表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
70/173

第71話 その答えには、綺麗さより少しだけ体温があった

 収録前日の控室は、まだ本番の空気にはなっていなかった。


 白瀬アカリ――しらいさんは、テーブルの上に想定質問の紙を並べていた。


 紙コップ。

 水のペットボトル。

 喉飴。

 青灰色のカードケース。

 青灰色のハンカチ。


 その横に、昨夜春日くんの部屋で書き直した答えのメモがある。


 何度読み返しても、少しだけ胸が落ち着かない。


 綺麗な答えだけではない。

 でも、言いすぎてもいない。


 たぶん、そのはずだ。


 それでも、テレビの収録で言葉にすると思うと、急に怖くなる。


 映画の舞台挨拶とは違う。

 トーク番組は、白瀬アカリ本人として話す場所だ。


 役の陰に隠れられない。

 映画の説明だけでも足りない。

 でも、私生活を見せすぎるわけにもいかない。


 どこまでが白瀬アカリの言葉で、どこからがしらいさんの言葉なのか。


 その境目は、思ったより曖昧だった。


「アカリ」


 控室のドアが開き、相沢理沙が入ってきた。


 今日も無駄のない動きだった。

 片手にはタブレット。もう片方には、番組側から送られてきた最終進行表。


「喉は?」


「九割三分です」


「私の評価では九割一分」


「細かくなってきましたね」


「あなたが細かく言うからよ」


 理沙は椅子に座り、タブレットを置いた。

 それから、テーブルの上に並んだメモに目を向ける。


「それが昨日作った答え?」


「……はい」


「春日さんと?」


「はい」


 答えると、理沙は一瞬だけこちらを見た。


 責める目ではない。

 ただ、確認する目だった。


「見せて」


 しらいさんは、少しだけ指先に力を入れた。


 見せる。

 それだけなのに、妙に緊張する。


 昨日、春日くんの部屋では言えた。

 ミルクティーの湯気と、マグカップの音と、青灰色のコースターがあったから。


 でも、理沙さんの前で見ると、急に仕事の言葉になる。


「……これです」


 メモを渡す。


 理沙は黙って読み始めた。


 表情は変わらない。

 いつもの仕事の顔。


 しらいさんは紙コップに手を伸ばしかけ、やめた。

 飲みすぎると本番前に困る。

 代わりに、カードケースの端に指先で触れた。


 春日くんのカードが入っている。


 待ってます。

 声がある日も、ない日も。

 戻りたい日に、戻ってきてください。


 今日はその言葉が、少しだけ違う意味で効いていた。


 収録の前にも、戻れる場所がある。

 そう思えるだけで、息が少し通る。


 理沙が一枚目を読み終えた。


「……悪くないわね」


 しらいさんは、思わず顔を上げた。


「本当ですか」


「ええ。少なくとも、以前あなたが出してきた模範解答よりはいい」


「模範解答」


「そう。綺麗で、破綻がなくて、誰にも引っかからない答え」


「それは、だめですか」


「だめではないわ。番組によっては必要よ」


 理沙は紙を置いた。


「でも今回の特番は、映画の反響を受けて組まれたもの。作品の深い部分に触れる質問も来る。そこで全部を綺麗な言葉にすると、かえって薄く見える」


「……はい」


「この答えには、少しだけ体温がある」


 体温。


 その言葉に、胸が少し鳴った。


「春日くんにも、似たようなことを言われました」


「でしょうね」


「分かるんですか」


「分かるわ」


 理沙は淡々と答える。


「彼は、あなたの綺麗な答えだけを求めるタイプではないでしょう」


「……はい」


「ただし」


 理沙の声が少しだけ低くなった。


「体温を入れることと、私生活を匂わせすぎることは違う」


「はい」


「“戻れる場所”という表現はいい。でも、それが具体的にどこかを想像させすぎないこと。温かい飲み物、小さな習慣、一日の終わりに自分を確認する時間。このあたりは問題ない」


「はい」


「“誰か”という言葉は、使い方に注意して」


 しらいさんは、思わずメモを見る。


「誰か」


「ええ。『誰かの言葉に助けられる』程度なら自然。でも『待っていてくれる人がいる』まで言うと、切り取られる可能性がある」


「……そうですね」


「あなたは今、春日さんの存在を心の中に持っている。それは構わない。でも、テレビの前にそのまま置いてはいけない」


 理沙の言葉は厳しい。


 でも、否定ではなかった。


 心の中に持っていることは、構わない。

 その一言が、思ったより大きかった。


「理沙さん」


「何?」


「春日くんのこと、邪魔だとは思っていませんか」


 聞いたあとで、少し怖くなった。


 でも、聞きたかった。


 理沙はすぐには答えなかった。


 タブレットの画面を一度閉じ、しらいさんをまっすぐ見る。


「仕事の邪魔になるなら、止めるわ」


「はい」


「でも今のところ、あなたが仕事に戻るための場所の一つになっている」


「……」


「なら、邪魔とは言わない」


 しらいさんは、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


 理沙さんにとっては、かなり大きな許可だった。


「ありがとうございます」


「だから、お礼は本番が終わってからでいいと言っているでしょう」


「すみません」


「謝るところでもないわ」


 理沙が少しだけ息を吐いた。


「そのあたり、春日さんと似てきたわね」


「え」


「すぐ謝る。すぐお礼を言う」


「……似ていますか」


「似ているわ」


 しらいさんは、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。


「嫌ですか」


「悪いとは言っていない」


 理沙はまたメモに目を落とす。


「それに、あなたが誰かに似てくるのは、昔より悪いことではないと思うわ」


「昔?」


「昔のあなたは、白瀬アカリ以外に似ないようにしていたから」


 その一言で、しらいさんは黙った。


 白瀬アカリ以外に似ないようにしていた。


 そうかもしれない。


 前向きな白瀬アカリ。

 丁寧な白瀬アカリ。

 弱音を吐かない白瀬アカリ。

 いつもちゃんとしている白瀬アカリ。


 その形を崩さないように、ずっと自分を合わせていた。


 今は違う。


 春日くんの「ならよかった」が移った。

 理沙さんの「無理をしないこと」も移った。

 三崎さんの話を聞いて、少しだけ笑ったりする。


 いろいろな人の言葉が、自分の中に入っている。


 それは、白瀬アカリが薄まることではないのかもしれない。


「理沙さん」


「何?」


「私、少し変わりましたか」


「変わったわ」


 即答だった。


「いい方向に?」


「それは本番を見てから判断する」


「厳しい」


「今は甘やかす時間ではないもの」


 理沙はそう言って、メモの二枚目に目を通した。


「でも」


「はい」


「前より、呼吸はしている」


 しらいさんは、思わず目を伏せた。


 昨日、春日くんにも似たことを言われた。


 言葉が呼吸している。


 その感覚が、理沙さんにも少し伝わったのなら。


 きっと、昨日の練習は無駄ではなかった。


    ◇


 確認は細かく進んだ。


 理沙は、ひとつひとつの答えに線を引き、言い換え案を書き込んでいく。


「ここ、『弱いままでも』は少し強いわね。テレビでは『完璧ではないままでも』くらいにしましょう」


「はい」


「『戻れる場所』は残していい。ただし、繰り返しすぎないこと。印象的な言葉は一回で十分」


「はい」


「『温かい飲み物』は自然。使っていいわ」


「はい」


「でも、マグカップの話はしないこと」


「しません」


「顔に出さないこと」


「……気をつけます」


「出る自覚はあるのね」


「あります」


 理沙は少しだけ眉を上げた。


「そこも変わったわね」


「前は?」


「自覚がないまま出ていた」


「それは悪いですね」


「今も出るけれど、自覚がある分まだまし」


「まだまし」


「褒めているのよ」


「分かりにくいです」


「よく言われるわ」


 その言い方があまりに理沙さんらしくて、しらいさんは少し笑った。


 緊張はまだある。

 でも、笑えるくらいには息ができている。


 何枚か確認したあと、理沙は最後の質問想定に目を止めた。


『今、白瀬アカリさんにとって支えになっているものは何ですか?』


 しらいさんは、その質問を見るだけで喉が少し詰まる気がした。


「これ、来る可能性ありますか」


「高いわ」


「……ですよね」


「映画の内容とあなた自身の変化を絡めたいはずだから」


「どう答えればいいでしょう」


「あなたはどう答えたいの?」


 理沙が聞き返す。


 しらいさんは、すぐには答えられなかった。


 支えになっているもの。


 春日くんの部屋。

 マグカップ。

 コースターの音。

 河川敷。

 カードケース。

 理沙さん。

 仕事の現場。

 ファンの言葉。

 映画を観た春日くんの感想。

 三崎さんのように、作品をちゃんと見てくれる人。


 たくさんある。


 でも、全部は言えない。


「……小さな習慣と、周りの人の言葉」


「悪くないわ」


「あと、戻れる場所」


「それは一回だけなら使っていい」


「はい」


「ただし、“特定の誰か”に聞こえないように」


「難しいです」


「難しいわね」


 理沙は、珍しく少し柔らかい声で言った。


「でも、難しいところをやるのが今のあなたの仕事よ」


 その言葉に、しらいさんは少しだけ背筋を伸ばした。


 そうだ。


 白瀬アカリとして、ただ綺麗な言葉を言うだけではない。

 かといって、すべてをさらけ出すわけでもない。


 自分の言葉を少しだけ入れる。


 その加減を、仕事としてやる。


「一度、答えてみます」


「ええ」


 しらいさんは紙を見ずに、少しだけ目を閉じた。


 ことん。


 昨夜の部屋の音を思い出す。


 マグカップがコースターに触れる音。

 帰ってきた音。

 そして、行ってくる音。


 目を開ける。


「今、支えになっているものは、特別な大きなものというより、小さな習慣や、周りの方からいただく何気ない言葉です。忙しいと、つい自分を整えることを後回しにしてしまうのですが、一日の終わりに温かいものを飲んだり、今日の自分はどうだったかなと少しだけ立ち止まったりする時間が、最近はとても大事になっています」


 言いながら、春日くんの部屋を思い出した。


 でも、そこだけに寄りかからないようにした。


「仕事では遠くへ行くような感覚になることもありますが、自分が戻れる場所や言葉があると思えると、また前に出ていける気がします」


 言い終えたあと、胸が少し鳴っていた。


 言いすぎただろうか。


 理沙は黙っていた。


 少し長い沈黙。


 やがて、ペンで紙に小さく丸をつける。


「いいわ」


 しらいさんは、ほっと息を吐いた。


「大丈夫ですか」


「ええ。少しだけ危ういけれど、その危うさが今のあなたの体温でもある」


「危うい」


「でも、使える」


 理沙は目を上げる。


「本番でこのまま言えるなら、言いなさい」


「はい」


「ただし、言ったあとに照れないこと」


「……はい」


「春日さんを思い出しすぎないこと」


「はい」


「泣かないこと」


「はい」


「そして、言い切ったら次の話題に移る。余韻に浸らない」


「はい」


 しらいさんは、少しだけ笑った。


「注文が多いです」


「あなたの答えが、少し生ものになったからよ」


「生もの」


「扱いを間違えると傷む。でも、ちゃんと扱えば新鮮さが出る」


「理沙さん、たまに例えが独特です」


「春日さんに言われるよりいいでしょう」


「それは……」


「何?」


「春日くんも、たまに独特です」


「でしょうね」


 二人は少しだけ笑った。


 こんなふうに理沙さんと笑える日が来るとは、少し前なら思わなかった。


 もちろん、理沙さんはマネージャーだ。

 仕事の厳しさは変わらない。

 今日だって、細かい注意は山ほどある。


 でも、その厳しさの中に、少しだけ自分の呼吸を認めてもらえた気がした。


    ◇


 確認が終わるころには、外が少し暗くなり始めていた。


 しらいさんはメモを封筒に戻し、カードケースを鞄にしまった。

 そのとき、理沙がふと言った。


「春日さんに連絡するの?」


「……してもいいですか」


「確認するようなこと?」


「いえ」


「なら、しなさい。ただし長くならないように」


「はい」


「それと、今日の内容を細かく送りすぎないこと。番組前よ」


「分かっています」


「分かっているならいいわ」


 しらいさんはスマホを手に取った。


 春日くんへのメッセージ画面を開く。


 何を書けばいいか、少し迷った。


 全部うまくいったわけではない。

 緊張はまだある。

 理沙さんから直しもたくさん入った。


 でも、自分の言葉は少し残った。


 それを伝えたい。


『理沙さんに見てもらった』


 送る。


 すぐ既読。


『どうでしたか』


 しらいさんは、少しだけ笑った。


 たぶん、向こうも少し緊張して待っていたのだろう。


『悪くないって』


『かなり褒めてますね』


『うん』


『少し体温があるって』


 既読。


 返事は少し間が空いた。


『それは、すごくいいですね』


『春日くんの部屋で練習したから』


 送ってから、少し照れた。


 でも消さなかった。


 既読。


『なら、部屋も少し役に立ちましたね』


『出た』


『出ます』


 しらいさんは小さく笑った。


 理沙が横からちらりと見る。


「春日さん?」


「はい」


「顔に出ているわよ」


「……すみません」


「本番では出さないように」


「はい」


 しらいさんは、スマホにもう一文だけ送った。


『本番、怖いけど』


『少しだけ、自分の言葉で行けそう』


 既読。


『行ってきてください』


『戻る場所はあります』


 その一文を見た瞬間、胸の奥が静かに温かくなった。


『知ってる』


 そう返す。


 そして、スマホを伏せた。


 理沙がタブレットを持って立ち上がる。


「行くわよ。明日の本番までに、今日はもう喉を使いすぎないこと」


「はい」


「帰ったら温かいものを飲んで、早く寝る」


「はい」


「春日さんの部屋へは?」


「今日は行きません」


「よろしい」


 少しだけ寂しい。


 でも、今日はそれでいい。


 戻る場所があるから、毎回そこへ駆け込む必要はない。

 あると分かっているだけで、立てる日もある。


 それも、最近覚えたことだった。


    ◇


 その夜、春日悠真の部屋には、しらいさんは来なかった。


 でも、マグカップはいつも通りコースターの上に置かれていた。


 悠真はそれを写真に撮った。


『今日もあります』


 送る。


 すぐ既読。


『見た』


『今日は行かないけど、あるの助かる』


『来ない日もあります』


『はい』


『本番前なので寝てください』


『理沙さん側』


『完全に』


『彼氏側は?』


『彼氏側も、今日は寝てほしいです』


 少し間。


『それ、最近強い』


『ならよかった』


『出た』


 そのあと、しらいさんから写真が届いた。


 青灰色のカードケース。

 青灰色のハンカチ。

 そして、封筒に入れられた想定質問の紙。


『明日、これ持っていく』


 悠真は返信した。


『行ってらっしゃいの準備ですね』


 既読。


『うん』


『帰ってきた音で、行ってくる』


 昨日の言葉が、彼女の中に残っている。


 悠真はローテーブルのコースターを見た。


『本番、見ています』


『ファンとして』


『恋人として』


『面倒くさい顔で』


 既読。


 少しして、


『よし』


 と返ってきた。


『百点?』


『今日は九十五点』


『五点は?』


『本番前だから保留』


『なるほど』


『本番終わったら加点』


『楽しみにしています』


『私も』


 そのあと、彼女から最後に一通だけ来た。


『明日、綺麗な答えの隙間に、少しだけ私を入れる』


 悠真は、その文をしばらく見つめた。


 そして、ゆっくり打った。


『見つけます』


 既読。


 返事はなかった。


 たぶん、もう寝る準備に入ったのだろう。


 悠真はスマホを置き、マグカップを棚に戻した。


 ことん、ではなく、静かな棚の音。


 明日、彼女はテレビの中で白瀬アカリになる。

 綺麗な答えを言うだろう。

 仕事として、丁寧に、慎重に。


 でも、その隙間に少しだけしらいさんがいる。


 それを見つける。


 ファンとして。

 恋人として。

 たぶん、少し面倒くさい顔で。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ