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第66話 過去の君を追いかけるたび、今の君が少し震えた

 白瀬アカリの過去作を一つ観ると、不思議なことに、次の作品のタイトルが目に入るようになった。


 配信サイトのおすすめ欄。

 映画情報アプリの関連作品。

 SNSに流れてくる切り抜き動画。

 インタビュー記事の中に出てくる出演歴。


 今までなら、ただ通り過ぎていたはずの名前やサムネイルが、急に輪郭を持って見える。


 春日悠真は、その感覚に少し戸惑っていた。


 白瀬アカリを追っている。


 そう思うと、少し変な気分だった。


 恋人であるしらいさんを知っているのに、配信サイトの一覧で白瀬アカリの過去作を探している。

 部屋には彼女のマグカップがあり、スマホには昨日の「おかえり」の文字が残っているのに、画面の中ではまだ出会う前の彼女が笑っている。


 同じ人なのに、知らない人みたいだった。


 朝、いつものようにマグカップの写真を送る。


『今日もあります』


 既読は少し遅れてついた。


『見た』


 続けて、


『今日は少し左に寄ってる』


 悠真は写真を見返した。


 確かに、コースターがいつもより数センチ左に寄っている。


『よく分かりますね』


『私の場所なので』


 その返事に、少し笑ってしまう。


『直します』


『直した写真ください』


 言われた通り、コースターの位置を整え、もう一枚撮って送る。


『百点』


『ありがとうございます』


『今日、観る?』


 悠真は、そこで手を止めた。


 何を、とは聞かなくても分かる。


 過去作のことだ。


『観るかもしれません』


 送る。


 既読。


 少し間が空く。


『どれ?』


 悠真は、配信サイトで見つけていたドラマのタイトルを送った。

 前に三崎が観たものとは別の、三年前の連続ドラマ。白瀬アカリは主演ではなく、主人公の友人役らしい。


 既読がついたまま、しばらく返事が来ない。


 朝の支度をしながら待っていると、ようやく短い文が届いた。


『それは、ちょっと怖い』


 悠真は鞄に手を伸ばしかけて、動きを止めた。


『観ないほうがいいですか』


 送る。


 返事はすぐだった。


『違う』


『観てほしい』


『でも怖い』


 最近、何度も出てくる形だった。


 怖い。

 でも、してほしい。


 彼女はもう、片方だけで気持ちを片づけようとしない。


『どこが怖いですか』


 既読。


 少しして、


『あの頃の私は、今よりもっと上手に隠してるつもりだった』


 その一文に、悠真はしばらく返事ができなかった。


 上手に隠しているつもり。


 何を、とは聞かなかった。


 たぶん、疲れも、寂しさも、弱さも。

 白瀬アカリとして見せたくないものを、全部。


『分かりました』


『ちゃんと作品として観ます』


『でも、感じたことは持って帰ります』


 既読。


『うん』


『持って帰ってきて』


 その言葉を見て、悠真はスマホをポケットにしまった。


 今日は、白瀬アカリの過去へ少しだけ行く。

 そして、しらいさんの場所へ戻ってくる。


 そんな一日になる気がした。


    ◇


 昼休み、三崎はスマホを片手に妙な顔をしていた。


「春日」


「何」


「白瀬アカリ、沼深くない?」


 悠真は、弁当の蓋を開けながら一瞬だけ固まった。


「いきなり何だよ」


「過去作追い始めたら、止まらなくなるタイプの人だわ」


「お前も観てるのか」


「昨日もう一本観た」


「早いな」


「いや、気になるだろ。今の映画観たあとだと、前の作品で何してたのか見たくなる」


 それは、悠真にも分かる。


 分かるからこそ、少し困る。


「で、何観たんだ」


 三崎がタイトルを言う。

 悠真が今夜観ようとしているものとは違うが、同じくらい前の作品だった。


「その頃、まだちょっと固いんだよな」


「固い?」


「芝居が。いや、下手って意味じゃなくて。たぶん丁寧すぎる」


「……」


「でも、その丁寧さが逆にいい場面もある。ちゃんと間違えないように立ってる感じ」


 悠真は、思わず箸を止めた。


 ちゃんと間違えないように立ってる。


 その言葉が、朝のしらいさんのメッセージと重なった。


 今よりもっと上手に隠してるつもりだった。


 三崎は何も知らずに、白瀬アカリの演技からそれを拾っている。


「お前、本当に見てるな」


「見てるよ。お前が勧めたんだから」


「勧めた覚えは少ししかない」


「でも、好きなんだろ?」


「……作品は好きだ」


「また面倒くさい言い方」


「うるさい」


 三崎は笑ったあと、少しだけ真面目な顔になった。


「でも、過去作追うの楽しいけどさ」


「うん」


「本人が変わっていくの見えるの、ちょっと不思議だよな」


「……そうだな」


「今の映画の白瀬アカリだけ見てたら完成形っぽく見えるけど、昔の見ると、ちゃんと途中がある」


 たどり着くまでの途中。


 前にも三崎はそう言った。


 悠真の胸の奥に、また小さな痛みが生まれる。


 自分が出会ったしらいさんにも、途中がある。

 春日悠真が知らない時間。

 河川敷に来る前の時間。

 白瀬アカリとして笑い、隠し、立ち続けてきた時間。


 それを作品越しに追いかけることは、嬉しい。

 でも少しだけ、遅れてきたような寂しさもある。


「春日、今日も深い穴」


「顔で言うな」


「ほんと分かりやすいな」


「三崎」


「何」


「過去作を観るのって、本人の過去を覗くみたいで少し怖くならないか」


 三崎は少し目を丸くした。


 それから、カフェラテを一口飲んで考える。


「まあ、本人じゃなくて作品だけどな」


「それはそうなんだけど」


「でも、少し分かる。昔の作品って、その時期の空気みたいなの残るし」


「……」


「ただ、作品として残ってるものだから、観ていいんじゃね。見られるために出てるんだし」


 その通りだった。


 白瀬アカリが出演した作品は、見られるためにある。

 そこに出ている彼女は、観客に見られる仕事をしている。


 けれど、悠真にはもう、それだけでは済まない。


「でも、お前がそんなふうに考えるの、悪くないと思うぞ」


 三崎が言った。


「何が」


「雑に消費してないってことだろ」


 悠真は少しだけ目を上げた。


「雑に?」


「過去作いっぱいあるから流し見しよ、じゃなくて、その頃の白瀬アカリをちゃんと見ようとしてるんだろ」


「……たぶん」


「なら、いいファンじゃね」


 いいファン。


 しらいさんも似たことを言った。


 面倒くさいけれど、いいファン。


 悠真は少しだけ笑った。


「面倒くさいファンだけどな」


「自覚出てきたな」


「お前が言うからだ」


「俺のおかげ」


「調子に乗るな」


 三崎は満足そうにサンドイッチを食べた。


    ◇


 夜、悠真は部屋の明かりを落としすぎないようにして、過去作を再生した。


 完全に映画を見る態勢ではなく、少し日常を残す。

 ローテーブルには自分のカップ。

 その横には、しらいさんのコースター。

 マグカップは棚にある。


 彼女からは、開始前に一通だけ届いていた。


『観てる間、私は連絡しない』


『終わったら教えて』


 悠真は、


『分かりました』


 と返して、再生した。


 画面の中の白瀬アカリは、今より少しだけ幼く見えた。


 年齢の問題だけではない。

 表情の作り方、台詞の置き方、笑顔の硬さ。

 どこか、全身に薄い力が入っている。


 役は明るくて、優しくて、主人公を励ます友人だった。

 物語の空気を軽くする存在。

 笑う場面が多く、台詞も前向きなものが多い。


 けれど、三崎が言ったように、目の奥に時々別のものが見えた。


 台詞では「大丈夫」と言っている。

 笑っている。

 相手を励ましている。


 でも、その笑顔の終わりに、ほんの一瞬だけ、静かな影が落ちる。


 それが役の演出なのか、当時の白瀬アカリの癖なのか、悠真には分からない。


 分からないけれど、見えてしまう。


 そこに、自分が知らない彼女がいる。


 今のしらいさんより、もっと遠い。

 映画の舞台挨拶で見た白瀬アカリより、さらに遠い。


 過去だからだ。


 もう戻れない時間の中にいる白瀬アカリ。


 悠真は、途中で一度だけ停止ボタンを押した。


 画面には、白瀬アカリが笑いかけている場面が止まっている。


「……若いな」


 思わず呟いてしまった。


 しらいさんが聞いたら怒るかもしれない。

 いや、たぶん自分でも言う。


 若い。


 でも、その若さの中に、今の彼女に繋がるものがある。


 悠真は再生を再開した。


 最終話まで一気に観る時間はなかったので、今日は数話だけで止めるつもりだった。

 それでも、気づけば予定より長く観ていた。


 作品そのものが面白いということもある。

 でもそれ以上に、白瀬アカリの途中を見逃したくなかった。


 数話を観終えたところで、悠真はスマホを手に取った。


『今日は三話まで観ました』


 既読はすぐについた。


 たぶん、待っていたのだろう。


『どうだった?』


 短い問い。


 でも、画面の向こうで彼女が緊張しているのが分かる。


 悠真はゆっくり打った。


『今より少し硬かったです』


 送ってから、少しだけ怖くなる。


 でも、嘘はつきたくなかった。


 既読。


 しばらく返事は来ない。


 悠真は続けた。


『でも、その硬さが悪いわけではなくて』


『ちゃんと立とうとしている感じがしました』


『間違えないように、丁寧に笑っている感じです』


 既読。


 長い間が空く。


 やがて、


『見られた』


 と返ってきた。


 昨日と同じ言葉。


 でも今日は、少し違う重さがあった。


『嫌でしたか』


『嫌じゃない』


『でも、そこ見られるの怖い』


 悠真は画面を見つめた。


『三崎も、似たことを言っていました』


『ちゃんと間違えないように立っている感じ、と』


 既読。


『三崎さんまで』


 少しだけ拗ねたような文に見えた。


『すみません』


『違う』


『怖いけど、ちょっと嬉しい』


『ちゃんと見てくれてるんだね』


 悠真は、胸の奥が少し温かくなった。


『三崎は作品として見ています』


『俺も作品として見ています』


『でも、俺は少しだけ今のしらいさんにも繋げて見ています』


 既読。


『うん』


『春日くんは、そう見ると思った』


『嫌ですか』


『嫌じゃない』


『怖い』


『でも、嫌じゃない』


 その言葉を読んで、悠真は少しだけ息を吐いた。


 怖いけれど、嫌じゃない。


 これもまた、両方なのだ。


    ◇


 そのあと、通話がつながった。


 今日はしらいさんのほうからかけてきた。

 声は少し緊張している。


「もしもし」


「春日くん」


「はい」


「硬かった?」


 第一声がそれだったので、悠真は少し笑いそうになった。


「そこからですか」


「そこから」


「はい。少し」


「うん」


「でも、悪い意味ではありません」


「うん」


「あの頃の白瀬アカリが、ちゃんと役に向き合っていた感じがしました」


「……」


「ただ、今より少し、力が入っているように見えました」


 電話の向こうで、彼女が静かに息を吐いた。


「入ってたと思う」


「はい」


「その頃、いろいろ必死だった」


「……」


「失敗したくなくて、迷惑かけたくなくて、ちゃんとした白瀬アカリでいなきゃって思ってた」


 悠真は、ローテーブルのコースターを見る。


「今も、ちゃんとしようとしていますよね」


「うん。でも今は、少しだけ力を抜く場所がある」


「はい」


「その頃は、抜き方が分からなかった」


 しらいさんの声は静かだった。


 懐かしむというより、遠くの自分を見ているような声。


「春日くんに見られるの、怖かった」


「はい」


「あの頃の私、今よりもっと弱い気がするから」


「弱いというより」


「うん」


「一人で立とうとしている感じがしました」


 しらいさんは黙った。


 悠真は続ける。


「誰かに寄りかかることを、まだよく知らなかった人に見えました」


 言ってから、少し踏み込みすぎたと思った。


 けれど、しらいさんは怒らなかった。


 長い沈黙のあとで、小さく言った。


「春日くん」


「はい」


「それ、たぶん合ってる」


「……」


「悔しいけど」


「すみません」


「謝らないで」


 彼女は少し笑った。


「でも、今の私がそれを聞けるの、少し不思議」


「はい」


「あの頃の私は、春日くんのこと知らないのに」


「そうですね」


「今の私は、春日くんにあの頃を見られてる」


「はい」


「変な時間差」


「かなり」


 少しだけ、いつもの空気が戻る。


「春日くんの中で、私また増えた?」


「増えました」


「どう増えた?」


 悠真は少し考えた。


「ちゃんとしようとしていた白瀬アカリが増えました」


「……」


「少し硬くて、丁寧で、間違えないように笑っていた人」


「うん」


「今のしらいさんに繋がる途中の人」


 電話の向こうで、しらいさんが息を飲んだのが分かった。


「それ、今日かなりだめ」


「うれしいほうですか」


「うん」


「ならよかった」


「出た」


 彼女は小さく笑った。


 その笑い声は、少し泣きそうでもあった。


    ◇


 しばらく、二人は過去作の話をした。


 悠真が印象に残った場面を言うと、しらいさんはその撮影時のことを少しだけ話した。

 もちろん、仕事上話せる範囲で。

 それでも、画面の向こうにあったものが、少しだけ近くなる。


「あの廊下のシーン」


「あれ、実はすごく寒かった」


「そうなんですか」


「笑ってるけど、足元冷えきってた」


「それは気づきませんでした」


「役者なので」


「なるほど」


「でも、今見ると顔がちょっと硬い」


「自分でも思うんですか」


「思う」


「俺は、あの硬さもよかったです」


「春日くん、甘い」


「ファンなので」


「面倒くさいファン」


「認めます」


 しらいさんは笑った。


 その笑いは、さっきよりずっと軽かった。


「三崎さんとも、この話する?」


「すると思います」


「ざわつく?」


「少し」


「でも嬉しい?」


「はい」


「じゃあ、してきて」


「いいんですか」


「うん」


 しらいさんは少しだけ声を落とした。


「私の過去作を、春日くんが誰かと話すの、不思議だけど」


「はい」


「白瀬アカリの作品として話してくれるなら、嬉しい」


「はい」


「でも、しらいさんのことは、持って帰ってきて」


 昨日と同じ約束。


 悠真は静かに答えた。


「持って帰ります」


「うん」


「言えないことも」


「うん」


「感じたことも」


「うん」


「しらいさんに話します」


「待ってる」


「知ってます」


「また取られた」


 二人で少し笑った。


    ◇


 通話を切ったあと、悠真は棚からしらいさんのマグカップを下ろした。


 コースターの上に置く。


 ことん。


 今日も、戻ってきた音がした。


 過去の白瀬アカリを見た。

 少し硬くて、丁寧で、間違えないように立っていた人。


 その人も、今のしらいさんに繋がっている。


 悠真はスマホで写真を撮った。


 送る。


『持って帰ってきました』


 既読。


 しばらくして、返事。


『おかえり』


 昨日と同じ言葉。


 でも、今日は少しだけ意味が増えていた。


 白瀬アカリの過去から、しらいさんの今へ。


 ちゃんと戻ってこられた。


 悠真は、ローテーブルの上のマグカップを見ながら思った。


 彼女の過去を知ることは、きっとこれからも少し怖い。

 でも、そのたびにここへ戻ればいい。


 マグカップの音を聞いて、今のしらいさんを思い出せばいい。


 過去が増えるたび、今の彼女も少しずつ深くなる。


 そう思える夜だった。

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