第70話 綺麗な答えの隙間に、君自身の言葉を少しだけ
テレビ特番の収録が近づくにつれて、しらいさんから届く写真に、少しずつ紙の量が増えていった。
紙コップ。
青灰色のカードケース。
ハンカチ。
喉飴。
そこまではいつもの控室の風景だった。
けれど最近は、その横に番組の進行表や、質問想定のメモが写るようになった。もちろん、内容が読めないように端だけだったり、裏返しだったりする。
それでも、緊張しているのは分かった。
春日悠真は、会社の昼休みにその写真を見ていた。
『質問想定、多い』
しらいさんからのメッセージ。
『テレビ特番ですからね』
そう返すと、すぐに既読がついた。
『綺麗な答え、作れる』
『でも、それだけだと怖い』
悠真は、スマホの画面をしばらく見つめた。
綺麗な答え。
数年前のインタビュー記事の中にいた白瀬アカリを思い出す。
前向きで、丁寧で、感謝を忘れず、弱音などないように笑っていた彼女。
あれは嘘ではなかった。
けれど、全部でもなかった。
今のしらいさんは、その「全部ではない」ことを知っている。
『今日、部屋で少し練習しますか』
悠真は送った。
既読。
少し間が空いて、
『練習?』
『想定質問に答える練習です』
『春日くんが司会?』
『できるか分かりませんが』
『ちょっと見たい』
続けて、
『でも怖い』
悠真は小さく息を吐いた。
『怖いままで大丈夫です』
『マグカップあります』
既読。
『行く』
短い返事だった。
それだけで、今日の夜が少し特別になる。
◇
仕事帰り、悠真はスーパーで牛乳と蜂蜜を買った。
部屋にはまだある。
けれど、こういう日は少し多めに用意しておきたかった。
駅からの帰り道、スマホが震えた。
三崎からだった。
『白瀬アカリの特番、予告出てたぞ』
続けて、
『トーク長そう。春日、録画しろよ』
悠真は少し笑った。
『する』
すぐ既読。
『ファン仲間として言うけど、あの人トークも結構見る価値あると思う』
『まだ始まってないだろ』
『予告で分かる』
『雑だな』
『勘』
悠真はスマホをしまった。
三崎は何も知らない。
けれど、白瀬アカリを楽しみにしている。
それは嬉しい。
少しざわつく。
でも、以前よりずっと受け止めやすかった。
この気持ちも、あとでしらいさんに持って帰ればいい。
◇
インターフォンが鳴ったのは、二十時を少し過ぎたころだった。
玄関を開けると、しらいさんが立っていた。
黒いキャップ。
薄いマスク。
ベージュのコート。
肩にはいつもの鞄。
今日は少し大きめの封筒も抱えていた。
「来た」
「おかえりなさい」
「ただいま」
そのやり取りは、もう自然だった。
部屋に入ると、しらいさんはローテーブルを見た。
青灰色のコースター。
マグカップ。
ミルクティーの用意。
喉飴。
ティッシュ。
そして、空けてあるスペース。
「練習場になってる」
「番組控室よりは狭いですが」
「こっちのほうが怖くない」
そう言ってから、彼女は少しだけ目を逸らした。
「たぶん」
「たぶん、で大丈夫です」
しらいさんはコートを脱ぎ、ローテーブルの前に座った。
鞄から青灰色のカードケースを出し、マグカップの横に置く。
その次に、封筒から数枚の紙を取り出した。
「想定質問」
「見てもいいものですか」
「内容は大丈夫。まだ表に出てない話は伏せるけど」
「分かりました」
悠真はミルクティーを作った。
蜂蜜を少し多めに入れる。
しらいさんはカップを受け取り、コースターの上へ置いた。
ことん。
その音を聞いてから、彼女はようやく紙を一枚めくった。
「まず、映画についての質問」
「はい」
「それは慣れてる。作品の魅力とか、役作りとか、共演者の話とか」
「綺麗に答えられそうですね」
「うん。作れる」
彼女は紙の端を指先で押さえた。
「でも、それが怖い」
「綺麗に作れるから?」
「うん」
しらいさんはミルクティーを一口飲んだ。
「ちゃんとした言葉は、いくらでも出せる。映画を観てくださってありがとうございます。素敵な現場でした。皆さんに支えていただきました。役を通して私自身も学びました」
「はい」
「全部、本当」
「はい」
「でも、それだけだと、また昔みたいになる気がする」
悠真は黙って頷いた。
しらいさんは、紙を見ながら小さく息を吐く。
「だから、少しだけ自分の言葉を入れたい」
「はい」
「でも、入れすぎると怖い」
「テレビですからね」
「うん。切り取られるし、残るし、見られる」
「はい」
「だから、練習したい」
彼女は顔を上げた。
「春日くん、司会して」
「かなり責任重大ですね」
「大丈夫。失敗してもテレビじゃない」
「そうですね」
「でも、ちゃんと聞いて」
「もちろんです」
悠真は紙を一枚受け取った。
質問の一つに目を通す。
『今回の役を演じて、ご自身に変化はありましたか?』
いかにも聞かれそうな質問だった。
悠真は、少しだけ姿勢を正す。
「では、いきます」
「はい」
しらいさんも、なぜか姿勢を正した。
その瞬間、少しだけ白瀬アカリの顔になる。
背筋が伸び、目線が整う。
でも、膝の近くにある手の指先が、ほんの少しだけ緊張していた。
「今回の役を演じて、ご自身に変化はありましたか?」
悠真が読むと、しらいさんは一度だけ息を吸った。
「そうですね。今回の役は、弱さを人に見せることが苦手な女性でした。演じていく中で、弱さを隠すことは決して悪いことではなくて、その人なりに自分を守る方法でもあるのだと感じました」
淀みなく出てくる。
綺麗な答えだった。
「ただ、その一方で、ずっと隠し続けると、自分がどこで息をすればいいのか分からなくなることもあると思います。だから、誰かに寄りかかるというより、自分の呼吸を取り戻せる場所を持つことの大切さを、今回改めて感じました」
そこまで言って、しらいさんは口を閉じた。
悠真は少し待った。
「……どう?」
「綺麗です」
「やっぱり」
「でも、悪くないです」
「春日くん」
「はい」
「正直に」
悠真は紙を置いた。
「少し、完成しすぎています」
しらいさんは、きゅっと口を結んだ。
「うん」
「テレビの答えとしては、とても良いと思います」
「うん」
「でも、しらいさんが入る隙間が少ない気がしました」
しらいさんは、少しだけ目を伏せる。
「自分でもそう思った」
「はい」
「呼吸を取り戻せる場所って言ってるのに」
「はい」
「言葉が、ちょっと呼吸してない」
その表現に、悠真は少し驚いた。
「それ、すごく分かります」
「ほんと?」
「はい。言葉は正しいけれど、少し息が詰まっている感じがしました」
「……やっぱり」
しらいさんはミルクティーを持ち上げた。
けれど飲まずに、また置く。
ことん。
「じゃあ、どうしたらいい?」
「少しだけ、具体的にしてみるのはどうですか」
「具体的?」
「全部を話す必要はありません。俺の部屋のことも、河川敷のことも言えません」
「うん」
「でも、例えば……温かい飲み物とか、帰れる場所とか」
しらいさんの目が少し揺れた。
「帰れる場所」
「はい」
「それ、言ったら春日くんの部屋を思い出す」
「心の中でなら」
「うん」
「テレビで言うなら、抽象的でもいいと思います」
「例えば?」
悠真は少し考えた。
「弱い自分を無理に強くしなくても、一度戻れる場所があるだけで、また外に出られることもある、みたいな」
しらいさんは黙った。
しばらくして、目を伏せたまま言う。
「それ、かなり私」
「はい」
「でも、言えるかも」
「言えそうですか」
「うん。言いすぎてない。でも、私がいる」
彼女はもう一度、質問に答える姿勢になった。
「もう一回」
「はい」
悠真は同じ質問を読んだ。
「今回の役を演じて、ご自身に変化はありましたか?」
しらいさんは、さっきより少しだけゆっくり息を吸った。
「今回演じた役は、弱さを人に見せることが苦手な女性でした。以前の私なら、そういう弱さをどう強く見せるかを考えていたかもしれません」
悠真は、少しだけ顔を上げた。
さっきとは違う。
「でも、撮影を通して、無理に強くならなくてもいいのかもしれないと思うようになりました。弱いままでも、一度戻れる場所があれば、また外に出ていけることがある。そういう感覚を、この役から受け取った気がします」
しらいさんはそこで止まった。
少しだけ頬が赤い。
「……どう?」
悠真は、すぐに答えた。
「今のほうがいいです」
「ほんと?」
「はい。綺麗さは少し減りました」
「減ったんだ」
「でも、呼吸していました」
しらいさんは、ゆっくり息を吐いた。
「よかった」
「はい」
「出た」
「出ます」
彼女は少しだけ笑った。
その笑顔には、練習前よりほんの少しだけ力が抜けていた。
◇
次の質問は、少し厄介だった。
『多忙な中で、どうやって自分を保っていますか?』
しらいさんは紙を見た瞬間、明らかに嫌そうな顔をした。
「これ、苦手」
「なぜですか」
「綺麗な答えにしやすい」
「たしかに」
「周りの方に支えていただいています、って言えば終わる」
「本当ではありますよね」
「本当。でも、それだけじゃない」
「はい」
「でも、言いすぎると生活が見える」
「そうですね」
悠真は少し考えた。
「しらいさんとしては、本当は何と答えたいですか」
「本当は?」
「はい。テレビではなく、ここで」
彼女は少しだけ困った顔をした。
そして、ぽつりと言う。
「最近は、戻る場所を増やしています」
悠真は黙って聞いた。
「仕事の場所だけじゃなくて、ちゃんと息を吐ける場所とか、何も言わなくてもいい場所とか、弱いことを言っても壊れない場所とか」
「はい」
「そういうのを、少しずつ持つようにしています」
「それ、かなりいいです」
「でも、言えない」
「全部は言えませんね」
「うん」
「でも、少し変えれば言えると思います」
「どうやって?」
「多忙な中で自分を保つ方法として、“特別なことではなく、小さな習慣を大事にするようになった”と言うのはどうでしょう」
「小さな習慣」
「はい。温かい飲み物を飲むとか、一日の終わりに気持ちを整理するとか」
「……マグカップ」
「心の中では」
「カードケースも」
「心の中では」
しらいさんは、カードケースを指先で軽く叩いた。
「言えるかも」
「はい」
「でも、春日くんのこと思い出して噛むかも」
「噛まないでください」
「自信ない」
「白瀬アカリなので」
「出た。信頼圧」
「圧ですか」
「少し」
しらいさんは笑ったあと、もう一度姿勢を正した。
悠真は質問を読んだ。
「多忙な中で、どうやって自分を保っていますか?」
しらいさんは少し考えてから答える。
「以前は、忙しいときほど気を張って、ちゃんとしなければと思うことが多かったです。でも最近は、特別なことではなくて、小さな習慣を大事にするようになりました」
声が少し落ち着いている。
「温かい飲み物を飲むとか、一日の終わりに少しだけ自分の気持ちを確認するとか。そういう小さな時間があるだけで、また明日も頑張ろうと思えることがあります」
言い終えてから、彼女はゆっくり悠真を見た。
「これは?」
「とてもいいです」
「綺麗すぎない?」
「綺麗ですが、空っぽではないです」
「空っぽじゃない」
「はい。しらいさんが入っていました」
彼女は少しだけ照れた。
「白瀬アカリとしても言える?」
「言えると思います」
「春日くんとしては?」
「俺としては、かなり効きます」
「なら危ない」
「なぜ」
「テレビで言ったら、春日くんが家で変な顔する」
「すると思います」
「するんだ」
「はい」
二人で笑った。
それだけで、練習が少しだけ軽くなる。
◇
何問か練習していくうちに、しらいさんの答えは少しずつ変わっていった。
最初は、整いすぎていた。
言葉が綺麗に並び、どこにも引っかかりがない。
プロとしての白瀬アカリの答え。
けれど、何度か言い直すうちに、言葉の間に少しだけ彼女自身の呼吸が入るようになった。
「完璧じゃなくても、ちゃんと立てることがある」
「弱さを消すより、置き場所を見つけるほうが大事なときがある」
「前向きでいられない日も、誰かの言葉や小さな習慣に助けられることがある」
どれも、全部を明かしているわけではない。
春日悠真の部屋も、河川敷も、カードケースも出てこない。
でも、そこには確かにしらいさんがいた。
練習の途中で、彼女はふと笑った。
「春日くん」
「はい」
「これ、理沙さんに見せたら何て言うかな」
「いいんじゃないですか」
「雑」
「本当にいいと思います」
「理沙さん、たぶん『言いすぎないように。でも悪くない』って言う」
「かなり言いそうですね」
「でしょ」
しらいさんはミルクティーを飲み干した。
「でも、春日くんの前で練習してよかった」
「役に立ちましたか」
「うん」
「ならよかった」
「出た」
彼女は、少しだけ目を細める。
「その言葉、テレビで言いそうになるかも」
「それは困ります」
「言わない」
「お願いします」
「でも、心の中では言うかも」
「それなら」
「うん」
彼女はカードケースを鞄に戻した。
それから、もう一度だけマグカップを持ち上げ、コースターに置いた。
ことん。
「本番前、この音思い出す」
「はい」
「綺麗な答えだけになりそうになったら」
「はい」
「この音」
「帰ってきた音ですね」
「うん」
「そして、行ってくる音でもあります」
しらいさんは少し驚いたように顔を上げた。
「行ってくる音?」
「戻る場所があるから、行けるので」
彼女はしばらく黙った。
それから、少しだけ目元を赤くして笑う。
「春日くん、今日またずるい」
「すみません」
「謝らないで」
「はい」
「でも、それ持っていく」
「はい」
「帰ってきた音で、行ってくる」
彼女は小さく頷いた。
◇
帰る時間が近づくと、しらいさんは想定質問の紙を封筒に戻した。
さっきまで少し怖そうに見えていた紙が、今はただの紙に戻っているように見えた。
もちろん、緊張が消えたわけではない。
本番はテレビの収録で、この部屋ではない。
司会者も、共演者も、カメラもある。
けれど、少なくとも彼女は練習前より少しだけ呼吸しやすそうだった。
マグカップを洗い、棚に戻す。
コースターを整える。
「今日の点数は?」
悠真が聞くと、しらいさんは少し考えた。
「九十二点」
「高いですね」
「怖いけど、自分の言葉が少し見つかったから」
「八点は?」
「本番がまだだから」
「なるほど」
「本番終わったら加点されるかも」
「楽しみにしています」
「採点されるのは私なのに」
「そうでした」
しらいさんは少し笑った。
玄関で靴を履き、コートを羽織る。
「春日くん」
「はい」
「私、テレビで綺麗な答えも言うと思う」
「はい」
「それは仕事だから」
「はい」
「でも、少しだけ自分の言葉も入れる」
「はい」
「見てて」
悠真は、静かに頷いた。
「見ます」
「ファンとして?」
「ファンとして」
「恋人として?」
「恋人として」
「面倒くさい顔で?」
「たぶん」
「よし」
彼女は満足そうに頷いた。
「また帰ってくる」
「おかえりって言います」
「知ってる」
ドアが閉まる。
部屋に静けさが戻った。
ローテーブルには、青灰色のコースターだけが残っている。
綺麗な答えの隙間に、少しだけ彼女自身の言葉を入れる。
それは、簡単なようで、とても難しいことだ。
でも今夜、彼女は少しだけ練習した。
戻る場所の音を、行ってくる音に変えて。
悠真はコースターを見ながら、テレビの中で彼女がその音を思い出す瞬間を想像した。
きっとまた遠い。
でも、きっと戻ってくる。
そう思えるだけで、次に公の白瀬アカリを見るのが、少しだけ怖くなくなった。




