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第82話 光の中で君が帰る顔をしたから、僕はテレビの前で息を止めた

 番組の音楽は、部屋の空気まで少し浮かせるようだった。


 春日悠真は、ローテーブルの前に座ったまま、テレビの画面を見つめていた。


 年末の大型音楽番組。


 画面の中では、人気アーティストが華やかなステージで歌い、司会者が笑い、客席の拍手が波のように広がっている。


 何もかもが明るい。


 照明も、衣装も、音楽も、テロップの色も。

 普段の部屋とはまったく違う場所だ。


 その華やかさが、少しだけ遠かった。


 ローテーブルの上には、青灰色のコースター。

 その上に、しらいさんのマグカップ。


 隣には、自分用のカップ。

 蜂蜜を少し入れたハーブティーは、もう半分ほど減っていた。


 番組はすでに始まってしばらく経っている。


 白瀬アカリの出番は、ドラマ企画パート。

 番組表によれば、もうそろそろのはずだった。


 スマホが震えた。


 三崎からだった。


『そろそろじゃないか』


 悠真は画面を一瞬だけ見て、返す。


『たぶん』


 すぐに既読。


『こっちも待機』


 そのあと、みかんとリモコンとテレビ画面の写真が来た。


 悠真は少し笑いそうになったが、すぐに表情を戻した。


 笑えるのに、緊張している。


 変な状態だった。


 テレビの中で、司会者が次の企画紹介へ移った。


「ここからは、年末特別ドラマ企画です」


 悠真の背筋が自然に伸びた。


 画面が切り替わる。


 華やかなステージから、少し落ち着いた映像へ。


 年末の街。

 人混み。

 イルミネーション。

 音楽番組らしく、背景にはこの日のために編曲された楽曲が流れている。


 短いドラマが始まった。


 悠真は、無意識にマグカップを見た。


 しらいさんは、今この光の中にいる。


 テレビの中に。

 多くの人が見ている番組の中に。

 そして、自分の部屋の音を、たぶん心のどこかに持っている。


 ことん。


 心の中で、先に音が鳴った。


    ◇


 白瀬アカリは、光の中にいた。


 強い照明。

 カメラの位置。

 スタッフの合図。

 音楽のタイミング。


 全部、分かっている。


 リハーサルも通し稽古もした。

 理沙さんにも確認してもらった。

 感情を足しすぎない。

 春日くんの部屋に帰りすぎない。

 でも、消さない。


 支えにする。

 依存しない。

 役に変換する。


 その言葉を、胸の奥で小さく並べる。


 でも、カメラが回った瞬間、考えすぎることをやめた。


 役の女性として、人混みの中を歩く。


 年末の華やかな街。

 誰もが誰かと笑っている。

 どこかへ帰る人もいる。

 誰かを待つ人もいる。


 その中で、彼女はきちんと立っている。


 大丈夫そうな顔。

 疲れていないふり。

 寂しくないふり。


 白瀬アカリは、そういう顔を知っている。


 昔のインタビューで、前向きな答えだけを選んだ自分。

 舞台挨拶の前に、心の中で震えていた自分。

 テレビ特番で、綺麗な答えだけに逃げそうになった自分。


 そして、春日くんの部屋で泣いた自分。


 全部が、役の奥に少しずつ沈んでいく。


 沈める。

 でも、見せすぎない。


 画面の中の女性は、微笑んでいる。

 けれど、目の奥だけが少しだけ置いていかれている。


 音楽が少し静かになる。


 小道具のスマホが震える。


 合図通り。


 彼女は、画面を見る。


 そこに表示される言葉。


『帰っておいで』


 本番の小道具として用意された文字。


 春日くんのメッセージそのものではない。

 送り主も違う。

 役の中の誰かから届いた言葉だ。


 でも、根っこにある感覚は同じだった。


 しらいさんは、一度だけ、心の奥で本当の言葉を読む。


 帰っておいで。


 もう見ていないはずの春日くんのメッセージが、そこに重なる。


 でも、それに飲まれない。


 役として受け取る。


 その瞬間。


 息が、少しだけ落ちた。


 強い光の中で、ずっと保っていた外の顔が、ほんの少しだけほどける。


 泣かない。

 笑いすぎない。

 崩れない。


 ただ、帰っていいのだと知った人の顔になる。


    ◇


 悠真は、テレビの前で息を止めていた。


 画面の中で、白瀬アカリがスマホを見る。


 そして、表情が変わった。


 本当に、一瞬だった。


 普通に見れば、ただ少しだけ目元が柔らかくなっただけかもしれない。

 セリフもない。

 大きな涙もない。

 過剰な演技もない。


 けれど、悠真には分かった。


 あれだ。


 部屋で、何度も稽古した顔。


 玄関から戻ってきて、マグカップを見たときの顔。

 『帰っておいで』のメッセージを見たときの顔。

 外でちゃんとしていた人が、自分に戻っていいと許された瞬間の顔。


 ただ、部屋のしらいさんそのままではない。


 ちゃんと役になっていた。


 白瀬アカリとして、仕事として、年末の大きな番組の中で、役に変換されていた。


 だから余計に、胸に来た。


 悠真は、手元のカップを持ったまま動けなかった。


 テレビの中では、ドラマが続いている。


 白瀬アカリ演じる女性は、スマホを胸元に引き寄せるわけでもなく、泣き崩れるわけでもなく、ただ少しだけ視線を上げた。


 年末の街の光を見る。


 そして、ほんのわずかに口元を緩める。


 帰る場所を思い出した人の顔。


 遠くにいるのに、近かった。


 いや、近いのに、ちゃんと遠かった。


 悠真は、喉の奥が熱くなるのを感じた。


「……見つけた」


 小さく呟く。


 スマホが震えた。


 三崎からだった。


『今の表情、やばくないか』


 悠真はすぐには返せなかった。


 画面から目を離せない。


 三崎からさらに来る。


『セリフないのに伝わった』


『白瀬アカリ、これ強いな』


 悠真は、ようやくスマホを手に取った。


『分かる』


 それだけ送る。


 少しして、もう一文。


『かなり』


 三崎からすぐ返る。


『出た、かなり』


 悠真は少しだけ笑った。


 でも、目は少し熱かった。


    ◇


 ドラマ企画は、数分の短いものだった。


 それでも、悠真には長く感じた。


 音楽と映像が重なり、複数の出演者たちの短い場面が続く。

 それぞれに帰る場所がある。

 実家、仕事場、誰かの隣、思い出の場所。


 そして白瀬アカリの場面は、その中でも派手ではなかった。


 だからこそ、残った。


 最後に、彼女が少しだけ歩き出す場面がある。


 人混みの中で、先ほどより足取りがわずかに軽い。


 帰っておいで、という言葉を受け取ったあと。

 何かが劇的に解決したわけではない。

 明日から急に楽になるわけでもない。


 でも、帰れると知っている人は、少しだけ歩き方が変わる。


 悠真は、それを見ていた。


 心の中で、もう一度音が鳴る。


 ことん。


 帰ってきた音。

 行ってくる音。


 番組は再びステージへ戻った。


 明るい音楽。

 拍手。

 司会者の声。

 年末の華やかな空気。


 白瀬アカリは、スタジオの席に戻っていた。

 他の出演者たちと並び、司会者の言葉に微笑んでいる。


 さっきの芝居の余韻を残しすぎない。

 仕事として、次の流れへ戻っている。


 その切り替えまで含めて、白瀬アカリだった。


 でも悠真は知っている。


 きっと今、彼女の中にはまだ少しだけあの言葉が残っている。


 帰っておいで。


 それを一度だけ見て、しまって、支えにして、役に変換して。


 彼女は、やり切った。


    ◇


 スタジオの光は、やはり強かった。


 白瀬アカリは、ドラマ企画パートが終わったあとも、すぐには自分に戻れなかった。


 当たり前だ。


 まだ番組の中にいる。

 まだカメラがある。

 まだ笑う場所がある。


 でも、芝居の直後に少しだけ、胸の奥で何かが震えていた。


 できたのだろうか。


 近すぎなかっただろうか。

 足しすぎなかっただろうか。

 伝わっただろうか。

 伝わりすぎていなかっただろうか。


 考え始めると、手元が揺れそうになる。


 だから、一度だけ心の中で理沙さんの声を思い出す。


 足さない。

 今のままで十分。


 そして、春日くんの言葉も。


 全部出さなくても、届くものはある。


 白瀬アカリは、カメラに向かって微笑んだ。


 今はまだ、しらいさんに戻る時間ではない。


 でも、戻る場所はある。


 それを知っているだけで、最後まで座っていられる気がした。


 スタッフの合図で、次の曲紹介へ移る。


 司会者が話を振る。

 白瀬アカリは短く感想を答える。


 声は、ちゃんと出た。


 表情も崩れていない。


 視界の端に、理沙さんがいる。


 目は合わない。

 けれど、ほんのわずかに頷いたように見えた。


 それだけで、少しだけ安心した。


    ◇


 悠真のスマホは、その後も何度か震えた。


 三崎からだった。


『今の企画、普通によかった』

『白瀬アカリの場面、派手じゃないのに残る』

『帰っておいでって言葉、あれ刺さるな』

『お前絶対泣いてるだろ』


 最後だけ余計だった。


 悠真は目元を拭いていない。

 泣いてはいない。


 たぶん。


 少なくとも、まだ泣いていないことにした。


『泣いてない』


 送る。


 すぐ返る。


『嘘っぽい』


『黙れ』


『明日語るぞ』


『言える範囲でな』


『それな』


 スマホを置く。


 番組はまだ続いていた。


 白瀬アカリはその後、別の出演者の歌を聴きながら、手拍子をしたり、司会者の振りに短く答えたりしている。


 普通に、白瀬アカリとしてそこにいる。


 悠真は、それを見るのが不思議だった。


 さっき、あんなにも深い一瞬を見たのに。

 そのあと、彼女はちゃんと番組の流れへ戻っている。


 仕事の人だ。


 改めてそう思った。


 そして、それが誇らしかった。


 少しだけ寂しくもあった。


 でも、今は誇らしさのほうが大きかった。


    ◇


 番組の出番が一区切りつき、白瀬アカリが控室へ戻れたのは、かなり遅い時間だった。


 ドアが閉まった瞬間、彼女は椅子に座り込んだ。


「おつかれさま」


 理沙さんが水を差し出す。


「……ありがとうございます」


「喉は?」


「八割八分」


「使ったわね」


「はい」


「でも、最後まで出ていた」


「はい」


 白瀬アカリの顔が、少しずつしらいさんに戻っていく。


 でも、まだ完全ではない。


 衣装もメイクもそのままだ。

 髪も整っている。

 まだ公の自分が残っている。


 理沙さんは少しだけ間を置いてから言った。


「ドラマパート、よかったわ」


 しらいさんは顔を上げた。


「本当ですか」


「ええ。足しすぎなかった」


「近すぎませんでしたか」


「ギリギリ。でも、役として成立していた」


 ギリギリ。


 それは理沙さんらしい褒め方だった。


 しらいさんは、胸の奥に残っていた緊張が少しずつ解けていくのを感じた。


「メッセージ、効きました」


「見たのは一度?」


「一度です」


「本番中は?」


「見ていません」


「思い出しすぎた?」


「……少しだけ」


「でも戻ってきた?」


「役に戻しました」


 理沙さんは小さく頷いた。


「ならいいわ」


 そして、少しだけ声を柔らかくした。


「よくやったわね」


 それを聞いた瞬間、しらいさんは泣きそうになった。


「泣かない」


「……はい」


「ここでは泣かない」


「はい」


「泣く場所は?」


 理沙さんが聞く。


 まるで確認のように。


 しらいさんは少しだけ笑った。


「あります」


「なら、そこまで持っていきなさい」


「はい」


「春日さんに連絡するなら短く。まだ移動もある」


「はい」


 しらいさんはスマホを取り出した。


 手が少しだけ震えている。


 春日くんとのメッセージ画面を開く。


 何を送ればいいか、すぐには決まらなかった。


 できた。

 怖かった。

 帰りたい。

 見てくれた?

 見つけてくれた?


 いろいろな言葉が浮かぶ。


 結局、送ったのは短い文だった。


『終わった』


    ◇


 悠真はすぐに気づいた。


 番組はまだ続いている。

 けれど、彼女の大きな出番は終わっている。


 スマホに表示された文字。


『終わった』


 それを見た瞬間、胸の奥がほどけた。


『おつかれさまでした』


 送る。


 既読はすぐについた。


 しばらくして、次が来る。


『見た?』


 悠真は、ローテーブルのマグカップを見る。


 さっきからそこにある。


 青灰色のコースターの上に、静かに。


『見ました』


『見つけました』


 送信。


 既読。


 長い沈黙。


 やがて、


『どこ?』


 と届く。


 悠真はゆっくり打った。


『スマホを見たあと』


『息が少しだけ変わったところ』


『泣かずに』


『笑いすぎずに』


『帰っていいと分かった顔をしたところ』


 既読。


 返事はなかなか来なかった。


 しばらくして、


『そこ』


 たった二文字。


 悠真は、画面を見つめた。


『そこを見てほしかった』


 続けて届いた。


 悠真は、喉の奥が熱くなるのを感じた。


『見ました』


『ちゃんと』


 既読。


『近すぎなかった?』


 その不安も、ちゃんと彼女らしい。


『近すぎませんでした』


『しらいさんそのままではなく、ちゃんと役でした』


『でも、根っこにしらいさんがいました』


 既読。


 長い沈黙。


 それから、


『今それ読んだら泣く』


 悠真は少し笑いそうになった。


『まだ泣かないでください』


『理沙さん側』


『完全に』


『でも、帰ったら泣くかも』


『場所はあります』


 既読。


『行きたい』


『今日?』


『無理かも』


『移動と確認ある』


『でも、帰りたい』


 悠真は、少しだけ胸が痛くなった。


 今すぐ来てほしい。

 でも、無理をしてほしくない。


『今日は無理しないでください』


『来られなくても、ここはあります』


 既読。


『強い』


『でも、泣きそう』


『正式予約にしますか』


 少し間が空く。


『正式予約』


『近いうちに使う』


 悠真は静かに返信した。


『待ってます』


 既読。


『知ってる』


    ◇


 番組が終わるまで、悠真はテレビをつけていた。


 白瀬アカリが再び大きく映ることは少なかった。

 それでも、最後のエンディングで出演者が並んだとき、彼女の姿はちゃんとそこにあった。


 笑っている。

 手を振っている。

 年末の華やかな光の中で、白瀬アカリとして立っている。


 遠かった。


 本当に遠かった。


 でも、その遠さの中に、今日も見つけられた。


 帰る場所を知っている人の顔。


 番組が終わり、画面が別の番組へ切り替わる。


 悠真はテレビを消した。


 部屋が急に静かになる。


 華やかな音楽が消え、残ったのは自分の部屋の空気だけだった。


 悠真はマグカップを手に取った。


 一度持ち上げて、コースターに置く。


 ことん。


 今日、一番聞きたかった音だった。


 写真を撮る。


『おかえりなさい用です』


 送る。


 しばらくして既読がついた。


『見た』


 少しして、


『ただいま』


 それだけ届いた。


 悠真は、その文字を見て静かに笑った。


 今日、彼女は大きな光の中へ行った。


 たった一度だけ言葉を見て、支えにして、依存せず、役に変換して。


 そして、ちゃんと帰ってきた。


 まだこの部屋には来ていない。


 それでも、帰ってきた。


 悠真はコースターを見つめながら、胸の中で小さく言った。


 おかえりなさい。

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