第81話 たった一度だけ言葉を見て、君は大きな光へ歩き出す
その朝、街は年末らしい匂いがした。
駅へ向かう人の流れはいつもより少し慌ただしく、コンビニの前には正月飾りの小さな棚が出ていた。電車の中では、帰省の荷物らしい大きなバッグを持った人も見かけた。
春日悠真は、いつもより早く目が覚めていた。
今日は、白瀬アカリが年末大型音楽番組に出演する日だった。
ドラマ企画パートの収録と、生放送に近いスタジオ出演。
映画館の舞台挨拶とも、テレビ特番とも違う。もっと大きく、もっと明るく、もっと多くの人が何気なく見る場所。
しらいさんは、そこへ行く。
悠真はローテーブルの前に座り、青灰色のコースターの上にマグカップを置いた。
いつもの位置。
いつもの角度。
ただ、今日はいつもより少しだけ手が慎重だった。
写真を撮る。
『今日もあります』
送信する。
少し考えて、もう一文を足した。
『行ってきてください』
そして、最後に。
『帰っておいで』
送る前に、一度だけ指が止まった。
もうその言葉は、彼女のスマホに残っている。
本番前に一度だけ見ると決めた、大事な言葉。
何度も重ねて送るのは、重すぎるかもしれない。
でも、今日は本番だ。
悠真は送信した。
すぐには既読がつかなかった。
それでいい。
彼女はもう動き始めているはずだ。
悠真はスマホを伏せ、温かいお茶を淹れた。コーヒーではなく、今日も喉に優しそうなものにした。
自分が喉を使うわけではないのに、そうしないと落ち着かない。
しばらくして、スマホが震えた。
『見た』
続けて、
『今日もある』
さらに、
『行ってくる』
少し間があって、
『帰ってくる』
悠真は、その文字を何度も見た。
それだけで、朝の部屋に少しだけ彼女が戻ってきた気がした。
◇
テレビ局の控室は、朝から人の気配が濃かった。
廊下を行き交うスタッフの足音。
どこか遠くから聞こえるリハーサルの音。
衣装ケースを運ぶキャスターの音。
名前を呼び合う声。
白瀬アカリは、控室の椅子に座り、鞄を膝の上に置いていた。
まだ衣装には着替えていない。
メイクも完全には終わっていない。
今は、白瀬アカリになる途中の時間だった。
鞄の内ポケットには、青灰色のカードケース。
その隣に、青灰色のハンカチ。
スマホの中には、春日くんからの言葉。
『帰っておいで』
今日は、これを一度だけ見る。
それ以上は見ない。
支えにする。
依存しない。
役に変換する。
理沙さんの言葉を、朝から何度も心の中で繰り返していた。
ドアが開き、相沢理沙が入ってくる。
「アカリ」
「はい」
「喉は?」
「九割二分です」
「私の評価では九割」
「少し低いですね」
「今日の長さを考えたら、慎重に見ているだけよ」
「はい」
「水分は取りすぎない。喉飴は本番二時間前まで。直前に舐めると口の中に残る」
「はい」
「ドラマパート前に、もう一度だけ表情を確認する」
「はい」
理沙さんはタブレットを置き、しらいさんを見た。
「メッセージは?」
しらいさんは少しだけ背筋を伸ばす。
「まだ見ていません」
「予定通りね」
「はい」
「見るなら、メイクが終わって、衣装に入る前。そこから先は見ない」
「はい」
「見たあと、スマホは鞄にしまう。カードケースもハンカチも同じ。現場へ持っていくのは感覚だけ」
「はい」
「春日さん本人を思い出しすぎない」
「……はい」
「でも、消さなくていい」
その言葉に、しらいさんは少しだけ目を上げた。
理沙さんはいつもの仕事の顔で続ける。
「消そうとすると硬くなる。持ちすぎると近くなりすぎる。今日は、その間を歩きなさい」
「難しいです」
「難しいわよ」
あっさり言われて、少しだけ笑いそうになった。
「でも、できる範囲には来ている」
その一言で、胸の奥が少し落ち着いた。
「はい」
「それと」
「はい」
「本番前に泣かないこと」
「……はい」
「泣くなら終わってから」
「春日くんの部屋で?」
つい言ってしまった。
理沙さんは、ほんの少しだけ眉を上げる。
「分かっているならよろしい」
怒られなかった。
それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。
◇
昼休み、三崎はいつもよりそわそわしていた。
「春日」
「何」
「今日だな」
「そうだな」
「白瀬アカリ、年末番組」
「知ってる」
「知ってる顔してる」
「どんな顔だ」
「推しの本番が大きすぎて、普通に働いてるふりしてる顔」
「仕事中だからな」
「偉い」
「お前に言われても」
三崎は唐揚げ弁当を開けながら、妙に真面目な顔になった。
「今日のやつ、ちょっと緊張するな」
「三崎が?」
「するだろ。ここまで追ってきたらさ」
追ってきた。
その言葉が少しおかしかった。
三崎は本当に、白瀬アカリの作品やインタビューを追い始めている。
映画を観て、特番を観て、過去作まで見て、もう立派なファンだ。
「帰る場所のドラマ企画だろ?」
「ああ」
「白瀬アカリ、合うと思う。でも、外すと痛いテーマでもある」
「……そうだな」
「だから、うまくやってほしい」
それは、普通のファンの言葉だった。
けれど悠真には、少しだけ違う意味で響く。
うまくやってほしい。
無理しすぎないでほしい。
ちゃんと白瀬アカリとして立ってほしい。
でも、終わったらしらいさんに戻ってきてほしい。
言えないことが、相変わらずたくさんある。
「春日」
「何」
「今日、顔が深い」
「顔の種類、まだ増えるのか」
「増える。今日は“祈ってるファン”の顔」
「……」
「当たり?」
「少し」
三崎は笑わなかった。
「まあ、祈っとけ。仕事しながら」
「現実的だな」
「ファンも生活があるからな」
その軽さに、少し助けられた。
そうだ。
ファンにも生活がある。
恋人にも仕事がある。
白瀬アカリが大きな光へ歩いていく日に、春日悠真は会社で弁当を食べ、午後の資料を直す。
それは冷たいことではない。
戻る場所を、いつも通りにしておくためのことでもある。
◇
メイクが終わったあと、しらいさんは一人で数分だけ控室に残った。
理沙さんはスタッフとの確認で少し外へ出ている。
メイクスタッフも、衣装スタッフも、次の準備のために席を外した。
短い空白。
たぶん、今しかない。
しらいさんは鞄からスマホを取り出した。
ロックを解除する。
春日くんとのメッセージ画面を開く。
そこには、今朝の言葉があった。
『今日もあります』
『行ってきてください』
『帰っておいで』
そして、少し前に送られていた、あの七文字。
『帰っておいで』
同じ言葉なのに、今日は少し違って見える。
部屋へ戻るための言葉。
役に入るための言葉。
光の中へ行くための言葉。
しらいさんは画面を見つめた。
泣かない。
泣くための言葉ではない。
立つための言葉だ。
支えにする。
依存しない。
役に変換する。
胸の中でそう繰り返してから、目を閉じた。
ことん。
マグカップの音を、心の奥で一度だけ鳴らす。
帰ってきた音。
行ってくる音。
目を開ける。
スマホを閉じる。
鞄にしまう。
一度だけ。
ちゃんと、一度だけ。
その瞬間、少し寂しかった。
もっと見ていたかった。
もう一回だけ読みたかった。
でも、それはしない。
見なくても、ある。
昨日、通し稽古で少し分かったことだった。
ずっと握っていなくても、あると分かっていれば立てる。
しらいさんは鞄の内ポケットを閉じた。
そこにカードケースも、ハンカチも、スマホもある。
でも、これから持っていくのは感覚だけ。
ドアが開いた。
理沙さんが戻ってくる。
「見た?」
「はい」
「一度だけ?」
「一度だけ」
「しまった?」
「しまいました」
「顔は?」
「……泣いてません」
「それは見れば分かるわ」
理沙さんは少し近づき、しらいさんの顔を確認した。
「少し近い」
「……はい」
「でも悪くない。衣装に入ったら、白瀬アカリの距離まで戻しなさい」
「はい」
「感覚は持っていく。彼の部屋は持ち込みすぎない」
「はい」
「あなたの足で立つこと」
「はい」
しらいさんは、ゆっくり頷いた。
「立ちます」
「よろしい」
◇
夕方、悠真のスマホが震えた。
仕事が一段落したタイミングだった。
『一回だけ見た』
『しまった』
しらいさんからだった。
悠真は、会社のデスクでその二行を読んだ。
胸の奥が静かに鳴る。
『えらいです』
送る。
既読。
『雑』
『本当に』
『寂しかった』
悠真は、その一文を見て少しだけ目を伏せた。
『俺も少し寂しいです』
既読。
少し間。
『でも、これでいい』
『はい』
『支えにして、依存しない』
『はい』
『役に変換する』
『はい』
既読。
『行ってくる』
悠真は、ゆっくり返信した。
『行ってきてください』
『帰ってくる場所はあります』
既読。
今度は、返事が少し遅れた。
『知ってる』
それだけ。
でも十分だった。
◇
衣装に着替えると、空気が変わった。
白瀬アカリは、鏡の前に立つ。
年末の番組らしい、少し華やかで、それでもドラマパートに合わせた落ち着きのある衣装。
照明を受ければ、きっと柔らかく映る。
鏡の中の自分は、もうかなり白瀬アカリだった。
でも、奥にしらいさんが消えていない。
それが不思議だった。
以前なら、仕事の顔になるために、しらいさんを奥へ押し込めていた。
弱さも、不安も、帰りたい気持ちも、全部見えないところへしまっていた。
今は違う。
しまうのではなく、整えている。
見せてはいけないものは見せない。
でも、なかったことにはしない。
それが少しずつ分かってきた。
理沙さんが鏡越しに言う。
「いい顔になってきたわ」
「本当ですか」
「ええ。ただし、本番で足しすぎないこと」
「はい」
「あなたは不安になると、最後に足したがる」
「……自覚あります」
「なら、足さない。今のままで十分」
「はい」
「春日さんにも同じようなことを言われているでしょう」
「全部出さなくても、届くものはあるって」
「そう。それ」
理沙さんは小さく頷いた。
「今日は、それを信じなさい」
「はい」
全部出さなくても、届くものはある。
春日くんの言葉。
理沙さんの確認。
三崎さんのような外側の感想。
いくつもの言葉が、自分の中で重なっていた。
白瀬アカリは、一人で立つ。
でも、一人きりで立つわけではない。
それが、今日のいちばん大きな違いだった。
◇
夜、番組の本番が近づいていた。
悠真は部屋に戻っていた。
仕事を終え、急いで帰り、手を洗い、ローテーブルの前に座った。
テレビはまだつけていない。
番組開始まで、もう少し時間がある。
青灰色のコースターの上には、しらいさんのマグカップ。
隣には、自分用のカップ。蜂蜜入りのハーブティー。
テレビのリモコン。
そして、スマホ。
三崎からはすでにメッセージが来ていた。
『待機』
またテレビ画面の写真。
今回は年末らしく、テーブルにみかんが置いてある。
悠真は少し笑った。
『こっちも待機』
『祈れ』
『お前もな』
『ファン仲間だからな』
そのやり取りのあと、悠真はしらいさんとのメッセージ画面を開いた。
最後は、
『知ってる』
で止まっている。
今はもう送らない。
送っても、彼女は見られないだろう。見ないほうがいい。
だから、ここから先は待つ。
見る準備。
待つ準備。
ファンとして。
恋人として。
悠真はマグカップを一度だけ持ち上げ、コースターに戻した。
ことん。
「帰っておいで」
誰にも聞こえない声で呟いた。
◇
スタジオの裏側は、光と影がはっきり分かれていた。
ステージへ続く通路には、照明の漏れた明るい場所と、機材の影が落ちる暗い場所がある。
音楽が響いている。
遠くで拍手の音も聞こえる。
年末の大きな番組が、すでに始まっている。
白瀬アカリの出番は、もう少し後だった。
それでも、待機場所に立っているだけで、心臓が少し速くなる。
出演者たちが行き交う。
スタッフが走る。
誰かが名前を呼ばれる。
誰かが笑い、誰かが真剣な顔で台本を確認している。
強い光。
その中へ、自分も行く。
しらいさんは、衣装の裾をそっと整えた。
手元には何もない。
スマホも、カードケースも、ハンカチも控室だ。
でも、ある。
見なくても、ある。
春日くんの言葉。
理沙さんの線引き。
この部屋ではなく、あの部屋の音。
帰っていいと言われたときの感覚。
全部、心の中にある。
「アカリ」
理沙さんが隣で言った。
「はい」
「今の顔」
「硬いですか」
「少し。でも悪くない」
「はい」
「怖い?」
「怖いです」
「よろしい」
「よろしいんですか」
「怖くないふりをするよりいいわ」
理沙さんは、舞台袖の光を見る。
「支えにする。依存しない。役に変換する」
「はい」
「全部出さない。でも、消さない」
「はい」
「行きなさい」
その一言で、しらいさんは胸の奥を静かに整えた。
白瀬アカリとして立つ。
しらいさんを消さない。
戻る場所を知っている人の顔で。
スタッフが声をかける。
「白瀬さん、お願いします」
光が、通路の先で待っている。
彼女は一度だけ、小さく息を吸った。
心の中で、音が鳴る。
ことん。
帰ってきた音。
行ってくる音。
そして、声にならない言葉。
帰っておいで。
白瀬アカリは、ゆっくり前へ歩き出した。
大きな光の中へ。




