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第68話 泣く予約を使う夜、君はようやく弱音を声にした

 その日の夜、春日悠真はティッシュの箱をローテーブルの端に置いた。


 端、といっても遠すぎない場所。

 手を伸ばせば届くけれど、いかにも「泣く準備をしています」と主張しすぎない位置。


 その加減に、妙に時間がかかった。


 青灰色のコースター。

 しらいさんのマグカップ。

 蜂蜜入りのミルクティー用の材料。

 喉飴。

 青灰色のハンカチ。


 そして、ティッシュ。


 並べてから、悠真は少しだけ苦笑した。


 まるで儀式の準備みたいだ。


 けれど、今日だけはそれでよかった。


 しらいさんから、夕方にメッセージが来ていた。


『今日、正式予約使いに行っていい?』


 泣く予約。


 冗談みたいに始まった言葉だった。

 声が出なくなりそうだった夜、彼女は「泣いてもいいか」と聞いた。悠真は、泣いてもいいと答えた。そこから、泣く予約だの仮予約だの正式予約だの、少しおかしな言い方で、彼女は何度も涙を先送りにしてきた。


 喉に悪いから。

 仕事があるから。

 今泣いたら戻れなくなる気がするから。


 そうやって、彼女はずっと泣くことすら慎重に扱ってきた。


 でも今日は、自分から来ると言った。


 泣くために。


 いや、泣けるかどうかは分からない。

 それでも、泣くかもしれない自分を連れて来ると決めた。


 それだけで、十分に大きなことだった。


 インターフォンが鳴った。


 悠真は立ち上がり、玄関へ向かった。


 ドアを開けると、しらいさんが立っていた。


 黒いキャップ。

 薄いマスク。

 ベージュのコート。

 いつもの鞄。


 けれど、今日の彼女はいつもより少しだけ静かだった。


「……来た」


 声は普通に出ていた。

 喉の不調はもうほとんどない。


 でも、その声の奥に、何かを抱えている感じがあった。


 悠真は言った。


「おかえりなさい」


 しらいさんは、一瞬だけ目を伏せた。


 それから、小さく答える。


「ただいま」


 その言葉が、いつもより少しだけ低く響いた。


 部屋に入ると、彼女はローテーブルを見た。

 マグカップ。

 コースター。

 ミルクティー。

 喉飴。

 ハンカチ。

 ティッシュ。


 少しのあいだ黙って、それから言う。


「……準備がいい」


「やりすぎましたか」


「ううん」


 しらいさんはコートを脱ぎ、椅子の背にかけた。


「ちょうどいい」


「ならよかったです」


「出た」


 いつものように返してくれたけれど、笑い方は少しだけ弱かった。


 悠真はキッチンへ向かう。


「ミルクティー、作ります」


「うん。蜂蜜、少し多め」


「分かりました」


「今日は甘やかされる日だから」


「はい」


「否定しないんだ」


「今日はしません」


 しらいさんは、少しだけ目を丸くした。

 それから、ゆっくり座る。


 湯を沸かし、ミルクティーを作る。

 蜂蜜を少し多めに入れると、甘い匂いが部屋に広がった。


 カップを運ぶ。


 しらいさんは両手で受け取り、青灰色のコースターの上に置いた。


 ことん。


 帰ってきた音。


 その音を聞いた瞬間、彼女の肩が少しだけ落ちた。


「この音」


「はい」


「今日は、ちょっと危ない」


「泣きそうですか」


「まだ分からない」


「分からなくていいです」


 悠真は向かいに座った。


「泣けなかったら、それでもいいです」


「……正式予約なのに?」


「予約しても、当日キャンセルできます」


「春日くん、そういうところ変に優しい」


「変ですか」


「うん。でも助かる」


 しらいさんはミルクティーを一口飲んだ。


 熱すぎないか、悠真は少しだけ心配したが、彼女は静かに頷いた。


「甘い」


「蜂蜜多めです」


「うん」


「正解でしたか」


「正解」


 それから、少し沈黙が落ちた。


 今日は、いつものように話題が自然に転がっていかない。


 無理に転がさなくてもいい。


 彼女がここへ来た理由は、会話をするためだけではない。

 言葉にならないものを、少しだけ置きに来たのだ。


 しらいさんは鞄に手を伸ばした。


 内ポケットから、青灰色のカードケースを取り出す。

 その中には、悠真が書いたカードが入っている。


 彼女はカードケースをローテーブルに置いた。

 マグカップの隣に。


「今日、これ何回も見た」


「仕事中に?」


「うん」


「大丈夫でしたか」


「今日は移動が多かったから。車の中で」


「効きました?」


「効いた」


 彼女はカードケースに指先を乗せた。


「でも、今日は効きすぎた」


「効きすぎた?」


「読んだら、昔の私が出てきた」


 悠真は黙って聞いた。


 しらいさんは、少しだけ笑う。

 でもその笑いは、すぐ消えた。


「昨日のインタビュー記事」


「はい」


「あれ、春日くんに読まれたって思ったら、今日ずっと変だった」


「すみません」


「違う。読んでって言ったのは私」


「はい」


「でも、読まれたら、本当に見られた感じがした」


「……」


「あの頃の私、たぶんすごく頑張って笑ってた」


「はい」


「ちゃんとした答えを出して、前向きで、感謝してて、弱音とかありませんって顔して」


「はい」


「でも、本当は」


 そこで声が少し止まった。


 しらいさんはミルクティーのカップを両手で包む。

 指先が、ほんの少し白くなる。


「本当は、しんどかった」


 やっと出てきた言葉だった。


 悠真は、何も言わなかった。


 その言葉のあとに、すぐ慰めを乗せるのは違う気がした。


 しらいさんは、俯いたまま続ける。


「忙しかったし、失敗できないって思ってたし、周りはみんな優しかったけど、だから余計に迷惑かけちゃいけないと思ってた」


「はい」


「弱音を吐く前に、自分ができることを探すタイプですって答えたの」


「はい」


「あれ、本当にそう思ってた」


「はい」


「弱音を吐いたら、負けると思ってた」


 声が、少し震えた。


「負けるというか……白瀬アカリじゃなくなる気がした」


 悠真は、胸の奥が痛くなるのを感じた。


 白瀬アカリじゃなくなる。


 彼女はずっと、その名前に自分を合わせてきたのだろう。

 弱さを隠して、前向きな答えを選んで、元気を届ける人であろうとして。


「今は?」


 悠真が静かに聞くと、しらいさんはしばらく黙った。


 そして、小さく言う。


「今も、時々そう思う」


「はい」


「弱音を吐いたら、仕事の顔が崩れる気がする」


「はい」


「でも」


 彼女は顔を少し上げた。


 目元が赤くなっていた。


「春日くんの部屋だと、崩れてもいいのかなって思う」


 その瞬間、悠真の胸が静かに熱くなった。


「いいです」


「……」


「崩れてもいいです」


 しらいさんは、何か言おうとして、言えなかった。


 唇が少し動く。

 でも言葉にならない。


 代わりに、目から一粒だけ涙が落ちた。


 彼女は慌てて拭こうとした。


 悠真はティッシュ箱をそっと近づける。


「あります」


「準備よすぎ」


「今日のためなので」


「……うん」


 しらいさんはティッシュを一枚取って、目元を押さえた。


 声は出さない。

 でも、肩が少し震えている。


 泣き方まで、どこか慎重だった。


 悠真は何も言わず、ただそこにいた。


 しばらくして、しらいさんが小さく笑った。


「泣いた」


「はい」


「正式予約、使った」


「はい」


「変な感じ」


「どう変ですか」


「泣いたら、もっと壊れると思ってた」


「はい」


「でも、壊れない」


「はい」


「ちょっと苦しいけど、壊れてない」


 悠真は頷いた。


「泣いても、しらいさんです」


 彼女はまた少し泣きそうな顔になった。


「それ、追い打ち」


「すみません」


「謝らないで」


 しらいさんはティッシュで目元を押さえたまま、少しだけ笑った。


「春日くん、謝るとこじゃない」


「はい」


「でも、また泣く」


「どうぞ」


「どうぞって」


「泣く予約、正式ですから」


 彼女は今度こそ、小さく声を出して笑った。

 笑った拍子に、また涙が落ちた。


 泣いているのに、少し笑っている。


 その表情を見て、悠真は思った。


 たぶん、これが彼女がずっとできなかったことなのだ。


 泣くこと。

 笑うこと。

 弱さを見せること。

 それでも、そのまま部屋にいられること。


    ◇


 泣き方は、少しずつ変わっていった。


 最初は静かだった。

 目元を押さえて、声を殺して、涙だけを落としていた。


 けれど、ミルクティーを一口飲んで、青灰色のハンカチを手に取ったころには、少しだけ息が乱れた。


「春日くん」


「はい」


「あの頃の私に」


「はい」


「大丈夫じゃなくてもいいって、誰かに言ってほしかった」


 悠真は、胸が締めつけられるようだった。


「はい」


「でも、言われてもたぶん聞かなかった」


「……」


「大丈夫ですって答えてたと思う」


「はい」


「めんどくさいね」


「人は、そういうところがあると思います」


「春日くんも?」


「俺もあります」


「知ってる」


 少しだけ、いつもの声が戻った。


 でも涙は止まっていない。


「だから今、言ってほしい」


 しらいさんは、ハンカチを握りしめたまま言った。


「今の私に」


「はい」


「大丈夫じゃなくてもいいって」


 悠真は、まっすぐ彼女を見た。


「大丈夫じゃなくてもいいです」


 しらいさんの目から、また涙が落ちた。


「怖い日があってもいいです」


「……うん」


「弱音を吐いてもいいです」


「うん」


「前向きじゃない日があってもいいです」


「うん」


「白瀬アカリでいられない時間があってもいいです」


 そこで、しらいさんは顔を覆った。


 肩が震える。


 声が漏れた。


 小さく、抑えた泣き声。


 悠真は立ち上がらなかった。

 抱きしめに行くことも、手を伸ばすこともしなかった。


 今はたぶん、彼女が自分の足で泣く時間だった。


 だから、そこにいた。


 同じ部屋の中で。

 すぐ届く距離で。

 でも、奪わない距離で。


 しばらくして、しらいさんはティッシュを取った。


「……今の、かなり効いた」


「はい」


「効きすぎた」


「すみません」


「謝らないでってば」


「はい」


 彼女は泣きながら少し笑った。


「春日くん、謝る癖ある」


「しらいさんも、強がる癖があります」


「お互い様?」


「たぶん」


「じゃあ、今日は引き分け」


「泣く予約は、しらいさんの勝ちでは?」


「勝ち?」


「泣けたので」


 しらいさんは、赤くなった目でこちらを見る。


 そして少しだけ笑った。


「じゃあ、勝ち」


「はい」


「私の勝ち」


「おめでとうございます」


「変なの」


「でも大事です」


「うん」


 彼女はミルクティーをもう一口飲んだ。


 少し冷めていた。

 でも、そのほうが今は飲みやすそうだった。


    ◇


 しばらくして、しらいさんは自分から話し始めた。


 古いインタビューのこと。

 当時の現場のこと。

 楽しかったこと。

 それでも苦しかったこと。

 誰かに優しくされても、弱音を吐くこととは別だったこと。


「周りに人はいたんだよ」


「はい」


「優しい人もいた」


「はい」


「でも、弱いところを見せるのが怖かった」


「はい」


「白瀬アカリとして仕事をもらってるんだから、白瀬アカリらしくいなきゃって思ってた」


「しらいさんらしさは?」


「その頃、あんまり考えてなかった」


 しらいさんは、少しだけ自嘲するように笑った。


「白瀬アカリがちゃんとしていれば、それでいいと思ってた」


「今は?」


「今は……」


 彼女はマグカップを見た。


「しらいさんが戻る場所もないと、白瀬アカリでいられないんだと思う」


 悠真は静かに頷いた。


「そうですね」


「春日くんの部屋、そういう場所になってる」


「はい」


「河川敷も」


「はい」


「カードケースも」


「はい」


「理沙さんの前も、少し」


「はい」


「前より、増えた」


 戻る場所が増えた。


 そのことを、彼女は何度も確かめている。


「増えてよかったですか」


 悠真が聞くと、しらいさんは少し考えてから言った。


「怖いけど、よかった」


「はい」


「昔の私には、少し怖いくらい」


「どういうことですか」


「戻る場所があるって、弱くなることだと思ってたから」


「はい」


「でも今は、戻る場所があるから、また行けるって分かる」


 その言葉は、舞台挨拶の日にも近いものだった。


 戻れるから、行ける。


 仕事へ。

 舞台へ。

 過去へ。

 そして今へ。


「春日くん」


「はい」


「昔の私、救えないよね」


 突然の言葉だった。


 悠真は、すぐには答えられなかった。


 しらいさんは続ける。


「あのインタビューの日に戻って、大丈夫じゃなくてもいいよって言うことはできない」


「はい」


「できないんだけど」


「はい」


「今、言ってもらったら、少しだけ届く気がした」


 悠真は胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。


「届いていると思います」


「本当に?」


「少なくとも、今のしらいさんには届いています」


「うん」


「今のしらいさんが受け取れば、昔のしらいさんの意味も少し変わると思います」


「……」


「頑張って笑っていただけじゃなくて、そこから今ここに来た人になるので」


 しらいさんは、じっと悠真を見た。


 そしてまた、少しだけ泣いた。


 今度は、さっきより静かだった。


「春日くん」


「はい」


「今日、かなりずるい」


「すみません」


「謝らないで」


「はい」


「でも、ありがとう」


「どういたしまして」


「硬い」


「すみません」


「また謝った」


 二人で少しだけ笑った。


 泣いたあとに笑うと、彼女の顔は少し幼く見えた。


 白瀬アカリでも、映画の役でも、過去のインタビューで丁寧に笑っていた若手女優でもない。


 今、ここでミルクティーを飲み、泣いて、少し目を赤くしているしらいさんだった。


    ◇


 帰る時間は、いつもより少し遅くなった。


 でも、今日は無理に急かさなかった。

 理沙さんにも、今日は少しだけ遅くなると連絡済みらしい。


 しらいさんは最後に、マグカップを洗った。


 水の音。

 カップを拭く音。

 棚に戻す音。


 そして、コースターを整える。


 目元はまだ少し赤い。

 でも、来たときより表情は軽かった。


「今日の点数」


 悠真が聞くと、しらいさんは少し考えた。


「私の勝ち」


「点数ではなく?」


「今日は点数じゃない」


「そうですか」


「うん。泣けたから、私の勝ち」


「おめでとうございます」


「ありがとう」


 彼女は素直に受け取った。


 そのことが、なんだか嬉しかった。


 玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。


「春日くん」


「はい」


「昔の私、少しだけここに置いていっていい?」


 悠真は静かに頷いた。


「はい」


「重くない?」


「大事に置いておきます」


「捨てない?」


「捨てません」


「忘れない?」


「忘れません」


 しらいさんは、安心したように息を吐いた。


「じゃあ、置いていく」


「はい」


「でも、持ち帰るのは今の私」


「もちろん」


「また帰ってくる」


「おかえりって言います」


「知ってる」


 彼女は少し笑った。


 ドアが閉まったあと、部屋にはまだ少しだけ彼女の泣いた気配が残っていた。


 ティッシュの箱。

 青灰色のハンカチ。

 少し冷めたミルクティーの匂い。

 そして、コースター。


 悠真はローテーブルの前に座った。


 昔の彼女を少しだけここに置いていった。


 その言葉を思い出す。


 過去を変えることはできない。

 でも、今の部屋に置き直すことはできるのかもしれない。


 泣けなかった日の彼女。

 弱音を吐けなかった日の彼女。

 綺麗な答えで自分を守っていた彼女。


 その全部を、今夜少しだけ受け取った。


 重い。


 でも、嫌ではなかった。


 悠真は棚からしらいさんのマグカップを一度だけ見上げた。


 戻ってくる場所は、今日また少しだけ深くなった気がした。

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