第79話 お守りにしていい言葉と、見せてはいけない言葉
翌日の控室で、白瀬アカリはスマホを開いたまま固まっていた。
画面には、昨夜春日くんから届いた短いメッセージが残っている。
『帰っておいで』
たった七文字。
なのに、これを見るだけで胸の奥が少し緩む。
年末大型番組のドラマ企画パート。
その中で彼女が演じる場面には、これに近い言葉が出てくる。
帰っておいで。
戻ってきていい。
その場所にいていい。
昨夜、春日くんの部屋で稽古したとき、このメッセージを見た瞬間の感覚が、いちばん役に近かった。
嬉しいだけではない。
泣きたいだけでもない。
誰かに許されたような、肩から力が抜けるような、それでいて人前だから全部は崩せないような。
あの一瞬を、本番でも思い出せたらいい。
けれど同時に、怖かった。
これは仕事の資料ではない。
台本でも、演技メモでもない。
春日くんから自分へ送られた、私的な言葉だ。
それを仕事のお守りにしていいのか。
昨夜は「持っていく」と言えた。
でも、控室に来て、番組資料や進行表や衣装を前にすると、急に不安になる。
白瀬アカリの仕事場に、しらいさんの言葉を持ち込みすぎていないだろうか。
「アカリ」
ドアが開き、理沙さんが入ってきた。
しらいさんは慌ててスマホを伏せた。
その動きが不自然すぎたのだろう。
理沙さんはすぐに目を細めた。
「何を隠したの?」
「……隠してはいません」
「その答え方は隠した人のものね」
「すみません」
「謝る前に見せなさい。仕事に関係あるものなら確認するわ」
しらいさんは、少し迷った。
見せていいのか。
でも、隠すほうが違う気がした。
「春日くんからのメッセージです」
そう言って、スマホをもう一度表に向ける。
理沙さんは画面を覗き込んだ。
数秒、何も言わなかった。
それから、静かに息を吐く。
「……なるほど」
「すみません」
「まだ怒っていないわ」
「まだ」
「使い方次第ね」
理沙さんは椅子に座り、タブレットをテーブルへ置いた。
「昨日、彼の部屋で稽古したのね」
「はい」
「この言葉を見て、役の感覚が掴めた?」
「……はい」
「具体的には?」
しらいさんは、スマホを両手で持ったまま少し考えた。
「帰っていいんだって思いました」
「ええ」
「外でちゃんとしていなくても、戻ってきたときに全部説明しなくても、ただ帰ってきていいって」
「ええ」
「その感じが、今回の場面に近いと思いました」
理沙さんは黙って聞いていた。
しらいさんは続ける。
「でも、これを本番前に見るのは、私生活を仕事に持ち込みすぎでしょうか」
理沙さんはすぐに答えなかった。
代わりに、番組資料を一枚めくる。
ドラマ企画パートの簡単な構成表。
音楽番組らしい華やかな演出の中で、短い物語を挟む。
その中に、白瀬アカリが演じる女性の設定が書かれている。
人前では平気な顔をしている。
でも、帰っておいでという言葉に救われる。
理沙さんはそこを指で軽く叩いた。
「役に必要な感情を引き出すために、個人的な記憶や感覚を使うこと自体は珍しくないわ」
「はい」
「ただし、それを現場で制御できるかどうかが問題」
「制御」
「ええ。このメッセージを見て、あなたが芝居に入れるなら使えばいい。でも、泣きすぎる、春日さんのことだけを考えてしまう、カメラの前で役ではなくあなた個人として崩れるなら、使うべきではない」
言葉は厳しい。
でも、正しい。
しらいさんは小さく頷いた。
「はい」
「それと、画面を他人に見られないように」
「はい」
「本番直前、スタジオ内でスマホを握りしめるのも避けなさい。スタッフに余計な憶測をされる」
「はい」
「見るなら控室で一度だけ」
「一度だけ」
「そのあとはしまう。現場へ持っていくのは、言葉そのものではなく、あなたが受け取った感覚だけ」
しらいさんは、胸の奥で何かが少し整うのを感じた。
言葉そのものではなく、受け取った感覚だけ。
それなら、できるかもしれない。
「理沙さん」
「何?」
「お守りにしてもいいですか」
理沙さんは少しだけ目を細めた。
「お守りという言い方は、少し危ういわね」
「危うい」
「お守りに依存すると、それがないと立てなくなる」
「……はい」
「でも、支えにするのはいい」
しらいさんは顔を上げた。
「支え」
「ええ。依存ではなく、支え。ここは間違えないで」
「はい」
「あなたは白瀬アカリとして現場に立つ。春日さんの言葉は、あなたがそこへ向かうための支えの一つ。代わりに立ってもらうものではない」
「……はい」
「分かる?」
「分かります」
少しだけ、胸が痛かった。
でも、必要な痛さだった。
春日くんの言葉は、帰る場所だ。
けれど、仕事の場に立つのは自分自身。
それは間違えてはいけない。
「あと」
理沙さんが淡々と続ける。
「そのメッセージ、消す必要はないわ」
「え」
「消したら、逆に意識するでしょう」
「……します」
「なら残しておきなさい。ただし、見せない。振り回されない。支えにする」
しらいさんは、スマホを見た。
『帰っておいで』
消さなくていい。
それだけで、少し息がしやすくなった。
「ありがとうございます」
「お礼は本番後」
「はい」
「それと春日さんには?」
「はい?」
「どうせ報告するのでしょう」
「……してもいいですか」
「短くなら」
理沙さんはタブレットを開きながら言った。
「ただし、『理沙さんに許可をもらいました』ではなく、『支えにしていいと言われました』くらいにしなさい。彼もたぶん余計に責任を感じるタイプだから」
しらいさんは、少しだけ笑ってしまった。
「分かります」
「でしょうね」
「春日くん、すぐ責任感じます」
「あなたもすぐ背負うでしょう」
「……はい」
「似ているわよ」
最近、何度か言われる。
春日くんに似てきた。
前なら少し戸惑ったかもしれない。
でも今は、嫌ではない。
自分の中に、白瀬アカリ以外の誰かの言葉がある。
それは、白瀬アカリが壊れることではなく、少し呼吸しやすくなることなのだと思えるようになってきた。
◇
春日悠真がそのメッセージを受け取ったのは、昼休み直前だった。
『理沙さんに見せた』
悠真は会社のデスクで少し固まった。
何を、とは一瞬分からなかった。
次の文で理解する。
『帰っておいで、のメッセージ』
心臓が少し跳ねた。
見せた。
理沙さんに。
あの自分が送った言葉を。
悠真は、返信の指が止まった。
大丈夫だったのか。
怒られなかったのか。
仕事に持ち込みすぎだと言われなかったのか。
しばらくして、続きが来た。
『支えにしていいって』
『でも依存はだめって』
悠真は、静かに息を吐いた。
理沙さんらしい。
厳しい。
でも、ちゃんと許してくれている。
『理沙さんらしいですね』
送る。
既読。
『うん』
『一度だけ見て、あとは感覚だけ持っていく』
『そのほうがいいと思います』
既読。
『春日くん、責任感じてない?』
その問いに、悠真は少し苦笑した。
完全に見抜かれている。
『少し』
正直に送る。
『でも、しらいさんが支えにできるなら嬉しいです』
『代わりに立つわけではないので』
既読。
少し間が空く。
『理沙さんと同じこと言う』
『俺もそう思いました』
『でも、それ聞けてよかった』
悠真は画面を見つめた。
『本番前に見るなら』
『はい』
『帰っておいで、は本気です』
『仕事からでも、光の中からでも』
『帰ってきてください』
送ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
昼休み前の会社で送る文ではないかもしれない。
既読。
長い沈黙。
そして、
『仕事中にそれはだめ』
と返ってきた。
悠真は思わず笑いそうになった。
『すみません』
『謝るところではある』
『でも、ありがとう』
『本番前に見るの、一回だけにする』
『見たあと、しまう』
『はい』
『言葉は持っていく』
悠真はゆっくり返信した。
『行ってきてください』
既読。
『うん』
◇
昼休み、三崎はまたニュースを見ていた。
「春日、白瀬アカリの年末番組、けっこう話題になってるぞ」
「知ってる」
「お、今日は早い」
「公式発表くらいは見る」
「ファン仲間として成長してる」
「お前に言われると腹立つな」
三崎は唐揚げ弁当を開けながら、スマホ画面を眺めた。
「帰る場所がテーマって、特番の流れから来てるんだろうな」
「たぶん」
「白瀬アカリ、最近そういうイメージついてきたな。自然体とか、戻れる場所とか」
悠真は箸を止めた。
イメージ。
それは仕事にとっては大切なものだ。
けれど、本人にとっては時々重いものにもなる。
しらいさんが「白瀬アカリが大きくなるのが怖い」と言ったのを思い出す。
「どうした」
三崎がすぐに気づく。
「いや」
「また顔」
「顔ばっかり見るな」
「白瀬アカリ関連だと見逃せない」
「やめろ」
三崎は少し笑ったあと、意外と真面目に言った。
「でも、イメージつくのって難しいよな」
「何が」
「今は好意的でも、そればっかり求められるようになるとしんどそう」
悠真は、思わず三崎を見た。
本当に、時々鋭い。
「……そうだな」
「白瀬アカリ、戻れる場所の人、みたいな扱いになりすぎると大変そう」
「たぶん」
「でも、今のところ本人の言葉に説得力あるからいいんじゃね」
「説得力」
「うん。作られたキャラって感じじゃなかったし」
三崎は何気なく言った。
その言葉に、悠真は少しだけ救われた。
作られたキャラではない。
ちゃんと本人の言葉に見えていた。
それなら、彼女が怖がりながら入れた“少しだけ自分の言葉”は、外側から見ても不自然ではなかったのだろう。
「三崎」
「何」
「その感想、あとで覚えておいてくれ」
「何で?」
「明日また聞くかもしれない」
「変なやつ」
「面倒くさいファンだからな」
「便利だな、ほんと」
三崎は笑った。
◇
その日の夕方、しらいさんは理沙さんと演技プランの確認に入った。
場所は事務所の小さな稽古室だった。
テーブルと椅子、壁際の鏡。
控室よりも余計なものが少なく、練習には向いている。
理沙さんは資料を見ながら言った。
「昨日、春日さんの部屋で試した顔を、ここで一度見せて」
「はい」
「ただし、完全に彼の部屋へ戻らないこと」
「はい」
「役として」
「はい」
しらいさんは、稽古室の端に立った。
本番の設定を頭に置く。
年末の華やかな夜。
周囲には光と音があふれている。
たくさんの人がいて、自分はちゃんと笑っている。
でも、心のどこかが少し置いていかれている。
そのとき、メッセージが届く。
『帰っておいで』
スマホは持たない。
実際の画面も見ない。
けれど、心の中で一度だけ読む。
帰っておいで。
春日くんの声ではなく、役の中の誰かの言葉として。
でも、根っこにはあの七文字がある。
しらいさんは、ゆっくり息を吸った。
顔は外の顔。
白瀬アカリが演じる、ちゃんとしている女性の顔。
そこへ、メッセージが届く。
目元が、ほんの少しだけ揺れる。
口元は大きく崩さない。
でも、息の落ち方が変わる。
帰れる。
戻っていい。
もう少しだけ、自分に戻っていい。
その感覚だけを、短く表情に乗せる。
終わったあと、しらいさんは理沙さんを見た。
「どうでしたか」
理沙さんはしばらく黙っていた。
腕を組み、少しだけ考えている。
「悪くないわ」
しらいさんは、ほっと息を吐きかけた。
でも理沙さんが続ける。
「ただ、一回目は少し春日さんが強い」
「……分かりますか」
「分かるわ」
「やっぱり」
「あなたの目が、完全にその部屋へ帰りかけていた」
「……はい」
「本番では、それでは近すぎる。視聴者には役の“帰る場所”を感じさせればいい。あなた個人の帰る場所をそのまま見せる必要はない」
「はい」
「もう一度」
しらいさんは頷いた。
二回目。
今度は、少し距離を取る。
春日くんの言葉を直接見るのではなく、役の中の言葉に変える。
マグカップの音を鳴らしすぎない。
でも、完全には消さない。
外の顔。
メッセージ。
息が緩む。
戻れる、と知る。
表情を、ほんの少しだけ。
終わる。
理沙さんはまた少し黙った。
「今のほうがいい」
「本当ですか」
「ええ。近すぎない。でも体温はある」
しらいさんは小さく息を吐いた。
「難しいです」
「難しいわよ」
「はい」
「でも、できる範囲に入ってきた」
理沙さんは資料に丸をつけた。
「本番前に彼のメッセージを見るのは、一度だけなら許可するわ」
しらいさんは顔を上げた。
「本当に?」
「ええ。ただし、見たあと必ずスマホをしまうこと。何度も見ない。泣かない。彼本人を見に行かない」
「最後は無理です。現場にいません」
「心の中で行きすぎない、という意味よ」
「……はい」
「支えにする。依存しない。役に変換する」
「はい」
「この三つを守れるなら、使っていい」
しらいさんは深く頷いた。
「守ります」
「よろしい」
理沙さんはタブレットを閉じた。
「春日さんに報告するなら、短く」
「はい」
「それから、今日の稽古で疲れているはずだから、長電話は禁止」
「はい」
「泣く予約も今日は使わない」
「今日は使いません」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん」
理沙さんの眉がわずかに動く。
しらいさんは慌てて言い直した。
「使いません」
「よろしい」
そのやり取りが少しおかしくて、しらいさんは小さく笑った。
◇
夜、悠真の部屋にはしらいさんは来なかった。
けれど、短いメッセージが届いた。
『理沙さんに見てもらった』
『一回だけなら、本番前に見ていいって』
悠真はローテーブルの前でそれを読んだ。
青灰色のコースターの上には、しらいさんのマグカップがある。
『よかったです』
送る。
既読。
『でも一回だけ』
『はい』
『見たあと、しまう』
『はい』
『支えにする。依存しない。役に変換する』
悠真は、その三つの言葉をゆっくり読んだ。
理沙さんの言葉だろう。
『大事ですね』
『うん』
『春日くんも、責任感じすぎない』
悠真は少し笑った。
『感じています』
『やっぱり』
『でも、しらいさんが自分で立つための支えなら嬉しいです』
既読。
少し間が空く。
『今日、演技で少し使えた』
『帰っておいで』
悠真は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
『よかったです』
『でも、近すぎたって言われた』
『俺の部屋に帰りすぎたって』
その文に、悠真は思わず笑ってしまった。
『それは少し困りますね』
『うん』
『役に変換します』
『はい』
『でも、根っこには置いていく』
悠真は、マグカップを見る。
『置いてください』
『本番が終わったら、本当に帰ってきてください』
既読。
『帰る』
『知ってます』
『取られた』
悠真は声を出さずに笑った。
しらいさんから、最後に一通。
『今日はもう寝る』
『理沙さん側』
悠真はすぐに返す。
『彼氏側もです』
既読。
『強い』
『おやすみなさい』
『おやすみ、春日くん』
メッセージはそこで止まった。
悠真はスマホを置き、マグカップを一度だけ見た。
自分が送った「帰っておいで」は、彼女の仕事場に持っていかれる。
そのままではなく、支えとして。
役に変換されて。
少し怖い。
でも、嫌ではない。
この部屋の言葉が、年末の大きな光の中で、誰かの胸にほんの少し届くかもしれない。
そのとき、誰も春日悠真のことは知らない。
しらいさんのマグカップのことも知らない。
でも、それでいい。
根っこにあるものは、全部見せる必要はない。
悠真はマグカップを棚に戻し、コースターをいつもの位置に整えた。
帰っておいで。
その言葉が、本番の日まで彼女を支えるなら。
自分はここで、同じ言葉をもう一度言う準備をしていればいい。




