第83話 大きな光から帰ってきた君は、泣くためにこの部屋へ来た
翌日の昼休み、三崎はいつもより少し静かだった。
珍しいこともある。
春日悠真は弁当の蓋を開けながら、向かいに座る三崎を見た。
いつもなら、席に着いた瞬間から「昨日の白瀬アカリ見たか」と言い出しそうなものなのに、今日はスマホを伏せたまま、妙に考え込んでいる。
「三崎」
「ん?」
「今日は言わないのか」
「何を」
「白瀬アカリの話」
三崎は一拍置いてから、少し笑った。
「ああ。言うけど、ちょっと言葉探してた」
その反応で、悠真は箸を持つ手を止めた。
三崎が茶化す前に言葉を探す。
それだけで、昨夜の白瀬アカリがちゃんと届いたのだと分かった。
「どうだった」
悠真が聞くと、三崎はスマホを裏返して、画面を見ないまま言った。
「よかった」
「うん」
「かなりよかった」
その「かなり」は、いつもの軽い真似ではなかった。
三崎自身の言葉として、ちゃんとそこにあった。
「ドラマ企画、あんまり期待しすぎると寒いかなって思ってたんだよ」
「言ってたな」
「帰る場所とか、年末とか、音楽とか、そういうのってさ。やりすぎると急に説教臭くなるじゃん」
「ああ」
「でも、白瀬アカリの場面、派手じゃなかったのが逆によかった」
悠真は静かに頷いた。
三崎は続ける。
「あのスマホ見たあとの顔」
胸の奥が鳴る。
「セリフないのに、何か分かったんだよな。あ、この人、帰っていいって言われたんだなって」
「……」
「泣くでもなく、笑うでもなくさ。ほんのちょっとだけ息が変わった感じ」
悠真は、言葉を返すまで少し時間がかかった。
見えている。
三崎にも、ちゃんと見えていた。
春日悠真が知っているマグカップの音や、しらいさんの「ただいま」を知らなくても。
白瀬アカリが役として演じたその一瞬は、普通の視聴者にも届いていた。
「お前、よく見てるな」
「自分でも思った。俺、白瀬アカリの表情めちゃくちゃ見るようになってる」
「完全にファンだな」
「そう。だから責任取れ」
「またそれか」
三崎は少し笑った。
けれど、すぐに表情を戻す。
「でもさ、昨日のあれで思った。白瀬アカリって、“帰る場所があります”って言う人じゃなくて、“帰る場所があると知っている人”の顔ができるんだな」
悠真は、その言葉を胸の中で何度も反芻した。
帰る場所があります、と言う人。
帰る場所があると知っている人。
その差は大きい。
「……いい感想だな」
「今日、褒めるな」
「褒めるだろ、それは」
「じゃあ受け取る」
三崎は少し照れたようにカフェラテを飲んだ。
「あと、ネットの反応も結構いいぞ」
「見たのか」
「少しだけな。白瀬アカリの場面、静かでよかったって。あと、あの表情で泣いたって人もいた」
「そうか」
「お前は泣いた?」
「泣いてない」
「嘘だな」
「泣いてないことにした」
「それは泣いてる」
「うるさい」
三崎は笑った。
その普通の笑い声に、悠真は少し救われた。
昨夜、自分はテレビの前でかなり揺さぶられた。
でも、こうして昼休みに同僚と弁当を食べながら感想を話すと、あの大きな光が少しだけ日常へ戻ってくる。
白瀬アカリの仕事が、世間に届いている。
三崎にも届いている。
そのことを、今日はちゃんと持って帰らなければならない。
「春日」
「何」
「昨日の白瀬アカリ、たぶんもっと売れるぞ」
それは、三崎が何度か言ってきた言葉だった。
けれど今日は、いつもより少し重く聞こえた。
「そうだな」
「嬉しい?」
「嬉しい」
「寂しい?」
「少し」
「でも?」
悠真は箸を置き、少しだけ笑った。
「帰ってくると思える」
三崎は一瞬黙り、それから頷いた。
「いいじゃん」
「軽いな」
「軽いけど、本気」
そう言って、唐揚げをひとつ口へ運ぶ。
「戻ってくる場所がある人の顔だったもんな、昨日」
悠真は、もう一度静かに頷いた。
◇
午後、しらいさんからメッセージが届いた。
『反響、少し見た』
悠真はデスクで画面を開いた。
『大丈夫ですか』
既読。
『大丈夫じゃないけど、大丈夫』
以前より、彼女はその言い方を自然に使うようになった。
『いい反応が多いですか』
『うん』
『でも怖い』
『届いたからですね』
既読。
少し間。
『うん』
『届いてほしかった』
『でも届いたら、怖い』
悠真は、三崎の言葉を思い出した。
『三崎も見ていました』
既読。
『怖い』
『でも聞きたい』
『帰る場所があると知っている人の顔だった、と言っていました』
送った瞬間、これはかなり大きい感想だと思った。
既読がつく。
長い沈黙。
仕事中のデスクで、悠真はしばらくスマホを見つめてしまった。
やがて、返信が来た。
『三崎さん、すごい』
続けて、
『それ、今かなり効いた』
『はい』
『俺もいい感想だと思いました』
『春日くんは?』
悠真は少し考えた。
昨日の夜、もう伝えた。
スマホを見たあと、息が変わったところ。
近すぎず、ちゃんと役だったところ。
でも、顔を見て言うべきこともある。
『俺の感想は、顔を見て伝えたいです』
送る。
既読。
少しして、
『今日、行っていい?』
胸の奥が静かに鳴った。
『もちろんです』
『正式予約、使うかも』
悠真はローテーブルのティッシュを思い出した。
『用意しておきます』
『ミルクティーも』
『蜂蜜多めですか』
『多め』
『分かりました』
既読。
『今日は泣くと思う』
その一文は、いつもより素直だった。
悠真はゆっくり返信した。
『泣いてください』
『帰ってきたあとで』
既読。
『うん』
◇
夜、部屋を整える手は、いつもより少し丁寧になった。
ローテーブルの上に、青灰色のコースター。
しらいさんのマグカップ。
蜂蜜。
喉飴。
青灰色のハンカチ。
ティッシュ箱。
そして、少しだけ空けた場所。
彼女が鞄を置いて、肩の力を抜ける場所。
年末の大きな光から帰ってくる人を迎えるには、華やかなものはいらない。
必要なのは、いつもの場所だ。
インターフォンが鳴った。
悠真は玄関へ向かい、ドアを開ける。
しらいさんが立っていた。
黒いキャップ。
マスク。
ベージュのコート。
いつもの鞄。
目元には、少しだけ疲れがあった。
けれど、それだけではない。
もう泣きそうだった。
「来た」
声は小さかった。
悠真は言った。
「おかえりなさい」
その瞬間、しらいさんの目元が大きく揺れた。
「……ただいま」
それだけ言って、彼女は部屋に入った。
靴を脱ぐ動作も、コートを脱ぐ動作も、いつもより少し遅い。
部屋の中へ進み、ローテーブルを見る。
マグカップ。
コースター。
蜂蜜。
ハンカチ。
ティッシュ。
そこまで見て、彼女は小さく息を吐いた。
「ある」
「あります」
「本当にある」
「はい」
「昨日、すごく遠かったのに」
「はい」
「ちゃんとある」
その声で、もう危なかった。
悠真は何も言わず、キッチンへ行く。
ミルクティーを作る。
蜂蜜は多め。
甘い匂いが、部屋にゆっくり広がっていく。
カップを運ぶと、しらいさんは両手で受け取った。
そして、青灰色のコースターの上へ置く。
ことん。
小さな音。
その瞬間、彼女の目から涙が落ちた。
「……あ」
自分で驚いたような声だった。
悠真はティッシュ箱をそっと近づける。
「正式予約ですね」
「うん」
しらいさんはティッシュを一枚取った。
「正式予約」
そう言ったあと、もう一度涙が落ちた。
◇
最初は、静かな涙だった。
声を殺して、目元を押さえて、少しだけ肩を震わせる。
でも、以前とは少し違った。
泣くことに対して、彼女はもう慌てすぎなかった。
涙が落ちる。
拭く。
息をする。
ミルクティーを少し飲む。
また涙が落ちる。
それを、ちゃんと許しているように見えた。
悠真は向かいに座り、ただ待った。
「春日くん」
「はい」
「昨日」
「はい」
「怖かった」
「はい」
「光、強かった」
「はい」
「人、いっぱいだった」
「はい」
「でも、行けた」
「はい」
「メッセージ、一回だけ見た」
「はい」
「もっと見たかった」
「はい」
「でも、しまった」
「はい」
「それで、行けた」
涙で声が少し揺れている。
でも、ちゃんと言葉になっていた。
「見なくても、あった」
「はい」
「春日くんの言葉も、部屋も、マグカップも、全部」
「はい」
「全部持っていったら近すぎるから、少しだけ持っていった」
「はい」
「少しだけで、足りた」
その言葉に、悠真の胸が熱くなった。
少しだけで、足りた。
それは、彼女にとってとても大きなことだ。
支えにする。
依存しない。
その意味を、彼女は本番で掴んできたのだ。
「すごいです」
悠真は言った。
「本当に」
しらいさんは、泣きながら少し笑った。
「それ、今ほしかった」
「言えてよかったです」
「出た」
「出ます」
「うん」
彼女は青灰色のハンカチを手に取った。
昨日の衣装でも、今日の普段着でもない。
この部屋でだけの、しらいさんの手つきで目元を押さえる。
「理沙さんにも、よくやったって言われた」
「はい」
「三崎さんにも届いた?」
「届いていました」
「何て?」
悠真は、昼の会話を思い出す。
「帰る場所があると知っている人の顔だった、と」
しらいさんは、また泣いた。
今度は声が少し漏れた。
「それ」
「はい」
「それ、言われたかった」
「はい」
「役として、そう見えたなら」
「はい」
「ちゃんと変換できたんだ」
「できていました」
悠真は、はっきり言った。
「しらいさんそのままではなく、白瀬アカリの演技として、でも根っこにはしらいさんがいる表情でした」
しらいさんはハンカチで顔を覆った。
「春日くん」
「はい」
「今日、ずるい」
「すみません」
「謝らないで」
「はい」
「でも、かなりずるい」
その言い方に、少しだけいつもの調子が戻る。
けれど涙は止まらなかった。
◇
しばらくして、しらいさんは鞄からスマホを取り出した。
画面を開き、春日くんとのメッセージを見せる。
『帰っておいで』
そこに、今朝の同じ言葉も並んでいる。
「これ」
「はい」
「本番前に一回だけ見た」
「はい」
「それで、しまった」
「はい」
「しまったあと、すごく寂しかった」
「はい」
「でも、しまえたのが嬉しかった」
「はい」
「これ、変かな」
「変じゃないです」
「本当に?」
「はい」
「しらいさんが自分で立ったということだと思います」
しらいさんは、スマホをゆっくり伏せた。
「自分で立った」
「はい」
「でも一人じゃなかった」
「はい」
「春日くんの言葉もあった」
「はい」
「理沙さんもいた」
「はい」
「三崎さんみたいに、見てくれる人もいた」
「はい」
「白瀬アカリを見てくれる人が、たくさんいた」
「はい」
「怖い」
「はい」
「でも、嬉しい」
「はい」
「また両方」
彼女は泣きながら笑った。
「本当に両方ばっかり」
「でも、今のしらいさんにはちょうどいいんですよね」
「うん」
「俺にもです」
「うん」
しらいさんはミルクティーを飲んだ。
少し冷めている。
でも、甘さはまだ残っている。
「昨日ね」
「はい」
「番組終わって、控室に戻ったとき」
「はい」
「まだ白瀬アカリだった」
「はい」
「衣装もメイクもそのままだし、理沙さんもいるし、スタッフさんも来るし」
「はい」
「でも、春日くんに『おかえりなさい用です』ってマグカップの写真もらって」
「はい」
「少し戻った」
「はい」
「完全には戻れなかったけど、少し戻った」
「十分です」
「十分じゃなかった」
しらいさんは、少しだけ首を振った。
「でも、昨日はそれで十分にした」
その言い直しが、とても彼女らしかった。
全部欲しい。
でも、今できる分を選ぶ。
それを彼女は、少しずつ覚えている。
「今日は?」
悠真が聞くと、しらいさんはマグカップを見た。
「今日は、ちゃんと戻りたい」
「はい」
「だから来た」
「はい」
「泣くために」
「はい」
「ただいまって言うために」
「はい」
「昨日の白瀬アカリを、ここで少し脱ぐために」
悠真は静かに頷いた。
「脱いでください」
「……言い方」
「すみません」
「謝らないで」
しらいさんは少し笑った。
その笑いで、涙がまた一粒落ちた。
◇
彼女は少しずつ、昨日のことを話した。
待機場所の光。
衣装の重さ。
スマホをしまったあとの寂しさ。
理沙さんの「足さない」という言葉。
ドラマパートの直前、心の中で鳴らしたマグカップの音。
そして、カメラの前でスマホを見る瞬間。
「本番の画面に出た『帰っておいで』は、春日くんの文字じゃなかった」
「はい」
「でも、見た瞬間、ちょっと重なった」
「はい」
「重なりすぎたらだめだと思った」
「はい」
「だから、役の人に渡した」
「役の人に」
「うん。私が抱え込むんじゃなくて、役の人が受け取る感じ」
悠真は、思わず感心した。
「それ、すごいですね」
「本当?」
「はい。ちゃんと役に変換しています」
「できてた?」
「できていました」
「じゃあ、よかった」
「はい」
しらいさんは、ようやく少しだけ深く息を吐いた。
「春日くんにそう言われると、少し落ち着く」
「三崎にも届いていました」
「うん」
「たぶん、外の人にも」
「うん」
「でも、ここで聞くのがいちばん落ち着く」
その言葉に、胸の奥が静かに満たされる。
自分は特別な審査員ではない。
演技の専門家でもない。
でも、彼女が帰ってきて、ここで感想を聞きたいと思ってくれる。
それが、何より大きかった。
「春日くん」
「はい」
「昨日の私、遠かった?」
「遠かったです」
「かなり?」
「かなり」
「寂しかった?」
「少し」
「誇らしかった?」
「かなり」
しらいさんは、泣いたあとで赤くなった目を細めた。
「その答え、早くなった」
「慣れてきました」
「慣れないで」
「慣れて。でも慣れないで」
「先に言われた」
「覚えています」
いつものやり取りが、戻ってくる。
それだけで、部屋が少し日常へ戻ってきた。
◇
帰る時間は、少し遅くなった。
けれど今日は、彼女を急がせなかった。
理沙さんには事前に連絡してあり、短時間なら、と許可されていたらしい。
しらいさんはマグカップを洗った。
水の音。
カップを拭く音。
棚に戻す音。
そして、コースターを整える。
その指先は、来たときよりずっと落ち着いていた。
「今日の点数は?」
悠真が聞くと、しらいさんは少し考えた。
「百点」
「昨日に続いて高いですね」
「昨日は白瀬アカリが頑張った百点」
「はい」
「今日は、しらいさんが帰ってきた百点」
悠真は、その言葉を静かに受け止めた。
「いい百点ですね」
「うん」
「かなり」
「春日くんに移った」
「移りました」
「よし」
玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。
「春日くん」
「はい」
「帰っておいでって言葉」
「はい」
「また使っていい?」
「もちろんです」
「仕事にも?」
「はい」
「でも、ここにも?」
「はい」
「仕事に少し借りて、終わったらここに戻す」
「それがいいと思います」
しらいさんは、安心したように笑った。
「じゃあ、そうする」
「はい」
「また遠くへ行くと思う」
「はい」
「でも、帰ってくる」
「はい」
「たぶん、前より自分で帰ってこられる」
「……はい」
「でも、おかえりって言って」
「言います」
「何度でも」
「何度でも」
しらいさんは、少しだけ目元を赤くした。
でも、今度は泣かなかった。
「知ってる」
そう言って、彼女は夜の道へ出ていった。
ドアが閉まる。
部屋に静けさが戻る。
ローテーブルには、青灰色のコースターだけがある。
昨日の大きな光。
今日の涙。
三崎の感想。
理沙さんの線引き。
そして、『帰っておいで』という七文字。
その全部が、少しずつこの部屋に戻ってきた。
悠真はコースターを見つめながら思った。
彼女は、遠くへ行くたびに少し強くなるのではない。
遠くへ行って、戻ってきて、泣いて、また行けるようになる。
それが今の白瀬アカリであり、しらいさんなのだ。




