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第78話 帰る場所を演じるために、君はこの部屋へ戻ってきた

 番組資料の束は、想像していたより何度も白瀬アカリを部屋から遠ざけた。


 春日悠真の部屋にあるのは、いつもの青灰色のコースターと、白いマグカップと、蜂蜜入りのミルクティーだけだ。


 けれど、彼女の鞄の中には、年末大型番組の分厚い資料がある。


 それだけで、部屋に座っていても、どこか別の光が差し込んでくるようだった。


 しらいさんは、ローテーブルの前で膝を抱えるように座り、資料の一部だけを開いていた。


「ここ」


 彼女が指で示す。


 悠真は向かい側から、見ても問題ない範囲だけを覗いた。


 企画パートの説明。

 年末の夜、音楽と短いドラマを織り交ぜて、誰かにとっての“帰る場所”を描く――そんな内容らしい。


 しらいさんが担当する場面は、故郷でも家族でも恋人でもない。

 もっと曖昧で、でも大切な“戻れる場所”を持つ女性の短い芝居だった。


「セリフ、そんなに多くないんだ」


「はい」


「でも難しい?」


「難しい」


 しらいさんは資料を閉じかけて、やめた。


「短いから、余計に」


「どういうところが?」


「長い台詞なら、説明できるでしょ。気持ちを言葉にできる」


「はい」


「でも今回は、帰ってきた瞬間の顔だけで伝える場面がある」


「顔だけ」


「うん」


 彼女は少しだけ困ったように笑った。


「“戻れる人の顔”って、どんな顔だと思う?」


 悠真はすぐには答えられなかった。


 戻れる人の顔。


 言葉にすると簡単そうで、かなり難しい。


 安心した顔。

 泣きそうな顔。

 少し力が抜けた顔。

 でも、それだけではない。


 戻る前には、遠くへ行っている。

 外で何かを背負っている。

 人の目にさらされて、光の中に立って、ちゃんとして、失敗しないようにして。


 それから戻ってくる。


 だから、その顔には疲れもあるはずだ。

 でも、疲れだけではない。

 戻れた、という小さな安堵もある。


「……しらいさんが、玄関で『ただいま』って言うときの顔です」


 悠真が言うと、しらいさんは固まった。


「春日くん」


「はい」


「いきなり正解っぽいの出さないで」


「すみません」


「謝るところじゃない」


 彼女は少し顔を伏せ、耳を赤くした。


「でも、それだと私生活すぎる」


「演技に使うなら、直接そのままではなくて」


「うん」


「その感覚を、少しだけ借りる感じでしょうか」


「感覚を借りる」


「はい」


 しらいさんは、資料の上に指先を置いた。


「帰ってきた顔か」


「はい」


「春日くん、私が帰ってきたとき、そんな顔してる?」


「しています」


「どんな?」


「最初は少し警戒しています」


「警戒?」


「外の顔がまだ残っている感じです」


「……うん」


「でも、部屋に入ってマグカップを見たあたりで、少し力が抜けます」


 しらいさんは何も言わなかった。


 悠真は続ける。


「ミルクティーを飲んで、コースターにカップを置いて、ことんって音がすると」


「うん」


「たぶん、戻ってきた顔になります」


 しらいさんは、ゆっくりマグカップを見る。


 まだ中には、少しだけミルクティーが残っている。


「やってみてもいい?」


「何をですか」


「帰ってくる顔」


 そう言って、彼女は立ち上がった。


    ◇


 稽古というには、かなり奇妙だった。


 しらいさんは一度玄関のほうへ行き、部屋の外には出ず、扉の内側に立った。


「ここから?」


「本格的ですね」


「笑わないで」


「笑ってません」


「ちょっと笑ってる」


「すみません」


「だから謝らないで」


 彼女は小さく息を整えた。


 ほんの一瞬で、空気が変わった。


 さっきまでローテーブルの前でミルクティーを飲んでいたしらいさんが、少しだけ白瀬アカリになる。


 背筋が伸びる。

 目の置き方が変わる。

 顔の余分な感情が消える。


 それから、扉の前からゆっくり歩いてきた。


 外で一日仕事をしてきた人。

 人前でずっと笑い、言葉を選び、失敗しないように立ってきた人。


 そんな雰囲気が、ほんの少しだけ部屋に入ってくる。


 しらいさんはローテーブルの前で足を止めた。


 マグカップを見る。


 青灰色のコースターを見る。


 その瞬間、目元が少しだけ緩んだ。


 でも、すぐに表情を止めてしまう。


「あ、だめ」


「だめですか」


「今、演技した」


「かなり自然でしたけど」


「違う。自然にしようとした」


 彼女は悔しそうに座り込んだ。


「難しい」


「何が難しいんですか」


「戻れる場所を見て安心する顔って、作ろうとすると嘘っぽくなる」


「そうですね」


「認めるの早い」


「でも、作らなくても出る顔ですから」


 しらいさんは、じっと悠真を見る。


「じゃあ、どうしたらいいの」


「たぶん、マグカップを見る前に、外の顔をちゃんと持ってくる必要があるんだと思います」


「外の顔?」


「はい。ちゃんとしていた時間があって、それがほどけるから戻った顔になるので」


 言いながら、悠真は少しだけ恥ずかしくなった。


 演技の専門家でもないのに、偉そうに言っている。


 でも、しらいさんは真剣に聞いていた。


「外の顔を、ちゃんと持ってくる」


「はい」


「じゃあ、もう一回」


 彼女はまた立ち上がる。


 今度は、少し長めに玄関で止まった。


 目を閉じる。


 何かを思い出しているのかもしれない。


 舞台挨拶。

 テレビ特番。

 古いインタビュー。

 年末番組の光。


 その全部を背中に乗せるようにして、彼女はまた歩いてきた。


 今度の白瀬アカリは、少し疲れていた。


 完璧に笑える。

 でも、笑いすぎたあとみたいな目をしている。


 ローテーブルの前で止まる。


 マグカップを見る。


 指先が少し動いた。


 それから、彼女は息を吐いた。


 本当に小さな息だった。


 その瞬間、顔が変わった。


 強く崩れるわけではない。

 泣くわけでもない。

 笑うわけでもない。


 ただ、誰にも見せない場所へ戻った人の顔になった。


 悠真は、思わず言葉を失った。


 しらいさんは、演技を止めるように瞬きをする。


「……どう?」


「今のです」


「本当?」


「はい」


「嘘じゃなくて?」


「嘘じゃないです」


 しらいさんはローテーブルの前に座り、マグカップを両手で包んだ。


「今、ちょっと怖かった」


「どうしてですか」


「本当に戻ってきた感じがしたから」


「はい」


「それをカメラの前でやるの、怖い」


「……はい」


「でも、できる気もした」


 彼女はカップをそっとコースターに置いた。


 ことん。


「この音、ずるい」


「音が?」


「うん。演技の稽古なのに、本当に戻ってきちゃう」


 悠真は少し笑った。


「それなら、必要な稽古かもしれません」


「うん」


    ◇


 それから、何度か同じことを繰り返した。


 玄関から部屋へ戻ってくる。

 マグカップを見る。

 外の顔が少しほどける。

 ことん、という音を聞く。


 繰り返すほどに、しらいさんは演技と本当の境目を慎重に探っているようだった。


「役としてやるなら、私が戻りすぎると危ない」


「はい」


「でも戻らなさすぎると、ただ綺麗な顔になる」


「はい」


「ちょうど真ん中がいる」


「難しいですね」


「難しい」


 彼女は少しだけ息を切らしていた。


 走ったわけではない。

 でも、感情を何度も出し入れするのは体力がいるらしい。


 悠真は新しいミルクティーを作った。


「少し休みましょう」


「うん」


「蜂蜜は?」


「今日は多め」


「分かりました」


「テレビで拾われたけど、必要だから」


 自分でそう言って、彼女は少し照れたように笑った。


 ミルクティーを受け取り、コースターに置く。


 ことん。


 彼女は今度は演技ではなく、普通に肩の力を抜いた。


「やっぱり、この音がいちばん本物」


「本物ですからね」


「うん」


「でも、本番では音はないんですよね」


「たぶんない。小道具は別のものになると思う」


「では、心の中で」


「うん。心の中で鳴らす」


 彼女はカップに視線を落とした。


「春日くん」


「はい」


「私、役のためにこの部屋を使っていいのかな」


「使う?」


「この部屋の感じとか、マグカップの音とか、春日くんの『おかえりなさい』とか」


「はい」


「それを、演技に少し借りる」


 悠真は少しだけ考えた。


 それは、たぶん簡単にいいと言うことではないのかもしれない。


 この部屋は二人にとって大事な場所だ。

 それを仕事に持っていく。

 公の白瀬アカリの表現に変える。


 寂しさがまったくないと言えば嘘になる。


 でも、嫌ではなかった。


「使ってください」


 悠真は言った。


 しらいさんは、少し驚いた顔をする。


「いいの?」


「はい」


「寂しくない?」


「少しは」


「……」


「でも、しらいさんがこの部屋で戻ってきたことが、仕事の中で誰かに届くなら」


 悠真は言葉を選ぶ。


「それは、嫌じゃありません」


 しらいさんは、マグカップを持ったまま固まった。


「春日くん」


「はい」


「今日それは、かなりだめ」


「うれしいほうですか」


「うん」


「ならよかった」


「出た」


 彼女は少し笑ったが、目元は赤くなっていた。


「でも、全部は持っていかない」


「はい」


「ここは、ここに残す」


「はい」


「仕事には、少しだけ借りる」


「それでいいと思います」


 しらいさんはゆっくり頷いた。


「少しだけ借りる」


 自分に言い聞かせるように、もう一度言った。


    ◇


 休憩のあと、しらいさんは資料に書かれた短い場面の説明を、話せる範囲で説明してくれた。


 年末の夜、主人公は人混みの中を歩いている。

 華やかな音楽と照明。

 たくさんの人。

 でも、彼女の心は少しだけ置いていかれている。


 そんなとき、ふと届く小さなメッセージ。


『帰っておいで』


 その言葉で、彼女の表情が変わる。

 派手な演出ではなく、ほんの少しだけ。


 その一瞬が、しらいさんの担当する大事な芝居になるらしい。


「セリフ、ほとんどない」


「はい」


「でも、それは難しいですね」


「うん」


「帰っておいで、か」


 悠真は思わず呟いた。


 しらいさんは、少しだけこちらを見る。


「春日くんの『おかえりなさい』と似てる」


「そうですね」


「だから余計に怖い」


「はい」


「でも、分かる」


「何がですか」


「その言葉を受け取ったときの顔」


 しらいさんはスマホを手に取り、画面を伏せたまま握った。


「外にいるときに、戻っていいって言われる感じ」


「はい」


「仕事の顔のままでも、疲れてても、うまくできなくても」


「はい」


「帰っておいでって言われる感じ」


 その声は、もう少しだけ役に近かった。


 でも、しらいさんでもあった。


 彼女は一度立ち上がり、部屋の中央へ行く。


「春日くん」


「はい」


「メッセージ送って」


「今ですか」


「うん」


「何と?」


「帰っておいで、って」


 悠真は一瞬迷った。


 でも、彼女の表情は真剣だった。


 スマホを取り出し、メッセージを打つ。


『帰っておいで』


 送信。


 しらいさんのスマホが震えた。


 彼女は少し離れた場所でそれを見る。


 画面を開く。


 その瞬間。


 彼女の表情が、静かに変わった。


 嬉しい。

 泣きそう。

 安心した。

 でも、人前だから泣けない。


 その全部が、ほんの少しだけ目に出た。


 悠真は息を忘れた。


 さっきの“戻ってくる顔”より、さらに短い。

 ほんの一秒にも満たない表情。


 でも、そこに全部があった。


 しらいさんは画面を伏せ、少し震える息を吐いた。


「……今の、どう?」


 悠真は、すぐには答えられなかった。


「今のは」


「うん」


「かなり、よかったです」


「かなり」


「はい」


「春日くんの言葉が移ってる」


「しらいさんから移ったんです」


「そうだった」


 彼女は少し笑った。


 でも目元は本当に赤くなっていた。


「本番で、今の感じを使えそうですか」


「使う」


「はい」


「でも、春日くんのメッセージは本番にはない」


「はい」


「だから、心の中で思い出す」


「帰っておいで、を?」


「うん」


「俺が送ったやつを」


「はい」


 しらいさんはスマホを胸元に軽く当てた。


「これ、残しておいていい?」


「もちろんです」


「本番前に見るかも」


「いいですよ」


「見たら泣きそう」


「泣かない範囲で」


「理沙さん側」


「はい」


「でも、持っていく」


「はい」


 彼女はスマホを鞄にしまわず、しばらく手元に置いていた。


    ◇


 帰るころには、部屋の空気が少しだけいつもより濃くなっていた。


 何度も戻ってくる稽古をしたせいかもしれない。

 何度も、ただいまとおかえりの間にある顔を探したからかもしれない。


 しらいさんはマグカップを洗い、棚に戻した。


 水の音。

 カップを拭く音。

 棚に置く音。


 そして、コースターを整える。


「今日の点数は?」


 悠真が聞くと、彼女は少しだけ考えた。


「九十三点」


「高いですね」


「戻れる人の顔が少し分かったから」


「七点は?」


「本番がまだだから」


「最近、その理由が多いですね」


「本番が多すぎる」


「たしかに」


 しらいさんは少し笑った。


 玄関で靴を履く前、彼女はスマホを見せた。


 画面には、悠真が送ったメッセージが残っている。


『帰っておいで』


「これ」


「はい」


「今日の稽古で、いちばん効いた」


「そうですか」


「うん」


「本番で使ってください」


「使う」


「でも、終わったら本当に帰ってきてください」


 しらいさんは、少しだけ目を伏せた。


「帰ってくる」


「はい」


「春日くんが、帰っておいでって言うなら」


「言います」


「じゃあ、帰れる」


 その言葉は、芝居ではなかった。


 悠真は静かに頷く。


「待ってます」


「知ってる」


 彼女は少しだけ笑い、夜の道へ出ていった。


 ドアが閉まったあと、悠真はローテーブルの前に戻った。


 青灰色のコースターだけが残っている。


 今日は、彼女がこの部屋を少しだけ仕事へ持っていくことを決めた日だった。


 寂しさはある。

 でも、嫌ではない。


 この部屋で見つけた“戻れる人の顔”が、年末の大きな光の中で誰かに届くかもしれない。


 そう思うと、不思議なくらい静かな誇らしさがあった。

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