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第67話 古いインタビューの中の君は、笑いながら少しだけ嘘をついていた

 昼休みの三崎は、すっかり白瀬アカリの話をする人になっていた。


 数日前までなら考えられない変化だ。

 唐揚げ弁当を食べながらゲームの話をしていた男が、今はスマホを片手に過去作の配信状況を調べている。


「春日、このドラマ観た?」


「まだ」


「じゃあ先に観るわ」


「何で競争みたいになってるんだ」


「ファン仲間だから」


「その言い方、まだ慣れない」


「慣れろ」


 春日悠真は焼き鮭弁当の骨を取りながら、小さくため息をついた。


 ファン仲間。


 その言葉は、嬉しい。

 白瀬アカリの作品について、誰かと普通に話せることは、思っていたより楽しかった。


 けれど同時に、いつもどこかで秘密の重さが残る。


 三崎は知らない。

 白瀬アカリが、春日悠真の部屋でミルクティーを飲むことを。

 青灰色のコースターの上に、自分専用のマグカップを置くことを。

 鞄の中に、悠真が書いたカードを入れていることを。


 その全部を知らないまま、三崎は白瀬アカリを語る。


 それは不思議で、少し苦しくて、でもやっぱり嫌ではなかった。


「でさ」


 三崎がスマホをこちらに向ける。


「このインタビュー記事、読んだ?」


 画面には、数年前のウェブ記事が表示されていた。

 タイトルには、白瀬アカリの名前。

 若手女優として注目され始めたころのものらしい。


 悠真は、箸を持つ手を止めた。


「いや、まだ」


「けっこう面白いぞ。今とちょっと雰囲気違う」


「……どんな感じだ」


「なんか、めちゃくちゃ優等生」


「優等生?」


「全部ちゃんと答えようとしてる感じ。今の映画のパンフのインタビューより、ずっと硬い」


 硬い。


 最近、何度も出てくる言葉だった。


 過去作の白瀬アカリは、少し硬い。

 丁寧で、間違えないように立っていて、上手に隠しているつもりだった。


 しらいさん自身も、そう言っていた。


 三崎は記事を読みながら続ける。


「『弱音を吐くのは苦手ですか?』って質問にさ、『あまりそういう感覚がないんです。いつも周りの方に助けていただいているので』って答えてる」


「……」


「これさ、たぶん嘘っていうか、嘘じゃないけど、本音全部じゃないよな」


 悠真は、胸の奥が少しだけ固くなるのを感じた。


 弱音を吐くのは苦手ですか。


 その問いに、数年前の白瀬アカリは笑って答えている。


 あまりそういう感覚がない。

 周りに助けてもらっている。


 きっと、綺麗な答えだ。

 間違っていない。

 仕事の場で出す言葉としては正しい。


 けれど、悠真は今のしらいさんを知っている。


 声が出なくなりそうな夜に、「ちょっと怖い」と文字で送ってきた人。

 泣く予約をして、でも喉に悪いからと我慢していた人。

 部屋で「弱くなる気がした」と言った人。


 だからこそ、その古い答えが少しだけ苦しく見えた。


「春日?」


 三崎が顔を覗き込む。


「また深い穴?」


「……少し」


「やっぱ、お前この人のことになると反応が細かいな」


「悪いか」


「悪くない。面倒くさいだけ」


「それは悪口だろ」


「半分褒めてる」


「なら半分だけ受け取る」


 三崎は笑ったが、すぐに記事へ視線を戻した。


「でも、こういう昔のインタビュー見るとさ、今の白瀬アカリがだいぶ変わったの分かるな」


「そうだな」


「昔は『大丈夫です』『楽しいです』『ありがたいです』で固めてる感じ。今は、もう少し自分の言葉で言ってる」


「……」


「春日、これ読んでみれば。たぶん刺さるぞ」


「刺さる前提で勧めるな」


「刺さるだろ」


 刺さる。


 たぶん、刺さる。


 悠真は記事のタイトルだけを自分のスマホで検索して、あとで読むために開いておいた。


 昼休みが終わるまで、三崎は過去作の話をしていた。

 あの場面がよかった。

 この台詞が少し硬かった。

 今の映画と比べると変化が分かる。


 悠真も、言える範囲で答えた。


 ファン仲間の会話としては楽しかった。


 でも、画面の中の古いインタビュー記事だけが、ずっと胸の奥に残っていた。


    ◇


 午後の仕事の合間、悠真は何度もその記事のことを思い出した。


 読みたい。

 でも、少し怖い。


 過去作を観るのとは違う。

 インタビューは、白瀬アカリの言葉として残っている。


 もちろん、仕事の場での言葉だ。

 すべてが本音である必要はない。

 むしろ、本音を全部話すほうがおかしい。


 それでも、そこにある“隠し方”は、作品の中の演技よりも少し直接的に見える気がした。


 夕方、しらいさんから写真が届いた。


 紙コップ。

 カードケース。

 青灰色のハンカチ。

 端には、今日の進行表らしい紙。


『今日は取材多い』


 悠真は返信する。


『おつかれさまです』


『喉は?』


 既読。


『九割三分』


『理沙さん評価は?』


『九割』


『近づいてきましたね』


『本人評価が勝ってる』


『勝負なんですか』


『少し』


 いつものやり取り。

 けれど、悠真の中には昼のインタビュー記事が残っていた。


 送るべきか迷う。

 いきなり古い記事の話をしたら、彼女を不安にさせるかもしれない。


 でも、黙って読むのも少し違う気がした。


 悠真は、ゆっくり打った。


『三崎が、昔のインタビュー記事を見つけました』


 既読。


 しばらく返事が来なかった。


 やはり触れないほうがよかったかと思ったころ、短く返ってきた。


『どれ?』


 悠真は記事のタイトルを送る。


 既読。


 長い沈黙。


 そして、


『ああ』


 それだけ。


 その二文字に、何とも言えない重さがあった。


『読んでもいいですか』


 送る。


 しばらくして、


『読まれるの怖い』


 さらに、


『でも、読んでいい』


 やっぱり両方だった。


『無理に読みません』


『違う』


『読んで』


『でも、読み終わったら持って帰ってきて』


 悠真は、会社のデスクで静かに息を吐いた。


『分かりました』


『持って帰ります』


 既読。


『あの頃の私、たぶんすごく笑ってる』


『はい』


『でも、少し嘘ついてる』


 その一文で、胸が痛くなった。


 笑いながら少し嘘をついている。


 しらいさん自身が、そう言った。


『嘘を責めるつもりはありません』


 悠真はすぐに打った。


『責めないで』


『でも、見て』


『はい』


『ちゃんと見ます』


 既読。


 返事は来なかった。


 たぶん、彼女は仕事に戻ったのだろう。


 悠真も仕事へ戻った。

 けれど、胸の奥には今夜読むことになる古い記事の気配が残り続けていた。


    ◇


 夜、悠真は部屋に戻ってから、まずマグカップの写真を撮った。


 青灰色のコースター。

 しらいさんのマグカップ。

 いつもの場所。


『帰りました』


『今日もあります』


 送る。


 既読はすぐについた。


『見た』


『先に写真くれるの、助かる』


『これから読みます』


 既読。


『うん』


『私はちょっと怖いので、仕事の確認してる』


『終わったら教えて』


『はい』


 悠真はスマホを置き、ノートパソコンを開いた。


 三崎が昼に見せてくれた古いインタビュー記事を開く。


 画面に、数年前の白瀬アカリの写真が出る。


 今より少し若い。

 髪型も違う。

 表情は明るい。

 でも、どこかきっちりしている。


 見出しには、前向きな言葉が並んでいた。


 作品への思い。

 これから挑戦したいこと。

 周囲への感謝。

 役者としての責任。


 どれも間違っていない。

 丁寧で、誠実で、好感が持てる。


 けれど、読み進めるほど、悠真は少しずつ胸が苦しくなった。


『大変なときはどう乗り越えていますか?』


『あまり大変だと思わないようにしています。現場には素敵な方がたくさんいるので、毎日楽しく学ばせていただいています』


『弱音を吐くことはありますか?』


『あまりないかもしれません。弱音を吐く前に、まず自分ができることを探すタイプです』


『自分を一言で表すと?』


『前向き、でしょうか。落ち込んでも長く引きずらないようにしています』


 綺麗な答えだった。


 綺麗すぎて、少し苦しい。


 今の悠真は知っている。


 彼女は弱音を吐く。

 吐けるようになった。

 怖いと言えるようになった。

 戻りたいと言えるようになった。


 けれど、このころの白瀬アカリは、そういう言葉を仕事の場所に持ち込めなかったのかもしれない。


 弱くないふり。

 大丈夫なふり。

 前向きなふり。


 嘘ではない。

 たぶん、本当に前向きな部分もある。

 本当に感謝していたのだと思う。


 でも、本音全部ではない。


 悠真は、記事の途中で一度スクロールを止めた。


 画面の中の白瀬アカリは、笑っている。


 とても綺麗に。

 とても丁寧に。


 その笑顔が、今の悠真には少しだけ痛かった。


 記事を最後まで読んだ。


 インタビューの最後には、これからの目標についてこう答えていた。


『見てくださる方に、元気を届けられる人になりたいです』


 悠真は、その一文をしばらく見つめた。


 きっと本心だ。

 それは嘘ではない。


 でも、元気を届ける人は、元気でいなければならないと、彼女はどこかで思っていたのかもしれない。


 自分が疲れていることを隠して。

 不安なことを隠して。

 弱さを隠して。


 白瀬アカリとして笑っていた。


 悠真は、深く息を吐いた。


 そして、スマホを手に取る。


『読みました』


 送る。


 既読は、すぐにはつかなかった。


 五分ほどして、既読。


『どうだった?』


 短い問い。


 悠真は、しばらく考えた。


 軽く答えることはできない。

 でも、重くしすぎるのも違う。


『綺麗な答えが多かったです』


『丁寧で、前向きで』


『でも、少し苦しかったです』


 既読。


 長い沈黙。


 やがて、


『やっぱり』


 と返ってきた。


『どこが?』


 悠真は少し迷ってから打つ。


『弱音を吐く前に、自分ができることを探すタイプ、と答えていたところです』


『今のしらいさんを知っているから、少し苦しかったです』


 既読。


 返事はなかなか来なかった。


 悠真は、余計なことを言ったかもしれないと思った。

 でも、送った言葉は嘘ではない。


 やがて、しらいさんから返ってきた。


『あの頃、本当にそう思ってた』


『弱音吐く前に、何とかしなきゃって』


『それが正しいと思ってた』


 悠真は、画面を静かに見つめる。


『今は?』


 送る。


 既読。


『今も、最初はそう思う』


『でも、春日くんに送る前に、一回止まれる』


『怖いって言ってもいいかなって考えられる』


 胸が熱くなる。


『言ってください』


『怖いときは』


『弱音でも』


『ただの愚痴でも』


 既読。


『それ、今の私には効く』


『ならよかった』


『出た』


 いつもの言葉が返ってきたことで、少しだけ救われた。


    ◇


 少しして、電話が来た。


 悠真はすぐに出た。


「もしもし」


「春日くん」


 声は、少し疲れていた。

 でも、話したいという意志があった。


「読みました」


「うん」


「大丈夫ですか」


「大丈夫じゃないけど、大丈夫」


「それは大丈夫ではないですね」


「でも、話したい」


「はい」


 しらいさんは、少し息を整えた。


「あの記事、覚えてる」


「はい」


「撮影の合間に受けた取材で、すごく時間がなくて」


「うん」


「でも、ちゃんと答えなきゃって思ってた」


「はい」


「前向きなことを言わなきゃって」


「はい」


「白瀬アカリとして、ちゃんとしてなきゃって」


 その声は、静かだった。


 過去の自分を責めるというより、ようやく少し距離を置いて見ているような声だった。


「嘘ではなかったんですか」


 悠真が聞くと、しらいさんは少し黙った。


「嘘じゃない」


「はい」


「でも、全部じゃない」


「……はい」


「楽しい現場もあった。感謝も本当。前向きでいたいのも本当」


「はい」


「でも、怖いとか、疲れたとか、誰かに少し寄りかかりたいとか」


「はい」


「そういうのは、なかったことにしてた」


 悠真は、ローテーブルのマグカップを見る。


「なかったことには、なりませんでしたね」


「うん」


「今は?」


「今は……少しずつ、あることにしてる」


 その言葉に、悠真は胸の奥が温かくなるのを感じた。


「それでいいと思います」


「春日くんは、そう言うと思った」


「はい」


「でも、昔の私を見て、嫌にならなかった?」


「なりません」


「強がってる白瀬アカリ」


「嫌にはなりません」


「前向きなふりしてる私」


「嫌ではないです」


「……」


「ただ、少し抱きしめたくなりました」


 言ってから、悠真は自分で固まった。


 電話の向こうも静かになった。


「すみません」


「謝らないで」


「はい」


「今の、かなりだめ」


「うれしいほうですか」


「うん」


 しらいさんの声が少し揺れた。


「あの頃の私、誰にもそう言われなかった」


「……」


「いや、言われても受け取れなかったと思う」


「はい」


「でも、今の春日くんにそう言われると」


「はい」


「あの頃の私まで、少し助かる気がする」


 悠真は、何も言えなくなった。


 古いインタビューを読むこと。

 過去作を観ること。

 それはただ過去を追うだけではないのかもしれない。


 今の自分が、過去の彼女を見つける。

 そして今の彼女が、それを受け取る。


 時間は戻らない。

 けれど、過去の意味は少し変わる。


「しらいさん」


「何」


「あの記事の白瀬アカリも、ちゃんと今につながっていました」


「うん」


「少し嘘をついていたかもしれないけど」


「うん」


「でも、ちゃんと立っていました」


「……うん」


「だから、嫌にはなりません」


「うん」


「むしろ、今のしらいさんが怖いって言えるようになったことが、すごく大きいことなんだと思いました」


 電話の向こうで、彼女が小さく息を吸った。


「春日くん」


「はい」


「今日、正式予約」


「泣く予約ですか」


「うん」


「分かりました」


「今日は泣かないけど」


「はい」


「今度、部屋で正式に泣く」


「ティッシュ用意します」


「ミルクティーも」


「もちろん」


「ハンカチも」


「青灰色の?」


「うん」


「分かりました」


 しらいさんは少し笑った。


 泣きそうなのに、笑っていた。


「春日くん」


「はい」


「持って帰ってきてくれてありがとう」


「こちらこそ、読ませてくれてありがとうございます」


「お礼合戦」


「ですね」


「今日は引き分けじゃなくて」


「はい」


「春日くんの勝ち」


「何にですか」


「昔の私をちゃんと見つけたから」


 その言葉に、悠真は胸が熱くなった。


「勝ちなら、嬉しいです」


「うん」


「でも、次はしらいさんが勝ってください」


「何で?」


「部屋でちゃんと泣けたら」


 しらいさんは一瞬黙り、それから小さく笑った。


「それ、勝ちなの?」


「たぶん」


「じゃあ、頑張る」


「泣くのを頑張るって変ですね」


「変だけど、今の私には必要」


「はい」


「必要です」


    ◇


 通話を終えたあと、悠真はしばらく動けなかった。


 古いインタビューの記事は、まだパソコンの画面に残っている。

 そこには、前向きに笑う白瀬アカリがいる。


 少し嘘をついていた白瀬アカリ。

 でも、嘘だけではなかった白瀬アカリ。


 悠真は画面を閉じた。


 そして、棚からしらいさんのマグカップを下ろし、青灰色のコースターに置く。


 ことん。


 小さな音。


 過去の記事の中にいた彼女から、今のしらいさんの場所へ戻ってくる音だった。


 写真を撮って送る。


『持って帰ってきました』


 既読。


 少しして、返事が来た。


『おかえり』


 それから、もう一通。


『今度、正式予約使いに行く』


 悠真は静かに返信した。


『待ってます』


 既読。


『知ってる』


 いつもの言葉。


 でも今夜は、少しだけ過去まで届いている気がした。

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