第73話 綺麗な答えの隙間から、君自身の声が聞こえた
スタジオの椅子は、見た目より少し硬かった。
白瀬アカリは、指定された席に腰を下ろしながら、そんなことを思った。
正面にはカメラ。
左右には共演者と監督。
少し離れた位置に司会者。
足元には、照明の熱がほんのり残っている。
観客はいない。
けれど、舞台挨拶より人の目が多い気がした。
スタッフ。
カメラマン。
音声。
照明。
進行。
マネージャー。
そして、収録された映像の向こうにいる、まだ見えない視聴者たち。
生放送ではない。
編集も入る。
それは分かっている。
でも、言葉は残る。
白瀬アカリの言葉として。
しらいさんは、膝の上で手を重ねた。
指先が少し冷たい。
理沙さんは、スタジオの端にいる。
視界の隅に入る位置。近すぎず、遠すぎず。
目は合わない。
でも、そこにいると分かる。
そして、もっと遠くの場所に、春日くんの部屋がある。
青灰色のコースター。
白いマグカップ。
蜂蜜入りのミルクティー。
帰ってきた音。
ことん。
心の中で、音を鳴らす。
帰ってきた音。
行ってくる音。
「それでは、収録始めます」
スタッフの声がした。
司会者が軽く場を整え、カメラが回る。
白瀬アカリの顔になる。
でも、しらいさんを消さない。
それが今日の約束だった。
◇
春日悠真は、会社のデスクでメールを確認していた。
目の前には、いつも通りの業務。
確認依頼、返信、修正、資料の数字。
けれど、頭のどこかではずっとスタジオのことを考えている。
今ごろ、控室だろうか。
それとも、もうカメラの前に座っているのだろうか。
スマホは伏せてある。
しらいさんから連絡が来ることはないだろう。収録中なのだから当然だ。
それでも、何度か見そうになって、やめる。
「春日」
三崎が隣から小声で呼んだ。
「何」
「今、完全に推しの本番待ってる顔」
「仕事中だぞ」
「だから小声」
「そういう問題じゃない」
三崎は少し笑ったあと、思ったより真面目な声で言った。
「大丈夫だろ」
「何が」
「白瀬アカリ。たぶんちゃんとやるだろ」
悠真は、キーボードの上で指を止めた。
「……そうだな」
「お前がそんな顔するってことは、かなり大事な収録なんだろうけど」
「顔に出すぎだな」
「出てる」
「気をつける」
「まあ、仕事はしろよ。ファン仲間として」
「それ最近、便利に使ってるだろ」
「便利だから」
しらいさんみたいな言い方をされて、悠真は少しだけ笑った。
三崎は知らない。
何も知らない。
でも、こういう何気ない言葉で、悠真を少し現実に戻してくれる。
悠真は画面に向き直る。
彼女は今、彼女の場所で仕事をしている。
なら、自分も自分の場所で仕事をする。
それも、待つということなのかもしれなかった。
◇
収録は、最初は穏やかに進んだ。
映画の見どころ。
撮影現場の空気。
共演者とのエピソード。
監督が感じた主演としての印象。
白瀬アカリは、きちんと答えた。
笑うところでは笑い、頷くところでは頷き、話を振られたら丁寧に言葉を返す。
綺麗な答えは、自然に出てきた。
「現場の皆さんに本当に支えていただきました」
「この役を通して、私自身もたくさん学ばせていただきました」
「観てくださる方それぞれに、何か残るものがあれば嬉しいです」
全部、本当。
嘘ではない。
けれど、どこかで自分の中の警報が小さく鳴る。
綺麗すぎる。
昔みたいに、全部を滑らかな言葉で覆ってしまいそうになる。
しらいさんは、カメラの赤いランプを見ないようにしながら、司会者の次の言葉を待った。
「白瀬さんは、今回の役を演じて、ご自身の中で変化したことはありますか?」
来た。
想定していた質問。
でも、本番で聞かれると、紙の上とは重さが違った。
一瞬だけ、綺麗な答えが喉まで上がってくる。
弱さを隠すことは悪いことではなく――
自分を守る方法でもあり――
呼吸を取り戻す場所が――
昨日までの模範解答。
悪くない。
でも、少しだけ呼吸が足りない。
しらいさんは、マイクを持つ手に力を入れすぎないようにした。
ことん。
心の中で音を鳴らす。
帰ってきた音。
行ってくる音。
「そうですね」
声は、思ったより落ち着いていた。
「今回演じた役は、弱さを人に見せることが苦手な女性でした。以前の私なら、そういう弱さをどう強く見せるか、どう乗り越えたように見せるかを考えていたかもしれません」
司会者が静かに頷く。
共演者の視線もこちらに向く。
怖い。
でも、止まらない。
「でも、撮影を通して、無理に強くならなくてもいいのかもしれないと思うようになりました」
しらいさんは、一度だけ息を整えた。
「完璧ではないままでも、一度戻れる場所があれば、また外に出ていけることがある。そういう感覚を、この役から受け取った気がします」
言えた。
言ったあと、胸の奥が少しだけ震えた。
戻れる場所。
言葉にした。
春日くんの部屋とは言っていない。
河川敷とも、マグカップとも、カードケースとも言っていない。
でも、心の中にはあった。
司会者が、少し表情を柔らかくした。
「戻れる場所、ですか。素敵な言葉ですね」
しらいさんは微笑んだ。
照れすぎないように。
でも、消さないように。
「はい。大きな場所ではなくても、誰にも見せない小さな時間でもいいと思うんです。自分が少し息をつける場所があると、頑張り方も変わるのかなと感じました」
スタジオの空気が、少しだけ変わった。
大きな変化ではない。
誰かが泣いたわけでも、沈黙が落ちたわけでもない。
でも、言葉が少しだけ深いところへ届いたような気がした。
理沙さんのほうは見ない。
見たら、顔に出る。
でも、視界の端で、理沙さんが小さく頷いたような気がした。
◇
昼休み、悠真はスマホを確認した。
当然、しらいさんからの連絡はまだない。
分かっていた。
それでも見てしまう。
三崎が向かいでカップ麺の蓋を押さえながら言った。
「来てない?」
「何が」
「白瀬アカリ情報」
「お前、何でも顔で読むな」
「今のはスマホ見たから」
「……来てない」
「収録中なら来ないだろ」
「分かってる」
「でも気になる」
「まあ」
三崎は三分待ちのカップ麺を前に、少しだけ笑った。
「放送、楽しみだな」
「そうだな」
「お前、絶対録画しろよ」
「する」
「あと、リアタイできるならしろ」
「放送時間による」
「ファン仲間としては、語りたい」
悠真は弁当の卵焼きを箸でつまみながら、少しだけ苦笑した。
「本当にファン仲間になったな」
「なった。責任取れ」
「何の責任だよ」
「沼に落とした責任」
悠真は笑った。
その軽さに、少し救われる。
しらいさんが収録で何を話しているのか、今の悠真には分からない。
けれど放送されたら、三崎も見る。
そしてきっと、感想を言う。
そのとき、自分はまた嬉しくて、誇らしくて、少しざわつくのだろう。
それでも、もう少し慣れてきた。
言えないことは、しらいさんに持って帰ればいい。
◇
収録は中盤に入り、空気が少しくだけてきた。
共演者の軽い失敗談。
撮影現場での差し入れの話。
監督の意外なこだわり。
司会者が笑いを交えながら場を回す。
白瀬アカリも笑った。
笑いすぎないように。
でも、硬くなりすぎないように。
理沙さんに言われた通り、声を張りすぎない。
話を広げすぎない。
でも、全部を閉じない。
難しい。
テレビのトークは、会話に見えて仕事だ。
自然に見えるけれど、いくつもの線がある。
踏み込めるところ、踏み込めないところ。
広げていい話、止めるべき話。
その線の上を歩きながら、自分の言葉を少しだけ置く。
司会者が次の質問へ移った。
「白瀬さんは、今とてもお忙しいと思いますが、多忙な中で自分を保つためにしていることはありますか?」
また来た。
想定質問。
でも、これも本番になると少し違う。
綺麗な答えならすぐ出る。
周囲の方に支えていただいています。
日々感謝しながら、目の前のことに向き合っています。
それは本当。
でも、それだけではない。
しらいさんは、少しだけ視線を落とし、それから顔を上げた。
「以前は、忙しいときほど気を張って、ちゃんとしなければと思うことが多かったです」
言いながら、自分でも少し驚く。
以前は。
その言葉をテレビの前で言った。
「でも最近は、特別なことではなくて、小さな習慣を大事にするようになりました」
司会者が興味を持ったように身を乗り出す。
「小さな習慣というと?」
「たとえば、温かい飲み物をゆっくり飲む時間だったり、一日の終わりに少しだけ、自分がどう感じていたかを確認する時間だったりです」
マグカップを思い出す。
ミルクティー。
蜂蜜。
コースターに置く音。
言葉の奥にあるものは、誰にも見えない。
でも、自分には見える。
「忙しいと、自分の気持ちを置き去りにしてしまうことがあるので。ほんの少し立ち止まる時間があるだけで、また次の日に向かえる気がします」
言えた。
今度は、さっきより少しだけ自然だった。
司会者が笑顔で頷く。
「その温かい飲み物というのは、決まっているんですか?」
想定外だった。
ほんの小さな質問。
でも、胸が跳ねた。
ミルクティー。
蜂蜜多め。
春日くんの部屋。
それは言えない。
しらいさんは、ほんの一瞬だけ迷った。
でも、すぐに微笑む。
「その日によって違います。紅茶のこともありますし、ハーブティーのこともあります。少し甘いものを入れると、ほっとすることが多いですね」
ギリギリ。
でも、嘘ではない。
司会者が「蜂蜜とか?」と聞く。
「はい。蜂蜜は好きです」
言った瞬間、心の中で春日くんが変な顔をした気がした。
放送を見たら、きっと気づく。
そして、少し面倒くさい顔をする。
そう思ったら、ほんの少しだけ笑ってしまった。
司会者は、それを自然な笑顔として受け取ったらしい。
「忙しい中でも、そういう時間を作るのは大切ですよね」
「はい。大きなご褒美ではなくても、小さく戻れる時間があると、気持ちが少し整う気がします」
戻れる。
また使った。
でも、不自然ではなかったはずだ。
理沙さんに怒られるだろうか。
いや、たぶん大丈夫。
そう信じて、しらいさんは次の話題へ移る空気に乗った。
◇
収録が終わったころ、外は夕方になっていた。
スタジオの照明から離れると、急に身体の力が抜ける。
しらいさんは控室に戻るなり、椅子に座った。
「おつかれさま」
理沙さんが水を差し出す。
「ありがとうございます」
「喉は?」
「……八割九分」
「使ったわね」
「はい」
「でも、悪くはない」
理沙さんはタブレットを置き、少しだけ表情を緩めた。
「言えたわね」
しらいさんは水を飲む手を止めた。
「大丈夫でしたか」
「放送を確認するまでは断言しないけれど」
「はい」
「少なくとも、綺麗な答えだけではなかった」
胸の奥が、じわっと温かくなった。
「言いすぎてませんでしたか」
「少し危ういところはあったわ」
「……はい」
「でも、止めるほどではない。むしろ、あれくらいの体温があったほうが今回の番組には合う」
理沙さんは淡々と言う。
「ただし、蜂蜜のところで少し顔が緩んだわ」
しらいさんは固まった。
「……出てましたか」
「出ていた」
「すみません」
「大きくはない。編集で自然に見える範囲よ」
「よかった」
「でも春日さんは気づくでしょうね」
言われて、顔が熱くなる。
「……気づくと思います」
「でしょうね」
理沙さんは、少しだけ呆れたように息を吐いた。
「連絡するなら、短く」
「はい」
「今日は喉を休めること」
「はい」
「でも」
理沙さんは少し間を置く。
「よくやったわ」
それは、かなり珍しい言葉だった。
しらいさんは、すぐには返事ができなかった。
喉の奥が詰まりそうになる。
「泣かない」
「……はい」
「泣くなら別の日」
「はい」
「春日さんの部屋で」
さらっと言われて、今度は別の意味で固まった。
「理沙さん」
「何?」
「普通に言いましたね」
「今さらでしょう」
理沙さんはタブレットを閉じた。
「今日は帰る準備をしなさい」
「はい」
しらいさんは鞄からスマホを取り出した。
春日くんへのメッセージ画面を開く。
何を送ればいいか迷って、結局短くした。
『終わった』
送信。
少しして既読がつく。
『おつかれさまでした』
その一文だけで、肩の力が抜けた。
『言えた』
送る。
すぐ既読。
『自分の言葉ですか』
『うん』
『少しだけ』
既読。
少し間。
『見つけるのが楽しみです』
しらいさんは、控室の椅子に座ったまま、少しだけ泣きそうになった。
でも、理沙さんが見ている。
泣かない。
『蜂蜜のところ、見ないで』
送る。
既読。
『もう気になります』
『だめ』
『放送されたら見ます』
『面倒くさいファン』
『はい』
『恋人としても見ます』
その返事で、完全に顔が熱くなった。
理沙さんが横から冷静に言う。
「顔」
「……はい」
「春日さん?」
「はい」
「でしょうね」
しらいさんはスマホを胸元に近づけ、少しだけ笑った。
『今日は帰る』
『喉休める』
送る。
『偉いです』
『雑』
『本当に偉いです』
『じゃあよし』
いつものやり取り。
それだけで、今日の収録が本当に終わった気がした。
◇
夜、悠真の部屋には、しらいさんは来なかった。
当然だった。
収録で声を使い、緊張もした。
今日は帰って休む日だ。
悠真は、ローテーブルの上にマグカップを置いた。
収録前に送ったのと同じ、いつもの場所。
でも、今日の夜は少しだけ違って見える。
彼女は今日、この部屋には来ていない。
それでも、スタジオの中でこの部屋の音を思い出した。
綺麗な答えの隙間に、少しだけしらいさんを入れた。
そのことが、まだ見ていないのに伝わってくる。
悠真は写真を撮った。
『今日もあります』
少し迷って、もう一文。
『おかえりなさい用です』
既読は少し遅れてついた。
『見た』
『今日はこれで帰る』
悠真は、その文字を読んで静かに頷いた。
来られない日でも、写真で少し戻ってくる。
それも、今の二人には大事なことだった。
『おかえりなさい』
送る。
既読。
『ただいま』
短い返事。
そのあと、もう一通。
『放送、怖いけど楽しみ』
悠真は返信した。
『俺もです』
『ファンとしても』
『恋人としても』
既読。
『面倒くさい顔で?』
『たぶん』
『よし』
その「よし」を見て、悠真は少し笑った。
マグカップを棚に戻す。
コースターは、そのまま。
放送の日、テレビの中の彼女はきっと遠い。
けれど、今日の収録で彼女はこの部屋の音を持っていった。
それなら、画面越しでも見つけられる気がした。
綺麗な答えの隙間にいる、しらいさんを。




