表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
河川敷で缶チューハイを飲んでる地味なお姉さん、どう見ても人気女優なのに俺の前では絶対に認めない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/28

エピソード12 平日の途中で呼ばれる夜は、河川敷より先に心臓が追いつかない

 木曜の夜に河川敷で会ってから、金曜は妙に長かった。


 朝から会議資料の差し替え。

 昼前に営業から戻ってきた数字の修正。

 午後は上司の「悪い、この文面だけ先に見てくれる?」が三連続。

 社会人一年目の一日は、相変わらず人の都合で細かく刻まれていく。


 でも今日は、その全部の奥に、別の音があった。


 ――平日、また途中で呼ぶかも。


 昨夜、しらいさんはそう言った。

 呼ぶかも、という曖昧な言い方だったくせに、悠真の中ではもう半分くらい“ある前提”になってしまっている。


 自分でも単純だと思う。

 けれど、それを認めるのが少し悔しい。


「春日」

 斜め前から三崎が書類を振る。

「何」

「今日のお前、さらに分かりやすいな」

「何が」

「スマホの通知来るたびに顔が一瞬だけ人間になる」

「普段は何なんだよ」

「会社に順応した事務機器」

「その例え好きだな」

「で、今日は来るの?」

「何が」

「夜の予定」

「知らない」

「知らない、なんだ」

「知らないです」

「でも待ってる顔だぞ」

「……」

「図星」

「うるさい」

「まあ、来るといいな」

「人ごとだな」

「人ごとだし」

「最低だ」

「でもちょっと応援してる」

「いらない」

「そう言うやつほど後で感謝するんだよなあ」


 三崎は笑いながら自席へ戻っていった。

 ああいうところだけ、少しだけ腹が立つくらい勘がいい。


 夕方を過ぎても、スマホは静かなままだった。


 来ないかもしれない。

 いや、むしろ普通はそうだ。

 毎回呼ばれるわけじゃない。彼女にも仕事があるし、都合だってある。そういう当たり前のことを一つずつ並べながら、悠真はパソコン画面に向かう。


 十八時半。

 十九時。

 十九時十五分。


 終業の空気が少しずつオフィスに広がり始める。

 だが悠真の机には、まだ赤字入りの資料が一件残っていた。


 十九時二十分。

 ようやくその修正が終わったところで、スマホが震えた。


 反射みたいに手が伸びる。


『今、少しだけ逃げたい』


 しらいさんだった。


 短い。

 でも、その一文だけで、彼女が今どんな顔をしているのか何となく想像できてしまう。


 悠真はすぐに返信する。


『どこですか』


 数秒後。


『駅ビルの屋上駐車場に続く階段のとこ』


 その場所は分かった。

 駅ビルの裏手にある、あまり人が使わない非常階段の踊り場だ。屋上駐車場に上がるための階段だが、平日の夜はほとんど人が通らない。以前、たまたま迷って見つけたことがある。


『行きます』


 送ってから、悠真はすぐに立ち上がった。


「お、来た?」

 タイミング悪く、三崎がまた顔を出す。

「何が」

「その顔。来たんだろ」

「……帰る」

「うわ、分かりやす」

「お前に説明する義理はない」

「ないけど、背中押すくらいはしてやる」

「いらない」

「でも急いだほうがいい顔してるぞ」

「……」

「ほら、行けって」


 最後のそれだけ、少しだけ真面目だった。


 悠真は返事もせず鞄を掴み、エレベーターへ向かった。


    ◇


 駅ビルの裏手は、大通りの賑やかさが嘘みたいに静かだった。


 飲食店の換気扇の音。

 どこかから漂う揚げ物の匂い。

 それに混じって、雨の気配みたいに少し湿った夜風。


 非常階段の重い扉を押して入る。

 コンクリートの匂い。白い非常灯。靴音だけがやけに響く。


 二階と三階の踊り場のあいだ、壁際に人影があった。


 キャップ。

 黒いマスク。

 薄いカーキのシャツに、黒のパンツ。河川敷ほどラフではなく、でも外で会うときの“少しちゃんとしてる”服とも違う。仕事帰りの途中で、そのままここへ逃げ込んできたような格好だった。


「……来た」

 しらいさんが言う。

「行きますよ」

「早い」

「近かったので」

「それでも早い」


 彼女は少しだけ肩の力を抜いた。

 それを見て、悠真もようやく息を整える。


「大丈夫ですか」

「大丈夫じゃない、って言うために呼んだ」

「……それは、かなりですね」

「かなり」


 踊り場の壁にもたれたまま、彼女は目を伏せる。

 河川敷で見る疲れ方とは少し違う。

 今日はもっと、生々しく消耗している感じがした。


「何かあったんですか」

「……」

「言いたくなければ、無理には聞きません」

「うん」

「でも」

「うん」

「いたほうがいいなら、います」

「……それ」

「何ですか」

「今日ちょっと効く」


 その声がかすかに弱くて、悠真は一歩だけ距離を詰めた。

 狭い踊り場だから、もともとそんなに離れていない。

 でも、今はその一歩にちゃんと意味があった。


「座ります?」

「ここ?」

「階段ですけど」

「……まあ、いいか」


 二人で少しだけ上の段に腰を下ろす。

 コンクリートは固くて冷たい。

 でも、立ったまま話すよりはずっとよかった。


「飲み物」

 悠真はコンビニ袋からペットボトルの水を出した。

「……何で持ってるの」

「たまたまです」

「その“たまたま”、最近ほんと便利だね」

「しらいさんもよく使うので」

「じゃあ相殺」


 彼女は水を受け取って、ひと口だけ飲む。

 喉が鳴る小さな音まで、この静かな踊り場では聞こえそうだった。


「今日、長かった」

 ぽつりと言う。

「仕事ですか」

「うん。あと、人」

「……」

「今日は、笑うのもしんどいし、気を遣うのもしんどいし、“大丈夫そう”って顔してるのも全部しんどかった」

「……」

「で、そういう日に限って、終わるのが遅い」

「最悪ですね」

「最悪」


 彼女はそこで、少しだけ笑う。

 でもその笑いは、本当に一瞬だけだった。


「河川敷まで行く元気、ないかもって思った」

「……」

「でも、帰るのも嫌で」

「うん」

「それで、春日くんに会いたくなった」


 その言葉は、前よりずっと迷いがなかった。


 前なら“顔見たかった”と言ったあとに少し照れて、どこかで誤魔化していた。

 でも今は違う。

 疲れているからなのか、それとももう、少しずつ誤魔化さなくていいと思い始めているのか。


 たぶん、その両方だ。


「呼んでくれてよかったです」

 悠真は言う。

「……」

「今日、来れてよかった」

「うん」

「河川敷じゃなくても、会えるのいいですね」

「……うん」

「途中で呼ばれるのも」

「それ、変な言い方」

「でも本音です」


 しらいさんはペットボトルを持ったまま、少しだけこちらを見た。


「春日くん」

「はい」

「今日の私は、あんまりちゃんとしてないよ」

「知ってます」

「知ってるの?」

「顔見れば」

「……」

「かなり無理してる顔です」

「……厳しい」

「でも」

「うん」

「そういうときに呼ばれるのは、嫌じゃないです」

「……」


 彼女はそこで、視線を落とした。

 長い睫毛の影が、非常灯の白い光で少しだけ濃く見える。


「ねえ」

「はい」

「何でそんなに平気なの」

「何がですか」

「私が、こういうときに春日くん呼ぶの」

「平気っていうか」

「うん」

「平気ではないです」

「え」

「心臓にはよくないです」

「……」

「でも、うれしいほうが大きいので」

「……そういうの」

「何ですか」

「今日、本当に刺さる」


 悠真は少しだけ笑った。


「最近、よく刺してますね」

「春日くんが勝手に」

「俺のせいか」

「うん。かなり」

「責任重大だな」

「今さら」


 その返しに、彼女も少しだけ笑う。

 ようやく、さっきより呼吸が整ってきたように見えた。


「しらいさん」

「何」

「今日は、ここでちょっと休んでから帰ります?」

「うん」

「河川敷じゃなくても」

「うん」

「俺、いますよ」

「……」

「何ですか」

「今、それさらっと言うんだ」

「本音なので」

「知ってる」

「……うん」


 最近、このやり取りを何度もしている。

 でも、何度言われても“知ってる”の響きはやわらかい。


 しばらく、二人で黙って座っていた。


 階段の下のほうで扉が一度開く音がしたが、誰も上がってこない。

 遠くの駅アナウンスが、壁を通してぼんやり聞こえる。

 静かだ。

 でも、嫌な静けさじゃない。


「春日くん」

「はい」

「私、最近ちょっと思うんだけど」

「うん」

「河川敷って、終わった場所だったでしょ」

「終わった場所」

「一日の最後、みたいな」

「……そうですね」

「でも今は、そこに行く前でも、途中でも、会えるんだなって思うと」

「うん」

「何か……もうちょっと、生きやすい」


 その言い方が、胸に残った。


 生きやすい。

 それはたぶん、大げさな言葉じゃない。

 今日の彼女はそれくらいには消耗していて、それくらいには今ここに意味を感じている。


「俺も」

 悠真は、少しだけ間を置いてから言った。

「うん」

「最近、会社終わりの感じ、前より嫌じゃないです」

「……」

「終わったらどこかで会えるかもしれないって思うので」

「……」

「しらいさんに」

「……それ」

「はい」

「ちょっと、かなり、だめ」


 彼女は片手でマスクの端を押さえた。

 照れているのか、困っているのか、その両方なのか分からない。


「だめなんですか」

「だめっていうか」

「うん」

「今日はもう、そういうの耐性ない」

「じゃあ、あんまり言わないように」

「いや、ちょっとは言って」

「注文が細かいなあ」

「細かいよ。今の私は」


 そのやり取りが、少しだけいつもの二人に戻してくれる。


 しらいさんは、ペットボトルを膝の上に置いて、壁にもたれたまま天井を見上げた。


「ねえ」

「はい」

「私、たぶん前より春日くんに甘えてるよね」

「……少し?」

「少し?」

「かなり、ですかね」

「やっぱり」

「いや、悪い意味じゃなくて」

「分かってる」

「ならいいです」

「でもさ」

「うん」

「それで引かないの、春日くん偉い」

「偉いんだ」

「偉い」

「じゃあ褒めてください」

「えらいえらい」

「雑だな」

「疲れてるから」

「便利だなあ」

「便利なんだってば」


 彼女は笑って、それから少しだけ真面目な声になる。


「でも本当に」

「うん」

「今日、呼んでよかった」

「……」

「来てくれてありがとう」

「行きますよ」

「うん」

「たぶん今後も、呼ばれたら」

「……」

「行きます」

「……」

「何ですか」

「それ、ちゃんと覚えとく」

「覚えてください」

「うん。かなり大事に」


 その言葉のあと、また沈黙が落ちる。

 でも今度の沈黙は、少しあたたかかった。


 彼女はやがて、ゆっくり立ち上がった。


「帰ろうかな」

「大丈夫そうですか」

「さっきよりは」

「ならよかった」

「春日くん」

「はい」

「今の“ならよかった”、今日三回目くらい」

「口癖かもしれません」

「知ってる」

「最近、それ便利ですね」

「便利だよ」


 二人で階段を下りる。

 重い扉を押し開けると、駅裏の夜風が少しだけ強く感じた。


 大通りまで出る手前で、彼女は足を止める。


「今日は河川敷じゃなかったけど」

「はい」

「ちゃんと、しらいさんと春日くんだったね」

「……そうですね」

「うん。よかった」

「俺もです」

「また」

「はい」

「こういう途中で呼ぶかも」

「待ってます」

「……うん」


 その“うん”は、疲れているときの弱さではなく、少しだけ安心したあとの声だった。


「土曜、空いてる?」

 彼女が聞く。

「空いてます」

「じゃあ、今度はごはんじゃなくて、少し静かなとこ」

「静かなとこ?」

「歩くとか」

「……いいですね」

「うん」

「行きます」

「即答」

「嫌じゃないので」

「もうそれ知ってる」


 少しだけ笑ってから、彼女は改札とは逆方向へ歩き出した。

 たぶんタクシーを拾うのだろう。


 後ろ姿を見送りながら、悠真は静かに思う。


 河川敷だけじゃない。

 休日の昼だけでもない。

 平日の途中で、疲れた顔のまま呼ばれる夜まで、自分たちの場所になり始めている。


 名前はまだない。

 でももう、この関係がただの偶然ではないことだけは、はっきりしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ