第65話 ファン仲間みたいに話せるのに、いちばん大事なことだけ言えない
翌日の昼休み、三崎は唐揚げ弁当ではなかった。
珍しく、サンドイッチとカフェラテを持って休憩スペースに現れた。
春日悠真はその時点で、何かあるなと思った。
「春日」
「何」
「昨日、白瀬アカリの過去作を一本観た」
やっぱりあった。
悠真は箸を持ったまま、少しだけ止まる。
今日の弁当は焼き鮭弁当だ。箸を止めるには、少し地味なタイミングだった。
「早いな」
「気になったら早いタイプだから」
「仕事は?」
「そこは普通」
「威張るな」
三崎は向かいの席に座り、スマホを取り出した。
「これ。二年前のやつ。配信にあったから観た」
画面に映っているのは、白瀬アカリが出演していたドラマのサムネイルだった。
悠真もタイトルだけは知っている。けれど、まだ観ていなかった。
正確には、観るのを少しためらっていた。
今の映画を観ただけでも、胸の中がこんなに忙しい。
過去作まで観たら、知らない白瀬アカリがどんどん増えていく気がした。
でも三崎は、そんなことを知らない。
「どうだった?」
悠真が聞くと、三崎は少し首を傾げた。
「映画ほど重くはない。でも、白瀬アカリって昔から目の使い方うまいんだな」
「目?」
「うん。台詞より先に目で言う感じ」
その言い方に、悠真は少しだけ胸がざわついた。
しらいさんの目。
照れたとき、怒ったふりをするとき、泣きそうなのを我慢するとき。
言葉より先に、目が動く。
三崎はそれを、画面越しの演技から見ている。
「……よく見てるな」
「だろ」
「褒めてない」
「褒めろよ」
「半分は褒めてる」
「じゃあ半分受け取る」
三崎はカフェラテを飲んでから、続けた。
「あとさ、白瀬アカリって、明るい役のときのほうが逆に寂しそうに見える瞬間あるな」
悠真は、今度こそ箸を完全に止めた。
「……そんなところまで見るのか」
「いや、普通にそう見えたんだよ。笑ってる場面なのに、ふっと目だけ遠くなるというか」
「……」
「何その顔」
「いや」
「また面倒くさいファンの顔」
「最近そればっかりだな」
「だって本当にそういう顔するんだもん」
三崎は少し笑ったが、すぐに画面へ視線を戻した。
「でも、あれだな。過去作見ると、今の映画でかなり変わった感じする」
「どういう意味だ」
「うまくなった、って言うと偉そうだけど。深くなった感じ」
深くなった。
悠真は、その言葉を胸の中で繰り返した。
自分は過去作をちゃんと知らない。
今のしらいさんを知っている。
河川敷で出会ってからの彼女を知っている。
声が出なくなりそうな夜を知っている。
部屋で「ただいま」と言った彼女を知っている。
でも、三崎は違う。
過去の白瀬アカリから、今の白瀬アカリへの変化を、ただの観客として見ている。
そのことが、少し悔しいような、不思議なような、羨ましいような気がした。
「春日も観た?」
三崎が聞く。
「まだ」
「観てないのか」
「ああ」
「意外。ファンなら履修済みかと」
「履修って言うな」
「いや、ファン界隈ってそう言うんじゃないの」
「知らん」
「面倒くさい新規ファン」
「うるさい」
三崎は楽しそうに笑った。
「でも、観たほうがいいぞ。今の映画観たあとだと、違いが分かって面白い」
「そうか」
「うん。なんか、あの人が今の映画にたどり着くまでの途中って感じがする」
その言い方は、かなり刺さった。
たどり着くまでの途中。
白瀬アカリにも、当然、春日悠真が知らない時間がある。
映画やドラマに出て、失敗して、評価されて、悩んで、積み重ねてきた時間。
その全部の先に、今のしらいさんがいる。
恋人としては、今の彼女を知っている。
けれどファンとしては、過去の彼女をまだ知らない。
それは少し、変な穴のようだった。
「観てみる」
悠真が言うと、三崎は少し満足げに頷いた。
「おう。感想言い合おうぜ」
感想を言い合う。
その言葉に、悠真は少しだけ動揺した。
白瀬アカリの作品について、三崎と感想を言い合う。
それは、普通のファン同士の会話だ。
楽しそうだと思ってしまった。
同時に、少し苦しくもなった。
三崎は何も知らない。
自分が今朝もしらいさんのマグカップを撮って送ったことも、彼女の鞄に自分のカードが入っていることも、昨夜「ざわついた」と伝えたことも知らない。
その秘密を抱えたまま、ファン仲間みたいに話す。
嬉しい。
でも、言えないことが多すぎる。
「春日?」
「何」
「また深い穴に落ちた顔してる」
「顔の種類が増えてきたな」
「お前が増やしてる」
「別に」
「感想言い合うの嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ何」
悠真は、しばらく答えを探した。
言える範囲で。
嘘にならない範囲で。
「白瀬アカリのこと、好きになればなるほど、話すのが難しくなる」
三崎は少しだけ黙った。
からかうかと思ったが、しなかった。
「それ、わりと分かるかも」
「分かるのか」
「推しって、語りたいけど語れない部分あるだろ。軽く言われたくないとか、自分でも言葉にできないとか」
「……そうだな」
「でもまあ、言える範囲でいいんじゃね」
「言える範囲」
「全部言う必要ないだろ。好きな場面だけ言えば」
悠真は、少しだけ息を吐いた。
全部言う必要はない。
当たり前のことなのに、少し救われた。
「そうする」
「おう。まず観ろ」
「分かった」
「宿題な」
「先生か」
「ファン仲間として」
ファン仲間。
その言葉を聞いた瞬間、胸の中に小さな温かさと、小さな痛みが同時に生まれた。
悠真は、それを隠すように焼き鮭を口に運んだ。
◇
午後、悠真はしらいさんにメッセージを送った。
『三崎が過去作を観始めました』
既読はすぐについた。
『え』
『早い』
『俺もそう思いました』
『どれ?』
悠真はタイトルを送った。
少し間が空く。
『懐かしい』
『しらいさん的には?』
『若い』
『二年前ですよね』
『若い』
『厳しい』
『理沙さんもたぶん若いって言う』
悠真は少し笑った。
『三崎は、目の使い方がうまいと言っていました』
既読。
しばらく返事がない。
言いすぎただろうかと思ったころ、返ってきた。
『三崎さん、ちゃんと見てる』
『はい』
『少し怖い』
『嫌ですか』
『嫌じゃない』
『でも怖い』
その気持ちは、何となく分かった。
自分が知らない誰かに、仕事をちゃんと見られること。
褒められること。
それは嬉しいけれど、無防備でもある。
『明るい役のときのほうが、寂しそうに見える瞬間があるとも言っていました』
送ってから、少しだけ迷った。
これは伝えるべきだったのか。
既読。
長い沈黙。
そして、
『そこ見られるの、かなり恥ずかしい』
と返ってきた。
『すみません』
『謝らないで』
『でも三崎さん、やっぱりちゃんと見てる』
『そうですね』
『春日くんは観た?』
『まだです』
『観る?』
『観ようと思います』
既読。
少し間。
『怖い』
短い言葉だった。
『しらいさんが?』
『うん』
『昔の私、春日くんに見られるの怖い』
悠真は、会社のデスクで少しだけ姿勢を正した。
過去作。
今より若い白瀬アカリ。
今のしらいさんに至るまでの途中。
それを見ることが、彼女にとって怖い。
『観ないほうがいいですか』
送る。
返事はすぐだった。
『それは違う』
続けて、
『観てほしい』
『でも怖い』
悠真は、画面を見ながら静かに頷いた。
やっぱり両方なのだ。
『両方ですね』
『うん』
『俺も、観たいです』
『でも少し怖いです』
『何が?』
『今のしらいさんを知っているのに、過去の白瀬アカリを見ることです』
既読。
『それ、分かる』
『春日くんの中で、私が増える』
『はい』
『また増えます』
少し間が空く。
『増えても大丈夫?』
悠真は、しばらくその文を見つめた。
増えても大丈夫か。
河川敷のしらいさん。
部屋のしらいさん。
声が出ない日のしらいさん。
舞台の白瀬アカリ。
映画の役の人。
そして、過去作の白瀬アカリ。
確かに、どんどん増えていく。
『大丈夫かは、まだ分かりません』
悠真は正直に打った。
『でも、見たいです』
『増えても、ちゃんと今のしらいさんに戻ってきます』
既読。
返事は、少し遅れて来た。
『それ、かなり効く』
『ならよかった』
『出た』
いつものやり取りに戻ったことで、少しだけ安心した。
◇
その夜、悠真は過去作を観た。
部屋の明かりを少し落とし、ローテーブルの上にマグカップを置く。
もちろん、しらいさんのカップではなく自分のカップだ。
しらいさんのマグカップは棚にある。
ただ、青灰色のコースターはいつもの位置に残してある。
配信サイトで、三崎が観たというドラマを開く。
再生ボタンを押す前に、しらいさんへ短く送った。
『今から観ます』
すぐ既読。
『心臓に悪い』
『しらいさんは観なくていいです』
『観ない』
『でも気になる』
『実況しましょうか』
『だめ』
『集中して観て』
『分かりました』
少し間。
『でも、終わったら教えて』
『はい』
『怖いけど』
『はい』
『観てくれてありがとう』
悠真は、その言葉を見てから再生ボタンを押した。
画面の中に、二年前の白瀬アカリが現れた。
今より少し雰囲気が柔らかい。
髪型も違う。
声の響きも、どこか若い。
けれど、目は同じだった。
完全に同じではない。
でも、ふとした瞬間に、今のしらいさんと繋がる目をする。
三崎が言っていたことが分かった。
明るく笑っている場面。
軽い台詞を言う場面。
周囲に合わせて楽しそうに振る舞う場面。
その中で、一瞬だけ目が遠くなる。
役としての演技なのだろう。
でも、今の悠真にはどうしても、白瀬アカリ本人の奥行きにも見えてしまう。
演技と本人を簡単に混ぜてはいけない。
それは分かっている。
それでも、画面の中の彼女を見ながら、悠真は思った。
この人は、ずっと一人で立ってきたのかもしれない。
作品ごとに、役ごとに、少しずつ自分の呼吸を探してきたのかもしれない。
そして今、河川敷で缶チューハイを飲む地味なお姉さんになって、ようやく少しだけ息を抜いたのかもしれない。
ドラマが終わったあと、悠真はしばらく画面を止めたまま動かなかった。
重い作品ではない。
泣くような話でもない。
でも、胸に残った。
今の映画とは違う。
完成度も、熱量も、役の重さも違う。
けれど、そこに確かに途中の彼女がいた。
白瀬アカリが、今にたどり着くまでの途中。
悠真はスマホを手に取った。
『観終わりました』
すぐ既読。
『どうだった?』
短い問い。
悠真は少し考えてから打った。
『若かったです』
既読。
『最初それ?』
『しらいさんが言っていたので』
『それは私が言うやつ』
悠真は少し笑った。
それから、ちゃんと続けた。
『今の映画とは違いました』
『でも、今につながっている感じがしました』
『三崎が言っていた、途中という意味が少し分かりました』
既読。
しばらく返事はない。
さらに送る。
『明るい役なのに、ふと寂しそうに見える瞬間がありました』
『そこがすごく印象に残りました』
既読。
長い沈黙。
やがて、
『見られた』
とだけ返ってきた。
悠真は胸が少し痛くなった。
『嫌でしたか』
『嫌じゃない』
『でも、見られたって感じ』
その言葉が、妙に生々しかった。
白瀬アカリの過去作を観ただけなのに。
彼女は、何かを見られたように感じている。
『見ました』
悠真は打った。
『でも、覗いたつもりではありません』
『作品として見ました』
『それでも、少ししらいさんを感じました』
既読。
『うん』
『それでいい』
『たぶん』
少し間。
『春日くんの中の私、また増えた?』
『増えました』
『怖い?』
『少し』
『嬉しい?』
『かなり』
既読。
『ずるい返し』
『本当なので』
『知ってる』
◇
そのあと、短い通話をした。
しらいさんは仕事終わりで疲れていたが、どうしても声で少し聞きたいと言った。
「もしもし」
「春日くん」
「観ました」
「うん」
「過去のしらいさんを」
「白瀬アカリね」
「はい。過去の白瀬アカリを」
「……どうだった?」
「今より、少し危うかったです」
電話の向こうが静かになる。
「危うい?」
「はい。明るいのに、どこか無理してるように見える瞬間がありました」
「……」
「役として、そういう演技だったのかもしれません」
「うん」
「でも、今の映画より、まだ隠し方が少し剥き出しだった気がしました」
しらいさんは、長く黙った。
言いすぎたかもしれない。
けれど、やがて彼女は静かに言った。
「春日くん、ほんとに面倒くさいファン」
「すみません」
「謝らないで」
「はい」
「でも、ちゃんと見てる」
「見ました」
「怖い」
「……」
「でも、嬉しい」
その声は、少し震えていた。
「二年前の私、今の春日くんに見られると思ってなかった」
「それはそうですね」
「変なの」
「はい」
「でも、あの頃の私も、今の春日くんに見つけてもらえたんだね」
悠真は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「見つけました」
「うん」
「遅れて」
「うん」
「でも、ちゃんと」
しらいさんは、小さく息を吐いた。
「それ、かなりだめ」
「うれしいほうですか」
「うん」
「ならよかった」
「出た」
いつもの言葉に戻る。
そのたび、二人とも少し安心している気がした。
「三崎さんとも感想言い合うの?」
「たぶん」
「ファン仲間」
「そうなりそうです」
「嬉しい?」
「嬉しいです」
「苦しい?」
「少し」
「秘密があるから?」
「はい」
悠真は正直に答えた。
「白瀬アカリについて、三崎と普通に話せるのは嬉しいです」
「うん」
「でも、いちばん大事なことだけ言えないのは、少し苦しいです」
「……うん」
「しらいさんのことを知っているのに、知らないふりをするので」
「うん」
「でも、三崎に嘘をついているわけでもないと思いたいです」
しらいさんは少しだけ黙った。
「春日くん」
「はい」
「言える範囲でいいと思う」
昼間、三崎に言われたことと同じだった。
「三崎にも同じことを言われました」
「また被った」
「はい」
「うるさい同僚さん、たまにいいこと言う」
「たまに」
「そこは認めるんだ」
「たまには」
しらいさんが少し笑う。
「全部は言えない」
「はい」
「でも、白瀬アカリの作品が好きってことは言える」
「はい」
「演技がよかったってことも言える」
「はい」
「それは嘘じゃない」
「……そうですね」
「そして、言えないところは、今は大事にしまっておく秘密」
悠真は、少しだけ目を閉じた。
前に二人で話した言葉だ。
秘密は、隠すだけではなく、大事にしまっておくことでもある。
「はい」
「だから、ファン仲間してきて」
「いいんですか」
「うん」
「少しざわつきませんか」
「ざわつく」
「いいんですか」
「いい」
彼女は少しだけ声を柔らかくした。
「春日くんが、白瀬アカリのことを誰かと話せるの、少し嬉しい」
「……」
「でも、しらいさんのことは、私のところに持って帰ってきて」
悠真は、ローテーブルの青灰色のコースターを見る。
「持って帰ります」
「うん」
「ファン仲間として話したことも」
「うん」
「言えなかったことも」
「うん」
「しらいさんに話します」
「待ってる」
「知ってます」
「取られた」
彼女が少し笑う。
その笑い声を聞いて、悠真の胸の苦しさが少しだけほどけた。
◇
通話を終えたあと、悠真はしらいさんのマグカップを棚から下ろした。
今日はもう写真を送る時間ではない。
でも、コースターの上に置きたかった。
ことん。
小さな音がする。
過去作の白瀬アカリを見た。
三崎とファン仲間のように話す約束をした。
その嬉しさと苦しさを、しらいさんに話した。
言えないことは、まだ多い。
でも、言えることも少しずつ増えている。
悠真はスマホを手に取り、写真を撮った。
マグカップとコースター。
いつもの場所。
送信。
『持って帰ってきました』
しばらくして既読がついた。
返事は短かった。
『おかえり』
悠真は、その文字を見て少し笑った。
今日は自分が言われる番だった。
白瀬アカリの過去から、しらいさんの場所へ。
ちゃんと戻ってこられた。




