第80話 支えにして、依存しないで、それでも君は帰ってくる
年末が近づくと、街の音まで少し変わる。
駅前のスーパーでは、いつもより早い時間から惣菜売り場が混み始める。
コンビニの棚には限定の菓子が増え、書店の平台には年末年始特大号の雑誌が積まれる。会社の休憩スペースでも、誰かが「今年も終わるな」と言い、そのたびに誰かが「まだ仕事は終わらないけどな」と返す。
春日悠真にとっても、今年の終わりは少し落ち着かなかった。
理由は分かっている。
白瀬アカリが、年末の大型音楽番組に出る。
それも、ただゲストとして少し笑って座るだけではない。
ドラマ企画パートの中で、短い芝居をする。
テーマは、帰る場所。
あまりにも、今の彼女に近い言葉だった。
だからこそ、しらいさんは怖がっている。
そして、怖がりながらも、逃げずに準備している。
悠真は朝、いつものようにマグカップをコースターに置いた。
青灰色の丸いコースター。
白いマグカップ。
取っ手は右。
ローテーブルの端から少し内側。
今日も、変わらない場所。
写真を撮る。
『今日もあります』
送信。
少しして既読がついた。
『見た』
続けて、
『今日は最後の通し稽古』
悠真は少しだけ背筋を伸ばした。
『行ってきてください』
『支えにして、依存しないで、役に変換する日ですね』
既読。
少し間が空く。
『理沙さんみたい』
『すみません』
『でも必要』
さらに、
『春日くんの言葉も、そうする』
悠真は画面を見つめた。
『帰っておいで』。
あの七文字は、まだ彼女のスマホに残っている。
本番前に一度だけ見ると、理沙さんから許可をもらった。
けれど、何度も見ない。泣かない。春日悠真の部屋に帰りすぎない。
支えにする。
依存しない。
役に変換する。
簡単なようで、とても難しい。
『無理しすぎないでください』
悠真は送った。
既読。
『理沙さん側』
『彼氏側もです』
返事は少し遅れて来た。
『今日はその言い方、効く』
『ならよかったです』
『出た』
いつもの言葉。
でも今日は、その奥に大きな稽古場の光が見える気がした。
◇
昼休み、三崎はスマホを見ながら眉を寄せていた。
「春日」
「何」
「白瀬アカリの年末番組、番宣増えてきたな」
「そうだな」
「お前、今かなり落ち着かないだろ」
悠真は弁当の蓋を開ける手を止めた。
「顔に出てるか」
「今日は出てる。推しの本番が近い顔」
「まだ本番じゃない」
「でも近いんだろ?」
「まあ」
三崎はコンビニのサンドイッチを置き、少しだけ真面目な顔になった。
「ドラマ企画、帰る場所がテーマなんだよな」
「ああ」
「白瀬アカリ、あれ絶対合うと思う」
悠真は顔を上げた。
「どうして」
「最近の流れがあるだろ。映画で弱さを隠す役をやって、特番で戻れる場所の話をして、蜂蜜で生活感出して」
「蜂蜜をそこに入れるな」
「入るだろ。世間的にはかなり効いてるぞ」
「本人が聞いたら恥ずかしがりそうだな」
「本人?」
しまった、と思った。
三崎は少しだけ目を細める。
悠真はすぐに言い直した。
「白瀬アカリが、そういう反応されたら恥ずかしがりそうだと思っただけだ」
「ああ。確かに。あの人、照れたとき分かりやすそうだもんな」
悠真は思わずお茶を飲んだ。
三崎は何も知らない。
知らないのに、たまに妙に近いことを言う。
「でもさ」
三崎は続けた。
「白瀬アカリ、最近“人前でちゃんとしてる人が、少しだけ本音を見せる”みたいな役や言葉が合うよな」
「……そうだな」
「完璧な人が崩れるっていうより、崩れないようにしてる人が一瞬だけ息をする感じ」
悠真は箸を持ったまま、しばらく言葉を失った。
三崎は本当に、ただのファンとして言っている。
でも、その言葉はしらいさんが今まさに稽古で掴もうとしているものに近かった。
外の顔。
メッセージ。
息が緩む。
戻れる、と知る。
「三崎」
「何」
「お前、今日かなり鋭い」
「お、褒められた」
「調子に乗るな」
「もう乗った」
三崎は笑ったあと、少しだけ声を落とした。
「でも、これ外すと結構きついよな」
「何が」
「こういう“自然体”とか“戻れる場所”とかって、ハマると強いけど、作りものっぽくなると急に寒い」
悠真は静かに頷いた。
「そうだな」
「だから白瀬アカリには、変にきれいにまとめずにやってほしい」
「……」
「まあ、俺が言うことじゃないけど」
いや、たぶん三崎の言葉は大事だ。
普通の視聴者で、最近ファンになったばかりの人間が、そう感じている。
それは外側の温度として、かなり正直なものだった。
悠真は小さく言った。
「持って帰る」
「何を?」
「あ、いや。感想として覚えておく」
「変な言い方」
「面倒くさいファンだからな」
「便利すぎるだろ、それ」
三崎は呆れたように笑った。
◇
稽古場の照明は、思っていたより白かった。
白瀬アカリは、指定された立ち位置に立ち、床の目印を見下ろした。
数日前の稽古室よりも広い。実際のセットに近い仮組みもあり、照明の入り方も調整されている。
まだ本番ではない。
けれど、もうただの練習ではない。
通し稽古。
スタッフが動き、カメラ位置が確認され、音楽のタイミングが流される。
出演者たちも本番に近い動きをする。
白瀬アカリの出番は短い。
だからこそ、一瞬で伝えなければならない。
年末の華やかな夜。
音楽と拍手と光。
その中で、彼女は平気な顔をしている。
でも、胸の奥は少しだけ置いていかれている。
そこへ届く。
『帰っておいで』
本番では、直接その文字を見ない。
演出上の小さなメッセージとして届く。
けれど、しらいさんの中には春日くんの七文字がある。
支えにする。
依存しない。
役に変換する。
理沙さんの言葉を、心の中で繰り返す。
「アカリ」
稽古場の端から、理沙さんが声をかけた。
「はい」
「顔が少し近い」
「……はい」
「彼の部屋に帰るのではなく、役の帰る場所へ」
「はい」
やっぱり分かる。
ほんの少しでも、春日くんの部屋へ寄りすぎると、理沙さんには見抜かれる。
しらいさんは一度、目を閉じた。
マグカップの音を鳴らしすぎない。
ミルクティーの匂いを思い出しすぎない。
おかえりなさいの声に寄りかかりすぎない。
でも、全部消さない。
難しい。
難しいけれど、必要だ。
「もう一度お願いします」
スタッフが声をかける。
音楽が流れる。
華やかなイントロ。
年末らしい、少し浮き立つようなメロディ。
白瀬アカリは外の顔を作った。
背筋を伸ばす。
口元には微笑み。
目元には、疲れを隠す薄い膜。
ちゃんとしている人。
帰る場所を持たないふりをしている人。
自分のことを後回しにすることに慣れた人。
そこへ、メッセージが届く。
帰っておいで。
その瞬間、まず息が変わる。
大きく崩さない。
涙を見せない。
笑いすぎない。
ただ、目の奥に置いていた力がほんの少し抜ける。
帰っていい。
その許可を、受け取った人の顔。
カットの声がかかる。
稽古場に一瞬、静けさが残った。
しらいさんは、息を止めたまま理沙さんを見た。
理沙さんは腕を組んで、少しだけ考えている。
「今のは」
その数秒が、やけに長い。
「今までで一番いい」
しらいさんは、肩から力が抜けそうになった。
けれど、理沙さんはすぐに続けた。
「ただし、本番で感情を足さないこと」
「はい」
「今の量で十分。これ以上やると、泣きの芝居になる」
「はい」
「あなたが思っているより、目元に出ている」
「そんなにですか」
「ええ。だから抑えていい。抑えても届く」
抑えても届く。
その言葉は、かなり心強かった。
しらいさんは小さく頷いた。
「分かりました」
「それから、春日さんのメッセージは本番前に一度だけ」
「はい」
「本番直前に見すぎると近くなりすぎる。見るなら、メイク後、衣装前のタイミングがいい」
「細かいですね」
「細かくしないと、あなたは揺れる」
「……はい」
「悪いことではないわ。揺れるから芝居に出る。でも、揺れすぎると仕事にならない」
理沙さんの言葉は、いつも境目を引いてくれる。
冷たいわけではない。
むしろ、揺れる自分をちゃんと見てくれているからこそ、線を引いてくれる。
「ありがとうございます」
「お礼は本番後」
「はい」
「今日の通しは、あと二回。喉を使いすぎないで」
「はい」
しらいさんは水を一口飲んだ。
喉は大丈夫。
気持ちは、少し震えている。
でも、さっきの一瞬が掴めた。
戻れる人の顔。
それが、自分の中に少しだけ残っている。
◇
夕方、悠真のスマホが震えた。
『通し稽古、終わった』
しらいさんからだった。
悠真は会社のデスクでそれを見て、すぐに返す。
『おつかれさまでした』
『どうでしたか』
既読。
少し間が空く。
『理沙さんに、今までで一番いいって言われた』
悠真は思わず画面を見つめた。
理沙さんがそこまで言うのは、かなり大きい。
『すごいです』
『本当に』
既読。
『でも、感情を足すなって』
『今の量で十分って』
『それもすごく大事ですね』
『うん』
『抑えても届くって言われた』
悠真は、その言葉を読んで少しだけ息を吐いた。
抑えても届く。
たぶん、今のしらいさんに必要な言葉だ。
全部出さなくてもいい。
全部見せなくてもいい。
でも、何も届かないわけではない。
『三崎も似たことを言っていました』
悠真は送った。
既読。
『三崎さん?』
『変にきれいにまとめずにやってほしい、と』
『作りものっぽくなると寒いけど、白瀬アカリなら合うと思う、と』
既読。
長い沈黙。
やがて、
『三崎さん、本当にちゃんと見てる』
と返ってきた。
『はい』
『その感想、怖いけどありがたい』
『持って帰ってきました』
既読。
『ありがとう』
『春日くんは?』
『俺?』
『今の話、どう思った?』
悠真は少し考えた。
会社のデスクで言うには少し重い。
でも、言える範囲でちゃんと返したかった。
『全部出さなくても、届くものはあると思いました』
『しらいさんが全部を見せなくても』
『本当に必要なところだけ、ちゃんと届くと思います』
既読。
しばらく返事が来なかった。
やってしまったかもしれない、と思ったころ。
『仕事中にそれはだめ』
いつもの返事が来た。
悠真は少し笑った。
『すみません』
『謝るところではある』
『でも、ありがとう』
『今日、部屋行きたいけど』
『喉と体力的に無理かも』
悠真はすぐに返した。
『今日は休んでください』
『理沙さん側』
『彼氏側もです』
既読。
『強い』
『でも、マグカップ写真ください』
『帰ったら送ります』
『待ってる』
その「待ってる」は、いつもより少し素直に見えた。
◇
夜、しらいさんは来なかった。
悠真は部屋に戻ると、すぐにマグカップをコースターへ置いた。
今日の写真は、いつもより少しだけ引きで撮った。
ローテーブル。
コースター。
マグカップ。
蜂蜜の瓶。
そして、何もない空間。
しらいさんが座る場所。
そこまで写した。
『今日もあります』
さらに、
『休む場所もあります』
送信。
既読は少し遅れてついた。
『見た』
『空いてる』
悠真は画面を見て、小さく笑った。
『はい』
『今日は来られないけど』
『はい』
『そこに帰る想像はできる』
『それで十分です』
既読。
『十分じゃないけど、今日は十分にする』
『えらいです』
『雑』
『本当にえらいです』
『じゃあよし』
いつものやり取り。
そのあと、少し間が空いた。
『今日、帰っておいでのメッセージ、見なかった』
悠真は少しだけ驚いた。
『稽古で?』
『うん』
『心の中で思い出しただけ』
『理沙さんに言われたから』
『でも、できた』
悠真は胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。
『支えにして、依存しなかったんですね』
既読。
『うん』
『役に変換できた、少し』
『すごいです』
『本当に』
既読。
『それ、今ほしかった』
悠真は、何度もその文を読んだ。
『言えてよかったです』
『出た』
『出ます』
少しして、しらいさんから写真が届いた。
青灰色のカードケース。
青灰色のハンカチ。
そして、稽古資料の端。
『今日はこれで帰る』
悠真は返信した。
『おかえりなさい』
既読。
『ただいま』
◇
短い通話ができたのは、寝る少し前だった。
しらいさんはかなり疲れているようだった。
それでも、声は落ち着いていた。
「もしもし」
「春日くん」
「おつかれさまです」
「春日くんも」
「今日は、来なくて正解です」
「分かってる」
「えらいです」
「また雑」
「本当に」
「じゃあよし」
電話の向こうで、彼女が小さく笑った。
「今日ね」
「はい」
「メッセージ、見なくてもできた」
「はい」
「ちょっと寂しかった」
「寂しい?」
「うん。見たかったから」
「はい」
「でも、見なくてもできたのが嬉しかった」
「はい」
「支えにするって、こういうことかなって思った」
悠真はローテーブルのマグカップを見る。
「どういうことですか」
「ずっと握ってなくても、あるって分かっていれば立てること」
その言葉に、胸の奥が静かに鳴った。
「それ、すごくいいですね」
「春日くんに言うと、また深く受け取る」
「受け取りました」
「早い」
「いい言葉だったので」
しらいさんは少し照れたように黙った。
それから、ぽつりと言う。
「本番前は、一回だけ見る」
「はい」
「でも、見たあとしまう」
「はい」
「そのあと、自分で立つ」
「はい」
「でも終わったら、帰る」
「はい」
「春日くんのところに」
悠真は、静かに息を吸った。
「帰ってきてください」
「うん」
「何度でも」
「知ってる」
彼女の声は疲れていたけれど、その「知ってる」はとても柔らかかった。
「春日くん」
「はい」
「本番、もう少し怖くなくなった」
「よかったです」
「でも怖い」
「はい」
「でも、怖いままでも行ける」
「はい」
「戻る場所があるから」
「はい」
「……言いすぎた?」
「いえ」
「春日くん、今どんな顔?」
「たぶん面倒くさい顔です」
「見なくても分かる」
「かなり?」
「かなり」
二人で少し笑った。
◇
通話を終えたあと、悠真はしばらくスマホを見ていた。
帰っておいで。
その言葉は、彼女の中で少し変わった。
見ないと立てない言葉ではなく、あると分かっていれば立てる言葉になった。
支えにする。
依存しない。
役に変換する。
その三つを、彼女は少しずつ自分のものにしている。
悠真はマグカップを棚に戻した。
コースターをいつもの位置に整える。
今日、彼女は来なかった。
でも、ちゃんと帰ってきた。
写真で。
メッセージで。
声で。
そして、見なくても支えにできたという報告で。
戻る場所は、いつも実際に足を運ぶ場所だけではないのかもしれない。
あると分かっているだけで、人は少し遠くまで行ける。
悠真は、青灰色のコースターを見ながらそう思った。




