第64話 友人が君を褒めるたび、少しだけ胸がざわついた
月曜の昼休み、三崎はいつもより少しだけ得意げな顔をしていた。
春日悠真は、休憩スペースの席に着いた瞬間からそれに気づいていた。
いつもの唐揚げ弁当を前にしているのに、箸を持つ前から何か言いたそうな顔をしている。
嫌な予感というより、分かりやすい予感だった。
「春日」
「何」
「観た」
その一言で、悠真の箸が止まった。
何を、とは聞かなかった。
聞かなくても分かる。
三崎は待ちきれないように続けた。
「白瀬アカリの映画」
「……行ったのか」
「行った。昨日」
「本当に行ったんだな」
「行くって言っただろ」
「配信待ちにするかと思ってた」
「いや、お前が映画館で観たほうがいいって言うから」
悠真は、弁当の蓋を外しながら少しだけ息を整えた。
三崎が映画を観た。
普通のことだ。
世間で評判になっている映画を、同僚が休日に観に行っただけ。
それなのに、胸の奥が少し緊張している。
「で?」
三崎が身を乗り出す。
「何だよ」
「感想聞かないの?」
「聞く前提なのか」
「聞けよ。俺、今めちゃくちゃ言いたいんだから」
「じゃあ、どうだった」
そう言うと、三崎は一瞬だけ笑ったあと、妙に真面目な顔になった。
「よかった」
短い言葉だった。
いつものように茶化すでもなく、大げさに騒ぐでもなく、ただそう言った。
「かなりよかった」
悠真は、少しだけ目を伏せた。
嬉しい。
まず、それが来た。
白瀬アカリの映画が、三崎にも届いた。
作品として届いた。
演技として届いた。
それは素直に嬉しかった。
「そうか」
「お前が言ってた意味、分かったわ」
「何が」
「白瀬アカリを見に行ったのに、途中から白瀬アカリを忘れるってやつ」
悠真は、思わず三崎を見た。
「……分かったのか」
「うん。あれ、すごいな。途中から役の人として見てた。で、エンドロールで名前出て、あ、白瀬アカリだったって思い出した」
その感想は、悠真がしらいさんに伝えたものと近かった。
ただの観客である三崎も、同じように感じた。
それが嬉しい。
けれど、同時に少しざわつく。
三崎が白瀬アカリを見た。
しらいさんではなく、役の人として見た。
そして、すごいと言っている。
当然だ。
それが映画なのだから。
けれど悠真は、ほんの少しだけ、胸の奥に言いようのない感覚を覚えた。
「泣いた?」
悠真が聞くと、三崎は少しだけ顔をしかめた。
「泣いてはない」
「本当か?」
「ちょっと危なかっただけ」
「どこで」
「声出さずに泣くとこ」
悠真は、箸を持つ手を止めた。
そこか。
やっぱりそこなのか。
三崎は何も知らない。
しらいさんが声を出せなくなりかけた夜のことも、ホワイトボードのことも、泣く予約のことも知らない。
それでも、あの場面に揺さぶられた。
映画の力。
演技の力。
そして、白瀬アカリの力。
「お前もそこだったって言ってたよな」
「言った」
「あれ、きついわ。声出して泣くより、ずっと来る」
「……そうだな」
「何かさ、あの人、泣き方がうまいとかじゃないんだよ」
三崎は、唐揚げを箸でつつきながら言葉を探した。
「泣きたくない人が、耐えきれなくて泣いてる感じがした」
悠真は黙った。
三崎は続ける。
「演技なんだけど、演技っぽくないというか。ああいう人、いるよなって思った。平気な顔して、ほんとは全然平気じゃない人」
その言葉は、思っていたより深く刺さった。
しらいさんのことを言われているような気がした。
もちろん三崎は知らない。
知らないからこそ、余計に胸に来る。
「……そうか」
「何その顔」
「いや」
「また複雑そうな顔してる」
「映画の感想を聞いてるだけだろ」
「いや、お前、白瀬アカリ絡むと本当に古参ファンの顔になる」
「古参ではない」
「でも面倒くさいファン」
「それは認める」
「認めるんだ」
三崎は少し笑った。
「でも分かるわ。あれ見たら、面倒くさいファンになるのも分かる」
「どういう意味だよ」
「ただ『綺麗だった』『泣けた』で終わらせにくい映画だった」
悠真は、少しだけ頷いた。
それはよく分かる。
「お前、パンフ買った?」
三崎が聞く。
「買った」
「俺も買った」
「買ったのか」
「買った。インタビュー読みたくなって」
その瞬間、胸がまた少しざわついた。
三崎の部屋にも、白瀬アカリのパンフレットがある。
そこに載っている彼女の言葉を、三崎も読む。
何もおかしくない。
映画のパンフレットなのだから。
でも、悠真の部屋にあるパンフレットと、三崎の部屋にあるパンフレットは、同じものでありながら全然違うもののように感じた。
「インタビュー、よかったな」
三崎が言う。
「ああ」
「呼吸を取り戻す、みたいな話してたところ」
「……読んだのか」
「読むだろ、パンフ買ったんだから」
「そうだな」
三崎は、少しだけ眉を寄せた。
「白瀬アカリって、もっとキラキラした芸能人ってイメージだったんだけどさ」
「うん」
「案外、言葉が地に足ついてるんだな」
悠真は、その感想に少しだけ笑いそうになった。
地に足がついている。
そうだと思う。
河川敷で缶チューハイを飲みながら「本人じゃない」と言い張っていた人。
部屋でミルクティーを飲み、コースターの位置を採点する人。
声が出ない日にホワイトボードで強がる人。
キラキラしているだけではない。
ちゃんと生活の重さを持っている人だ。
「そういうところが、いいんだと思う」
悠真が言うと、三崎はにやっとした。
「ファンの顔」
「うるさい」
「いや、今のはいいファンの顔」
「いいファンって何だよ」
「ちゃんと見てるファン」
その言葉に、悠真は少しだけ黙った。
ちゃんと見てるファン。
しらいさんにも言われた。
これからも見て、と。
ファンとしても、恋人としても。
「……なら、いいけどな」
「何が?」
「いや」
三崎は、それ以上は聞かなかった。
唐揚げを一つ口に入れ、ふと思い出したように言う。
「そういえば、舞台挨拶どうだった?」
「よかった」
「白瀬アカリ、生で見るとすごかった?」
悠真は、あの日の舞台を思い出した。
照明の中へ歩いてきた彼女。
白瀬アカリとして微笑み、マイクを持ち、客席を見渡していた彼女。
遠かった。
でも、同じ人だった。
「すごかった」
「それだけ?」
「遠かった」
思わず口にしていた。
三崎が箸を止める。
「遠かった?」
「ああ」
「席が?」
「それもあるけど」
悠真は少しだけ言葉を選ぶ。
「芸能人なんだなって思った」
三崎は、少しだけ真面目な顔になった。
「そりゃそうだろ」
「そうなんだけど」
「でも実際に見ると違う?」
「違う」
「なるほどな」
三崎はお茶を飲み、少しだけ考えるように言った。
「遠い人を遠いって思うの、普通じゃね」
「普通か」
「白瀬アカリだぞ。近かったら逆に怖いだろ」
「……そうだな」
「でもお前、その遠さも含めて好きなんだろ」
悠真は、少しだけ息を止めた。
三崎にとっては、何気ない言葉だったのかもしれない。
でも、悠真にとってはかなり深いところへ来た。
遠さも含めて好き。
白瀬アカリの遠さ。
しらいさんの近さ。
両方を持つこと。
「たぶん、そうだ」
悠真は言った。
三崎は少し目を丸くしたあと、にやっと笑った。
「今日も素直」
「今日だけだ」
「毎回それ」
いつものやり取りに戻ったことで、悠真は少し救われた。
◇
午後、しらいさんからメッセージが来た。
『今日はどう?』
短い問い。
悠真は仕事の合間に少しだけ考えた。
どう、というのは体調でも仕事でもなく、たぶん気持ちのことだ。
『三崎が映画を観ました』
送る。
既読はすぐについた。
『え』
『本当に?』
『はい』
『感想言ってました』
少し間。
『聞きたいような怖いような』
悠真は少し笑った。
『よかったと言っていました』
『泣きそうになったとも』
既読。
『どこで?』
その問いが来ることは分かっていた。
『声を出さずに泣く場面です』
既読のまま、少し止まる。
やがて、
『三崎さんもそこか』
と返ってきた。
『はい』
『かなり刺さっていたと思います』
『春日くんと同じ』
『少し違います』
『どう違う?』
悠真は、そこで少し手を止めた。
どう違うのか。
自分でもうまく説明できない。
『三崎は映画の場面として見ていました』
『俺は、しらいさんのことも思い出しました』
既読。
少し長い沈黙。
『それ、恋人の見方』
悠真は画面を見つめた。
『そうかもしれません』
『ファンとしては?』
『ファンとしては、三崎と同じようにすごいと思いました』
『恋人としては?』
『少し苦しかったです』
既読。
返事はすぐには来なかった。
悠真はスマホを伏せ、仕事に戻ろうとした。
けれど、すぐに震える。
『言ってくれてよかった』
『苦しかったって』
その一文を見て、胸の奥が少しだけ軽くなった。
『苦しいと言っていいのか迷いました』
『いい』
『春日くんが苦しいところまで見てくれるの、怖いけど』
『でも、そこまで見てくれたんだって思う』
悠真は、しばらく返事ができなかった。
彼女は怖がっている。
でも、見られることを拒んでいない。
それが、今の二人の関係なのだと思った。
『三崎さん、他には?』
しらいさんからまた届く。
『白瀬アカリを途中から忘れたと言っていました』
『役の人として見ていたと』
既読。
『それ、役者として嬉しい』
『でもしらいさんとしては?』
『少し寂しい』
『でも嬉しい』
『両方』
悠真は、少しだけ笑った。
『両方ですね』
『うん』
『春日くんは、それ聞いてどうだった?』
その問いには、少し迷った。
誇らしかった。
嬉しかった。
でも、少しざわついた。
『嬉しかったです』
『誇らしかったです』
『少しだけ、ざわつきました』
既読。
『ざわつき?』
『三崎が白瀬アカリを褒めるのは普通なのに』
『なぜか少し落ち着かなかったです』
送ってから、これはかなり正直に言いすぎたかもしれないと思った。
でも、返事はやわらかかった。
『春日くん、かわいい』
悠真はデスクで固まった。
『それは違います』
『違わない』
『仕事中です』
『私も仕事中』
『ではやめましょう』
『やめない』
悠真は、思わず小さく笑ってしまった。
それを向かいの席の同僚に見られ、慌てて表情を戻す。
『嬉しい』
しらいさんから続けて届いた。
『ざわついたって言ってくれるの、嬉しい』
『嫌ではないんですか』
『嫌じゃない』
『私がみんなに見られることを、春日くんが完全に平気だったら、ちょっと寂しい』
『でも、嫌がられたら困る』
『だから、少しざわつくくらいがいい』
悠真は画面を見ながら、少しだけ息を吐いた。
少しざわつくくらいがいい。
その言い方に、救われる。
『難しいですね』
『難しい』
『でも今のところ、悪くない』
『そうですね』
『悪くないです』
◇
夜、しらいさんは来られなかった。
映画の反響で、取材や打ち合わせが続いているらしい。
その代わり、短い通話をすることになった。
悠真はローテーブルの前に座り、マグカップをコースターの上に置いていた。
今日は、パンフレットもテーブルの端に置いてある。
三崎が映画を観たことで、もう一度読み返したくなったからだ。
着信。
「もしもし」
「春日くん」
「おつかれさまです」
「春日くんも」
声は少し疲れているが、穏やかだった。
「三崎さん、本当に観たんだね」
「はい」
「何か変な感じ」
「俺もです」
「春日くんの会社の人が、白瀬アカリを観てる」
「はい」
「でも、私のことは知らない」
「はい」
「不思議」
「かなり」
しらいさんが小さく笑う。
「感想、聞けてよかった」
「怖くなかったですか」
「怖かった」
「はい」
「でも、嬉しかった。春日くん以外の、春日くんの近くにいる人に届いたんだなって」
「……」
「変だね。知られてないのに、届いたって思う」
「変じゃないと思います」
「そう?」
「三崎は、白瀬アカリを観ました」
「うん」
「しらいさんのことは知りません」
「うん」
「でも、白瀬アカリを通して、しらいさんの一部に触れたのかもしれません」
電話の向こうが静かになった。
「春日くん」
「はい」
「今日、そういうこと言うの」
「すみません」
「謝らないで」
「はい」
「かなり効く」
「ならよかった」
「出た」
いつもの言葉に戻る。
そのことに、二人とも少し安心しているようだった。
「でも、ざわついたんだ」
しらいさんが少しだけ声を低くする。
「はい」
「三崎さんが私を褒めて」
「はい」
「どういうざわつき?」
悠真は、マグカップを見ながら考えた。
「たぶん、白瀬アカリはみんなのものなんだと改めて思いました」
「……うん」
「でも、しらいさんは俺の部屋に戻ってきてくれる人でもある」
「うん」
「その二つが、近くでぶつかった感じです」
「……」
「三崎が映画の感想を言うのを聞いて、嬉しかったのに、少しだけ部屋のマグカップを確かめたくなりました」
しらいさんは、すぐには答えなかった。
けれど、しばらくして柔らかい声で言った。
「春日くん」
「はい」
「それ、かなり恋人」
悠真は少し言葉に詰まった。
「そうですか」
「うん」
「ファンではなく?」
「ファンでもある」
「はい」
「でも、マグカップを確かめたくなるのは、恋人」
その言葉に、胸の奥が少し熱くなった。
「……そうかもしれません」
「うん」
「俺、白瀬アカリのファンです」
「うん」
「でも、しらいさんの恋人でもあります」
「……うん」
「その二つが、今日は少し混ざりました」
「混ざっていいよ」
「いいんですか」
「うん」
「分けなくても?」
「分けたほうがいいときもあると思う」
「はい」
「でも、完全には分けられないでしょ」
「はい」
「私も、完全には分けられない」
しらいさんの声が少しだけ静かになった。
「白瀬アカリとして褒められるのは嬉しい」
「はい」
「でも、春日くんに褒められると、しらいさんも反応する」
「はい」
「三崎さんに褒められると、白瀬アカリとして嬉しいけど、春日くんがざわついたって聞いて、しらいさんとしてちょっと嬉しい」
「……」
「複雑」
「かなり複雑ですね」
「うん」
「でも」
「うん」
「悪くない?」
悠真が言うと、しらいさんは小さく笑った。
「悪くない」
◇
そのあと、二人は三崎の感想を少し詳しく話した。
途中から白瀬アカリを忘れたこと。
声を出さずに泣く場面が刺さったこと。
インタビューの言葉が地に足ついていると感じたこと。
しらいさんは、照れたり、驚いたり、時々黙ったりしながら聞いていた。
「地に足ついてるって言われたの、ちょっと嬉しい」
「そうですか」
「うん。キラキラだけじゃなくて、ちゃんと立ってるって見えたなら」
「三崎も、かなり見てました」
「うるさい同僚さん、意外と見る」
「意外と見ます」
「いつか会ったら、ちょっと怖い」
「俺も怖いです」
「でも、少し楽しみ」
「それはまだ早いです」
「知ってる」
しらいさんは楽しそうに笑った。
その笑い声を聞いて、悠真は今日のざわつきが少しずつ落ち着いていくのを感じた。
三崎が映画を観た。
白瀬アカリを褒めた。
それに悠真はざわついた。
でも、それを隠さずに話せた。
しらいさんは受け止めた。
それだけで、少し前に進んだ気がする。
「春日くん」
「はい」
「明日の朝も写真」
「送ります」
「マグカップ」
「コースターの上」
「今日は、三崎さんに褒められた白瀬アカリのファン春日くん用に」
「注文がよく分からないです」
「普通に撮って」
「結局普通」
「普通がいい」
「分かりました」
「あと」
「はい」
「三崎さんが映画観てくれて、ありがとうって」
「伝えられませんよ」
「心の中で」
「三崎と同じこと言ってます」
「え」
「前に、大事な人によろしくと言われて、心の中でって」
「……三崎さんと同じこと言った?」
「はい」
「ちょっと複雑」
「なぜ」
「うるさい同僚さんと被った」
悠真は思わず笑った。
「しらいさんも、三崎に言葉が移ってますね」
「それは嫌」
「嫌なんですか」
「春日くん経由なら、まあ」
「経由ならいいんですね」
「ぎりぎり」
いつもの調子に戻る。
そのことが、今夜はとてもありがたかった。
◇
通話を切ったあと、悠真はしばらくローテーブルの前に座っていた。
テーブルの端にはパンフレット。
コースターの上にはマグカップ。
白瀬アカリを褒めた三崎の言葉が、まだ少し残っている。
よかった。
かなりよかった。
途中から白瀬アカリを忘れた。
声を出さずに泣くところがきつかった。
それらは、ただの観客の感想だ。
でも、悠真にとっては、しらいさんの別の一面を他人の口から聞く時間でもあった。
誇らしい。
嬉しい。
少しざわつく。
その全部を、今日はしらいさんに話せた。
悠真はマグカップを棚に戻した。
コースターはそのまま。
みんなが白瀬アカリを見つける。
その中には、三崎のような身近な人もいる。
それでも、この部屋にはしらいさんの場所がある。
その事実を、明日の朝もまた写真に撮る。
ファンとしての誇らしさと、恋人としての小さなざわつき。
どちらも持ったまま。
それが今の自分なのだと、少しだけ認められる夜だった。




