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第77話 年末の光は、思っていたよりずっと遠くまで届く

 正式に決まった、という連絡が来たのは、昼休みの少し前だった。


 春日悠真は会社のデスクで資料の数字を確認していた。

 いつも通りの午前。

 いつも通りの社内のざわめき。

 誰かがコピー機の前で紙詰まりに苦戦し、三崎が隣で小さく舌打ちしながらメールを打っている。


 そんな、何でもない時間にスマホが震えた。


 しらいさんからだった。


『決まった』


 たった四文字。


 それだけで、悠真はすぐに分かった。


 年末の大型音楽番組。

 その中のドラマ企画パート。

 白瀬アカリが出演するかもしれない、と昨夜聞いた話。


 正式に、決まったのだ。


 悠真はすぐに返信した。


『年末の番組ですか』


 既読。


『うん』


『正式決定』


『かなり大きい』


 その「かなり」は、いつもの軽い言い方ではなかった。


 画面の向こうで、彼女が少し息を詰めているのが分かるような文字だった。


『おめでとうございます』


 送る。


 既読はついたが、返事は少し遅れた。


『ありがとう』


『でも怖い』


 悠真は指を止めた。


 おめでとう。

 怖い。


 どちらも本当なのだろう。


 大きな仕事が決まった。

 それは間違いなく喜ばしいことだ。映画と特番の反響が次の仕事につながった証でもある。


 でも、その番組は今までとは規模が違う。


 年末。

 大型音楽番組。

 家族で見る人も多い。

 普段映画やドラマを追わない人まで、何となくテレビをつける時間帯。


 白瀬アカリは、そこへ行く。


 悠真は、少しだけ深く息を吸った。


『怖いままで大丈夫です』


『戻る場所があります』


 既読。


 少しして、


『今、それが必要』


 と返ってきた。


 悠真は、ローテーブルにあるはずの青灰色のコースターを思い出した。

 今は会社にいるのに、部屋の音が遠くで鳴ったような気がした。


    ◇


 昼休みになった瞬間、三崎がこちらを見た。


「春日」


「何」


「見た?」


「何を」


「白瀬アカリ、年末の大型番組出るって」


 情報が早すぎる。


 悠真は弁当の蓋を開けながら、少しだけ目を細めた。


「どこで知ったんだ」


「公式発表。ニュース出てた」


「もう出たのか」


「お前、知らなかった?」


「今見た」


「顔が知ってた側なんだよなあ」


「どういう顔だよ」


「推しの大仕事が決まって、嬉しいのに胃が痛くなってる顔」


 だいたい合っていた。


 悠真は返事をせず、お茶を飲んだ。


 三崎はスマホをこちらへ向ける。

 画面にはニュース記事の見出しが表示されていた。


『白瀬アカリ、年末大型音楽特番のドラマ企画パート出演決定』


 記事には、映画の反響、先日の特番での自然体な発言、俳優としての評価が高まっていることなどが書かれている。


 悠真は画面を見ながら、胸の奥が少しざわつくのを感じた。


 また、遠くなる。


 そう思った。


 でも同時に、嬉しかった。


 白瀬アカリの仕事が認められている。

 しらいさんが怖いままでも言葉を出した結果が、次の光につながっている。


「すごいな」


 三崎が言う。


「映画、特番、それで年末番組。完全に流れ来てるじゃん」


「そうだな」


「お前、嬉しそうなのに顔が重い」


「大きすぎるんだよ」


「ファンとして?」


「ファンとして」


「恋人みたいな顔もしてるけど」


 悠真は、箸を止めた。


 三崎は、別に深い意味で言ったわけではなさそうだった。

 ただ、からかい半分の言葉。


 でも、妙に刺さる。


「……面倒くさいファンだからな」


「便利だな、その言い訳」


「便利なんだ」


「白瀬アカリっぽい言い方するな」


「するな、って言われても」


「移ってるぞ」


 それは本当に少し困る。


 三崎は笑ったあと、少し真面目な顔になった。


「でも、年末の番組ってなると、今まで白瀬アカリ知らなかった人にも届くな」


「……そうだな」


「嬉しいけど、寂しい?」


「少し」


「でも、前より慣れた?」


 悠真は考えた。


 慣れた、というのは少し違う。


 寂しさがなくなったわけではない。

 遠さが平気になったわけでもない。


 ただ、遠くへ行く彼女を見ても、戻ってくる場所まで一緒に思い出せるようになった。


「慣れたというより」


「うん」


「遠くへ行く準備と、戻ってくる準備は両方いるんだなって思うようになった」


 三崎は少しだけ首を傾げた。


「……お前、たまに詩人みたいなこと言うよな」


「忘れてくれ」


「いや、でも分かる気はする。大仕事の前って、行く準備だけじゃなくて、帰ってきたあと潰れない準備もいるってことだろ」


 悠真は、思わず三崎を見た。


「お前、たまに鋭いな」


「たまに余計だろ」


「かなり鋭い」


「白瀬アカリ語出た」


「うるさい」


 三崎は楽しそうに笑った。


「まあ、放送されたら語ろうぜ。ファン仲間として」


「ああ」


「その前に過去作も続き観ろよ」


「宿題を増やすな」


「ファン活動は忙しいんだよ」


 何も知らない三崎が、普通のファンとして白瀬アカリを楽しみにしている。


 その軽さが、今はありがたかった。


    ◇


 午後、しらいさんから写真が届いた。


 紙コップ。

 青灰色のカードケース。

 ハンカチ。

 そして、いつもより分厚い資料の束。


 端には、番組名らしきロゴがほんの少しだけ見えていた。


『資料きた』


 悠真は、仕事の合間に返信する。


『多そうですね』


 既読。


『多い』


『出演者も多い』


『光が強い』


 光が強い。


 その表現が、妙に胸に残った。


 年末の大きな番組のスタジオ。

 たくさんの出演者。

 音楽。

 司会者。

 照明。

 視聴者。

 リアルタイムに近い緊張感。


 確かに、光が強い。


『眩しすぎたら、戻ってきてください』


 悠真は送った。


『目を閉じてもいいです』


『マグカップの音もあります』


 既読。


 少し間が空く。


『今、控室で泣きそうになった』


『泣かないでください』


『理沙さん側』


『完全に』


『でもありがとう』


 悠真は、画面を見ながら少しだけ笑った。


 しばらくして、またメッセージが来る。


『今日、部屋行きたい』


『大丈夫ですか』


『理沙さんに相談する』


 そのあとすぐ、追加。


『たぶん短時間なら許可出る』


 悠真は返信する。


『ミルクティー用意します』


『蜂蜜多め?』


『はい』


 既読。


『テレビで拾われた蜂蜜』


『気にしていますね』


『する』


『恥ずかしいけど、今日は必要』


 悠真は静かに息を吐いた。


 蜂蜜が、ただの照れポイントではなくなっている。

 世間に拾われた言葉であり、同時に彼女が戻るための小さな習慣でもある。


『用意します』


『待ってます』


 既読。


『知ってる』


    ◇


 夜、しらいさんは本当に来た。


 インターフォンが鳴り、玄関を開けると、彼女はいつもより少し大きめの鞄を肩にかけていた。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 その声には疲れがあった。

 けれど、ちゃんとここへ戻ってきた声でもあった。


 部屋に入ると、彼女はローテーブルを見た。


 マグカップ。

 青灰色のコースター。

 蜂蜜。

 ハーブティー。

 ティッシュ。

 そして、少し空けてある資料用のスペース。


「準備されてる」


「短時間でも、資料を置けるように」


「春日くん、こういうところ本当に春日くん」


「褒めてますか」


「うん」


「ならよかった」


「出た」


 彼女は少し笑い、コートを脱いで座った。


 鞄から番組資料を取り出す。


 かなり分厚い。

 表紙には番組名と企画パート名。

 出演者一覧、進行予定、台本案、注意事項。


 悠真は内容までは覗かないようにした。


「見ても大丈夫なところだけで」


「うん。詳しい中身はまだだめ」


「分かっています」


 悠真はミルクティーを作った。

 蜂蜜を少し多めに入れる。


 しらいさんは両手で受け取り、いつものようにコースターへ置いた。


 ことん。


 その音が鳴った瞬間、彼女は目を閉じた。


「今日は、この音がかなり必要だった」


「はい」


「正式決定って、嬉しいのに」


「はい」


「紙で来ると急に怖い」


「分かります」


「この資料、重い」


「物理的にも」


「気持ち的にも」


 しらいさんは資料に目を落とした。


「年末の大きい番組って、空気が違うんだって」


「はい」


「生放送に近い進行。ドラマ企画パートは事前収録もあるけど、スタジオ出演部分があるかもしれない」


「大変そうですね」


「うん。映画の舞台挨拶とも、特番とも違う」


「はい」


「たぶん、白瀬アカリを知らない人も見る」


「そうですね」


「白瀬アカリを好きな人だけじゃない。たまたまテレビをつけた人、家族で見てる人、音楽を見に来た人」


「はい」


「その中に立つ」


 彼女はミルクティーを一口飲んだ。


 甘さに少しだけ表情が緩む。


「怖い」


「はい」


「でも、嬉しい」


「はい」


「また両方」


「両方ですね」


 しらいさんは、少しだけ笑った。


 けれど目元はまだ不安げだった。


「春日くん」


「はい」


「私、白瀬アカリが大きくなるの、怖いのかもしれない」


 悠真は、静かに彼女を見た。


「はい」


「仕事が増えるのは嬉しい。見てもらえるのも嬉しい。評価されるのも嬉しい」


「はい」


「でも、白瀬アカリがどんどん大きくなると」


「はい」


「私が、追いつけなくなりそうになる」


 その言葉は、前にも似た形で聞いたことがあった。


 白瀬アカリに置いていかれそうになる。

 公の自分が大きくなって、私生活の自分が見えなくなるような怖さ。


 悠真は、マグカップを見た。


「しらいさん」


「うん」


「白瀬アカリが大きくなっても、しらいさんが小さくなるわけではないと思います」


 彼女は顔を上げた。


「そうかな」


「はい」


「でも、光が強いと、影みたいになる」


「影でも、消えていません」


「……」


「むしろ、光が強いほど、影は濃くなります」


 言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。


 詩人みたいなことを言う、と三崎に言われたばかりなのに。


 しらいさんは、少し黙っていた。


 それから、小さく笑う。


「春日くん、今のちょっと詩人」


「三崎にも言われました」


「三崎さん、分かってる」


「そこは分からなくていいんですが」


「でも、効いた」


 彼女はカップを両手で包んだ。


「白瀬アカリが大きくなっても、しらいさんが消えるわけじゃない」


「はい」


「光が強いほど、影は濃くなる」


「はい」


「それ、ちょっと怖いけど、少し安心する」


「ならよかったです」


「出た」


 いつものやり取り。


 それだけで、少し空気が柔らかくなる。


    ◇


 資料の中身を全部見ることはできなかったが、しらいさんは話せる範囲で状況を教えてくれた。


 番組の中で短いドラマ仕立ての企画があり、そこに映画の反響を受けた俳優陣が出演する。

 音楽番組らしく、歌詞や季節の記憶に絡めた演出が入る。

 白瀬アカリは、その中で「帰る場所」をテーマにした短い場面を担当する可能性があるらしい。


「帰る場所」


 悠真が繰り返すと、しらいさんは苦笑した。


「最近、そういう言葉が寄ってくる」


「特番の影響ですかね」


「たぶん。戻れる場所って言ったから」


「悪いことではないと思います」


「うん。でも、また怖い」


「はい」


「このテーマ、春日くんの部屋を思い出しすぎる」


「顔に出そうですか」


「出るかも」


「理沙さんに怒られますね」


「怒られる」


「でも、演技なら」


「うん」


「しらいさんの中にあるものを、役として使えるかもしれません」


 彼女は少しだけ目を細めた。


「使う?」


「はい。全部を出すのではなく」


「うん」


「でも、戻れる場所がある人の顔は、しらいさんには分かるはずです」


 しらいさんは黙った。


 そして、ゆっくりカップを置いた。


 ことん。


「春日くん」


「はい」


「それ、かなり仕事のヒント」


「そうですか」


「うん」


「役に立つならよかったです」


「また出た」


「出ます」


 彼女は少し笑った。


「戻れる場所がある人の顔」


「はい」


「それなら、できるかもしれない」


「はい」


「怖いけど」


「怖いままで」


「うん」


 彼女は資料をそっと閉じた。


「今日は全部読まない」


「それがいいと思います」


「理沙さんにも言われた。情報を入れすぎると、寝られなくなるからって」


「完全に理沙さん側です」


「春日くんも?」


「はい」


「じゃあ今日は閉じる」


 しらいさんは素直に資料を鞄に戻した。


 それが少し嬉しかった。


 以前なら、彼女はたぶん全部読み込もうとした。

 不安を消すために、隙のない準備をしようとした。


 でも今は、閉じることも準備の一つだと分かってきている。


    ◇


 短い滞在のつもりだったが、それでも一時間ほど経っていた。


 しらいさんはマグカップを洗い、棚に戻した。

 コースターを整える。


 その動作は、もうすっかり自然だった。


「今日の点数は?」


 悠真が聞くと、しらいさんは少し悩んだ。


「八十八点」


「理由は?」


「正式決定で怖かったけど、資料を閉じられたから」


「加点ですね」


「うん。あと、光と影の話が効いた」


「それも点数に入るんですか」


「入る」


「光栄です」


「硬い」


「すみません」


「それも春日くん」


 彼女は少し笑った。


 玄関で靴を履きながら、鞄の資料を軽く叩く。


「これ、持って帰る」


「はい」


「でも、全部は今日読まない」


「はい」


「ミルクティー飲んで寝る」


「蜂蜜は?」


「少しだけ」


「多めではなく?」


「今日は少しだけ。テレビで拾われたから」


「まだ気にしてる」


「する」


 二人で笑った。


 でもその笑いのあと、しらいさんは静かに言った。


「春日くん」


「はい」


「私、たぶんこれから何度も遠くなる」


「はい」


「そのたびに怖くなる」


「はい」


「でも、そのたびに準備したい」


「遠くへ行く準備と」


「戻ってくる準備」


 彼女が先に言った。


 悠真は頷く。


「両方しましょう」


「うん」


「俺も、見る準備と、待つ準備をします」


「見る準備?」


「ファンとして」


「待つ準備?」


「恋人として」


 しらいさんは、少しだけ目元を赤くした。


「それ、今日最後に言うのずるい」


「すみません」


「謝らないで」


「はい」


「でも、持って帰る」


「はい」


「また帰ってくる」


「おかえりって言います」


「知ってる」


 彼女はそう言って、夜の道へ出ていった。


 ドアが閉まる。


 部屋に静けさが戻る。


 ローテーブルには、青灰色のコースターだけが残っている。


 年末の光は、思っていたよりずっと遠くまで届く。

 そこに立つ白瀬アカリは、きっとまた遠い。


 でも、遠くへ行く準備と、戻ってくる準備を、二人で始めればいい。


 悠真はコースターを見つめながら、静かにそう思った。

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