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河川敷で缶チューハイを飲んでる地味なお姉さん、どう見ても人気女優なのに俺の前では絶対に認めない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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9/19

エピソード9 河川敷で、本音は夜風より少しだけ遅れて届く

 木曜日の夜、春日悠真は会社を出る前に、一度だけ机の引き出しを開けた。


 中には、昨日しらいさんにもらった塩レモン飴の包みが入っている。

 昼の休憩中、何となく食べようとして、結局やめた。

 もったいないとか、そういうことではない。

 ただ、まだポケットや引き出しの中にあること自体が、少しだけ気持ちを支えてくれている気がしたからだ。


 我ながら単純だな、と悠真は思う。


 でも、昨日の平日の寄り道は、それくらいには効いていた。

 河川敷でも休日の外でもなく、ただの仕事帰りの途中。

 そこに呼ばれて、一緒にクレープを食べて、「顔見たかった」と言われた。


 その余韻は、思っていたより長く残る。


「春日」

 上司に呼ばれて顔を上げる。

「これ、今日中に送って」

「はい」

「あと先方から戻ってきたら、明日の朝イチで確認できるように並べといて」

「分かりました」


 返事をしながらキーボードを叩く。

 仕事は仕事だ。

 目の前のことを片付けなければ、夜は来ない。


 それでも、今は少しだけ違う。

 仕事をこなした先に、ちゃんと行きたい場所がある。

 そしてたぶん、あそこには今日もしらいさんがいる。


 それだけで、一日を終わらせるための力が少しだけ出る。


 会社を出たのは九時前だった。

 昨日より遅い。

 駅前のコンビニで水と、しらいさんが好きそうな小さな焼き菓子を買う。ついでに自分の分のサラダチキンも買った。夕飯らしい夕飯を食べる余裕がなかった。


 土手道を下りるころには、空気はもう完全に夜の温度になっていた。

 川面は暗く、遠くのマンションの灯りだけがぼんやり浮かんでいる。


 ベンチには、すでにしらいさんがいた。


 今日は珍しく缶チューハイではなく、ペットボトルの炭酸水。

 キャップのつばを少し深くして、前を向いている。

 近づくと、彼女はすぐに気づいた。


「遅い」

「すみません」

「謝るほどじゃないけど」

「待ってました?」

「……少し」


 最近、この人は“少し”の使い方がうまい。

 全部は言わないくせに、ゼロにもしてくれない。


 悠真はベンチに座り、買ってきた袋を差し出す。


「これ」

「何」

「焼き菓子」

「……何で」

「昨日、甘いの好きそうだなって改めて思ったので」

「クレープ食べてただけで?」

「プリンアラモードも食べてましたよね」

「見てたんだ」

「向かいに座ってたので」

「……そうだけど」


 しらいさんは少しだけ口元をゆるめて、袋を受け取った。

 マドレーヌとフィナンシェが二つずつ入っている、小さな詰め合わせだ。


「春日くん」

「はい」

「こういうの、地味にうれしい」

「派手に喜んでもいいですよ」

「それは恥ずかしい」

「地味なんだ」

「地味なお姉さんなので」

「まだ言うんだ、それ」

「便利だから」


 二人で少しだけ笑う。

 夜の河川敷に、ようやくいつもの空気が戻ってくる。


 悠真はサラダチキンの袋を開けながら、ふと昨日のことを思い出した。


 クレープ屋の裏路地。

 マスクを少しずらしてクレープを食べるしらいさん。

 「平日の顔、ちょっと好きかも」と言って、人混みに消えていった後ろ姿。


 そのことを、今ここで言ってもいいのか。

 言わないほうがいいのか。


 迷っていると、しらいさんのほうが先に口を開いた。


「昨日」

「はい」

「何か変だったね」

「……どっちの意味ですか」

「その聞き方、ちょっとずるい」

「いや、良い意味も悪い意味もあるので」

「良い意味のほう」

「ならよかった」

「河川敷じゃないのに、ちゃんとしらいさんと春日くんだった」

「そうですね」

「思ったより普通だったし、思ったより落ち着かなかった」

「矛盾してません?」

「してるかも」

「でも分かります」

「分かるんだ」

「うん。普通なのに、普通じゃない感じ」

「……それ」


 彼女は少しだけ黙った。

 炭酸水のキャップを指先でいじる。

 それから、視線を前に向けたまま言う。


「そういう言い方、たまにすごく刺さる」

「悪い意味ではなく?」

「うん。たぶん」


 風が吹いて、キャップのつばが少し揺れる。

 その影の奥で、彼女の目元がほんの少しだけやわらぐ。


「春日くん」

「はい」

「私、昨日の帰りちょっと変だった」

「変?」

「駅に入ってから、何回か振り返りそうになった」

「……」

「振り返っても仕方ないのに」

「仕方なくはないんじゃないですか」

「何で」

「見たかったなら」

「……そういう返しする」

「本音なので」

「知ってる」


 その“知ってる”のあと、少しだけ沈黙が落ちる。


 河川敷の夜は、いつもなら沈黙をうまく薄めてくれる。

 でも今夜の沈黙は少し違う。

 薄まらない。

 ちゃんとそこにあって、二人の間に置かれたまま、ゆっくり形を持ち始める感じがする。


「春日くん」

「はい」

「昨日、顔見たかったって言ったでしょ」

「言ってましたね」

「……あれ、結構本気だった」

「……」

「何か、河川敷で会う前から、少しだけ会いたかった」


 悠真は、手に持ったサラダチキンの袋を握り直した。


 思っていたよりもずっと、彼女はまっすぐ言う。

 疲れているから誤魔化すのが面倒なのか、それとももう、少しずつ誤魔化さなくてもいいと思い始めているのか。


 たぶん両方だ。


「俺も」

「うん」

「昨日会って、今日またここに来るまで、結構長く感じました」

「……」

「一日しか空いてないのに」

「……それ、かなりだね」

「かなりかもしれません」


 しらいさんは、そこで少しだけ息を吐いた。

 炭酸水のボトルを両手で持って、膝の上に置く。


「ねえ」

「はい」

「これって、何だと思う?」

「何がですか」

「私たち」

「……」


 その質問は、軽いふりをしてまったく軽くなかった。


 夜風が吹く。

 遠くの橋をトラックが一台渡っていく。

 河川敷のどこかで、小さく水音がした。


 悠真はすぐには答えられなかった。


 友達。

 知り合い。

 秘密を共有している相手。

 仕事に疲れた夜の逃げ場。

 どれも間違いではない。けれど、どれもしっくり来ない。


「分からないです」

 悠真は正直に言った。

「……そっか」

「でも」

「うん」

「分からないまま、適当に名前つけたくないです」

「……」

「それは、何か違う気がするので」


 しらいさんはしばらく黙っていた。

 やがて、ほんの少しだけ笑う。


「それ、春日くんらしい」

「そうですか」

「うん。変にうまいこと言わないとこ」

「うまいこと言えないだけかもしれません」

「それも含めて」


 彼女は小さく焼き菓子の袋を開ける。

 フィナンシェをひとつ取り出して、少しだけちぎって食べた。


「でも私も、分かんない」

「……」

「河川敷だけの相手って言うには、もうちょっと違うし。外で会う人って言うにも、最初は違ったし」

「そうですね」

「ただ」

「はい」

「春日くんと会うと、一日がちゃんと終わる感じはする」

「……」

「あと、次があるって思える」


 それは告白とは違う。

 でも、ただの好意より少しだけ深いところにある言葉に思えた。


 今日という日が終わる場所。

 次があると思える相手。


 それはたぶん、恋の入り口にかなり近い。

 けれど、今それを名前にしてしまうと、この曖昧で大事な時間を急に狭くしてしまう気もした。


「しらいさん」

「何」

「今は、まだ分からないままでいいんじゃないですか」

「……」

「ちゃんと会えて、ちゃんと話せて、ちゃんとまた次があるなら」

「うん」

「それで十分というか」

「……うん」

「少なくとも、俺はそう思ってます」


 彼女は焼き菓子を持ったまま、少しだけ目を細めた。


「春日くんって、本当にずるい」

「今日も言われた」

「だって、今のはかなり安心するやつ」

「ならよかった」

「よくない。こっちばっかり緩む」

「そっちばっかりではないですよ」

「……春日くんも?」

「かなり」


 そう答えると、しらいさんはとうとう笑った。

 声は小さい。

 でも、今夜いちばん自然な笑い方だった。


 しばらくして、彼女は不意に言う。


「春日くん」

「はい」

「私、たぶん普通に嫉妬とかするタイプだと思う」

「急だな」

「今、急に言いたくなった」

「何で」

「この前、駅前で春日くんが女の人と歩いてたら嫌かもって思った」

「……三崎ならありますけど」

「誰」

「会社のうるさい男」

「それなら別にいい」

「そこはいいんだ」

「いい」


 きっぱり言ってから、彼女は少しだけ視線を逸らした。


「でも、知らない人だったら嫌」

「……」

「何その顔」

「いや、そんなことまで考えてたんだなと」

「考えた」

「俺も、ありますよ」

「え」

「しらいさんが外で誰かといるの見たら、ちょっと嫌かもなって」

「……」

「何ですか」

「いや」

「何で黙るんですか」

「うれしくて困ってる」

「それはどう反応すれば」

「そのままでいい」


 河川敷の空気が、少しだけ甘くなる。

 でも、それは平日のクレープ屋の甘さとは違った。

 もっと静かで、もっと逃げ場のない甘さだ。


「ねえ」

 しらいさんが言う。

「はい」

「こういうの、河川敷で言うのずるいね」

「何で」

「夜だし、顔ちゃんと見えないし、何か全部ほんの少しだけごまかせるから」

「……」

「でも今は、それがちょうどいいかも」

「俺もです」

「うん」


 彼女は空になった焼き菓子の袋をコンビニ袋にしまって、立ち上がった。


「今日は帰る」

「珍しく早い」

「今以上いると、たぶん変なこと言う」

「今の時点でだいぶ言ってますけど」

「それ以上」

「なるほど」

「春日くんも」

「俺も?」

「そういう顔してる」

「どんな顔ですか」

「引き止めるか迷ってる顔」

「……」

「図星」

「否定はしません」

「しないんだ」

「今日は、少し」


 しらいさんは立ったまま、少しだけこちらを見下ろす。

 夜のせいで表情はよく見えない。

 でも、声だけはやわらかかった。


「じゃあ、引き止めないで」

「何で」

「ちゃんと次が欲しいから」

「……」

「今日ここで全部言っちゃうと、もったいない気がする」


 その言葉に、悠真はゆっくりうなずいた。


「分かりました」

「ほんとに?」

「はい」

「素直」

「次が欲しいのは、俺も同じなので」

「……うん」


 短く返してから、彼女は少しだけ迷うような間を置いた。


「土曜」

「はい」

「河川敷じゃないほう、空いてる?」

「空いてます」

「また外」

「いいですね」

「……ごはん」

「夜ごはん?」

「うん」

「行きます」

「即答」

「嫌じゃないので」

「それ、もう知ってる」


 彼女は小さく笑った。


 土手の上まで並んで歩く。

 別れ際、今日はどちらもすぐには動かなかった。


「春日くん」

「はい」

「今日の話、忘れないで」

「忘れませんよ」

「ほんとに?」

「嫉妬の話までしたのに忘れたら最低でしょう」

「……それもそうか」


 キャップのつばに指をかけて、彼女は少しだけ顔を上げる。


「じゃあ、また」

「また」

「ちゃんと来て」

「行きます」

「うん」


 そう言って歩き出す背中は、前よりずっと近いのに、まだ完全には届かない距離にあった。


 悠真はその後ろ姿を見送りながら、胸の奥が妙に静かに熱くなっているのを感じる。


 分からないままでいい。

 まだ名前はつけなくていい。

 でも、会いたい。

 会うと落ち着く。

 次が欲しい。

 嫉妬もする。


 そこまで言葉が揃っているのなら、たぶん答えは遠くない。

 それでも今夜は、まだ少しだけ曖昧なままでいることが心地よかった。

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