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第74話 テレビの中の君が、蜂蜜の話をした瞬間に見つけてしまった

 放送日の朝、春日悠真はいつもより少し早く目が覚めた。


 カーテンの隙間から差し込む光は薄い。

 外は晴れているのに、空気だけが少し湿っているような朝だった。


 今日は、白瀬アカリが出演するテレビ特番の放送日だった。


 収録はすでに終わっている。

 しらいさんからも、「言えた」「少しだけ」と聞いている。


 けれど、実際に見るのは今日が初めてだ。


 彼女がカメラの前で、どんな顔をして、どんな言葉を選んだのか。

 どこに綺麗な答えがあって、どこにしらいさん自身の声が混ざっていたのか。


 それを、今夜、テレビの前で見つける。


 悠真はローテーブルの前に座った。


 青灰色のコースター。

 しらいさんのマグカップ。

 蜂蜜。

 喉飴。

 ハーブティー。


 いつものものを、いつもの位置に置く。


 ただ、今日は少しだけ迷って、テレビのリモコンをマグカップの近くに置いた。

 それを写真に入れるかどうかで、また迷う。


 入れたら、今日が放送日だと伝わる。

 でも、あまりにも分かりやすすぎる気もする。


 結局、リモコンは少し端に寄せた。

 画面には入るか入らないかくらい。


 写真を撮る。


『今日もあります』


 いつもの一文。


 少しだけ間を置いて、もう一文。


『見つけます』


 送信。


 すぐには既読がつかなかった。


 しらいさんも今日は朝から仕事だと言っていた。

 放送時間には家で見られるかもしれないが、それまでは取材や確認があるらしい。


 悠真はスマホを置き、出勤の支度を始めた。


 いつも通りの朝。

 けれど、今夜テレビの中に彼女がいると思うだけで、何もかも少しだけ落ち着かなかった。


    ◇


 昼休み、三崎は開口一番に言った。


「春日、今日だな」


「何が」


「とぼけ方が雑」


「仕事の話かと思った」


「白瀬アカリの特番に決まってるだろ。ファン仲間だぞ、俺たち」


 もうその呼び方にも、少しだけ慣れてきてしまった。


 悠真は弁当の蓋を開けながら言う。


「録画はしたのか」


「した。リアタイもする予定」


「本気だな」


「映画がよかったからな。あと、お前の面倒くさい感想を聞いてたら、こっちも面倒くさく見たくなる」


「人のせいにするな」


「沼に落とした責任を取れ」


「取れない」


 三崎は笑いながら、コンビニのサンドイッチを開けた。


「でも、トーク番組ってちょっと怖いよな」


 その言葉に、悠真は顔を上げる。


「怖い?」


「役じゃなくて本人が出るだろ。映画の中でよかった人が、トークでちょっと違うなってなることもあるじゃん」


「……」


「まあ白瀬アカリは大丈夫そうだけど」


 悠真はお茶のボトルを持ったまま、少しだけ黙った。


 三崎の言っていることは、かなり本質に近い。


 役ではなく、本人として話す。

 それが、しらいさんの怖がっていたことだった。


 言葉が残る。

 切り取られる。

 綺麗な答えだけに逃げそうになる。


「春日?」


「いや」


「また深い穴?」


「少し」


「今日はどんな穴?」


 悠真は、少しだけ考えた。


「本人として話す白瀬アカリを見るのが、少し怖い」


 三崎は意外にも、からかわなかった。


「分かる」


「分かるのか」


「推しの素が見える系のやつって、嬉しいけど怖いだろ」


「……そういうものか」


「そういうもの。まあ、芸能人の素なんてテレビ用だけどさ。それでも、演技とは違う部分が見えるわけだし」


「そうだな」


「でも、お前は見つけるんだろ」


 悠真は箸を止めた。


「何を」


「白瀬アカリの中の、何か。お前がいつも面倒くさい顔で見つけてるやつ」


 胸の奥が、少しだけ鳴った。


 三崎は知らない。


 しらいさんという呼び名も、マグカップも、カードケースも、蜂蜜入りのミルクティーも知らない。


 それでも、「見つける」という言葉を使った。


 悠真は小さく頷いた。


「見つける」


「おう。じゃあ見つけたら感想聞かせろ」


「言える範囲でな」


「出た。言える範囲」


「大事だ」


「まあ、ファンにも言えない範囲ってあるしな」


 三崎は何気なく言った。


 その言葉に、悠真は少し救われた。


 言えない範囲がある。

 それでも、ファン仲間として話せることはある。


 全部を言えないからといって、全部が嘘になるわけではない。


    ◇


 夕方、しらいさんからメッセージが届いた。


『今日、放送』


 それだけだった。


 悠真は会社のデスクでその文字を見て、少しだけ背筋を伸ばした。


『はい』


『見ます』


 既読。


『怖い』


 短い返事。


『俺も少し怖いです』


 既読。


『春日くんが?』


『はい』


『でも、楽しみです』


『ファンとして?』


『ファンとして』


『恋人として?』


『恋人として』


 少し間が空く。


『面倒くさい顔で?』


『たぶん』


 既読。


『よし』


 その一言で、少しだけ二人の呼吸が揃った気がした。


 さらに、しらいさんから写真が届く。


 控室のテーブルではなく、今日はどこかの楽屋らしき机の上。

 紙コップ。

 カードケース。

 青灰色のハンカチ。


 そして、スマホの画面には番組の告知画像がぼんやり写っている。


『今日はこれ持ってる』


 悠真は返信した。


『俺の部屋にはマグカップがあります』


 既読。


『知ってる』


『今日はテレビの中にいるけど』


『はい』


『戻る』


 悠真は、その一文をしばらく見つめた。


『待ってます』


 送る。


 既読。


『知ってる』


 いつもの言葉。


 それだけで、今夜のテレビが少しだけ怖くなくなった。


    ◇


 放送時間の三十分前、悠真は部屋にいた。


 仕事は何とか定時で切り上げた。

 三崎に「白瀬アカリ休暇か」と言われたが、無視した。


 ローテーブルには、マグカップを置いてある。

 今日はしらいさんが来るわけではない。

 けれど、どうしても置いておきたかった。


 中身は空だ。

 ただ、コースターの上にある。


 その隣に、自分用のカップ。

 中には蜂蜜を少し入れたハーブティー。


 テレビの電源を入れる。

 番組開始まで、まだ少し時間がある。


 ニュース番組の余韻のようなCMが流れている。

 悠真はリモコンを持ったまま、何度も録画予約を確認した。


 予約済み。

 問題ない。


 スマホが震えた。


 三崎からだった。


『待機』


 続けて、テレビ画面の写真が送られてくる。

 三崎の部屋らしい。

 テーブルの上にコンビニのお菓子が置いてある。


 悠真は少し笑った。


『こっちも待機』


『見つけろよ』


『お前もちゃんと見ろ』


『任せろ、ファン仲間』


 そのやり取りのあと、しらいさんからもメッセージが来た。


『私も見る』


『理沙さんから、変な顔しないようにって言われた』


 悠真は思わず笑った。


『家で見るんですよね』


『うん』


『でも変な顔しそう』


『してください』


『だめ』


『俺もたぶんします』


『知ってる』


 少し間が空く。


『春日くん』


『はい』


『見つけて』


 悠真は、テレビの黒い画面に映る自分の顔を見た。


 少し緊張している。

 たぶん、面倒くさい顔だ。


『見つけます』


 送る。


 既読。


 返事はなかった。


 ちょうどそのとき、番組が始まった。


    ◇


 特番は、映画のダイジェスト映像から始まった。


 舞台挨拶の映像。

 観客の感想。

 映画館の行列。

 作品の名場面。


 その中に、白瀬アカリの姿が何度も映る。


 スクリーンの中の彼女。

 舞台で笑う彼女。

 インタビューに答える彼女。


 悠真は一度見たはずなのに、やはり胸が鳴った。


 遠い。


 でも、もうその遠さを少し知っている。


 番組がスタジオに切り替わる。


 司会者が明るく挨拶をし、出演者が紹介される。


 白瀬アカリが画面に映った。


 淡い色の衣装。

 落ち着いた髪。

 柔らかい笑顔。


 白瀬アカリだった。


 テレビの中の彼女は、映画館の舞台挨拶とはまた違う遠さがあった。


 カメラに向かって微笑む。

 司会者の言葉に頷く。

 共演者の話に笑う。


 普通に見れば、完璧な女優の姿だった。


 けれど悠真は、最初から探していた。


 どこにしらいさんがいるのか。


 探しすぎるのはよくない。

 彼女は白瀬アカリとして仕事をしている。


 でも、見つけてと言われた。


 だから、見つける。


 最初のトークは、映画の現場についてだった。


「現場の皆さんに本当に支えていただきました」


 綺麗な答え。

 丁寧で、白瀬アカリらしい。


 でも、表情は硬すぎない。


 少し笑うときの目元に、前より無理がない気がした。


 悠真は、ハーブティーを一口飲んだ。


 甘い。

 蜂蜜を入れすぎたかもしれない。


 そのことに少し笑ってしまう。


    ◇


 番組中盤、司会者が映画のテーマに触れた。


「今回の役は、弱さを人に見せることが苦手な女性でもありますよね。白瀬さんご自身に変化はありましたか?」


 来た。


 悠真は、自然と背筋を伸ばした。


 画面の中の白瀬アカリは、少しだけ目を伏せた。

 ほんの一瞬。


 たぶん、普通の視聴者なら気づかない。


 でも悠真には分かった。


 息を整えた。


 彼女は顔を上げて、ゆっくり話し始める。


「今回演じた役は、弱さを人に見せることが苦手な女性でした。以前の私なら、そういう弱さをどう強く見せるか、どう乗り越えたように見せるかを考えていたかもしれません」


 声は落ち着いている。


 綺麗な答えのようで、少し違う。


「でも、撮影を通して、無理に強くならなくてもいいのかもしれないと思うようになりました」


 悠真は、カップを持つ手を止めた。


 しらいさんだ。


 まだ白瀬アカリの言葉だ。

 テレビ用に整えられている。

 でも、その隙間に確かにいる。


「完璧ではないままでも、一度戻れる場所があれば、また外に出ていけることがある。そういう感覚を、この役から受け取った気がします」


 戻れる場所。


 その言葉がテレビから流れた瞬間、悠真の胸の奥に何かが静かに落ちた。


 ことん。


 音がした気がした。


 実際には鳴っていない。

 マグカップはコースターの上に置かれたままだ。


 でも、心の中で音がした。


 帰ってきた音。

 行ってくる音。


 彼女は言えた。


 テレビの中で、白瀬アカリとして。

 でも、少しだけしらいさんとして。


 司会者が「戻れる場所、素敵な言葉ですね」と返す。


 白瀬アカリは微笑んだ。


 その笑顔は少しだけ照れているように見えた。


 悠真は思わず、テレビに向かって小さく言った。


「見つけました」


    ◇


 スマホが震えた。


 三崎からだった。


『今の戻れる場所って言葉、よかったな』


 悠真は画面を見て、少しだけ笑った。


 三崎も見つけた。

 もちろん、三崎の見つけたものと悠真の見つけたものは違う。


 でも、言葉として届いたのだ。


『よかった』


 そう返す。


 すぐにまた来る。


『白瀬アカリ、前より言葉が柔らかくなった気がする』


 悠真は、少しだけ目元が熱くなった。


『そうだな』


『かなり』


 送ってから、自分で笑う。


 しらいさんの言い方が、また混ざった。


    ◇


 番組は続いた。


 共演者の話。

 撮影裏話。

 軽いゲームコーナー。

 映画にちなんだ質問。


 白瀬アカリは、ちゃんと笑っていた。


 仕事の顔。

 でも、全部を隠してはいない顔。


 そして、もう一つの質問が来た。


「白瀬さんは、今とてもお忙しいと思いますが、自分を保つためにしていることはありますか?」


 悠真は、思わず自分のカップを見た。


 蜂蜜入りのハーブティー。


 画面の中の彼女は、少しだけ考えるようにしてから答えた。


「以前は、忙しいときほど気を張って、ちゃんとしなければと思うことが多かったです。でも最近は、特別なことではなくて、小さな習慣を大事にするようになりました」


 小さな習慣。


 悠真は、ローテーブルの上のマグカップを見る。


「たとえば、温かい飲み物をゆっくり飲む時間だったり、一日の終わりに少しだけ、自分がどう感じていたかを確認する時間だったりです。忙しいと、自分の気持ちを置き去りにしてしまうことがあるので」


 言えた。


 彼女は、そこまで言えた。


 司会者が笑顔で尋ねる。


「温かい飲み物というと、決まっているんですか?」


 悠真は少し身構えた。


 しらいさんが「蜂蜜のところ、見ないで」と言っていたのはここだろう。


 画面の中の彼女は、ほんの少しだけ笑った。


「その日によって違います。紅茶のこともありますし、ハーブティーのこともあります。少し甘いものを入れると、ほっとすることが多いですね」


 司会者が言う。


「蜂蜜とか?」


 白瀬アカリは、少しだけ目元を緩めた。


「はい。蜂蜜は好きです」


 悠真は、その瞬間、完全に見つけてしまった。


 それは白瀬アカリとしての自然な笑顔だった。

 テレビに映っても違和感のない、上品で柔らかい表情だった。


 でも、知っている。


 あれは、蜂蜜多めのミルクティーを思い出した顔だ。


 春日くんの部屋で、マグカップを両手で包んでいたしらいさんの顔だ。


 悠真は思わず手で口元を覆った。


「……出てる」


 小さく呟く。


 理沙さんなら、きっと気づいた。

 でも編集で自然に見える範囲だったのだろう。


 三崎からまたメッセージが来る。


『蜂蜜好きなの、なんか意外』


 悠真は、少し笑いながら返した。


『そうか?』


『なんかコーヒー派っぽいと思ってた』


『ハーブティーも似合うだろ』


『面倒くさいファンの解釈出た』


『うるさい』


 やり取りしながらも、目はテレビから離さなかった。


 白瀬アカリは、その後も丁寧に話していた。


「大きなご褒美ではなくても、小さく戻れる時間があると、気持ちが少し整う気がします」


 戻れる時間。


 また、彼女は言った。


 悠真は、もう一度マグカップを見る。


 ここだ。


 ここが、その一つなのだ。


 そう思っていいのだろうか。


 いや、彼女は言った。


 見つけて、と。


 だから、見つける。


    ◇


 番組が終わるころには、悠真はすっかり疲れていた。


 自分が出演したわけではない。

 話したわけでもない。


 ただテレビの前に座っていただけだ。


 それなのに、映画一本を観終えたような疲れがあった。


 エンディングで出演者たちが並び、白瀬アカリが最後に軽く頭を下げる。


 その顔は、やはり遠かった。


 テレビの中の人。

 多くの人に見られる人。

 今夜、三崎も見ていた人。


 でも、その中に確かにしらいさんがいた。


 綺麗な答えの隙間に、少しだけ自分の言葉を入れる。


 彼女は、それをやった。


 番組が終わり、CMに切り替わる。


 悠真はテレビを消さなかった。

 しばらくそのまま座っていた。


 スマホが震える。


 三崎から。


『よかった。明日語るぞ』


 悠真は少し笑った。


『言える範囲でな』


『またそれ』


 続けて、


『でも今日の白瀬アカリ、かなりよかった』


 悠真は、その「かなり」を見て笑った。


 自分の言葉が三崎にも移ったのか。

 いや、元はしらいさんだ。


 少し変なつながりだった。


 そして、しらいさんからメッセージが来た。


『見た?』


 悠真は、すぐには返せなかった。


 言葉が多すぎた。


 でも、最初に言うべきことは決まっていた。


『見ました』


『見つけました』


 送信。


 既読はすぐについた。


 少し間が空く。


『どこ?』


 悠真はゆっくり打った。


『戻れる場所』


『小さな習慣』


『温かい飲み物』


『蜂蜜』


 既読。


 長い沈黙。


 そして、


『蜂蜜、見つけないでって言った』


 と返ってきた。


 悠真は笑ってしまった。


『見つかりました』


『出てました』


 既読。


『理沙さんにも言われた』


『でしょうね』


『でも、変じゃなかった?』


 悠真はテレビ画面を見る。


 もう番組は別のCMに切り替わっている。


『変じゃなかったです』


『白瀬アカリとして自然でした』


『でも、しらいさんでした』


 既読。


 少しして、


『それ聞きたかった』


 と届く。


 悠真は胸の奥が温かくなるのを感じた。


『綺麗な答えだけではありませんでした』


『ちゃんと体温がありました』


 既読。


『理沙さんみたいなこと言う』


『理沙さんの言葉、いいと思ったので』


『春日くんにも移った』


『しらいさんにも移ってます』


『うん』


 少し間が空く。


『怖かったけど』


『はい』


『言えてよかった』


 悠真は、ローテーブルのマグカップを見た。


『俺も、見られてよかったです』


『ファンとして?』


『ファンとして』


『恋人として?』


『恋人として』


『面倒くさい顔で?』


『かなり』


 既読。


『よし』


 その一言で、今日の放送がようやく終わった気がした。


    ◇


 悠真はマグカップを手に取った。


 空のまま、もう一度コースターに置く。


 ことん。


 実際に音がした。


 さっきテレビの中で聞こえた気がした音とは違う。

 でも、ちゃんと同じ場所へ戻ってくる音だった。


 写真を撮る。


『おかえりなさい用です』


 送信。


 少しして既読がついた。


『見た』


 それから、


『ただいま』


 短い返事。


 悠真は静かに笑った。


 テレビの中の白瀬アカリは遠かった。

 でも、蜂蜜のところで少しだけ近かった。

 戻れる場所という言葉で、確かにこの部屋までつながった。


 しらいさんは、綺麗な答えの隙間に自分の言葉を入れた。


 悠真は、それを見つけた。


 ファンとして。

 恋人として。

 少し面倒くさい顔で。


 それで、今日の夜は十分だった。

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