エピソード11 夜ごはんのあとで会う河川敷は、前より少しだけ隠せない
土曜の夜ごはんのあと、最初に河川敷で会う日まで、二日空いた。
たった二日。
前なら、そんなものは何でもなかったはずだ。
仕事をして、コンビニに寄って、疲れたまま寝る。そうしていれば一週間なんてあっという間に過ぎる。
でも今は違う。
月曜の朝から、悠真は自分でも少し呆れるくらい落ち着かなかった。
仕事中に土曜のことを思い出す。
店の暖色の灯り。
向かい合ったテーブル。
「普通に綺麗ですね」と口にしたときの、しらいさんの少し遅れてやってきた照れた反応。
「今日の最初のやつ、ちゃんと覚えとく」と言った声。
忘れてほしくないような、でも思い出されるたびに自分も恥ずかしくなるような、妙に落ち着かない記憶だった。
「春日」
昼前、三崎がコピーした書類を抱えたまま寄ってくる。
「何」
「お前、最近ちょっとだけ色気出たな」
「は?」
「前は“仕事に魂を差し出しました”みたいな顔だったのに、今は“夜に予定があります”みたいな顔」
「雑だな」
「でも合ってるだろ」
「……」
「黙るのやめろって。答え合わせになるから」
「お前は本当に余計なところだけ鋭いな」
「で?」
「で?」
「順調?」
「何が」
「だから、その夜の予定」
「そういう感じじゃない」
「そういう感じじゃないのに、その顔になる?」
「……分からない」
「うわ、一番まずいやつだ」
三崎は面白そうに笑った。
だが次の瞬間には、少しだけ真面目な顔になる。
「まあでも」
「何」
「分かんない相手が一番大事になったりするからな」
「経験者みたいに言うな」
「経験者じゃないけど、漫画で見た」
「薄いな」
「でもわりと当たってる顔してるぞ」
それを否定できないのが、少し癪だった。
◇
火曜の夜、会社を出たのは八時半を少し回ったころだった。
残業はいつも通り。
上司の「今日中に」が二件、先輩の「悪い、ここだけお願い」が一件。
社会人一年目の一日は、だいたいそんなもので埋まる。
それでも今日は足取りが少しだけ軽い。
帰る場所ではなく、行く場所があるからだ。
コンビニで、少し悩んでから買い物をする。
しらいさんが好きそうな小さな芋けんぴの袋。
自分用の水。
それから、なんとなく、ホットのカフェラテを一本。
河川敷へ続く坂道を下りる。
夜風は前より少し冷たい。もう完全に季節が進み始めている。
ベンチには、いつものように彼女がいた。
キャップ。パーカー。
膝の上には缶チューハイ。
なのに、土曜の夜ごはんの席で見たベージュのニットや、向かい合って微笑んだ顔を知っているせいで、いつもの河川敷の姿すら少し新しく見える。
「こんばんは」
悠真が声をかける。
「……こんばんは」
しらいさんは顔を上げて、少しだけ止まる。
「何」
悠真が言う。
「いや」
「何その反応」
「……来たなって」
「来ますよ」
「知ってる」
「ならいいでしょう」
「いいけど」
いつものようで、いつもより少しだけぎこちない。
それが自分だけじゃないと分かって、悠真は少しだけ安心した。
ベンチに腰かける。
距離は、前と同じくらい空けた。
でも前と同じに感じない。
「春日くん」
「はい」
「今日、ちょっと変」
「そっちもです」
「……やっぱり?」
「やっぱり」
「何で」
「何でって」
「ちゃんと言って」
言い方が少しだけ甘い。
でも誤魔化していないぶん、むしろ逃げ道がない。
「土曜のあとだから」
悠真は正直に言った。
「……」
「夜ごはんのあとに、またここで会うと」
「うん」
「前みたいに平気なふりしにくいです」
「……」
「何ですか」
「いや」
「何で黙るんですか」
「同じこと思ってたから」
しらいさんは缶の表面についた水滴を指でなぞりながら、少しだけ息を吐いた。
「何か、ここに来たら戻るかと思ってた」
「戻る?」
「前みたいな感じに」
「……」
「でもちょっと違う」
「違いますね」
「うん」
そこまで言ってから、彼女は少しだけ悠真のほうを見る。
「でも、嫌じゃない」
「……俺もです」
「即答」
「これは即答でいいでしょう」
「……うん」
その“うん”が、妙にやわらかかった。
悠真はコンビニ袋を差し出す。
「これ」
「何」
「芋けんぴ」
「……」
「何ですか」
「何で分かったの」
「この前、大学芋の話してたので」
「……覚えてたんだ」
「覚えてますよ」
「春日くん、たまに記憶力が怖い」
「悪い意味ですか」
「悪い意味じゃない。かなりうれしい意味」
しらいさんは袋を受け取って、小さく笑った。
その笑い方が、河川敷の夜にだんだん馴染んでくる。
「で」
彼女が言う。
「今日の春日くんは、何を持ってきたの」
「水」
「健康」
「しらいさんは?」
「一本だけ」
「最近それよく言いますね」
「でも本当に一本だけ」
「信じます」
「えらい」
「雑な褒め方」
「好きだから」
「何が」
「その返し」
さらっと言われて、悠真は少しだけ視線を逸らした。
こういう何気ないやりとりが、最近いちいち近い。
しらいさんは芋けんぴを一本つまんで口に入れた。
少しだけ目元がゆるむ。
「……おいしい」
「よかったです」
「春日くん」
「はい」
「今の“よかったです”」
「何ですか」
「土曜のときもよく言ってた」
「言ってました?」
「言ってた。何か、私が食べたり飲んだりしてるの見て安心する人みたいだった」
「……」
「何で黙るの」
「いや、図星かもしれないなと」
「図星なんだ」
「うん。何か」
「何か?」
「ちゃんとしてるごはん食べてたり、おいしそうにしてたりすると、ちょっと安心します」
「……」
「何ですか」
「今の、かなり好き」
「またそれ言う」
「本当だから」
河川敷に、少しだけ静かな空気が落ちる。
遠くの橋を走る車の音が、妙に遠く聞こえた。
「しらいさん」
「何」
「土曜のこと、覚えてます?」
「……どこまで?」
「どこまで?」
「最初のやつ」
「綺麗って言ったやつ?」
「うん」
「覚えてますよ」
「……そっか」
「そっちは?」
「覚えてる」
「全部?」
「全部はずるいから言わない」
「そこは隠すんだ」
「隠す。だって、こっちばっかり恥ずかしい」
彼女はそう言って、缶に口をつけた。
でも飲む前に少しだけ止まって、結局ひと口だけにした。
「ねえ」
「はい」
「土曜の私、ちゃんと私だった?」
「……」
「何その間」
「いや、難しい質問だなと」
「難しい?」
「うん。ちゃんとしらいさんだったし、でも河川敷のしらいさんだけじゃなかった」
「……」
「何か、前よりいろんな顔があるんだなって思いました」
「それ、嫌だった?」
「嫌じゃないです」
「早い」
「それはもういいですって」
「でも聞きたい日もある」
「じゃあ、何回でも言いますよ」
「……そういうの」
しらいさんは少しだけ視線を逸らした。
「本当に、だめ」
「だめなんですか」
「だめっていうか、緩む」
「じゃあよかった」
「春日くん、最近ちょっと余裕出てきた?」
「そう見えます?」
「少し」
「たぶん、しらいさんが素直だからです」
「……」
「何ですか」
「今のは、ちょっと責任感じる」
「感じなくていいです」
「でも、春日くんが前より言うようになったの、私のせいなんだ」
「半分くらいは」
「半分なんだ」
「残り半分は、俺が勝手にそうなってるだけです」
「……そっか」
その返事は小さかった。
でも、嫌そうではなかった。
風が少しだけ強く吹く。
しらいさんの髪がキャップの下から少し乱れて、彼女は片手でそれを押さえた。
その仕草を見て、悠真はふと思ったことを口にする。
「キャップないほうが、外のしらいさんって感じしますね」
「え」
「いや」
「何、急に」
「今日、河川敷なのにちょっと昼のこと思い出したので」
「……」
「すみません、変なこと言いました?」
「変ではない」
「じゃあ何で黙るんですか」
「……今日の春日くん、思ったより近い」
言われて、悠真は少しだけ息を止めた。
近い。
その言葉を、この人は最近よく使う。
それが嫌じゃないと分かっているのに、言われるたびに少しだけ緊張する。
「近いの、嫌ですか」
「またそれ聞く」
「気になるので」
「嫌じゃない」
「……」
「でも、ちゃんと意識するくらいには近い」
「……俺もです」
「うん」
「今日、しらいさんがいるの見た瞬間」
「うん」
「河川敷なのに、待ち合わせみたいだなって思いました」
「……」
彼女はそこで笑った。
今まででいちばん、自然で、でも少しだけ照れた笑い方だった。
「それ、かなり分かる」
「ほんとに?」
「うん。私も、春日くん来るかなって思いながら待ってたし」
「……」
「何で黙るの」
「いや、うれしいなと」
「……私も」
その言葉のあと、二人とも少しだけ前を向いた。
何だろう、この感じは。
告白ではない。
でも、もうただの延長線だけではない。
名前はまだない。
けれど、こうして河川敷に戻ってきて、前より少しだけ隠せなくなっている。
「春日くん」
「はい」
「今日、ちょっとだけ寄ってく?」
「どこに」
「土手の上の自販機」
「飲み物ですか」
「うん。缶じゃないやつ」
「……いいですね」
「今日は、ここで終わるのちょっと早い気がする」
「俺もです」
その一言で、彼女はほんの少しだけ目を細めた。
立ち上がって、二人で土手の上へ向かう。
夜の自販機は白く明るくて、そこだけ妙に現実感がある。
しらいさんは温かいココアを選び、悠真はブラックコーヒーを押した。
缶が落ちる音が連続して鳴る。
「ブラックなんだ」
「こういうのは」
「似合わない」
「ひどい」
「でも春日くん、甘いの好きそう」
「否定しません」
「じゃあ今度、もっと甘いやつ」
「クレープの次は何ですか」
「まだ決めてない」
「決めてないんだ」
「こういうのは、考えるのも楽しいから」
「……」
「何」
「いや」
「何」
「今の、すごくいいなって」
「……」
しらいさんはココアの缶を両手で持ったまま、少しだけ口元を隠すようにうつむいた。
「今日の春日くん、本当にだめ」
「何で」
「そのまま言うから」
「本当なので」
「知ってる」
「……うん」
「あと」
「はい」
「そういうの言われると、ちゃんと次考えたくなる」
「……」
「だから、責任ちょっとある」
「持ちますよ」
「軽い」
「軽くないです」
「……じゃあ、少しだけ信じる」
二人で自販機の明かりの下、少しだけそのまま立っていた。
コーヒーの苦味。ココアの甘い匂い。夜風。
河川敷とは違う、でもその延長にあるみたいな時間。
戻るころには、最初のぎこちなさはほとんど消えていた。
ベンチの前で立ち止まり、しらいさんが言う。
「今日、来てよかった」
「俺もです」
「うん」
「あと」
「何」
「やっぱり、ここでも変じゃなかったですね」
「……」
「土曜のこと持って帰れました」
「……うん」
「ちゃんと」
「うん。持って帰れた」
彼女はそこで少しだけ迷ってから、静かに続けた。
「春日くん」
「はい」
「たぶん私」
「うん」
「前より、ここでもごまかせなくなってる」
「……」
「それでも来たいって思うから、たぶん大丈夫なんだと思う」
悠真は、それにすぐには返せなかった。
代わりに、ゆっくりうなずく。
「俺も」
「うん」
「そう思います」
それで、十分だった。
土手の上で別れる。
今日は、彼女が少しだけ先に言った。
「次」
「はい」
「平日、また途中で呼ぶかも」
「待ってます」
「河川敷も」
「行きます」
「うん。……ちゃんと」
その“ちゃんと”は、最近の彼女の中でだいぶ大きな意味を持っている気がした。
悠真は笑って答える。
「ちゃんと行きますよ」
「うん」
彼女はそれを聞いて、少しだけ安心したみたいに歩き出した。
夜風に揺れる後ろ姿を見送りながら、悠真は胸の奥で静かに思う。
もうたぶん、自分たちは戻れない。
前みたいに、ただ河川敷で偶然会って、適当に言い訳して、少しだけ笑って帰るだけの相手ではいられない。
でもそれは、悪いことじゃない。
むしろ今は、少しずつ隠せなくなっていくことのほうが、うれしいと思ってしまう。




