表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
河川敷で缶チューハイを飲んでる地味なお姉さん、どう見ても人気女優なのに俺の前では絶対に認めない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/19

エピソード10 土曜の夜ごはんは、まだ名前のない関係を少しだけ前に進める

 土曜日の夕方、春日悠真は駅のホームで電車を待ちながら、今日だけで四回目の時間確認をした。


 待ち合わせは十九時。

 まだ十分以上ある。

 早すぎる。分かっている。

 それでも少しでも遅れる可能性を考えると落ち着かなかった。


 河川敷で会うだけなら、ここまで気にしなかった。

 少し遅れても、向こうも同じくらい適当で、会えればそれでよかった。

 でも今日は違う。


 土曜の夜。

 外で会う約束。

 しかも「夜ごはん」と彼女は言った。


 デート、という言葉を使うにはまだ少しだけ早い気がする。

 でも、ただの食事と言い切るには気持ちが落ち着かなすぎる。


 ホームに電車が滑り込んでくる。

 ドアが開き、冷房の匂いと一緒に人が吐き出される。

 悠真は流れに乗って車内へ入り、ドア脇に立った。


 今日の服装はかなり迷った。

 結局、黒の細身パンツに白シャツ、その上から薄いグレーのカーディガンを羽織っている。頑張りすぎない。でも適当すぎない。たぶん。

 たぶんという言い方しかできないあたり、こういうことに慣れていないのが丸分かりだ。


 スマホが震える。


『着いたら教えて』


 しらいさんから。

 短い。

 でも、それだけで心拍数が少し上がる。


『あと五分くらいです』


 送ると、すぐ既読がついた。


『私も』


 その二文字が、妙にうれしい。

 自分だけが落ち着かないわけじゃないのかもしれない。そう思えるからだ。


    ◇


 待ち合わせ場所は、駅から少し歩いた路地裏の入口だった。


 大通りに面した人気の店だと人目が多いし、かといって静かすぎる高級店はまだ違う。

 そういうことをたぶん彼女も考えたのだろう。

 選ばれたのは、住宅街寄りのエリアにある小さな和食居酒屋だった。外観は落ち着いていて、値段も高すぎず、個室ではないが席の間隔は少し広い。店の前には小さな行灯が出ていて、暖色の光が足元をやわらかく照らしていた。


 悠真が路地に入ると、店の少し手前の街灯の下にしらいさんがいた。


 キャップはかぶっていない。

 今日はベージュの薄手ニットに、黒のロングスカート。肩まで落ちる髪は軽くまとめられていて、白いマスクをしていても雰囲気が少し違う。河川敷のパーカー姿とも、日曜のシャツワンピースともまた違う。

 落ち着いていて、でもやっぱり地味だけでは済まない。


 悠真は数歩手前で足を止めた。


「……どうかしました?」


 先に気づいたのは彼女だった。

 少しだけ首を傾げる。


「いや」

「何」

「今日、いつもより」

「いつもより?」

「ちょっと、普通に綺麗ですね」

「……」


 言ってから、少し早かったかもしれないと思った。

 でももう遅い。


 しらいさんは数秒だけ黙って、それからマスク越しでも分かるくらいゆっくり息を吐いた。


「春日くん」

「はい」

「そういうの、待ち合わせの最初に言う?」

「だめでした?」

「だめじゃないけど」

「けど?」

「心の準備がない」

「それはすみません」

「……でも、ありがと」


 最後の一言だけ、少し小さかった。


 悠真もそれ以上は踏み込まず、小さく咳払いをする。


「しらいさんも」

「何」

「仕事帰りじゃない春日くん、ちょっとまとも、ってこの前言ってましたけど」

「うん」

「今日は、しらいさんも、ちょっと」

「ちょっと?」

「ちゃんとしてる人の感じが強いです」

「何その感想」

「言語化が難しい」

「うん、分かる。春日くん、今かなり照れてる」

「気のせいです」

「気のせいじゃない」


 彼女は小さく笑った。

 その笑い方を見て、ようやく少しだけ緊張がほどける。


「入りましょうか」

「うん」


 二人で店の暖簾をくぐる。

 店内は落ち着いた明るさで、席の間に程よい仕切りがあった。カウンターもあるが、案内されたのは二人用のテーブル席。向かい合う形になる。


 向かい合う。


 その事実だけで、悠真は少しだけ背筋を正した。

 河川敷では隣。カフェでも向かい合ったが昼の明るさがあった。

 でも夜の食事で向かい合うと、また別の意味を持ってしまう気がする。


 メニューを開く。

 しらいさんは先におしぼりを丁寧に畳んでから、何気ない顔で言った。


「お酒、飲む?」

「しらいさんは」

「今日は少しだけ飲みたい」

「じゃあ俺も付き合います」

「無理しなくていいのに」

「無理ではないです」

「……そう」


 店員を呼び、彼女は梅酒のソーダ割り、悠真はレモンサワーを頼んだ。料理はだし巻き卵、焼き魚、豆腐サラダ、それと鶏の炭火焼き。ついでに締めっぽいものまで最初から頼みそうになって、二人で少し笑う。


「何か、ちゃんとごはんだ」

 悠真が言う。

「何その感想」

「クレープとかプリンとかじゃなくて」

「失礼だなあ。私だってちゃんとごはん食べるよ」

「河川敷だとあんまりそういう感じじゃないので」

「河川敷の私はあそこで完成してるから」

「完成って」

「缶チューハイとコンビニ袋で」

「だいぶ安上がりだ」

「気楽なんだよね」


 その言い方は、少しだけ前のしらいさんに戻った感じがして、悠真は安心する。

 夜の外で会っても、彼女が全部遠くなるわけではない。


「でも今日は」

 彼女がメニューから顔を上げる。

「今日は、ちゃんとごはん食べたかった」

「何で」

「春日くんと」

「……」

「何その顔」

「いや、普通に言うんだなと」

「今日はそういう日だから」

「便利だな、それ」

「便利なんだってば」


 運ばれてきた飲み物で、軽く乾杯する。

 グラスが小さく触れ合う。


 梅酒のソーダ割りを一口飲んだ彼女は、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。


「……おいしい」

「よかったです」

「春日くんのは?」

「普通に飲みやすいです」

「大人の感想」

「何ですか、それ」

「いつもより少しだけ、ちゃんとしてる」

「今日はちゃんとしてないとまずいかなって」

「何で」

「……」

「何で?」


 しらいさんはわざとらしく聞き返す。

 悠真はグラスを持ち上げたまま視線を逸らした。


「夜ごはんって言われたので」

「うん」

「……少しは意識しますよ」

「……そっか」


 彼女はそこで、少しだけ黙った。


 料理が運ばれてくる。

 だし巻き卵から湯気が立っている。焼き魚の香りが広がる。河川敷でもコンビニでもない、ちゃんとした食事の匂いだ。


 しらいさんは箸を持ちながら言った。


「私も、結構意識してた」

「やっぱり」

「何がやっぱり」

「昼の外と違って、夜の外はもう少し、こう」

「こう?」

「……デートっぽいので」

「……」

「黙らないでください」

「いや」

「何ですか」

「春日くん、自分でそれ言うんだと思って」

「言わないほうがよかったですか」

「よくはない」

「だめじゃないですか」

「だめじゃないけど、心臓にはあんまりよくない」

「それ、俺もです」


 しらいさんはその返しに少しだけ笑い、それからだし巻きを箸で切った。


「でも」

「うん」

「今日、そう思って来たかも」

「……」

「デート、って言い切るとまだ少し違う気もするけど」

「はい」

「でも、そう思わないふりもしきれない感じ」


 その表現が、妙にぴったりだった。


 名前はまだない。

 でも、ただの食事では済まない。

 そう思わないふりをするには、もう二人とも少し進みすぎている。


 悠真は頷く。


「分かります」

「うん」

「たぶん俺も、今そういう感じです」

「……そっか」

「嫌じゃないです」

「早い」

「そこはもういいでしょう」

「よくない。確認は大事」

「慎重だなあ」

「慎重だよ。見えないところでは、かなり」


 彼女はそう言って、だし巻きを一口食べた。

 ほっとしたように目元がやわらぐ。


「おいしい」

「よかった」

「春日くん」

「はい」

「それ、さっきから何回も言ってる」

「気づきました?」

「気づくよ」

「しらいさんがちゃんとしてるごはん、おいしそうに食べてるの、何かいいなって」

「……」

「何ですか」

「今の、ちょっとだめ」

「だめ?」

「何か、急に近い」


 そう言われて、悠真は少しだけ言葉に詰まった。

 近い。

 その表現がうれしいのか、怖いのか、一瞬で判別できなかったからだ。


 でも、たぶん悪い意味ではない。


「近いの、嫌ですか」

 できるだけ静かに聞く。


 しらいさんは、箸を置いてから首を横に振った。


「嫌じゃない」

「……」

「むしろ、近くなってるなってちゃんと分かるから、ちょっと落ち着かない」

「俺もです」

「うん。だよね」

「河川敷だと、もう少しごまかせるんですけど」

「そう。夜風とか、暗さとか、缶チューハイとか」

「缶チューハイは大事なんだ」

「大事。あれがあると、全部少しだけ曖昧になるから」

「今日は曖昧にならないですね」

「ならないね」

「……」

「……」


 数秒だけ沈黙が落ちる。

 でも、その沈黙は嫌ではなかった。

 テーブルの上の湯気や、周りの客の小さな話し声や、グラスの水滴まで含めて、全部が“二人だけの時間”の輪郭を濃くしている感じがした。


「春日くん」

「はい」

「この前、河川敷で“分からないままでいい”って言ったでしょ」

「言いました」

「今も、そう思う?」

「……」

「正直に」

「今も、そう思ってます」

「……そっか」

「でも」

「でも?」

「少しずつ、分かってきてる感じはします」


 しらいさんはゆっくり顔を上げる。

 その視線がまっすぐで、悠真は少しだけ背筋を正した。


「何が」

「会いたいとか」

「うん」

「落ち着くとか」

「うん」

「外で会っても、河川敷で会っても、どっちもちゃんと大事だとか」

「……」

「そういうのが、何なのかはまだ名前つけなくていいと思うんですけど」

「うん」

「でも、雑にはしたくないです」

「……」

「しらいさんとのこと」


 彼女はそれを聞いて、しばらく何も言わなかった。

 言葉を選んでいるというより、ちゃんと受け取っているような沈黙だった。


 やがて、小さく息を吐く。


「春日くん」

「はい」

「今の、かなり好き」

「……」

「返事がない」

「いや」

「何」

「急に言うので」

「本当だから」

「……俺も」

「うん」

「今の、うれしいです」


 彼女は少しだけ笑って、梅酒を飲んだ。

 その笑い方は、河川敷で見るものより少しだけ大人っぽくて、それがまた落ち着かない。


 食事は思ったよりずっとゆっくり進んだ。

 仕事の話を少し。コンビニの新商品の話を少し。

 しらいさんが最近履きやすい靴ばかり探してしまう話。

 悠真が会社の先輩に「お前は気が利くから便利」と言われて複雑な顔をした話。


 笑って、食べて、時々黙って。

 その全部が自然なのに、同時に少しだけ特別だった。


 会計はしらいさんが払うと言い張った。

 悠真が引き下がらないと、「じゃあ次、春日くんが」と先に約束を作って押し切られた。


「次、ある前提なんですね」

「あるでしょ」

「……ありますね」

「うん」


 店を出ると、夜気が少しだけひんやりしていた。

 大通りまで戻る道を、二人でゆっくり歩く。


「酔ってる?」

 しらいさんが聞く。

「少しだけ」

「私も」

「梅酒一杯で?」

「雰囲気」

「便利だなあ」

「便利なんだってば」


 駅前の信号で立ち止まる。

 赤。

 車のライトが目の前を流れていく。


 隣に立つ彼女との距離が近い。

 河川敷のベンチとも、カフェの向かいとも違う。

 並んで歩いて、止まって、また歩く。そのリズムが妙にしっくり来る。


「春日くん」

「はい」

「今日、来てよかった?」

「よかったです」

「即答」

「聞かなくても分かるでしょ」

「ちゃんと聞きたい日もある」


 信号が青に変わる。

 二人で歩き出す。


「しらいさんは」

「うん」

「よかったですか」

「……かなり」

「かなり」

「うん。思ったより」

「何が」

「ちゃんと、うれしかった」


 その言葉が、静かに胸へ落ちる。


 駅の入口が見えてきたところで、彼女は少しだけ歩く速度をゆるめた。


「ねえ」

「はい」

「今日のこと、河川敷に持って帰れるかな」

「持って帰る?」

「うん。外で会ったら、河川敷が少し変わるかもって思ってたけど」

「……」

「今日のは、持って帰りたい」

「……大丈夫だと思います」

「何で?」

「今日のしらいさんも、ちゃんとしらいさんだったので」

「……」

「だから、河川敷で会ってもたぶん、そのまま話せます」

「……そっか」


 彼女は少しだけ笑った。

 その笑い方が、河川敷の夜に近い。


「じゃあ次」

「はい」

「河川敷で」

「行きます」

「うん」

「ちゃんと」

「ちゃんと?」


 悠真は少しだけ迷ってから言う。


「今日よかった、って顔で行きます」

「……何それ」

「いや、本当なので」

「そういうの、本当にずるい」

「今日何回目だ」

「でも」

「はい」

「うれしい」


 駅の改札前で、二人は立ち止まる。


 今日はすぐに別れが来る。

 それが少し惜しい。

 でも前みたいに、そこで全部終わる感じはもうなかった。


「じゃあ、また」

「うん」

「帰ったらちゃんと水飲んでください」

「何、その急な生活指導」

「少し酔ってるので」

「春日くんも」

「はい」

「あと」

「何ですか」

「今日の最初のやつ」

「最初?」

「綺麗、って言ったやつ」

「……はい」

「ちゃんと覚えとく」


 そう言ってから、彼女は少しだけ目を細めた。


「じゃあね」

「また」


 人の流れに紛れていく後ろ姿を見送りながら、悠真は自分の中に残っている温度を確かめる。


 河川敷の夜。

 平日の寄り道。

 土曜の夜ごはん。


 少しずつ場所が増えて、それでも関係は壊れず、むしろ輪郭を持ち始めている。

 まだ名前はない。

 でももう、ただ曖昧なままではいられないところまで来ている気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ