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第63話 みんなが君を見つけるほど、僕だけの君ではなくなっていく

 映画が公開されてから、白瀬アカリの名前を見る回数が増えた。


 朝の情報番組。

 昼休みのニュースアプリ。

 駅の広告。

 映画館のランキング記事。

 会社の休憩スペースで何気なく流れる会話。


 それまでも彼女は人気女優だった。

 けれど、新作映画の公開を境に、空気が一段変わった気がした。


「白瀬アカリの映画、評判いいらしいな」


 昼休み、三崎が弁当を開けながら言った。


 春日悠真は箸を割る手を少しだけ止めた。


「そうみたいだな」


「お前、観たんだよな」


「観た」


「やっぱ映画館で観たほうがいい?」


「いいと思う」


「じゃあ今週末行くかなあ」


 三崎はスマホで上映時間を調べ始めた。


 その横で、別の同僚たちも映画の話をしている。


「白瀬アカリ、演技すごいって」

「泣いたって感想多いよね」

「あの人、最近ずっと話題じゃない?」


 悠真は何でもない顔でお茶を飲んだ。


 嬉しい。


 それは本当だった。


 彼女の仕事が届いている。

 あの映画を観た人が、彼女の演技に驚き、泣き、誰かに話したくなっている。

 舞台の上で立っていた白瀬アカリを、スクリーンの中で生きていた彼女を、たくさんの人が見つけている。


 誇らしい。


 それも本当だった。


 けれど、その隣に小さな寂しさもあった。


 みんなが白瀬アカリを見つける。

 褒める。

 語る。

 好きになる。


 それは、彼女が望んでいることでもある。

 作品が届くというのは、そういうことだ。


 なのに、自分の胸の奥には、ほんの少しだけ幼い感情がある。


 僕だけが知っているしらいさんが、遠くへ行ってしまう気がする。


 もちろん、そんなわけはない。

 彼女のマグカップは、今朝も自分の部屋にあった。

 青灰色のコースターの上に置いて、写真も送った。


 それでも、世間が白瀬アカリを見つけるほど、悠真の中のしらいさんは少しだけ眩しくなる。


 眩しいものは、近くにあるときほど目がくらむ。


「春日」


 三崎がスマホから顔を上げた。


「何」


「お前、今ちょっと複雑な顔してる」


「また顔診断か」


「今回は分かりやすい」


「どんな顔だよ」


「好きなバンドが急に売れた古参ファン」


 悠真は返事に詰まった。


 三崎はにやっとする。


「当たり?」


「……少し違う」


「でも近い?」


「近いような、遠いような」


「面倒くさいファンだな」


「それ、この前も言われた」


「誰に?」


「……こっちの話」


 三崎は少しだけ目を細めたが、深くは聞かなかった。


「まあ、分かるよ。自分がいいと思ったものが広まるの、嬉しいけどちょっと寂しいやつ」


「……分かるのか」


「あるだろ、そういうの。好きな店が急に行列店になるとか」


「白瀬アカリを店に例えるな」


「例えだよ、例え」


 三崎は笑って、唐揚げをひとつ口に放り込んだ。


「でも、売れるっていいことじゃん」


「そうだな」


「白瀬アカリも、たぶん届いて嬉しいだろ」


「……うん」


「じゃあ、寂しいのも持っとけば?」


 悠真は三崎を見た。


「両方か」


「お前、最近よくそういう顔するから。嬉しいのに寂しい、みたいな」


「……」


「どっちかにしなくていいんじゃね」


 三崎はそう言って、またスマホで上映時間を見始めた。


 悠真は少しだけ黙った。


 怖いと楽しみを両方持つ。

 遠い時間と近い時間を両方持つ。

 ファンとしての視線と、恋人としての感情を両方持つ。


 それを、また別の形で言われた気がした。


    ◇


 午後、しらいさんから写真が届いた。


 控室のテーブル。

 紙コップ。

 青灰色のカードケース。

 喉飴。

 そして、映画の感想記事が表示されたタブレットの端。


『反響すごい』


 たったそれだけ。


 悠真は仕事の合間に画面を見て、少しだけ息を止めた。


『嬉しいですか』


 送る。


 既読。


 少し間が空く。


『嬉しい』


 さらに、


『怖い』


 悠真は、小さく頷いた。


『両方ですね』


『うん』


『春日くんは?』


 その問いに、悠真は少しだけ迷った。


 昼休みに三崎と話したことが、まだ胸に残っている。


『嬉しいです』


『誇らしいです』


『少し寂しいです』


 送信。


 既読がつく。


 返事は、少し遅かった。


『言ってくれてよかった』


 悠真は、画面を見つめた。


『寂しいって言ってもいいですか』


『いい』


『言わないほうが不安になる』


 その一文で、胸の奥が少しほどける。


 平気なふりをしなくていい。

 寂しいと言っても、彼女を困らせるだけではない。


『みんなが白瀬アカリを見つけていく感じがします』


 悠真は打った。


『それは嬉しいです』


『でも、少し遠くなる感じもします』


 既読。


 長い沈黙。


 送らなければよかったか、と一瞬思った。

 けれど、しらいさんから返ってきたのは、穏やかな言葉だった。


『私も、少し遠くに行く感じがする』


『でも、行きっぱなしにはならない』


『戻る』


 悠真は、ローテーブルではなく会社のデスクにいるのに、青灰色のコースターを思い出した。


『待ってます』


 送る。


『知ってる』


 続けて、写真が一枚届いた。


 カードケースのアップだった。

 名前は見えない。

 でも、中に悠真のカードが入っていることは分かる。


『今日これ、かなり効いてる』


『反響が大きい日だから?』


『うん』


『みんなが白瀬アカリを見る日ほど』


『しらいさんに戻る場所があるの、助かる』


 その文字を見て、悠真はしばらく動けなかった。


 彼女も同じなのだ。


 多くの人に見られる日ほど、戻る場所が必要になる。

 遠くへ行く日ほど、近いものを確かめたくなる。


『今日、部屋に来ますか』


 そう打ってから、少し迷った。


 忙しいかもしれない。

 無理に誘うのは違う。


 けれど、送った。


『無理のない範囲で』


 既読。


 少しして、


『行きたい』


 さらに、


『理沙さんに聞く』


 その返事が妙にしらいさんらしくて、悠真は少し笑った。


    ◇


 夜、しらいさんは来られなかった。


 取材が長引いたらしい。

 さらに翌朝も早く、理沙さんから「今日は帰って寝なさい」と言われたという。


 メッセージでそれを知らされたとき、悠真は少しだけ残念だった。

 でも、すぐに返した。


『今日は帰って寝てください』


 既読。


『理沙さん側』


『今日は完全にそうです』


『彼氏側は?』


『彼氏側も、今日は寝てほしいです』


 少し間。


『それ、効く』


『ならよかった』


『出た』


 いつものやり取りが戻ってきたことで、少しだけ寂しさが和らいだ。


 悠真は部屋に戻り、マグカップをコースターの上に置いた。


 今日はパンフレットも置かない。

 映画の記事も開かない。


 ただ、いつもの場所だけを撮った。


 送る。


『今日もあります』


 すぐ既読。


『見た』


『戻りたい』


 悠真は、その文字を静かに読んだ。


『待ってます』


『明日でも』


『明後日でも』


『反響が落ち着いてからでも』


 既読。


『落ち着かないかも』


『しばらく』


 そうだろうなと思った。


 映画は評判になり始めている。

 取材も増えるだろう。

 彼女の名前を見る機会は、きっとさらに増える。


 落ち着くまで待つ、という考え方では、たぶん追いつかない。


 悠真は少し考えてから打った。


『じゃあ、落ち着いていなくても戻ってきてください』


『忙しいままでも』


『遠く見える日でも』


『マグカップはあります』


 既読。


 長い沈黙。


 そして、


『春日くん』


『はい』


『今日それはだめ』


『うれしいほうですか』


『うん』


『泣く予約』


『仮ですか、正式ですか』


『正式に近い仮』


 悠真は思わず笑った。


『複雑ですね』


『今の私が複雑』


『分かります』


『少しだけ』


 既読。


『少し分かってくれるのが、いい』


 その言葉が、胸に残った。


    ◇


 短い通話ができたのは、二十三時前だった。


 しらいさんの声は疲れていたが、喉の不安はもうほとんど感じない。

 ただ、気持ちのほうが少し揺れている声だった。


「もしもし」


「春日くん」


「おつかれさまです」


「春日くんも」


「今日はかなり忙しかったんですね」


「うん。反響が大きいと、仕事が増える」


「嬉しいことではありますよね」


「うん。嬉しい」


 彼女は少しだけ間を置いた。


「でも、怖い」


「はい」


「いろんな人が見てくれる。褒めてくれる。記事になる。名前が出る」


「はい」


「それは嬉しいのに、どこかで置いていかれそうになる」


「しらいさんが?」


「うん」


「白瀬アカリに?」


「……たぶん」


 その言葉は、静かだった。


 悠真はローテーブルのマグカップを見る。


「白瀬アカリが大きくなるほど」


「うん」


「しらいさんが置いていかれそうになるんですね」


「……うん」


「でも、置いていかれません」


 しらいさんは、電話の向こうで黙った。


「どうして?」


「俺の部屋に、しらいさんのマグカップがあります」


「……」


「理沙さんも、しらいさんを見てます」


「うん」


「鞄にカードケースもあります」


「うん」


「河川敷もあります」


「うん」


「白瀬アカリがどれだけ大きくなっても、しらいさんに戻る場所は消えません」


 電話の向こうで、彼女が小さく息を吸った。


「春日くん」


「はい」


「それ、今日聞きたかった」


「言えてよかったです」


「出た」


「出ます」


「うん」


 彼女は少し笑った。


 その笑い声には、疲れと安心が混ざっていた。


「春日くんは?」


「はい」


「白瀬アカリが大きくなって、寂しくない?」


 悠真は、正直に答えた。


「寂しいです」


「うん」


「でも、嬉しいです」


「うん」


「ファンとしては、たくさんの人に見てほしいです」


「……うん」


「恋人としては、少しだけ遠くに行ってしまう気がして寂しいです」


「うん」


「でも」


「うん」


「戻ってきてくれるなら、大丈夫です」


 しらいさんは、しばらく返事をしなかった。


 それから、少しだけ震える声で言った。


「戻る」


「はい」


「ちゃんと戻る」


「待ってます」


「知ってる」


 いつもの言葉。


 でも、今夜は少し重みが違った。


    ◇


 通話を終えたあと、悠真はスマホを置いた。


 部屋は静かだった。


 ローテーブルの上には、マグカップ。

 青灰色のコースター。

 その横に、今日は置かなかったパンフレットが棚の隅に見える。


 白瀬アカリの名前は、これからもっと広がっていくのかもしれない。

 映画が評判になり、記事が増え、テレビで取り上げられ、三崎のように新しく観に行く人が増える。


 ファンとしては、それが嬉しい。


 恋人としては、少し寂しい。


 でも、どちらも本当なら、どちらも持っていくしかない。


 悠真はマグカップを棚に戻した。


 コースターはそのまま。


 みんなが白瀬アカリを見つけていく夜でも、ここにはしらいさんの場所がある。


 そのことを、明日の朝もまた写真に撮ろうと思った。

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