エピソード12 平日の途中で呼ばれる夜は、河川敷より先に心臓が追いつかない
木曜の夜に河川敷で会ってから、金曜は妙に長かった。
朝から会議資料の差し替え。
昼前に営業から戻ってきた数字の修正。
午後は上司の「悪い、この文面だけ先に見てくれる?」が三連続。
社会人一年目の一日は、相変わらず人の都合で細かく刻まれていく。
でも今日は、その全部の奥に、別の音があった。
――平日、また途中で呼ぶかも。
昨夜、しらいさんはそう言った。
呼ぶかも、という曖昧な言い方だったくせに、悠真の中ではもう半分くらい“ある前提”になってしまっている。
自分でも単純だと思う。
けれど、それを認めるのが少し悔しい。
「春日」
斜め前から三崎が書類を振る。
「何」
「今日のお前、さらに分かりやすいな」
「何が」
「スマホの通知来るたびに顔が一瞬だけ人間になる」
「普段は何なんだよ」
「会社に順応した事務機器」
「その例え好きだな」
「で、今日は来るの?」
「何が」
「夜の予定」
「知らない」
「知らない、なんだ」
「知らないです」
「でも待ってる顔だぞ」
「……」
「図星」
「うるさい」
「まあ、来るといいな」
「人ごとだな」
「人ごとだし」
「最低だ」
「でもちょっと応援してる」
「いらない」
「そう言うやつほど後で感謝するんだよなあ」
三崎は笑いながら自席へ戻っていった。
ああいうところだけ、少しだけ腹が立つくらい勘がいい。
夕方を過ぎても、スマホは静かなままだった。
来ないかもしれない。
いや、むしろ普通はそうだ。
毎回呼ばれるわけじゃない。彼女にも仕事があるし、都合だってある。そういう当たり前のことを一つずつ並べながら、悠真はパソコン画面に向かう。
十八時半。
十九時。
十九時十五分。
終業の空気が少しずつオフィスに広がり始める。
だが悠真の机には、まだ赤字入りの資料が一件残っていた。
十九時二十分。
ようやくその修正が終わったところで、スマホが震えた。
反射みたいに手が伸びる。
『今、少しだけ逃げたい』
しらいさんだった。
短い。
でも、その一文だけで、彼女が今どんな顔をしているのか何となく想像できてしまう。
悠真はすぐに返信する。
『どこですか』
数秒後。
『駅ビルの屋上駐車場に続く階段のとこ』
その場所は分かった。
駅ビルの裏手にある、あまり人が使わない非常階段の踊り場だ。屋上駐車場に上がるための階段だが、平日の夜はほとんど人が通らない。以前、たまたま迷って見つけたことがある。
『行きます』
送ってから、悠真はすぐに立ち上がった。
「お、来た?」
タイミング悪く、三崎がまた顔を出す。
「何が」
「その顔。来たんだろ」
「……帰る」
「うわ、分かりやす」
「お前に説明する義理はない」
「ないけど、背中押すくらいはしてやる」
「いらない」
「でも急いだほうがいい顔してるぞ」
「……」
「ほら、行けって」
最後のそれだけ、少しだけ真面目だった。
悠真は返事もせず鞄を掴み、エレベーターへ向かった。
◇
駅ビルの裏手は、大通りの賑やかさが嘘みたいに静かだった。
飲食店の換気扇の音。
どこかから漂う揚げ物の匂い。
それに混じって、雨の気配みたいに少し湿った夜風。
非常階段の重い扉を押して入る。
コンクリートの匂い。白い非常灯。靴音だけがやけに響く。
二階と三階の踊り場のあいだ、壁際に人影があった。
キャップ。
黒いマスク。
薄いカーキのシャツに、黒のパンツ。河川敷ほどラフではなく、でも外で会うときの“少しちゃんとしてる”服とも違う。仕事帰りの途中で、そのままここへ逃げ込んできたような格好だった。
「……来た」
しらいさんが言う。
「行きますよ」
「早い」
「近かったので」
「それでも早い」
彼女は少しだけ肩の力を抜いた。
それを見て、悠真もようやく息を整える。
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃない、って言うために呼んだ」
「……それは、かなりですね」
「かなり」
踊り場の壁にもたれたまま、彼女は目を伏せる。
河川敷で見る疲れ方とは少し違う。
今日はもっと、生々しく消耗している感じがした。
「何かあったんですか」
「……」
「言いたくなければ、無理には聞きません」
「うん」
「でも」
「うん」
「いたほうがいいなら、います」
「……それ」
「何ですか」
「今日ちょっと効く」
その声がかすかに弱くて、悠真は一歩だけ距離を詰めた。
狭い踊り場だから、もともとそんなに離れていない。
でも、今はその一歩にちゃんと意味があった。
「座ります?」
「ここ?」
「階段ですけど」
「……まあ、いいか」
二人で少しだけ上の段に腰を下ろす。
コンクリートは固くて冷たい。
でも、立ったまま話すよりはずっとよかった。
「飲み物」
悠真はコンビニ袋からペットボトルの水を出した。
「……何で持ってるの」
「たまたまです」
「その“たまたま”、最近ほんと便利だね」
「しらいさんもよく使うので」
「じゃあ相殺」
彼女は水を受け取って、ひと口だけ飲む。
喉が鳴る小さな音まで、この静かな踊り場では聞こえそうだった。
「今日、長かった」
ぽつりと言う。
「仕事ですか」
「うん。あと、人」
「……」
「今日は、笑うのもしんどいし、気を遣うのもしんどいし、“大丈夫そう”って顔してるのも全部しんどかった」
「……」
「で、そういう日に限って、終わるのが遅い」
「最悪ですね」
「最悪」
彼女はそこで、少しだけ笑う。
でもその笑いは、本当に一瞬だけだった。
「河川敷まで行く元気、ないかもって思った」
「……」
「でも、帰るのも嫌で」
「うん」
「それで、春日くんに会いたくなった」
その言葉は、前よりずっと迷いがなかった。
前なら“顔見たかった”と言ったあとに少し照れて、どこかで誤魔化していた。
でも今は違う。
疲れているからなのか、それとももう、少しずつ誤魔化さなくていいと思い始めているのか。
たぶん、その両方だ。
「呼んでくれてよかったです」
悠真は言う。
「……」
「今日、来れてよかった」
「うん」
「河川敷じゃなくても、会えるのいいですね」
「……うん」
「途中で呼ばれるのも」
「それ、変な言い方」
「でも本音です」
しらいさんはペットボトルを持ったまま、少しだけこちらを見た。
「春日くん」
「はい」
「今日の私は、あんまりちゃんとしてないよ」
「知ってます」
「知ってるの?」
「顔見れば」
「……」
「かなり無理してる顔です」
「……厳しい」
「でも」
「うん」
「そういうときに呼ばれるのは、嫌じゃないです」
「……」
彼女はそこで、視線を落とした。
長い睫毛の影が、非常灯の白い光で少しだけ濃く見える。
「ねえ」
「はい」
「何でそんなに平気なの」
「何がですか」
「私が、こういうときに春日くん呼ぶの」
「平気っていうか」
「うん」
「平気ではないです」
「え」
「心臓にはよくないです」
「……」
「でも、うれしいほうが大きいので」
「……そういうの」
「何ですか」
「今日、本当に刺さる」
悠真は少しだけ笑った。
「最近、よく刺してますね」
「春日くんが勝手に」
「俺のせいか」
「うん。かなり」
「責任重大だな」
「今さら」
その返しに、彼女も少しだけ笑う。
ようやく、さっきより呼吸が整ってきたように見えた。
「しらいさん」
「何」
「今日は、ここでちょっと休んでから帰ります?」
「うん」
「河川敷じゃなくても」
「うん」
「俺、いますよ」
「……」
「何ですか」
「今、それさらっと言うんだ」
「本音なので」
「知ってる」
「……うん」
最近、このやり取りを何度もしている。
でも、何度言われても“知ってる”の響きはやわらかい。
しばらく、二人で黙って座っていた。
階段の下のほうで扉が一度開く音がしたが、誰も上がってこない。
遠くの駅アナウンスが、壁を通してぼんやり聞こえる。
静かだ。
でも、嫌な静けさじゃない。
「春日くん」
「はい」
「私、最近ちょっと思うんだけど」
「うん」
「河川敷って、終わった場所だったでしょ」
「終わった場所」
「一日の最後、みたいな」
「……そうですね」
「でも今は、そこに行く前でも、途中でも、会えるんだなって思うと」
「うん」
「何か……もうちょっと、生きやすい」
その言い方が、胸に残った。
生きやすい。
それはたぶん、大げさな言葉じゃない。
今日の彼女はそれくらいには消耗していて、それくらいには今ここに意味を感じている。
「俺も」
悠真は、少しだけ間を置いてから言った。
「うん」
「最近、会社終わりの感じ、前より嫌じゃないです」
「……」
「終わったらどこかで会えるかもしれないって思うので」
「……」
「しらいさんに」
「……それ」
「はい」
「ちょっと、かなり、だめ」
彼女は片手でマスクの端を押さえた。
照れているのか、困っているのか、その両方なのか分からない。
「だめなんですか」
「だめっていうか」
「うん」
「今日はもう、そういうの耐性ない」
「じゃあ、あんまり言わないように」
「いや、ちょっとは言って」
「注文が細かいなあ」
「細かいよ。今の私は」
そのやり取りが、少しだけいつもの二人に戻してくれる。
しらいさんは、ペットボトルを膝の上に置いて、壁にもたれたまま天井を見上げた。
「ねえ」
「はい」
「私、たぶん前より春日くんに甘えてるよね」
「……少し?」
「少し?」
「かなり、ですかね」
「やっぱり」
「いや、悪い意味じゃなくて」
「分かってる」
「ならいいです」
「でもさ」
「うん」
「それで引かないの、春日くん偉い」
「偉いんだ」
「偉い」
「じゃあ褒めてください」
「えらいえらい」
「雑だな」
「疲れてるから」
「便利だなあ」
「便利なんだってば」
彼女は笑って、それから少しだけ真面目な声になる。
「でも本当に」
「うん」
「今日、呼んでよかった」
「……」
「来てくれてありがとう」
「行きますよ」
「うん」
「たぶん今後も、呼ばれたら」
「……」
「行きます」
「……」
「何ですか」
「それ、ちゃんと覚えとく」
「覚えてください」
「うん。かなり大事に」
その言葉のあと、また沈黙が落ちる。
でも今度の沈黙は、少しあたたかかった。
彼女はやがて、ゆっくり立ち上がった。
「帰ろうかな」
「大丈夫そうですか」
「さっきよりは」
「ならよかった」
「春日くん」
「はい」
「今の“ならよかった”、今日三回目くらい」
「口癖かもしれません」
「知ってる」
「最近、それ便利ですね」
「便利だよ」
二人で階段を下りる。
重い扉を押し開けると、駅裏の夜風が少しだけ強く感じた。
大通りまで出る手前で、彼女は足を止める。
「今日は河川敷じゃなかったけど」
「はい」
「ちゃんと、しらいさんと春日くんだったね」
「……そうですね」
「うん。よかった」
「俺もです」
「また」
「はい」
「こういう途中で呼ぶかも」
「待ってます」
「……うん」
その“うん”は、疲れているときの弱さではなく、少しだけ安心したあとの声だった。
「土曜、空いてる?」
彼女が聞く。
「空いてます」
「じゃあ、今度はごはんじゃなくて、少し静かなとこ」
「静かなとこ?」
「歩くとか」
「……いいですね」
「うん」
「行きます」
「即答」
「嫌じゃないので」
「もうそれ知ってる」
少しだけ笑ってから、彼女は改札とは逆方向へ歩き出した。
たぶんタクシーを拾うのだろう。
後ろ姿を見送りながら、悠真は静かに思う。
河川敷だけじゃない。
休日の昼だけでもない。
平日の途中で、疲れた顔のまま呼ばれる夜まで、自分たちの場所になり始めている。
名前はまだない。
でももう、この関係がただの偶然ではないことだけは、はっきりしていた。




