第76話 君の自然な言葉が届くほど、次の光がまた怖くなる
特番の放送翌々日、白瀬アカリの名前はまた少し増えた。
春日悠真は、会社の休憩スペースでスマホを開いたまま、軽く息を止めていた。
ニュースアプリの芸能欄。
映画情報サイトの記事。
SNSのトレンドまとめ。
動画サイトの短い切り抜き。
そこに、彼女の言葉があった。
『白瀬アカリ、“戻れる場所”への思いを語る』
『多忙な日々を支える小さな習慣とは』
『白瀬アカリの自然体な言葉に反響』
『「蜂蜜は好きです」発言にファンほっこり』
最後の見出しで、悠真は思わずスマホを伏せた。
「春日」
向かいに座っていた三崎が、当然のようにこちらを見る。
「何」
「今、蜂蜜の記事見ただろ」
「見てない」
「伏せるタイミングが完全に蜂蜜だった」
「蜂蜜のタイミングって何だよ」
三崎は笑いながら、自分のスマホをこちらへ向けた。
「これだろ。白瀬アカリ、蜂蜜好き発言が話題になってるやつ」
「見せるな」
「何でだよ。かわいいだろ」
「お前、すっかり普通にファンだな」
「ファン仲間だからな」
「その言い方にも慣れてきた自分が嫌だ」
三崎は楽しそうに笑った。
けれど、記事の見出しを見ている悠真の胸には、少し複雑なものがあった。
届いた。
彼女の言葉が、届いた。
戻れる場所。
小さな習慣。
温かい飲み物。
蜂蜜。
特番で彼女が勇気を出して言った言葉が、視聴者にちゃんと届いている。
それは嬉しい。
でも、届くということは、拾われるということでもある。
言葉は記事になり、短く切り取られ、見出しになる。
誰かが褒める。
誰かが笑う。
誰かが勝手に意味をつける。
もちろん、今のところ反応は好意的だった。
自然体でいい。
親しみやすい。
言葉が温かい。
白瀬アカリの印象が変わった。
そのどれも、きっと悪いことではない。
それでも悠真は、あの蜂蜜入りのミルクティーが、ほんの少しだけ世間に触れられた気がして落ち着かなかった。
「春日」
三崎が箸を持ったまま言う。
「お前、また複雑な顔してる」
「最近、そればっかりだな」
「白瀬アカリ関連の春日は顔が忙しい」
「顔が忙しいって何だよ」
「嬉しい、誇らしい、でもちょっと寂しい、あと蜂蜜で動揺」
「最後は余計だ」
三崎は唐揚げを一つ口に入れた。
「でも、反響いいのはよかったじゃん」
「それはそうだな」
「昨日の特番、結構話題になってるぞ。映画だけじゃなくて、本人の言葉もいいって」
「……そうみたいだな」
「白瀬アカリ、今まで綺麗な女優さんって印象だったけど、今回でちょっと変わった感じする」
「変わった?」
「うん。近くなったっていうより、奥行きが出た」
悠真は、その言葉を静かに受け止めた。
近くなったのではなく、奥行きが出た。
三崎はやはり、時々妙に的確なことを言う。
「奥行きか」
「そう。遠い人なのは変わらないんだけど、ちゃんと生活してる人なんだなって感じがした」
「蜂蜜で?」
「蜂蜜もそうだけど、戻れる場所とか、小さな習慣とか。なんか、きれいごとだけじゃない感じ」
「……」
「お前が言ってた“途中から白瀬アカリを忘れる”のとは別の意味で、昨日は“白瀬アカリの中に人がいる”って感じがした」
悠真は、少しだけ目を伏せた。
白瀬アカリの中に人がいる。
しらいさんが聞いたら、たぶん困った顔をする。
それから、少しだけ泣きそうになって、でもきっと嬉しそうにする。
「三崎」
「何」
「それ、かなりいい感想だと思う」
「お、褒められた」
「調子に乗るな」
「もう乗った」
三崎は笑ったあと、ふと真面目な顔になる。
「でもさ、これからもっと仕事増えるんじゃないか。映画も特番も当たってるし」
悠真は弁当のご飯を少しだけ箸で崩した。
「そうだろうな」
「嬉しい?」
「嬉しい」
「寂しい?」
「少し」
「でも、前より平気?」
悠真は少し考えた。
「平気というより」
「うん」
「戻ってくると信じられるようになった」
三崎は一瞬だけ黙った。
しまった、と悠真は思った。
少し踏み込みすぎた言い方だったかもしれない。
けれど三崎は、からかわずに頷いた。
「いいじゃん」
「……そうか」
「推しが遠くに行っても、戻ってくる場所があるって思えるなら、だいぶ強いだろ」
「推しの話か」
「ファン仲間的には」
三崎は軽く言った。
でも、その軽さがありがたかった。
悠真は小さく息を吐いた。
「そうだな」
◇
午後、しらいさんからメッセージが届いた。
『記事、見た?』
悠真はデスクで少しだけ固まった。
見ている。
かなり見ている。
『少し見ました』
送る。
既読。
『蜂蜜、見た?』
その問いに、悠真は思わず口元を押さえた。
『見ました』
既読。
『恥ずかしい』
『かなり拾われてますね』
『言わないで』
『好意的です』
『それは嬉しい』
『でも恥ずかしい』
いつもの「両方」だ。
悠真は少し笑いながら返す。
『三崎も見ていました』
既読。
少し間。
『また三崎さん』
『蜂蜜好き発言がかわいいと言っていました』
送ってから、少し失敗したかもしれないと思った。
案の定、しばらく返事が止まる。
そして、
『春日くん』
『はい』
『それを本人に報告するの、どうなの』
『すみません』
『謝るところではある』
『すみません』
『でも、ちょっと嬉しい』
悠真は画面を見て笑った。
『両方ですね』
『うん』
『でも春日くんが変な顔してそうで怖い』
『しました』
『したんだ』
『少し』
『ほら』
しらいさんの照れた顔が目に浮かぶようだった。
続けて、彼女からメッセージが来る。
『戻れる場所の記事も見た』
悠真は表情を少し改めた。
『はい』
『怖い』
『でも、嬉しい』
『ちゃんと届いてます』
既読。
少し長い沈黙。
『届くの、怖いね』
『はい』
『届いてほしかったのに』
『はい』
『届いたら、今度は怖い』
悠真は、ゆっくり打った。
『それだけ、しらいさんの言葉だったんだと思います』
『綺麗な答えだけなら、ここまで怖くなかったのかもしれません』
既読。
『それ、理沙さんにも言われた』
『何と?』
『体温がある言葉は、届くぶん怖いって』
悠真は、理沙さんらしいなと思った。
『理沙さん、やっぱりすごいですね』
『うん』
『でも今は少し怖い』
『今日、部屋に来ますか』
送ったあと、悠真は少しだけ迷った。
映画ヒット後、特番反響後。
彼女はきっと忙しい。
無理をさせてはいけない。
すぐにもう一文を送る。
『無理のない範囲で』
既読。
少しして、返事。
『行きたい』
『でも今日は理沙さんに止められそう』
『喉ですか』
『喉と、スケジュール』
『なら今日は帰って休んでください』
『理沙さん側』
『彼氏側もです』
既読。
『強い』
『しらいさんに休んでほしいので』
『それも効く』
『ならよかったです』
『出た』
いつものやり取りに戻る。
でも最後に、彼女はこう送ってきた。
『次に行ったら、次の仕事の話をしたい』
『大きいかも』
悠真は、その一文を見て少しだけ息を止めた。
『分かりました』
『待ってます』
既読。
『知ってる』
◇
その夜、しらいさんは来なかった。
代わりに、短い通話をした。
悠真はローテーブルの前に座り、マグカップをコースターに置いていた。
しらいさんは自宅らしく、声は少し疲れていたが、落ち着いている。
「もしもし」
「春日くん」
「おつかれさまです」
「春日くんも」
「記事、かなり出てますね」
「見ないようにしてるのに、理沙さんが必要なものだけ見せてくる」
「必要なものだけ」
「うん。全部見ると疲れるから」
「それがいいと思います」
「理沙さん側」
「はい」
「でも春日くんは見た?」
「少し」
「蜂蜜」
「はい」
「忘れて」
「無理です」
「春日くん」
「印象的だったので」
「うわ」
電話の向こうで、しらいさんが小さく呻いた。
でも、その声には少し笑いが混じっていた。
「三崎さん、何て?」
「白瀬アカリの中に人がいる感じがした、と」
しらいさんは黙った。
電話越しに、息の音だけが少し聞こえる。
「……それ」
「はい」
「かなりすごい感想」
「俺もそう思いました」
「怖い」
「はい」
「でも、嬉しい」
「はい」
「外の人にも、少し見えたんだ」
「そうですね」
「でも、見えすぎてない?」
「見えすぎてはいないと思います」
「本当に?」
「はい。白瀬アカリとして届いていました」
「うん」
「でも、言葉に体温がありました」
「理沙さんと同じこと言う」
「いい言葉なので」
「うん」
しらいさんは少しだけ息を吐いた。
「私、昨日の放送を見返すの怖かった」
「見返したんですか」
「少しだけ」
「はい」
「蜂蜜のところで止めた」
「なぜ」
「恥ずかしいから」
「でも自然でした」
「春日くんはそう言う」
「三崎も生活感があっていいと」
「生活感……」
また小さく呻く。
「でも、嫌じゃないですか」
悠真が聞くと、しらいさんはしばらく考えてから言った。
「嫌じゃない」
「はい」
「前なら、生活感って言われたら嫌だったと思う」
「そうなんですか」
「白瀬アカリは、生活感が見えすぎちゃいけないと思ってたから」
「……」
「でも今は、少しならいいのかもって思う」
「はい」
「ちゃんと生活している人だから、役もできるし、言葉も出るのかもしれない」
その言葉は、とても大きかった。
白瀬アカリも生活している。
蜂蜜入りのミルクティーを飲む。
マグカップを洗う。
怖いと言う。
泣く。
そして、仕事へ行く。
「しらいさん」
「何」
「その考え方、すごくいいと思います」
「ほんと?」
「はい」
「春日くんに言われると、ちょっと安心する」
「ならよかった」
「出た」
少しだけ笑い合う。
そのあと、しらいさんの声が少し真面目になった。
「春日くん」
「はい」
「次の仕事の話、少ししていい?」
「もちろんです」
「まだ確定ではないんだけど」
「はい」
「映画の反響と特番の反響で、年末の大型音楽番組のドラマ企画パートに出るかもしれない」
悠真は一瞬、意味を理解するのに時間がかかった。
「音楽番組のドラマ企画?」
「うん。歌番組の中で、映画やドラマの俳優が出る特別コーナーがあるらしくて。生放送に近い形になるかもしれないって」
「……大きいですね」
「うん」
「かなり」
「かなり」
しらいさんの声が、少しだけ震えた。
「怖いですか」
「怖い」
「はい」
「テレビ特番より、もっと大きいかもしれない」
「はい」
「映画の宣伝だけじゃなくて、いろんな人が見る番組だから」
「はい」
「白瀬アカリが、また遠くなる」
その言葉は、彼女自身の口から出た。
悠真はマグカップを見た。
「遠くなっても」
「うん」
「戻ってきてください」
「うん」
「今度は、その仕事に向けても準備しましょう」
「……春日くん」
「はい」
「普通に言うね」
「必要だと思ったので」
「うん」
「しらいさんが遠くへ行く準備と、戻ってくる準備を、両方」
電話の向こうで、彼女が静かになった。
しばらくして、小さく言う。
「それ、かなりほしい」
「はい」
「遠くへ行く準備だけだと怖い」
「はい」
「戻ってくる準備だけだと、仕事に行けない」
「はい」
「両方」
「両方です」
彼女は、ゆっくり息を吐いた。
「本当に、両方ばっかりだね」
「そうですね」
「でも、今の私にはちょうどいい」
「俺にもです」
「うん」
◇
通話を終えたあと、悠真はしばらくマグカップを見ていた。
白瀬アカリの自然な言葉が話題になった。
蜂蜜まで記事になった。
三崎にも、白瀬アカリの中に人がいると届いた。
そして、次の大きな仕事の話が来た。
彼女はまた遠くへ行く。
さらに大きな光の中へ。
でも、もう何も持たずに行くわけではない。
戻れる場所。
小さな習慣。
温かい飲み物。
蜂蜜。
カードケース。
青灰色のハンカチ。
そして、この部屋の音。
悠真はマグカップを手に取り、もう一度だけコースターに置いた。
ことん。
その音が、静かな部屋に落ちる。
次の仕事は、きっとまた怖い。
でも、怖いままでも行ける。
戻る場所があるなら。
そのことを、彼女はもう知っている。
悠真も、少しずつ信じられるようになっていた。




