第72話 帰ってきた音を胸に、君はスタジオの光へ歩いていく
朝の空は、薄く曇っていた。
春日悠真はカーテンを開けてから、しばらく外を見ていた。
雨が降るほどではない。けれど、晴れているとも言い切れない。街全体が少しだけ息を潜めているような、そんな朝だった。
今日は、白瀬アカリがテレビ特番の収録へ向かう日だ。
放送はまだ先。
だから今日、悠真が彼女を画面越しに見るわけではない。
それでも、落ち着かなかった。
彼女は今日、カメラの前で話す。
映画について。
役について。
多忙な日々について。
自分を保つものについて。
そして、綺麗な答えの隙間に、少しだけしらいさん自身の言葉を入れる。
昨夜、彼女はそう言った。
悠真はローテーブルの前に座った。
青灰色のコースター。
しらいさんのマグカップ。
喉飴。
蜂蜜。
今日はその横に、何も置かなかった。
テレビ特番用に何か特別なものを足そうかとも思った。
でも、やめた。
特別な日に必要なのは、いつもの場所だと思ったからだ。
マグカップを少しだけ整える。
取っ手は右。
コースターはいつもの位置。
朝の光は少し弱いけれど、それも今日らしい。
スマホを構えて、写真を撮った。
『今日もあります』
いつもの言葉。
少し考えてから、もう一文を送る。
『行ってらっしゃい』
送信。
しばらく既読はつかなかった。
彼女はきっと、もう支度をしている。
メイク前かもしれない。
車の中かもしれない。
理沙さんとスケジュールを確認しているかもしれない。
悠真はスマホを置いて、朝食の準備をした。
パンを焼き、コーヒーではなく温かいお茶を淹れる。
自分が喉を使うわけではないのに、彼女の大事な日はなんとなくそうなる。
トーストを半分ほど食べたところで、スマホが震えた。
『見た』
続けて、
『今日もある』
さらに、
『行ってきます』
悠真は、画面を見たまま少しだけ息を吐いた。
短い文字なのに、そこに彼女の緊張がちゃんとある。
『行ってきてください』
『怖いままで大丈夫です』
既読。
少し間。
『怖い』
『でも、大丈夫じゃなくてもいい』
悠真は、その文を見て胸が熱くなった。
彼女の中に、あの夜の言葉が残っている。
泣く正式予約を使った夜。
大丈夫じゃなくてもいい、と言った夜。
その言葉を、彼女は今日の朝に持っている。
『はい』
『大丈夫じゃなくても、行けます』
『戻る場所があります』
既読。
『知ってる』
いつもの言葉。
でも今日は、それが少しだけ強かった。
◇
車の窓の外を、朝の街が流れていく。
しらいさん――白瀬アカリは、後部座席で鞄を膝に置いていた。
隣には理沙さん。
タブレットで今日の進行表を確認している。
車内には、余計な会話がない。
その静けさが、ありがたかった。
しらいさんは鞄の内ポケットに触れる。
青灰色のカードケースがある。
その横に、青灰色のハンカチ。
さらに封筒に入った想定質問の紙。
全部ある。
心の中で確認する。
マグカップの写真も見た。
今日もあります。
行ってらっしゃい。
その文字が、まだ胸の中に残っている。
「アカリ」
理沙さんがタブレットから顔を上げた。
「はい」
「喉は?」
「九割三分」
「私の評価では九割一分」
「昨日と同じですね」
「悪くないという意味よ」
「はい」
「今日は長い。声を張りすぎないこと。笑いすぎないこと。共演者の話に乗るのはいいけれど、自分から話を広げすぎないこと」
「はい」
「それから」
理沙さんは少しだけ間を置いた。
「想定外の質問が来ても、すぐに綺麗な答えへ逃げない」
しらいさんは、膝の上の鞄を少しだけ握った。
「……はい」
「ただし、言いすぎない」
「はい」
「自分の言葉を入れることと、感情のまま話すことは違う」
「分かっています」
「分かっているならいいわ」
理沙さんは再びタブレットへ視線を落とした。
数秒後、淡々と続ける。
「春日さんから写真は来た?」
「来ました」
「見た?」
「はい」
「顔が少し戻ったわね」
しらいさんは、思わず理沙さんを見る。
「そんなに出ますか」
「出るわ」
「本番では」
「出しすぎないこと」
「はい」
「でも、完全に消さなくてもいい」
その言葉に、しらいさんは少し驚いた。
理沙さんはタブレットを見たまま言う。
「最近のあなたは、完全に消そうとすると逆に硬くなる」
「……はい」
「だから、持っているものは持っていなさい。ただし、カメラの前に置きすぎない」
「はい」
「カードケースも、ハンカチも、春日さんの言葉も」
しらいさんは、喉の奥が少し詰まるのを感じた。
「……理沙さん」
「何?」
「春日くんの名前、普通に出すようになりましたね」
「あなたが普通に持ち込むからでしょう」
「すみません」
「謝るところではないわ」
理沙さんは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「ただ、今日のスタジオに持ち込むのは心の中だけ。いいわね」
「はい」
しらいさんは小さく頷く。
心の中だけ。
でも、ちゃんと持っていく。
車が大きな通りへ出る。
テレビ局の建物が、遠くに見えてきた。
胸がまた、少し強く鳴った。
◇
悠真は会社のデスクに座っていた。
いつものパソコン。
いつものメール。
いつもの業務連絡。
けれど、気持ちは少しだけ落ち着かない。
収録は昼過ぎから始まると聞いている。
生放送ではない。
今日この瞬間に、全国へ流れるわけではない。
それでも、彼女は今、カメラの前へ向かっている。
自分の仕事をしながら、そのことを意識しないわけにはいかなかった。
「春日」
三崎が隣から声をかけてきた。
「何」
「今日、白瀬アカリの特番収録日じゃなかった?」
悠真はキーボードを打つ手を止めた。
「何で知ってるんだ」
「ファン仲間だから」
「お前、本当に情報が早いな」
「予告記事に書いてた」
「仕事しろ」
「してる。今はちょっと息抜き」
三崎は椅子の背にもたれ、少しだけ画面を覗くような顔をした。
「お前、今日そわそわしてる」
「してない」
「してる。推しが大仕事の日の顔」
「顔診断が雑だな」
「当たってるだろ」
悠真は、否定しきれずに息を吐いた。
「まあ、少し」
「やっぱり」
「放送はまだだけどな」
「でも収録って、本人は今日やるわけだろ」
「……そうだな」
「そりゃ気になるよな」
三崎は珍しく茶化しきらなかった。
その普通の共感が、少しありがたい。
「白瀬アカリ、トークだとどんな感じなんだろうな」
「さあ」
「映画の舞台挨拶はちゃんとしてる感じだったんだろ?」
「ちゃんとしてた」
「でも最近のインタビュー読むと、ちょっと言葉が変わってきてる気がする」
悠真は、思わず三崎を見た。
「読んでるんだな」
「読むだろ。ファン仲間だから」
「もう普通にファンだな」
「そうかも」
三崎は軽く笑った。
「でもさ、白瀬アカリって、今後もっと売れるんじゃね」
その言葉は、何気ないものだった。
なのに、悠真の胸の奥が小さく揺れた。
もっと売れる。
もっと多くの人に見られる。
もっと遠くなる。
もっと白瀬アカリとして求められる。
そしてきっと、もっとたくさんの場所で言葉を求められる。
「……そうだな」
「嬉しい?」
「嬉しい」
「寂しい?」
「少し」
「出た」
「何が」
「いつもの両方」
三崎は笑った。
「でも、それでいいんじゃね」
「軽いな」
「重くしても仕方ないだろ。推しが売れたら嬉しい。でも遠くなるのは寂しい。普通じゃん」
普通。
三崎は簡単に言う。
でも、その簡単さが今日も少し助けになった。
「そうだな」
「おう。だから、お前は今日ちゃんと仕事しろ」
「急に現実」
「白瀬アカリも仕事してるんだから、ファン仲間も仕事しろ」
「妙に正しい」
「だろ」
三崎は満足そうに自分の席へ戻った。
悠真はもう一度パソコン画面を見る。
そうだ。
彼女は今日、白瀬アカリとして仕事へ行っている。
なら、自分も自分の日常で仕事をする。
それもたぶん、戻る場所を守ることの一つなのだ。
◇
テレビ局の控室は、映画館の控室とは違う空気がした。
白い壁。
大きな鏡。
いくつかの椅子。
テーブルの上には、番組名の入った進行表と紙コップ。
しらいさんは椅子に座り、メイクが始まる前に鞄からカードケースを取り出した。
青灰色。
その色を見るだけで、少し呼吸が戻る。
理沙さんはスタッフと打ち合わせをしている。
控室の外からは、誰かが廊下を歩く音や、機材を運ぶ音が聞こえる。
テレビ局の音だ。
映画館の舞台袖とも、春日くんの部屋とも違う。
しらいさんはカードケースから、少しだけカードを引き出した。
全部は読まない。
読んだら、朝から危ない。
でも、最初の一行だけ見る。
待ってます。
それだけで十分だった。
声がある日も、ない日も。
戻りたい日に、戻ってきてください。
そこまでは、心の中で読む。
目を閉じる。
ことん。
マグカップの音を思い出す。
帰ってきた音。
行ってくる音。
目を開けると、鏡の中にメイク前の自分がいた。
まだ白瀬アカリになりきる前の顔。
しらいさんが少し残っている顔。
今日は、その顔を完全に消さなくてもいい。
理沙さんが戻ってきた。
「そろそろメイク」
「はい」
「カードはしまって」
「はい」
しらいさんはカードをケースに戻し、鞄の内ポケットへ入れた。
「ハンカチは?」
「ここです」
「よろしい。泣くためではなく、落ち着くために持つこと」
「はい」
「泣きそうなの?」
「今は大丈夫です」
「今は、ね」
「……はい」
理沙さんは、少しだけ表情を緩めた。
「本番中は、泣く必要はないわ」
「はい」
「泣ける場所は別にあるのでしょう」
しらいさんは一瞬だけ言葉に詰まった。
それから、小さく頷く。
「あります」
「なら、今日は話すことに集中しなさい」
「はい」
メイクスタッフが入ってくる。
鏡の前に座る。
髪が整えられ、肌が整えられ、表情が少しずつ仕事の顔に近づいていく。
でも、今日は前とは少し違った。
白瀬アカリになっていく自分を、しらいさんが奥から見ている。
消えるのではなく、一緒にいる。
それが、少しだけ分かった。
◇
昼過ぎ、悠真のスマホが震えた。
仕事中だったので、すぐには見られなかった。
会議の資料を確認し、上司へ返答し、一区切りついたところで画面を開く。
しらいさんからだった。
写真はない。
短い文だけ。
『控室入った』
『カード見た』
『音も思い出した』
悠真は、その三行を何度も読んだ。
スタジオにいる彼女。
控室でカードを見て、マグカップの音を思い出している彼女。
遠い場所にいるのに、この部屋の音を持っている。
『見ています』
悠真は打ちかけて、少し違うと思い、消した。
まだ放送ではない。
自分は直接見ていない。
でも、心では見守っている。
結局、こう送った。
『行ってきてください』
『綺麗な答えの隙間に、少しだけしらいさんを』
既読はすぐについた。
返事は少し遅れて来た。
『見つけて』
悠真は、静かに息を吐いた。
『見つけます』
送る。
既読。
それ以上の返事はなかった。
たぶん、もう本番前の準備に戻ったのだろう。
◇
スタジオ前の廊下は、思ったより明るかった。
照明のせいなのか、壁の白さのせいなのか。
どこを見ても、少しだけ現実感が薄い。
しらいさんは衣装に着替え、髪もメイクも整えられていた。
鏡の中にいたのは、もう白瀬アカリだった。
共演者や監督に挨拶をする。
スタッフが進行を説明する。
マイクをつけられる。
立ち位置、座り位置、カメラの向き。
言葉が次々に飛んでくる。
その中で、しらいさんは何度か小さく息を整えた。
怖い。
やっぱり怖い。
テレビの中で話す言葉は、残る。
切り取られる。
誰かに褒められ、誰かに誤解されるかもしれない。
綺麗な答えに逃げたくなる。
でも、逃げるというほど悪いものでもない。
綺麗な答えは、仕事を守るための言葉でもある。
問題は、その中に少しだけ自分の呼吸を残せるか。
ことん。
心の中で、マグカップの音を鳴らす。
帰ってきた音。
行ってくる音。
「アカリ」
理沙さんが声をかける。
「はい」
「顔」
「硬いですか」
「少し」
「……はい」
「持っているものを思い出しすぎない」
「はい」
「でも、忘れなくていい」
理沙さんは、ほんの少しだけ声を低くした。
「白瀬アカリとして座りなさい。しらいさんを消す必要はない」
その言葉が、思ったより深く入ってきた。
白瀬アカリとして座る。
しらいさんを消さない。
できるかは分からない。
でも、やってみたいと思った。
「はい」
しらいさんは頷いた。
スタジオの扉が開く。
中から、明るい光と人の声が漏れてくる。
出演者が順番に案内されていく。
自分の番が来る。
「白瀬さん、お願いします」
スタッフの声。
しらいさんは一度だけ、鞄のある控室の方向を思った。
そこにカードケースがある。
ハンカチがある。
そして、もっと遠くの部屋には、マグカップがある。
春日くんがいる。
でも今は、持っていくのは心の中だけ。
しらいさんは、背筋を伸ばした。
白瀬アカリとして、スタジオの光へ歩き出す。
怖いままでいい。
戻る場所はある。
綺麗な答えの隙間に、少しだけ自分の言葉を。
そう心の中で繰り返しながら、彼女はカメラの前の席へ向かった。




