは、一瞬だけ目を丸くした。


 それから、マスク越しでも分かるくらい笑った。


「それは、ずるい」


「すみません」


「謝らないで」


「はい」


「でも、帰る」


「はい」


「本人じゃない地味なお姉さんとして」


「おかえりなさい」


「まだ帰ってない」


「先に言いました」


「雑」


「本当に言いたかったので」


「じゃあよし」


 二人は歩き出した。


 年末の街の明かりの中へ。


 白瀬アカリの反響は、きっと明日も続く。

 新しい仕事も来る。

 遠くへ行く日は、これから何度もある。


 でも、物語の最初に彼女が座っていた河川敷は、今もここにある。


 本人じゃないと言い張る地味なお姉さんも、ここにいる。


 そして春日悠真は、彼女がどれだけ遠くへ行っても、帰ってきたときに言う言葉をもう知っている。


 おかえりなさい。


 それだけで、次の章へ進める気がした。

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