エピソード9 河川敷で、本音は夜風より少しだけ遅れて届く
木曜日の夜、春日悠真は会社を出る前に、一度だけ机の引き出しを開けた。
中には、昨日しらいさんにもらった塩レモン飴の包みが入っている。
昼の休憩中、何となく食べようとして、結局やめた。
もったいないとか、そういうことではない。
ただ、まだポケットや引き出しの中にあること自体が、少しだけ気持ちを支えてくれている気がしたからだ。
我ながら単純だな、と悠真は思う。
でも、昨日の平日の寄り道は、それくらいには効いていた。
河川敷でも休日の外でもなく、ただの仕事帰りの途中。
そこに呼ばれて、一緒にクレープを食べて、「顔見たかった」と言われた。
その余韻は、思っていたより長く残る。
「春日」
上司に呼ばれて顔を上げる。
「これ、今日中に送って」
「はい」
「あと先方から戻ってきたら、明日の朝イチで確認できるように並べといて」
「分かりました」
返事をしながらキーボードを叩く。
仕事は仕事だ。
目の前のことを片付けなければ、夜は来ない。
それでも、今は少しだけ違う。
仕事をこなした先に、ちゃんと行きたい場所がある。
そしてたぶん、あそこには今日もしらいさんがいる。
それだけで、一日を終わらせるための力が少しだけ出る。
会社を出たのは九時前だった。
昨日より遅い。
駅前のコンビニで水と、しらいさんが好きそうな小さな焼き菓子を買う。ついでに自分の分のサラダチキンも買った。夕飯らしい夕飯を食べる余裕がなかった。
土手道を下りるころには、空気はもう完全に夜の温度になっていた。
川面は暗く、遠くのマンションの灯りだけがぼんやり浮かんでいる。
ベンチには、すでにしらいさんがいた。
今日は珍しく缶チューハイではなく、ペットボトルの炭酸水。
キャップのつばを少し深くして、前を向いている。
近づくと、彼女はすぐに気づいた。
「遅い」
「すみません」
「謝るほどじゃないけど」
「待ってました?」
「……少し」
最近、この人は“少し”の使い方がうまい。
全部は言わないくせに、ゼロにもしてくれない。
悠真はベンチに座り、買ってきた袋を差し出す。
「これ」
「何」
「焼き菓子」
「……何で」
「昨日、甘いの好きそうだなって改めて思ったので」
「クレープ食べてただけで?」
「プリンアラモードも食べてましたよね」
「見てたんだ」
「向かいに座ってたので」
「……そうだけど」
しらいさんは少しだけ口元をゆるめて、袋を受け取った。
マドレーヌとフィナンシェが二つずつ入っている、小さな詰め合わせだ。
「春日くん」
「はい」
「こういうの、地味にうれしい」
「派手に喜んでもいいですよ」
「それは恥ずかしい」
「地味なんだ」
「地味なお姉さんなので」
「まだ言うんだ、それ」
「便利だから」
二人で少しだけ笑う。
夜の河川敷に、ようやくいつもの空気が戻ってくる。
悠真はサラダチキンの袋を開けながら、ふと昨日のことを思い出した。
クレープ屋の裏路地。
マスクを少しずらしてクレープを食べるしらいさん。
「平日の顔、ちょっと好きかも」と言って、人混みに消えていった後ろ姿。
そのことを、今ここで言ってもいいのか。
言わないほうがいいのか。
迷っていると、しらいさんのほうが先に口を開いた。
「昨日」
「はい」
「何か変だったね」
「……どっちの意味ですか」
「その聞き方、ちょっとずるい」
「いや、良い意味も悪い意味もあるので」
「良い意味のほう」
「ならよかった」
「河川敷じゃないのに、ちゃんとしらいさんと春日くんだった」
「そうですね」
「思ったより普通だったし、思ったより落ち着かなかった」
「矛盾してません?」
「してるかも」
「でも分かります」
「分かるんだ」
「うん。普通なのに、普通じゃない感じ」
「……それ」
彼女は少しだけ黙った。
炭酸水のキャップを指先でいじる。
それから、視線を前に向けたまま言う。
「そういう言い方、たまにすごく刺さる」
「悪い意味ではなく?」
「うん。たぶん」
風が吹いて、キャップのつばが少し揺れる。
その影の奥で、彼女の目元がほんの少しだけやわらぐ。
「春日くん」
「はい」
「私、昨日の帰りちょっと変だった」
「変?」
「駅に入ってから、何回か振り返りそうになった」
「……」
「振り返っても仕方ないのに」
「仕方なくはないんじゃないですか」
「何で」
「見たかったなら」
「……そういう返しする」
「本音なので」
「知ってる」
その“知ってる”のあと、少しだけ沈黙が落ちる。
河川敷の夜は、いつもなら沈黙をうまく薄めてくれる。
でも今夜の沈黙は少し違う。
薄まらない。
ちゃんとそこにあって、二人の間に置かれたまま、ゆっくり形を持ち始める感じがする。
「春日くん」
「はい」
「昨日、顔見たかったって言ったでしょ」
「言ってましたね」
「……あれ、結構本気だった」
「……」
「何か、河川敷で会う前から、少しだけ会いたかった」
悠真は、手に持ったサラダチキンの袋を握り直した。
思っていたよりもずっと、彼女はまっすぐ言う。
疲れているから誤魔化すのが面倒なのか、それとももう、少しずつ誤魔化さなくてもいいと思い始めているのか。
たぶん両方だ。
「俺も」
「うん」
「昨日会って、今日またここに来るまで、結構長く感じました」
「……」
「一日しか空いてないのに」
「……それ、かなりだね」
「かなりかもしれません」
しらいさんは、そこで少しだけ息を吐いた。
炭酸水のボトルを両手で持って、膝の上に置く。
「ねえ」
「はい」
「これって、何だと思う?」
「何がですか」
「私たち」
「……」
その質問は、軽いふりをしてまったく軽くなかった。
夜風が吹く。
遠くの橋をトラックが一台渡っていく。
河川敷のどこかで、小さく水音がした。
悠真はすぐには答えられなかった。
友達。
知り合い。
秘密を共有している相手。
仕事に疲れた夜の逃げ場。
どれも間違いではない。けれど、どれもしっくり来ない。
「分からないです」
悠真は正直に言った。
「……そっか」
「でも」
「うん」
「分からないまま、適当に名前つけたくないです」
「……」
「それは、何か違う気がするので」
しらいさんはしばらく黙っていた。
やがて、ほんの少しだけ笑う。
「それ、春日くんらしい」
「そうですか」
「うん。変にうまいこと言わないとこ」
「うまいこと言えないだけかもしれません」
「それも含めて」
彼女は小さく焼き菓子の袋を開ける。
フィナンシェをひとつ取り出して、少しだけちぎって食べた。
「でも私も、分かんない」
「……」
「河川敷だけの相手って言うには、もうちょっと違うし。外で会う人って言うにも、最初は違ったし」
「そうですね」
「ただ」
「はい」
「春日くんと会うと、一日がちゃんと終わる感じはする」
「……」
「あと、次があるって思える」
それは告白とは違う。
でも、ただの好意より少しだけ深いところにある言葉に思えた。
今日という日が終わる場所。
次があると思える相手。
それはたぶん、恋の入り口にかなり近い。
けれど、今それを名前にしてしまうと、この曖昧で大事な時間を急に狭くしてしまう気もした。
「しらいさん」
「何」
「今は、まだ分からないままでいいんじゃないですか」
「……」
「ちゃんと会えて、ちゃんと話せて、ちゃんとまた次があるなら」
「うん」
「それで十分というか」
「……うん」
「少なくとも、俺はそう思ってます」
彼女は焼き菓子を持ったまま、少しだけ目を細めた。
「春日くんって、本当にずるい」
「今日も言われた」
「だって、今のはかなり安心するやつ」
「ならよかった」
「よくない。こっちばっかり緩む」
「そっちばっかりではないですよ」
「……春日くんも?」
「かなり」
そう答えると、しらいさんはとうとう笑った。
声は小さい。
でも、今夜いちばん自然な笑い方だった。
しばらくして、彼女は不意に言う。
「春日くん」
「はい」
「私、たぶん普通に嫉妬とかするタイプだと思う」
「急だな」
「今、急に言いたくなった」
「何で」
「この前、駅前で春日くんが女の人と歩いてたら嫌かもって思った」
「……三崎ならありますけど」
「誰」
「会社のうるさい男」
「それなら別にいい」
「そこはいいんだ」
「いい」
きっぱり言ってから、彼女は少しだけ視線を逸らした。
「でも、知らない人だったら嫌」
「……」
「何その顔」
「いや、そんなことまで考えてたんだなと」
「考えた」
「俺も、ありますよ」
「え」
「しらいさんが外で誰かといるの見たら、ちょっと嫌かもなって」
「……」
「何ですか」
「いや」
「何で黙るんですか」
「うれしくて困ってる」
「それはどう反応すれば」
「そのままでいい」
河川敷の空気が、少しだけ甘くなる。
でも、それは平日のクレープ屋の甘さとは違った。
もっと静かで、もっと逃げ場のない甘さだ。
「ねえ」
しらいさんが言う。
「はい」
「こういうの、河川敷で言うのずるいね」
「何で」
「夜だし、顔ちゃんと見えないし、何か全部ほんの少しだけごまかせるから」
「……」
「でも今は、それがちょうどいいかも」
「俺もです」
「うん」
彼女は空になった焼き菓子の袋をコンビニ袋にしまって、立ち上がった。
「今日は帰る」
「珍しく早い」
「今以上いると、たぶん変なこと言う」
「今の時点でだいぶ言ってますけど」
「それ以上」
「なるほど」
「春日くんも」
「俺も?」
「そういう顔してる」
「どんな顔ですか」
「引き止めるか迷ってる顔」
「……」
「図星」
「否定はしません」
「しないんだ」
「今日は、少し」
しらいさんは立ったまま、少しだけこちらを見下ろす。
夜のせいで表情はよく見えない。
でも、声だけはやわらかかった。
「じゃあ、引き止めないで」
「何で」
「ちゃんと次が欲しいから」
「……」
「今日ここで全部言っちゃうと、もったいない気がする」
その言葉に、悠真はゆっくりうなずいた。
「分かりました」
「ほんとに?」
「はい」
「素直」
「次が欲しいのは、俺も同じなので」
「……うん」
短く返してから、彼女は少しだけ迷うような間を置いた。
「土曜」
「はい」
「河川敷じゃないほう、空いてる?」
「空いてます」
「また外」
「いいですね」
「……ごはん」
「夜ごはん?」
「うん」
「行きます」
「即答」
「嫌じゃないので」
「それ、もう知ってる」
彼女は小さく笑った。
土手の上まで並んで歩く。
別れ際、今日はどちらもすぐには動かなかった。
「春日くん」
「はい」
「今日の話、忘れないで」
「忘れませんよ」
「ほんとに?」
「嫉妬の話までしたのに忘れたら最低でしょう」
「……それもそうか」
キャップのつばに指をかけて、彼女は少しだけ顔を上げる。
「じゃあ、また」
「また」
「ちゃんと来て」
「行きます」
「うん」
そう言って歩き出す背中は、前よりずっと近いのに、まだ完全には届かない距離にあった。
悠真はその後ろ姿を見送りながら、胸の奥が妙に静かに熱くなっているのを感じる。
分からないままでいい。
まだ名前はつけなくていい。
でも、会いたい。
会うと落ち着く。
次が欲しい。
嫉妬もする。
そこまで言葉が揃っているのなら、たぶん答えは遠くない。
それでも今夜は、まだ少しだけ曖昧なままでいることが心地よかった。




