第69話 泣けた翌日に、君はまた白瀬アカリへ戻っていく
朝のマグカップ写真は、いつもより少しだけ静かに撮れた。
春日悠真はローテーブルの前に座り、青灰色のコースターの上にしらいさんのマグカップを置いた。
取っ手の向きは、昨日彼女が整えて帰った位置のままだ。
昨日の夜、しらいさんはこの部屋で泣いた。
泣く正式予約。
そんな冗談みたいな言い方をしながら、本当に泣いた。
古いインタビュー記事の中にいた、弱音を隠して笑っていた白瀬アカリのことを話しながら、今の自分の声で「本当はしんどかった」と言った。
あの声が、まだ耳に残っている。
涙のあとで、少し笑っていた顔も。
悠真はスマホを構えた。
マグカップとコースター。
余計なものは入れない。
昨日の涙を写真に残す必要はない。
でも、昨日泣いてもこの場所が変わらずあることは伝えたかった。
撮影して、送る。
『今日もあります』
少し迷ってから、もう一文。
『昨日置いていったものも、ちゃんとあります』
送信。
既読はすぐにつかなかった。
しらいさんは今日、朝から事務所で打ち合わせがあると言っていた。
映画の反響が予想以上に大きく、今後のスケジュールの調整が入るらしい。
泣いて少し軽くなった翌日に、また仕事へ戻っていく。
その切り替えを思うと、悠真のほうが少し胸を締めつけられた。
スマホが震えたのは、出勤準備を終えたころだった。
『見た』
続けて、
『昨日置いていったもの、重くない?』
悠真はすぐに返す。
『重いです』
既読。
少し間。
『正直』
『でも、嫌な重さではありません』
『大事なものの重さです』
既読。
しばらく返事が来なかった。
やがて、
『それ、朝からだめ』
と届く。
『うれしいほうですか』
『うん』
『泣いたらメイク前に怒られる』
『まだメイク前ですか』
『これから』
『では泣かないでください』
『理沙さん側』
『今日は完全にそうです』
いつものやり取りに戻って、悠真は少しだけ安心した。
けれど、そのあと届いた一文で、また少し空気が変わる。
『今日、大きい話があるらしい』
悠真は鞄を持つ手を止めた。
『仕事の?』
『うん』
『映画の反響関係』
『まだ詳しく聞いてない』
『怖い?』
送ってから、少し踏み込みすぎたかと思った。
でも、しらいさんは短く返してきた。
『怖い』
続けて、
『でも、昨日泣いたから少し平気』
悠真は、その文を静かに読んだ。
泣いたから少し平気。
泣くことは、壊れることではなかった。
昨日それを彼女自身が知ったから、今日の怖さに少しだけ向き合えている。
『行ってきてください』
悠真は打った。
『白瀬アカリの仕事へ』
『戻りたくなったら、ここに戻ってきてください』
既読。
『うん』
『行ってくる』
その文字を見て、悠真は玄関を出た。
◇
昼休み、三崎はまた白瀬アカリの話をしていた。
「春日、この前の過去作、最後まで観た?」
「まだ途中」
「俺は観た」
「早いな」
「沼ってるから」
「自分で言うな」
三崎はサンドイッチを片手に、少し得意げに言う。
「いやでも、だいぶ分かってきた。白瀬アカリ、初期は優等生っぽいけど、今はその優等生感を少し壊せるようになってる」
悠真は、お茶のペットボトルを開けながら視線を上げた。
「壊せる?」
「そう。前はちゃんとしすぎてた。でも今の映画は、ちゃんとしてる人が崩れる瞬間をちゃんと出せてる」
「……」
「何その顔」
「いや。お前、意外とまともに語るなと思って」
「失礼だな。俺はファン仲間だぞ」
「まだ慣れない」
「慣れろ」
悠真は小さく笑った。
ファン仲間。
まだ少し変な言葉だ。
でも、以前ほど苦しくはない。
三崎が白瀬アカリを語る。
自分は言える範囲で返す。
言えないことは、あとでしらいさんに持って帰る。
そういう流れが、少しずつできてきた。
「そういえば」
三崎がスマホを見ながら言った。
「白瀬アカリ、テレビ特番出るらしいぞ」
悠真の手が止まった。
「特番?」
「映画ヒット記念のやつかな。共演者と監督と、あと別番組の人気俳優とかも出るっぽい。トーク長めの番組」
胸が少しだけざわついた。
テレビ特番。
映画館の舞台挨拶とはまた違う。
客席の前ではなく、全国へ放送される場所。
多くの人が、同じ時間に白瀬アカリを見る。
「……そうか」
「お前、知らなかった?」
「まだ」
「ファンなのに?」
「情報が早すぎるんだよ」
「ファン仲間としては俺の勝ちだな」
「勝負じゃない」
三崎は笑ったが、すぐに少しだけ真面目な顔になった。
「でもこれ、けっこう大きいんじゃね。映画評判いいし、さらに注目されそう」
「そうだな」
「嬉しい?」
不意に聞かれて、悠真は少し黙った。
「嬉しい」
「寂しい?」
三崎が続ける。
悠真は目を細めた。
「お前、最近そこまで踏み込むようになったな」
「古参ファンの顔してるから」
「古参じゃない」
「じゃあ面倒くさい新規ファン」
「それは否定しづらい」
三崎は少し笑った。
悠真は、窓の外へ一瞬視線を向けた。
「嬉しいし、少し寂しい」
「やっぱり」
「でも、もう少し慣れてきた」
「白瀬アカリが遠くなることに?」
「遠くなることと、戻ってくることが両方あることに」
言ってから、少しだけしまったと思った。
戻ってくる。
それは、三崎には少し意味が強すぎる言葉だ。
けれど三崎は、すぐにはからかわなかった。
「いいじゃん」
「……いいのか」
「戻ってくる場所がある推しは強い」
「推しの話か?」
「まあ、ファン的に言えば」
三崎は深く考えていないように言った。
でも、悠真にはその言葉が妙に残った。
戻ってくる場所がある白瀬アカリは強い。
それは、たぶん本当だ。
◇
午後、しらいさんからメッセージが来た。
『話聞いた』
悠真は、すぐにスマホを開いた。
『テレビ特番ですか』
既読。
『知ってるの?』
『三崎が見つけました』
『三崎さん早い』
『俺より早かったです』
『ファン仲間』
『まだ慣れません』
少し間が空く。
『出ることになりそう』
悠真は、その文字を見つめた。
『大きい仕事ですね』
『うん』
『映画ヒット特番』
『生放送じゃないけど、トーク長い』
『緊張しますか』
既読。
少し長めの沈黙。
『する』
『舞台挨拶とは違う怖さ』
『テレビですもんね』
『うん』
『編集は入るけど、言葉が残る』
古いインタビュー記事のことを思い出した。
言葉が残る。
数年前の彼女が、前向きな答えで自分を守っていたように。
テレビのトークで言った言葉も、切り取られ、記事になり、動画になり、誰かの記憶に残る。
それは確かに怖い。
『今のしらいさんなら、大丈夫です』
打ちかけて、悠真は止めた。
大丈夫と言い切るのは、少し違う。
彼女は、今まさに怖いと言っているのだから。
書き直す。
『怖いままでも、出られると思います』
『戻る場所があるので』
既読。
返事は少し遅れた。
『それ、昨日泣いたあとだから効く』
『言えてよかったです』
『出た』
『出ます』
少しだけ、いつもの流れに戻った。
でも、しらいさんの次の文は、少し不安げだった。
『昔みたいに、綺麗な答えだけ言っちゃいそうで怖い』
悠真は、その文を何度も読んだ。
綺麗な答えだけ。
昨日読んだ古いインタビューのことだ。
弱音を隠し、前向きで、感謝して、ちゃんとしている白瀬アカリ。
今の彼女は、それを全部否定したいわけではない。
でも、そこだけに戻るのが怖いのだ。
『綺麗な答えが悪いわけではないと思います』
悠真は送った。
『でも、全部を綺麗にしなくてもいいと思います』
『少しだけ、自分の言葉があれば』
既読。
『自分の言葉』
『はい』
『全部話す必要はなくて』
『でも、昔みたいに全部隠さなくてもいい』
少し間。
『春日くん、今日ずるい』
『うれしいほうですか』
『うん』
『でも怖い』
『はい』
『怖いままでいいです』
既読。
今度はすぐに返ってきた。
『それ、使うかも』
『テレビで?』
『心の中で』
『怖いままでいい』
悠真は、デスクの前で静かに息を吐いた。
『持っていってください』
『はい』
少しして、写真が届いた。
紙コップ。
青灰色のカードケース。
ハンカチ。
そして、テレビ特番の企画書らしき紙の端。
『今日これもカードケースの横に置いた』
悠真は画面を見ながら思った。
また、彼女が遠くへ行く準備をしている。
でも今度は、少し違う。
彼女は戻る場所を知っている。
◇
その夜、しらいさんは部屋に来た。
インターフォンが鳴る前から、悠真はローテーブルの上を何度も確認していた。
マグカップ。
コースター。
ミルクティー用の蜂蜜。
ティッシュ。
昨日のハンカチ。
そして、棚の端には映画のパンフレット。
今日は泣くためではない。
でも、泣いても大丈夫なままにしておきたかった。
ドアを開けると、しらいさんは少し疲れた顔で立っていた。
「来た」
「おかえりなさい」
「ただいま」
昨日泣いたせいか、その「ただいま」は少しだけ素直だった。
部屋に入ると、彼女はローテーブルを見て、小さく笑った。
「泣く準備、継続してる」
「片づけるのも違う気がして」
「うん。今日は泣かないかも」
「泣いてもいいです」
「知ってる」
彼女はコートを脱ぎ、いつもの場所に座った。
悠真がミルクティーを作ると、彼女は両手で受け取り、青灰色のコースターの上に置く。
ことん。
その音を聞いた瞬間、しらいさんの表情が少し緩んだ。
「これ、テレビの控室にも欲しい」
「マグカップですか」
「音」
「音は難しいですね」
「録音する?」
「それは少し怖いです」
「うん。私も言ってから思った」
二人で少し笑った。
笑えるくらいには、昨日より彼女は軽くなっている。
でも、テレビ特番の話を出すと、すぐに表情が少し曇った。
「春日くん」
「はい」
「テレビ、怖い」
「はい」
「舞台挨拶より、たぶん言葉が広がる」
「そうですね」
「映画は役として見てもらえるけど、トーク番組は白瀬アカリ本人として話すから」
「はい」
「そこでまた、ちゃんとしたこと言わなきゃって思いそう」
「はい」
「昔の記事みたいに」
しらいさんはカップの縁を見つめた。
湯気がゆっくり上がっている。
「綺麗な答えも、必要なときはあると思います」
悠真は言った。
「うん」
「でも、全部を綺麗にしなくてもいいと思います」
「うん」
「少しだけ、今のしらいさんが入っていてもいい」
しらいさんは顔を上げた。
「今の私?」
「はい」
「泣いた私?」
「それもです」
「春日くんの部屋にマグカップ置いてる私?」
「それも」
「河川敷でほうじ茶飲んだ私?」
「はい」
「白瀬アカリじゃない私?」
「白瀬アカリの中に、その人たちがいてもいいと思います」
しらいさんは、しばらく黙っていた。
そして、小さく息を吐く。
「それ、難しい」
「はい」
「でも、たぶん必要」
「はい」
「全部隠して、前向きです、大丈夫です、楽しいです、だけだと」
「はい」
「また昔みたいになる」
「……」
「でも、全部出したら仕事にならない」
「そうですね」
「だから、少しだけ」
「はい」
「少しだけ、自分の言葉」
悠真は頷いた。
「それでいいと思います」
「春日くんが言うと、簡単に聞こえる」
「簡単ではないです」
「うん」
「だから、カードケース持っていってください」
しらいさんは、鞄に手を触れた。
「持っていく」
「青灰色のハンカチも」
「持っていく」
「ミルクティーは持っていけませんが」
「残念」
「でも、この音は覚えていけます」
悠真は、マグカップを指さした。
しらいさんはカップを少し持ち上げ、もう一度コースターに置いた。
ことん。
小さな音。
彼女は目を閉じる。
「覚えた」
「本当に?」
「うん」
「本番前に思い出してください」
「うん」
「怖いままでいい、も」
「うん」
「戻る場所がある、も」
「うん」
しらいさんは目を開けた。
「春日くん」
「はい」
「テレビ、見てくれる?」
「もちろん」
「ファンとして?」
「ファンとして」
「恋人として?」
「恋人として」
「面倒くさい顔する?」
「たぶん」
「いいよ」
「いいんですか」
「うん」
「テレビの私が遠かったら?」
「遠いと思います」
「寂しい?」
「少し」
「でも?」
「誇らしいです」
しらいさんは、少しだけ泣きそうな顔で笑った。
「春日くん、答えが早くなった」
「慣れてきました」
「慣れないで」
「またそれ」
「慣れて。でも慣れないで」
「難しいです」
「知ってる」
いつもの言葉が、部屋に戻ってきた。
◇
その夜、しらいさんは帰る前にマグカップを洗った。
昨日泣いたあとより、動きが少し軽い。
でも、テレビ特番の重さは残っている。
水の音。
カップを拭く音。
棚に戻す音。
コースターを整えたあと、彼女は少しだけ指先でその縁をなぞった。
「今日の点数は?」
悠真が聞くと、しらいさんは考えた。
「八十五点」
「低めですね」
「テレビ怖いから」
「なるほど」
「でも、昨日泣けたから十点加点」
「では本来は七十五点?」
「うん」
「だいぶ怖いですね」
「怖い」
しらいさんは素直に言った。
その素直さが、昨日より少し強く見えた。
「でも、行く」
「はい」
「白瀬アカリで」
「はい」
「でも、心の中にしらいさんも連れていく」
「はい」
「カードと、ハンカチと、この音も」
「はい」
「春日くんも」
最後の言葉で、悠真は少しだけ固まった。
「俺も?」
「心の中に」
「……はい」
「テレビには映らないから」
「映ったら大変です」
「大変」
二人で少し笑った。
玄関で靴を履き、しらいさんは振り返る。
「春日くん」
「はい」
「次に公の白瀬アカリを見るときも」
「はい」
「戻ってきてね」
それは、彼女自身に言う言葉にも聞こえた。
遠くへ行って、白瀬アカリを見て、それでもこの部屋へ戻ってきて。
悠真は頷いた。
「戻ってきます」
「うん」
「しらいさんも」
「戻る」
「待ってます」
「知ってる」
彼女は少しだけ笑って、夜の道へ出ていった。
ドアが閉まる。
部屋に静けさが戻る。
ローテーブルには、青灰色のコースターだけが残っている。
映画のヒット。
過去作。
古いインタビュー。
泣く正式予約。
そして、テレビ特番。
白瀬アカリはまた遠くへ行く。
でも、もうただ遠くなるだけではない。
戻る場所を持ったまま、遠くへ行く。
悠真はコースターを見つめながら、次に公の白瀬アカリを見る日を思った。
きっとまた寂しい。
きっとまた誇らしい。
そしてその両方を、またこの部屋へ持って帰ってくるのだと思った。




