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第75話 外側から見ても、君は少し変わっていた

 翌朝、春日悠真はいつものようにマグカップを置いた。


 青灰色のコースター。

 白いマグカップ。

 昨日と同じ場所。

 昨日、テレビの中の白瀬アカリが「戻れる場所」と言ったあとに、写真を送った場所。


 悠真はカップの取っ手を少しだけ整えた。


 昨夜の放送は、まだ胸の中に残っている。


 戻れる場所。

 小さな習慣。

 温かい飲み物。

 蜂蜜。


 どれもテレビ用に整えられた言葉だった。

 でも、その奥に確かにしらいさんがいた。


 画面越しに、遠くから見ても分かった。


 いや、分かったと思いたかったのではなく、本当に見つけたのだと思う。


 悠真は写真を撮り、送る。


『今日もあります』


 少しだけ迷ってから、もう一文。


『昨日の言葉も、ちゃんとあります』


 送信。


 しばらくして既読がついた。


『見た』


『昨日の言葉、まだ怖い』


 悠真はすぐに返す。


『怖いままで大丈夫です』


『俺には届きました』


 既読。


『それ、効く』


『ならよかったです』


『出た』


『出ます』


 いつものやり取り。


 けれど今日は、そこに昨夜の放送の余韻が混じっていた。


『三崎さん、見た?』


 しらいさんから届く。


『見たはずです』


『今日、たぶん語られます』


『怖い』


『でも聞きたい』


『両方ですね』


『うん』


 少し間が空く。


『持って帰ってきて』


 悠真は、その一文を静かに読んだ。


 三崎が何を言うかは分からない。

 でも、言える範囲で聞いて、言えない部分はしらいさんに持って帰る。


 もう、それが自然な流れになりつつあった。


『持って帰ります』


 そう送って、悠真は家を出た。


    ◇


 昼休みになる前から、三崎はそわそわしていた。


 仕事中は一応黙っていた。

 けれど、ちらちらこちらを見てくる。


 悠真は気づかないふりをした。


 そして昼休み。


 休憩スペースに向かうと、三崎は弁当を置くなり言った。


「春日」


「早いな」


「何も言ってないだろ」


「顔に出てる」


「昨日の白瀬アカリ、よかった」


「やっぱりそれか」


「当たり前だろ、ファン仲間なんだから」


 三崎は今日は唐揚げ弁当だった。

 白瀬アカリを語る日は唐揚げが多い、というどうでもいい傾向に悠真は少し気づき始めていた。


「で、どうだった」


 悠真が聞くと、三崎は少し考えた。


 いつものように即答するかと思ったが、今日は違った。


「なんかさ」


「うん」


「白瀬アカリ、変わったな」


 その言葉に、悠真は箸を持つ手を止めた。


「変わった?」


「うん。いや、俺が昔から知ってるわけじゃないけど。過去作とかインタビュー見たあとだから、余計にそう思ったのかもしれない」


「どう変わったと思った?」


 三崎は弁当の蓋を開けながら、少し眉を寄せた。


「前より、言葉がちゃんと本人の中から出てる感じがした」


 悠真は黙った。


 本人の中から出ている。


 それは、昨夜悠真が見つけたものとかなり近かった。


「もちろんテレビ用の答えなんだけどさ」


 三崎は続ける。


「きれいに話してるし、ちゃんとしてる。でも、昔のインタビューみたいな“全部正解です”って感じじゃなかった」


「……」


「ちょっと迷ったあとに言ってる言葉があった。戻れる場所とか、小さな習慣とか」


 悠真は、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。


 三崎にも届いていた。


 しらいさんの言葉は、春日悠真だけに届いたわけではなかった。

 普通の視聴者として見ていた三崎にも、ちゃんと何かが届いていた。


「戻れる場所、よかったな」


 三崎が言う。


「ああ」


「あれ、ただの綺麗なフレーズじゃない気がした」


「そう見えたか」


「うん。なんか、あの人の中に本当にある言葉なんだろうなって思った」


 悠真はお茶を飲んだ。


 何も知らない三崎がそこまで言う。


 それが嬉しい。

 そして少し怖い。


 彼女が少しだけ自分の言葉を入れた結果、ちゃんと外の人にも届いている。

 それは望んでいたことだ。


 でも、届くということは、見られるということでもある。


 しらいさんが怖がっていたことが、少しだけ現実になっている。


 それでも、悪い感じはしなかった。


「あと蜂蜜」


 三崎が急に言った。


 悠真はむせそうになった。


「蜂蜜?」


「そこ、何か笑っただろ」


「笑ってない」


「いや、今ちょっと反応した」


「してない」


「白瀬アカリ、蜂蜜好きなんだな」


「そう言ってたな」


「なんかいいよな。ハーブティーとか蜂蜜とか。思ったより生活感ある」


 生活感。


 悠真は、昨夜の画面を思い出した。


 テレビの中の白瀬アカリが、「蜂蜜は好きです」と少しだけ目元を緩めた瞬間。


 あれは、白瀬アカリとして自然だった。

 でも、しらいさんだった。


「生活感があるの、いいのか」


「いいだろ。完璧な女優っぽいのに、そういう小さい習慣の話をするのがいい」


「なるほど」


「お前、何か知ってるみたいな顔するな」


「知らない」


「知らないって顔じゃない」


「面倒くさいファンだから、そう見えるだけだ」


「あ、それは納得」


「納得するな」


 三崎は笑った。


 けれど、そのあとすぐに真面目な顔へ戻る。


「でも昨日の特番で、白瀬アカリちょっと好きになった人、多いと思う」


 悠真の胸が、また少し揺れた。


「そうか」


「うん。映画で役者としてすごいってなって、特番で本人の言葉もいいなってなるやつ」


「……」


「売れるぞ、あれ」


 売れる。


 またその言葉。


 遠くなる可能性。


 けれど、今度は前ほど胸が苦しくならなかった。


 昨日の彼女は、遠くへ行きながらも、自分の言葉を持っていた。

 戻る場所を知ったまま、白瀬アカリとして話していた。


 だから、ただ遠くなるだけではない。


「嬉しい?」


 三崎が聞く。


「嬉しい」


「寂しい?」


「少し」


「でも、前より平気そうだな」


 悠真は少し驚いて三崎を見た。


「分かるのか」


「分かる。顔が、寂しいけど誇らしい寄りになってる」


「何だその細かい分類」


「春日の顔分類、だいぶ増えたからな」


「増やすな」


 三崎は笑った。


「でも、いい顔だと思うぞ」


「急に何だよ」


「いや、好きなものがちゃんと届いたときの顔って感じ」


 悠真は、少しだけ目を伏せた。


 好きなもの。


 白瀬アカリの仕事。

 しらいさんの言葉。

 自分の部屋のマグカップ。


 どれも違うようで、繋がっている。


「……そうだな」


「また素直」


「今日だけだ」


「毎回それ」


 いつものやり取りで、空気が少し軽くなる。


    ◇


 午後、悠真は仕事の合間にしらいさんへメッセージを送った。


『三崎と話しました』


 既読は少し遅れてついた。


『怖い』


『でも聞きたい』


 朝と同じだった。


『白瀬アカリ、変わったなと言っていました』


 既読。


 しばらく返事が来ない。


 悠真は少し待った。


 やがて、短く届く。


『どう変わったって?』


『昔より、言葉が本人の中から出ている感じがしたと』


 既読。


 長い沈黙。


 それから、


『三崎さん、ほんとにちゃんと見てる』


 と返ってきた。


『はい』


『少し怖いですか』


『怖い』


『でも嬉しい』


 悠真は画面を見ながら、小さく頷いた。


『戻れる場所という言葉も、ちゃんと届いていました』


『ただの綺麗なフレーズじゃない気がしたそうです』


 既読。


 今度はすぐ返事が来た。


『それ、かなり効く』


『三崎に言われたのが?』


『うん』


『春日くんに見つけてもらえるのは、もう少し慣れた』


『でも、知らない人にも届いたんだって思うと』


『怖いけど、嬉しい』


 悠真は、少しだけ考えてから打った。


『知らない人にも届いたのは、白瀬アカリの言葉だからだと思います』


『でも、そこに少しだけしらいさんがいたから、届き方が変わったのかもしれません』


 既読。


 しばらく返事がない。


 ややあって、


『春日くん』


『はい』


『仕事中にそれはだめ』


『すみません』


『謝るところじゃない』


『でも心臓に悪い』


『ではあとで』


『うん』


 少し間が空く。


『蜂蜜は?』


 悠真は、笑いそうになった。


『見つけられていました』


 既読。


『やっぱり』


『生活感があっていいと言っていました』


『生活感』


『はい』


『恥ずかしい』


『でも、いい意味です』


『分かってるけど恥ずかしい』


『三崎に、蜂蜜好きなんだなと言われました』


 既読。


『春日くん、そこで変な顔した?』


『していません』


『した』


『たぶん少し』


『ほら』


 悠真はデスクで少し笑ってしまった。


 向かいの同僚に見られそうになり、慌てて表情を戻す。


『三崎にも反応したと言われました』


『二人とも顔に出る』


『二人?』


『春日くんと私』


『たしかに』


 既読。


『今日、部屋行けるかも』


 その一文で、悠真は背筋を伸ばした。


『来てください』


『早い』


『来てほしいので』


 既読。


『それ、最近自然』


『慣れてきました』


『慣れないで』


『慣れて。でも慣れないで、ですね』


『先に言われた』


『覚えています』


『ずるい』


 いつものやり取りが戻ってきて、午後の仕事が少しだけ軽くなった。


    ◇


 夜、しらいさんは部屋に来た。


 インターフォンが鳴り、ドアを開けると、彼女は少しだけ照れくさそうな顔で立っていた。


「来た」


「おかえりなさい」


「ただいま」


 部屋に入ると、彼女はローテーブルを見た。


 マグカップ。

 コースター。

 蜂蜜。

 ハーブティー。

 喉飴。

 そして、テレビのリモコン。


「まだリモコンある」


「昨日の名残です」


「見たんだ」


「見ました」


「何回?」


「一回です」


「録画は?」


「あります」


「見返す?」


「たぶん」


「面倒くさいファン」


「はい」


 しらいさんは少し笑った。


 その顔には、緊張と照れと、少しの安心が混じっていた。


 悠真がミルクティーを作ると、彼女はいつものように両手で受け取り、コースターへ置いた。


 ことん。


 その音を聞いて、彼女は小さく息を吐いた。


「昨日、スタジオでこれ思い出した」


「はい」


「言えた」


「はい」


「テレビ、変じゃなかった?」


「変じゃありませんでした」


「白瀬アカリとして?」


「白瀬アカリとして自然でした」


「しらいさんとしては?」


「ちゃんといました」


 しらいさんは、カップを持ったまま少しだけ固まった。


「……それ、聞きたかった」


「はい」


「昨日もメッセージで聞いたけど、顔見て聞きたかった」


「ちゃんといました」


「うん」


「戻れる場所も、小さな習慣も、温かい飲み物も」


「うん」


「蜂蜜も」


「そこは言わなくていい」


「見つけました」


「見つけないでって言った」


「見つけて、とも言いました」


「う」


 しらいさんは言葉に詰まった。


 それから、諦めたように笑う。


「出てた?」


「少し」


「理沙さんにも言われた」


「でしょうね」


「変じゃなかった?」


「変じゃなかったです。むしろ、自然でした」


「三崎さんも?」


「生活感があっていいと」


「生活感……」


 彼女は恥ずかしそうにカップへ視線を落とした。


「私、テレビで生活感出したんだ」


「少しだけです」


「白瀬アカリなのに」


「白瀬アカリも生活しているので」


 しらいさんは顔を上げた。


「春日くん、今日それはずるい」


「本当のことです」


「白瀬アカリも生活してる」


「はい」


「蜂蜜入れたミルクティー飲むし」


「はい」


「マグカップ洗うし」


「はい」


「泣く予約も使うし」


「それはテレビでは言えません」


「言わない」


 二人で少し笑った。


 でも、その笑いのあと、しらいさんは静かに言った。


「三崎さんが、変わったって言ってくれたの」


「はい」


「怖かった」


「はい」


「でも、嬉しかった」


「はい」


「外から見ても、変わったんだね」


 悠真は頷いた。


「変わったと思います」


「春日くんも?」


「はい」


「どこが?」


 悠真は少し考えた。


 たくさんある。


 泣けるようになった。

 怖いと言えるようになった。

 戻れる場所があると言えるようになった。

 綺麗な答えだけではなく、自分の言葉を少し入れられるようになった。


 でも、ひとつだけ選ぶなら。


「白瀬アカリとして立っているときに、しらいさんを全部消さなくなったところです」


 しらいさんは、息を止めたように見えた。


「……それ」


「はい」


「自分では、まだよく分からない」


「はい」


「でも、昨日の放送見て、少し分かった気がする」


「どう分かりました?」


「昔だったら、戻れる場所って言葉は言わなかった」


「はい」


「小さな習慣とか、温かい飲み物とかも、たぶん言わなかった」


「はい」


「もっと、周りの皆さんのおかげで、毎日楽しく、とか言ってた」


「それも嘘ではないんですよね」


「うん。嘘じゃない」


「でも、全部ではない」


「うん」


 しらいさんはカップを両手で包んだ。


「昨日は、全部じゃない言葉を少しだけ足せた」


「はい」


「それが、変わったってことなのかな」


「そうだと思います」


 彼女は、ゆっくり息を吐いた。


「怖いけど、よかった」


「はい」


「三崎さんにも届いてよかった」


「はい」


「知らない人にも、少し届いたかな」


「届いたと思います」


「春日くんには?」


「届きすぎました」


「届きすぎた」


「はい」


 しらいさんは少し笑った。


「面倒くさいファン」


「恋人としてもです」


「それ、ずるい」


「すみません」


「謝らないで」


 彼女はもう一度、ミルクティーを飲んだ。


 少し甘い匂いがした。


    ◇


 しばらく、二人は特番の話をした。


 司会者の質問。

 共演者の反応。

 理沙さんに注意されたところ。

 編集で少し切られた話。

 緊張で言いかけてやめた言葉。


「実は、戻れる場所って言ったあと、春日くんの部屋を思い出してた」


「顔に出てました?」


「出てた?」


「少しだけ」


「やっぱり」


「でも自然でした」


「その自然が怖い」


「どうして」


「自然に出るってことは、隠しきれてないってことだから」


「でも、誰かに分かるほどではありませんでした」


「春日くんには?」


「分かりました」


「だから怖い」


「でも、見つけてと言ったので」


「言った」


「見つけました」


「うん」


 しらいさんは、困ったように笑った。


 でも、その表情は嫌そうではなかった。


「春日くんに見つけられるの、前より怖くない」


「そうですか」


「うん。怖いけど、逃げたい怖さじゃない」


「それはよかったです」


「出た」


「出ます」


「その言葉も、テレビで言いそうになった」


「危ないです」


「言わない」


「お願いします」


 いつもの言葉が、テレビの話に混ざっていく。


 それが不思議だった。


 公の白瀬アカリの言葉が、この部屋でしらいさんの言葉としてほどけていく。


 遠いところから戻ってきた言葉を、二人で受け取っているような時間だった。


    ◇


 帰る時間になり、しらいさんはマグカップを洗った。


 水の音。

 カップを拭く音。

 棚に戻す音。


 コースターを整えながら、彼女が言った。


「今日の点数」


「はい」


「百点」


「高いですね」


「三崎さんにも届いたから」


「そこなんですか」


「うん。春日くんだけじゃなくて、外にも少し届いた」


「はい」


「でも、帰ってこられた」


「はい」


「だから百点」


 悠真は静かに頷いた。


 それは、とてもいい採点理由だと思った。


 玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返る。


「春日くん」


「はい」


「私、これからもっと遠くに見える日があるかも」


「はい」


「映画とか、テレビとか、次の仕事とか」


「はい」


「でも、昨日みたいに、少しだけ自分の言葉を入れられたら」


「はい」


「戻ってこられる気がする」


「戻ってきてください」


「うん」


「何度でも」


「知ってる」


 彼女は少しだけ笑った。


「三崎さんにも、心の中でありがとうって言っておいて」


「伝えられませんからね」


「心の中で」


「分かりました」


「あと、蜂蜜の話はあまりしないで」


「努力します」


「努力?」


「ファン仲間に語られるかもしれないので」


「うわ」


「白瀬アカリの生活感がいいと言ってました」


「やめて」


 しらいさんは恥ずかしそうに顔を隠しかけて、すぐに笑った。


「でも、ちょっと嬉しい」


「でしょうね」


「言わないで」


「はい」


 彼女はドアを開ける。


「また帰ってくる」


「おかえりって言います」


「知ってる」


 ドアが閉まる。


 部屋に静けさが戻った。


 ローテーブルには、青灰色のコースターだけがある。


 外側から見ても、彼女は少し変わっていた。

 三崎のような普通の視聴者にも、その変化は届いていた。


 それが誇らしかった。

 少しだけ寂しくもあった。

 でも、何より嬉しかった。


 白瀬アカリは、遠くへ行く。

 しらいさんは、戻ってくる。


 そして、そのあいだにある言葉が、少しずつ彼女自身のものになっていく。


 悠真はコースターを見ながら、昨日のテレビの言葉を思い出した。


 戻れる場所。


 その言葉は、もう二人だけのものではない。


 でも、その根っこには確かに、この小さな部屋の音があった。

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