エピソード10 土曜の夜ごはんは、まだ名前のない関係を少しだけ前に進める
土曜日の夕方、春日悠真は駅のホームで電車を待ちながら、今日だけで四回目の時間確認をした。
待ち合わせは十九時。
まだ十分以上ある。
早すぎる。分かっている。
それでも少しでも遅れる可能性を考えると落ち着かなかった。
河川敷で会うだけなら、ここまで気にしなかった。
少し遅れても、向こうも同じくらい適当で、会えればそれでよかった。
でも今日は違う。
土曜の夜。
外で会う約束。
しかも「夜ごはん」と彼女は言った。
デート、という言葉を使うにはまだ少しだけ早い気がする。
でも、ただの食事と言い切るには気持ちが落ち着かなすぎる。
ホームに電車が滑り込んでくる。
ドアが開き、冷房の匂いと一緒に人が吐き出される。
悠真は流れに乗って車内へ入り、ドア脇に立った。
今日の服装はかなり迷った。
結局、黒の細身パンツに白シャツ、その上から薄いグレーのカーディガンを羽織っている。頑張りすぎない。でも適当すぎない。たぶん。
たぶんという言い方しかできないあたり、こういうことに慣れていないのが丸分かりだ。
スマホが震える。
『着いたら教えて』
しらいさんから。
短い。
でも、それだけで心拍数が少し上がる。
『あと五分くらいです』
送ると、すぐ既読がついた。
『私も』
その二文字が、妙にうれしい。
自分だけが落ち着かないわけじゃないのかもしれない。そう思えるからだ。
◇
待ち合わせ場所は、駅から少し歩いた路地裏の入口だった。
大通りに面した人気の店だと人目が多いし、かといって静かすぎる高級店はまだ違う。
そういうことをたぶん彼女も考えたのだろう。
選ばれたのは、住宅街寄りのエリアにある小さな和食居酒屋だった。外観は落ち着いていて、値段も高すぎず、個室ではないが席の間隔は少し広い。店の前には小さな行灯が出ていて、暖色の光が足元をやわらかく照らしていた。
悠真が路地に入ると、店の少し手前の街灯の下にしらいさんがいた。
キャップはかぶっていない。
今日はベージュの薄手ニットに、黒のロングスカート。肩まで落ちる髪は軽くまとめられていて、白いマスクをしていても雰囲気が少し違う。河川敷のパーカー姿とも、日曜のシャツワンピースともまた違う。
落ち着いていて、でもやっぱり地味だけでは済まない。
悠真は数歩手前で足を止めた。
「……どうかしました?」
先に気づいたのは彼女だった。
少しだけ首を傾げる。
「いや」
「何」
「今日、いつもより」
「いつもより?」
「ちょっと、普通に綺麗ですね」
「……」
言ってから、少し早かったかもしれないと思った。
でももう遅い。
しらいさんは数秒だけ黙って、それからマスク越しでも分かるくらいゆっくり息を吐いた。
「春日くん」
「はい」
「そういうの、待ち合わせの最初に言う?」
「だめでした?」
「だめじゃないけど」
「けど?」
「心の準備がない」
「それはすみません」
「……でも、ありがと」
最後の一言だけ、少し小さかった。
悠真もそれ以上は踏み込まず、小さく咳払いをする。
「しらいさんも」
「何」
「仕事帰りじゃない春日くん、ちょっとまとも、ってこの前言ってましたけど」
「うん」
「今日は、しらいさんも、ちょっと」
「ちょっと?」
「ちゃんとしてる人の感じが強いです」
「何その感想」
「言語化が難しい」
「うん、分かる。春日くん、今かなり照れてる」
「気のせいです」
「気のせいじゃない」
彼女は小さく笑った。
その笑い方を見て、ようやく少しだけ緊張がほどける。
「入りましょうか」
「うん」
二人で店の暖簾をくぐる。
店内は落ち着いた明るさで、席の間に程よい仕切りがあった。カウンターもあるが、案内されたのは二人用のテーブル席。向かい合う形になる。
向かい合う。
その事実だけで、悠真は少しだけ背筋を正した。
河川敷では隣。カフェでも向かい合ったが昼の明るさがあった。
でも夜の食事で向かい合うと、また別の意味を持ってしまう気がする。
メニューを開く。
しらいさんは先におしぼりを丁寧に畳んでから、何気ない顔で言った。
「お酒、飲む?」
「しらいさんは」
「今日は少しだけ飲みたい」
「じゃあ俺も付き合います」
「無理しなくていいのに」
「無理ではないです」
「……そう」
店員を呼び、彼女は梅酒のソーダ割り、悠真はレモンサワーを頼んだ。料理はだし巻き卵、焼き魚、豆腐サラダ、それと鶏の炭火焼き。ついでに締めっぽいものまで最初から頼みそうになって、二人で少し笑う。
「何か、ちゃんとごはんだ」
悠真が言う。
「何その感想」
「クレープとかプリンとかじゃなくて」
「失礼だなあ。私だってちゃんとごはん食べるよ」
「河川敷だとあんまりそういう感じじゃないので」
「河川敷の私はあそこで完成してるから」
「完成って」
「缶チューハイとコンビニ袋で」
「だいぶ安上がりだ」
「気楽なんだよね」
その言い方は、少しだけ前のしらいさんに戻った感じがして、悠真は安心する。
夜の外で会っても、彼女が全部遠くなるわけではない。
「でも今日は」
彼女がメニューから顔を上げる。
「今日は、ちゃんとごはん食べたかった」
「何で」
「春日くんと」
「……」
「何その顔」
「いや、普通に言うんだなと」
「今日はそういう日だから」
「便利だな、それ」
「便利なんだってば」
運ばれてきた飲み物で、軽く乾杯する。
グラスが小さく触れ合う。
梅酒のソーダ割りを一口飲んだ彼女は、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
「……おいしい」
「よかったです」
「春日くんのは?」
「普通に飲みやすいです」
「大人の感想」
「何ですか、それ」
「いつもより少しだけ、ちゃんとしてる」
「今日はちゃんとしてないとまずいかなって」
「何で」
「……」
「何で?」
しらいさんはわざとらしく聞き返す。
悠真はグラスを持ち上げたまま視線を逸らした。
「夜ごはんって言われたので」
「うん」
「……少しは意識しますよ」
「……そっか」
彼女はそこで、少しだけ黙った。
料理が運ばれてくる。
だし巻き卵から湯気が立っている。焼き魚の香りが広がる。河川敷でもコンビニでもない、ちゃんとした食事の匂いだ。
しらいさんは箸を持ちながら言った。
「私も、結構意識してた」
「やっぱり」
「何がやっぱり」
「昼の外と違って、夜の外はもう少し、こう」
「こう?」
「……デートっぽいので」
「……」
「黙らないでください」
「いや」
「何ですか」
「春日くん、自分でそれ言うんだと思って」
「言わないほうがよかったですか」
「よくはない」
「だめじゃないですか」
「だめじゃないけど、心臓にはあんまりよくない」
「それ、俺もです」
しらいさんはその返しに少しだけ笑い、それからだし巻きを箸で切った。
「でも」
「うん」
「今日、そう思って来たかも」
「……」
「デート、って言い切るとまだ少し違う気もするけど」
「はい」
「でも、そう思わないふりもしきれない感じ」
その表現が、妙にぴったりだった。
名前はまだない。
でも、ただの食事では済まない。
そう思わないふりをするには、もう二人とも少し進みすぎている。
悠真は頷く。
「分かります」
「うん」
「たぶん俺も、今そういう感じです」
「……そっか」
「嫌じゃないです」
「早い」
「そこはもういいでしょう」
「よくない。確認は大事」
「慎重だなあ」
「慎重だよ。見えないところでは、かなり」
彼女はそう言って、だし巻きを一口食べた。
ほっとしたように目元がやわらぐ。
「おいしい」
「よかった」
「春日くん」
「はい」
「それ、さっきから何回も言ってる」
「気づきました?」
「気づくよ」
「しらいさんがちゃんとしてるごはん、おいしそうに食べてるの、何かいいなって」
「……」
「何ですか」
「今の、ちょっとだめ」
「だめ?」
「何か、急に近い」
そう言われて、悠真は少しだけ言葉に詰まった。
近い。
その表現がうれしいのか、怖いのか、一瞬で判別できなかったからだ。
でも、たぶん悪い意味ではない。
「近いの、嫌ですか」
できるだけ静かに聞く。
しらいさんは、箸を置いてから首を横に振った。
「嫌じゃない」
「……」
「むしろ、近くなってるなってちゃんと分かるから、ちょっと落ち着かない」
「俺もです」
「うん。だよね」
「河川敷だと、もう少しごまかせるんですけど」
「そう。夜風とか、暗さとか、缶チューハイとか」
「缶チューハイは大事なんだ」
「大事。あれがあると、全部少しだけ曖昧になるから」
「今日は曖昧にならないですね」
「ならないね」
「……」
「……」
数秒だけ沈黙が落ちる。
でも、その沈黙は嫌ではなかった。
テーブルの上の湯気や、周りの客の小さな話し声や、グラスの水滴まで含めて、全部が“二人だけの時間”の輪郭を濃くしている感じがした。
「春日くん」
「はい」
「この前、河川敷で“分からないままでいい”って言ったでしょ」
「言いました」
「今も、そう思う?」
「……」
「正直に」
「今も、そう思ってます」
「……そっか」
「でも」
「でも?」
「少しずつ、分かってきてる感じはします」
しらいさんはゆっくり顔を上げる。
その視線がまっすぐで、悠真は少しだけ背筋を正した。
「何が」
「会いたいとか」
「うん」
「落ち着くとか」
「うん」
「外で会っても、河川敷で会っても、どっちもちゃんと大事だとか」
「……」
「そういうのが、何なのかはまだ名前つけなくていいと思うんですけど」
「うん」
「でも、雑にはしたくないです」
「……」
「しらいさんとのこと」
彼女はそれを聞いて、しばらく何も言わなかった。
言葉を選んでいるというより、ちゃんと受け取っているような沈黙だった。
やがて、小さく息を吐く。
「春日くん」
「はい」
「今の、かなり好き」
「……」
「返事がない」
「いや」
「何」
「急に言うので」
「本当だから」
「……俺も」
「うん」
「今の、うれしいです」
彼女は少しだけ笑って、梅酒を飲んだ。
その笑い方は、河川敷で見るものより少しだけ大人っぽくて、それがまた落ち着かない。
食事は思ったよりずっとゆっくり進んだ。
仕事の話を少し。コンビニの新商品の話を少し。
しらいさんが最近履きやすい靴ばかり探してしまう話。
悠真が会社の先輩に「お前は気が利くから便利」と言われて複雑な顔をした話。
笑って、食べて、時々黙って。
その全部が自然なのに、同時に少しだけ特別だった。
会計はしらいさんが払うと言い張った。
悠真が引き下がらないと、「じゃあ次、春日くんが」と先に約束を作って押し切られた。
「次、ある前提なんですね」
「あるでしょ」
「……ありますね」
「うん」
店を出ると、夜気が少しだけひんやりしていた。
大通りまで戻る道を、二人でゆっくり歩く。
「酔ってる?」
しらいさんが聞く。
「少しだけ」
「私も」
「梅酒一杯で?」
「雰囲気」
「便利だなあ」
「便利なんだってば」
駅前の信号で立ち止まる。
赤。
車のライトが目の前を流れていく。
隣に立つ彼女との距離が近い。
河川敷のベンチとも、カフェの向かいとも違う。
並んで歩いて、止まって、また歩く。そのリズムが妙にしっくり来る。
「春日くん」
「はい」
「今日、来てよかった?」
「よかったです」
「即答」
「聞かなくても分かるでしょ」
「ちゃんと聞きたい日もある」
信号が青に変わる。
二人で歩き出す。
「しらいさんは」
「うん」
「よかったですか」
「……かなり」
「かなり」
「うん。思ったより」
「何が」
「ちゃんと、うれしかった」
その言葉が、静かに胸へ落ちる。
駅の入口が見えてきたところで、彼女は少しだけ歩く速度をゆるめた。
「ねえ」
「はい」
「今日のこと、河川敷に持って帰れるかな」
「持って帰る?」
「うん。外で会ったら、河川敷が少し変わるかもって思ってたけど」
「……」
「今日のは、持って帰りたい」
「……大丈夫だと思います」
「何で?」
「今日のしらいさんも、ちゃんとしらいさんだったので」
「……」
「だから、河川敷で会ってもたぶん、そのまま話せます」
「……そっか」
彼女は少しだけ笑った。
その笑い方が、河川敷の夜に近い。
「じゃあ次」
「はい」
「河川敷で」
「行きます」
「うん」
「ちゃんと」
「ちゃんと?」
悠真は少しだけ迷ってから言う。
「今日よかった、って顔で行きます」
「……何それ」
「いや、本当なので」
「そういうの、本当にずるい」
「今日何回目だ」
「でも」
「はい」
「うれしい」
駅の改札前で、二人は立ち止まる。
今日はすぐに別れが来る。
それが少し惜しい。
でも前みたいに、そこで全部終わる感じはもうなかった。
「じゃあ、また」
「うん」
「帰ったらちゃんと水飲んでください」
「何、その急な生活指導」
「少し酔ってるので」
「春日くんも」
「はい」
「あと」
「何ですか」
「今日の最初のやつ」
「最初?」
「綺麗、って言ったやつ」
「……はい」
「ちゃんと覚えとく」
そう言ってから、彼女は少しだけ目を細めた。
「じゃあね」
「また」
人の流れに紛れていく後ろ姿を見送りながら、悠真は自分の中に残っている温度を確かめる。
河川敷の夜。
平日の寄り道。
土曜の夜ごはん。
少しずつ場所が増えて、それでも関係は壊れず、むしろ輪郭を持ち始めている。
まだ名前はない。
でももう、ただ曖昧なままではいられないところまで来ている気がした。




