エピソード13 静かな夜を歩くと、言葉にしていないことまで少しずつ見えてくる
土曜の夜、春日悠真は駅前のロータリーを少し外れた歩道で立ち止まり、スマホの画面を見た。
『川沿いの遊歩道の入口で待ってる』
しらいさんから届いたメッセージは、それだけだった。
ごはんじゃなくて、少し静かなとこ。
歩くとか。
数日前、駅裏の非常階段でそう言われたとき、悠真は素直に「いいですね」と返した。
その時点では、土曜の夜にただ一緒に歩くことが、どれくらい“それっぽい”のかを深く考えないようにしていた。
でも今、実際にその時間が来ると、さすがに分かる。
かなり、デートみたいだ。
認めた瞬間に妙に落ち着かなくなって、悠真は一度だけ大きく息を吐いた。
川沿いの遊歩道は、駅から十分ほど歩いた先にある。
昼間はジョギングする人や犬の散歩をする人でそこそこ賑わうが、夜はかなり静かになる。街灯はあるが河川敷より少し明るく、歩くにはちょうどいい。ベンチも点々と置かれていて、途中に小さな橋がいくつか架かっている。
待ち合わせの入口が見えてきた。
細い並木道の手前、街灯の下にしらいさんが立っていた。
今日はキャップをかぶっていない。
髪は低い位置でひとつにまとめられ、薄いアイボリーのニットに、くすんだブルーグレーのロングスカート。足元は白いスニーカー。マスクはしているが、いつもの“隠すため”の地味さより、ただ夜の散歩に合う落ち着いた服装に見えた。
悠真は、数歩手前で少しだけ足を止めた。
「……何」
しらいさんが先に言う。
「いや」
「何その反応」
「今日は、隠す気ちょっと薄いなって」
「……薄くはない」
「そうですか」
「ただ、ここらへんなら大丈夫かなって思っただけ」
「なるほど」
「あと」
「はい」
「キャップないほうが歩きやすい」
「それは確かに」
「だから今、そういう顔しないで」
「どういう顔ですか」
「ちょっと見てる顔」
「見てました」
「素直だなあ」
「本当なので」
「……知ってる」
その“知ってる”の言い方が、最近どんどんやわらかくなっている気がする。
「こんばんは」
悠真が言う。
「こんばんは」
しらいさんも返す。
それだけの挨拶なのに、今日は少しだけ意味が違う。
河川敷へ向かう合図でも、途中で逃げ込むための合図でもない。
“歩くために会った”夜の始まりだ。
「行きます?」
「うん」
二人は並んで遊歩道へ入った。
川沿いの空気は、駅前より明らかに静かだった。
水の音というほど大きくはないが、流れの気配がある。
時々、自転車が通り過ぎる。
犬を連れた年配の夫婦が向こうから来て、軽く会釈してすれ違う。
歩幅を少し合わせる。
どちらからともなくそうなった。
「何か」
しらいさんが言う。
「はい」
「思ったより、ちゃんと散歩だね」
「変な感想だな」
「いや、もっと気まずいかと思った」
「俺も少し思ってました」
「うん」
「でも、今のところそうでもないですね」
「そうでもない」
「よかった」
「……春日くん、その“よかった”ほんと好きだね」
「口癖かもしれません」
「知ってる。たぶん、安心すると出るやつ」
「……」
「何で黙るの」
「そこまで見抜かれてるんだなと」
「見てるから」
「……そっか」
その返事に、彼女は少しだけ笑った。
遊歩道の途中には、小さな木の橋があった。
下を流れる細い支流に街灯の光が細かく揺れている。
橋の真ん中あたりで、しらいさんがふと足をゆるめた。
「春日くん」
「はい」
「最近、ちょっと思うんだけど」
「うん」
「河川敷と外と途中の場所、増えたね」
「増えましたね」
「駅前、本屋、クレープ屋、非常階段、夜ごはん……」
「かなり増えました」
「うん」
「嫌ですか」
「嫌じゃない」
「……」
「嫌じゃないけど、前よりちゃんと会ってる感がある」
「ちゃんと会ってる感」
「うん。偶然とか、ついでとかじゃなくて」
「……」
「それが、ちょっと不思議」
悠真は、その言葉に少し考える。
たしかにそうだ。
最初は偶然だった。
河川敷でたまたま見かけて、たまたま話して、またたまたま会って。
でも今はもう、待ち合わせをして、呼ばれて、約束を作っている。
「不思議ですか」
「うん」
「俺は……」
「うん」
「不思議っていうか、うれしいほうが大きいです」
「……」
「何ですか」
「今日も、そういうのちゃんと言うんだ」
「本当なので」
「知ってる」
「最近、それ万能ですね」
「便利でしょ」
「便利です」
しらいさんは橋の手すりに軽く指を置いたまま、川面を見た。
「春日くん」
「はい」
「私、最初はね」
「うん」
「ここまで増えると思ってなかった」
「どこまで?」
「場所とか、時間とか」
「……」
「河川敷だけで十分だと思ってたし、そのほうが安全だと思ってた」
「安全」
「うん。壊れにくいから」
「……」
「でも今は、河川敷だけじゃ足りないときがある」
「……」
「それ、少し怖いけど」
「うん」
「同じくらい、ちゃんとほしい」
その言い方は、静かだった。
でも、誤魔化していなかった。
ほしい。
河川敷だけじゃ足りない時間を。
ここじゃない場所で一緒にいる理由を。
それはもう、かなりはっきりした気持ちだ。
「俺もです」
悠真は言った。
「……」
「最初は、ここまでになると思ってませんでした」
「うん」
「でも今は、河川敷だけだと少し足りない」
「……そっか」
「だから、今日も来れてうれしいです」
「……」
しらいさんは何も言わず、ただ小さく息を吐いた。
その横顔は、夜の光のせいか少しだけ頼りなく見える。
でも、だからこそ本音に見えた。
二人はまた歩き始める。
少し先に、自販機が一台だけ置かれた休憩スペースがあった。
木のベンチと、小さな植え込み。それだけの場所だ。
「何か飲みます?」
悠真が聞く。
「春日くんは?」
「コーヒーかな」
「じゃあ私、あったかいミルクティー」
「了解です」
自販機の前で立ち止まり、悠真が小銭を入れる。
ボタンを押して、缶が落ちる音が二つ鳴る。
「はい」
「ありがと」
「どういたしまして」
二人でベンチに腰かける。
河川敷のベンチより少し幅が狭くて、自然と距離が近くなる。
近い。
でも、今日はわざわざ離れなかった。
「……近いね」
しらいさんが先に言った。
「そうですね」
「ずれます?」
「嫌なら」
「嫌じゃない」
「……」
「何その間」
「いや、言うんだなと」
「今日、そういうの多いよ」
「本当なので」
「知ってる」
缶のミルクティーを両手で持ちながら、彼女は少しだけ肩を落とした。
「ねえ」
「はい」
「今、私たちってさ」
「うん」
「友達って言うと、ちょっと違う気しない?」
「……しますね」
「でも、じゃあ何って聞かれると困る」
「困ります」
「この前と一緒だ」
「でも、そのときよりは少し分かってきてる気がします」
「何が?」
「名前じゃなくて」
「うん」
「気持ちのほう」
「……」
しらいさんは、ミルクティーの缶を見つめたまま黙る。
「例えば」
悠真は続ける。
「会えないと落ち着かないとか」
「……うん」
「何かあったときに、最初に顔が浮かぶとか」
「……うん」
「そういうのは、たぶんもうかなりはっきりしてる」
「……」
「名前つけるのは急がなくていいと思いますけど」
「うん」
「ごまかしてない、とは思います」
しらいさんはそこで、ゆっくりこちらを向いた。
街灯の下で、目元だけがはっきり見える。
前より、ずっと近い距離だ。
「春日くん」
「はい」
「今の、かなりずるい」
「またですか」
「だって」
「何ですか」
「ちゃんとほしい言葉を、ちょっとだけ先に言うから」
「そんなつもりは」
「あるよ。少しは」
少しだけ責めるみたいな言い方なのに、声はやわらかい。
「しらいさんは?」
悠真が聞く。
「うん」
「今、何思ってます?」
「……」
「言いたくなければ」
「言う」
「……うん」
「私、たぶん」
「うん」
「春日くんが思ってるより、かなりちゃんと会いたいと思ってる」
「……」
「河川敷でも、外でも、途中でも」
「……」
「それで、会えたら安心するし、会えないと落ち着かない」
そこまで言ってから、彼女は少しだけ笑った。
「ほら、だいぶ言った」
「……かなり」
「かなり?」
「かなりです」
「そっか」
悠真は、缶コーヒーを持ったまま少しだけ俯いた。
胸の奥が、うるさいくらい静かに熱い。
「俺も」
ようやく出たのは、それだけだった。
「うん」
「同じです」
「……」
「かなり、ちゃんと会いたいと思ってます」
「……」
「しらいさんに」
「……」
彼女は返事をしなかった。
でも、否定も、ごまかしもしなかった。
代わりに、持っていたミルクティーの缶を膝の上に置いて、小さく息を吐く。
「今日」
「はい」
「たぶん、来てよかった」
「俺もです」
「うん。……何か、ちょっとだけはっきりした」
「何が」
「私が、どうしたいか」
「……」
「まだ全部は言えないけど」
「うん」
「春日くんと、これからもちゃんと会いたい」
「……」
「そういう意味で」
最後の一言が、少しだけ震えていた。
悠真はそれを聞いて、すぐには何も返せなかった。
軽く扱いたくなかったし、急いで言葉を被せるのも違うと思った。
だから、ちゃんと見て、ちゃんとうなずく。
「俺も」
「うん」
「そういう意味で、会いたいです」
「……」
「これからも」
「……うん」
しらいさんはそこでようやく、少しだけ目元を緩めた。
それは河川敷で見る、疲れて気を抜いた笑いとも違った。
もっと静かで、でも少しだけ覚悟のある顔だった。
しばらく二人で、何も言わずに座っていた。
遊歩道をジョギングしていく人が一人。
遠くで犬が短く吠える。
川の流れは見えないのに、夜の気配だけが静かに続いている。
「春日くん」
「はい」
「次」
「うん」
「河川敷でもいいし、外でもいい」
「うん」
「でも、ちゃんと約束して会いたい」
「……」
「もう、偶然っぽい顔するのはやめたい」
「……そうですね」
「うん」
「俺も、そのほうがいいです」
「……うん」
缶が少しぬるくなっていた。
でも、それさえ悪くなかった。
帰るころには、遊歩道の人影はほとんどなくなっていた。
二人で入口まで戻る。
歩く速度は、来たときより少しだけゆっくりだ。
「今日は送る?」
悠真が聞く。
「少しだけ」
「じゃあ少しだけ」
「うん」
駅前の明かりが見えるところまで、一緒に歩く。
途中で彼女がふと立ち止まり、こちらを見る。
「春日くん」
「はい」
「今日のこと、忘れないで」
「忘れませんよ」
「ほんとに?」
「かなり大事なので」
「……そっか」
その返事のあと、彼女は少しだけ迷うように指先を動かした。
何か言おうとしてやめたように見える。
「何ですか」
悠真が聞く。
「いや」
「うん」
「今日は、まだこれくらいでいいかなって」
「……」
「何か、それ以上言うと、全部急に進みそうだから」
「……分かります」
「うん。……でも、次はもう少し言うかも」
「待ってます」
「即答」
「嫌じゃないので」
「……知ってる」
その“知ってる”は、今まででいちばん近く聞こえた。
彼女は小さく笑ってから、改札のほうへ歩き出す。
数歩進んで、振り返る。
「また連絡する」
「はい」
「ちゃんと」
「はい」
「……うん」
それだけ言って、人の流れに紛れていった。
悠真はしばらくその場に立ち尽くし、それからゆっくり息を吐く。
恋だ、と言い切るところまではまだ行っていない。
でもたぶん、もうその輪郭は十分に見えている。
会いたい。
会うと落ち着く。
これからも、ちゃんと会いたい。
偶然みたいなふりはやめたい。
そこまで言葉が揃っていて、まだ名前だけがない。
その曖昧ささえ、今は少しだけ大事に思えた。




