エピソード8 平日の寄り道は、河川敷より少しだけ甘くて落ち着かない
水曜日の夕方、春日悠真のスマホが震えたのは、ちょうど退勤五分前だった。
いや、正確には退勤“予定”の五分前だ。
社会人一年目にとって、その二文字はだいたい飾りでしかない。
画面を見る。
しらいさんからだった。
『今日、寄り道できる?』
短い。
でも、たったそれだけで胸の奥が少しだけ跳ねた。
指が勝手に返信を打つ。
『できます』
送信してから、いや待て、と我に返る。
本当にできるのか。今から追加の仕事が飛んでくる可能性は普通にある。上司の「春日くんこれだけ」が最後に刺さる可能性もある。
その不安を見越したみたいに、すぐ次のメッセージが届く。
『無理なら無理でいいよ。春日くん平日だし』
その一文が妙にやさしくて、悠真は逆に意地になった。
『たぶん大丈夫です。どこですか』
数秒後。
『駅ビルの裏にある小さいクレープ屋さん知ってる?』
知っていた。
細い路地に面した、テイクアウト中心の店だ。学生や若い会社員がよく並んでいる。夜遅くまでやっていて、甘い匂いがいつも路地に流れている。
『分かります』
『じゃあ、八時くらい』
『行きます』
送ってから、悠真はスマホを伏せた。
「何かいいことあった?」
斜め前から三崎の声が飛んでくる。
顔に出ていたらしい。
「別に」
「いや今の“別に”は怪しいだろ」
「仕事しろよ」
「してるしてる。春日が珍しくスマホ見てちょっと人間っぽい顔したから」
「人間っぽい顔って何だ」
「普段は社会に削られた事務生命体みたいな顔」
「表現がひどい」
三崎は笑ってから、パソコン画面に目を戻した。
が、すぐにまた言う。
「今日どっか行くの?」
「……少し」
「へえ」
「へえ、で終わるな」
「いや、それ以上聞くとお前が面倒な顔するから」
「分かってるなら最初から触るなよ」
「でもちょっと安心した」
「何が」
「お前にもちゃんと勤務時間外の人生があったこと」
それは少しだけ、まともな言葉だった。
結局、そのあと急な修正は一件入ったが、どうにか八時には間に合いそうな時間に会社を出られた。
駅へ急ぐ。
ビル街の明かりはまだ強く、平日の夜の街はどこか忙しない。
クレープ屋のある裏通りへ曲がると、甘い匂いが風に混じって届いた。
店の前には四、五人ほど並んでいる。
その少し離れた場所、街灯の下にしらいさんが立っていた。
黒いキャップ。白いマスク。
でも河川敷のパーカー姿ではなく、今日は少し薄手のネイビーのブラウスに、淡いグレーのロングスカート。肩には小さめのバッグ。
地味に寄せてはいる。
けれどやっぱり、地味なだけでは済まない雰囲気がある。
悠真を見つけると、彼女はほんの少しだけ目元をやわらげた。
「来た」
「来ますよ」
「思ったより早い」
「間に合わないかと思いました」
「仕事?」
「仕事です」
「かわいそ」
「最近それ好きですね」
「便利だから」
彼女はそう言って、少しだけ壁際に寄る。
悠真もその隣に並ぶ。
「撮影帰りですか」
「うん。ちょっとだけ」
「それでクレープ?」
「甘いの食べたくなる日ってあるでしょ」
「まあ」
「今日がそれ」
「なるほど」
「あと、一人で並ぶと何か寂しい」
「……それで俺?」
「うん。嫌だった?」
「嫌じゃないです」
「早い」
「この流れ、毎回やりますね」
しらいさんは声を立てずに笑った。
列はゆっくり進んでいく。
路地は狭いが、そのぶん二人の距離も自然に近い。
メニュー看板を見上げながら、彼女が言う。
「春日くん、クレープ何頼むの」
「俺も頼む前提ですか」
「だってここまで来たのに見てるだけは変」
「それはそうですけど」
「甘いの苦手?」
「苦手ではないです」
「じゃあ頼んで」
「命令だ」
「お願い」
「急に素直」
「今の私は少し疲れてるから」
「便利だな、それ」
「便利なんだってば」
結局、しらいさんは苺とカスタード、生クリームの入った定番っぽいものを選び、悠真はバナナチョコにした。
受け取って店を離れ、少し先の人通りが少ない場所まで歩く。
路地の奥に、小さな植え込みと低い石の縁があるだけの、休憩とも言えないようなスペースがあった。二人はそこに並んで立った。
「平日夜の寄り道って、何か変ですね」
悠真が言う。
「変?」
「河川敷とも休日の外とも違う感じ」
「うん。それは分かる」
「何ていうか、ちゃんと“途中”ですね」
「途中」
「仕事と家の間の」
「……ああ」
「河川敷は終わったあとって感じですけど、今日はまだちょっと街の中です」
「春日くん、たまにそういう言い方するよね」
「変ですか」
「変じゃない。ちょっと好き」
さらっと言われて、悠真はクレープを持つ手に少しだけ力が入った。
「それ、気軽に言いますね」
「本当だから」
「本当でも心臓にはよくないです」
「知らない」
彼女はそう言いながら、一口クレープをかじる。
マスクを少しだけずらして食べる仕草が、妙に生活感があって、でも同時に目を引く。
地味なのに、見てしまう。
「おいしい?」
「うん。正解」
「それはよかった」
「春日くんのは?」
「普通にうまいです」
「一口ちょうだい」
「え」
「何その顔」
「いや、急だなと」
「だめ?」
「だめじゃないですけど」
「じゃあ」
彼女は当たり前みたいに手を出してきた。
悠真は少しだけためらってから、自分のクレープを差し出す。
一口。
ほんの少しだけかじる。
マスクを元に戻して、しらいさんは「うん」と満足そうにうなずいた。
「おいしい」
「それはどうも」
「春日くん」
「はい」
「今すごい顔赤い」
「気のせいです」
「気のせいじゃない」
「夜の照明です」
「そこまで赤くならないでしょ」
楽しそうだ。
完全に面白がっている。
悠真は咳払いして話題を変える。
「しらいさん」
「何」
「こういうの、結構前から食べたかったんですか」
「うん。三日くらい前から」
「急に具体的だ」
「撮影の合間に近く通って、いいなって思ってた」
「じゃあもっと早く来ればよかったのに」
「一人だと、買って終わるから」
「……」
「春日くんがいると、ちゃんと寄り道になる」
この前も言っていた。
時間つぶしじゃなくて、寄り道になる、と。
それが妙に嬉しい。
「俺も」
悠真は言う。
「うん」
「会社帰りにこういうことするの、あんまりなかったので」
「クレープ?」
「クレープもそうですけど、人と」
「……そっか」
しらいさんは少しだけ視線を落とした。
街灯の光が、キャップのつばの下でやわらかく揺れる。
「春日くんって」
「はい」
「ほんとに一人で頑張るの慣れてる感じする」
「そうですか」
「うん。だから、たまにちょっと心配」
「何がですか」
「ちゃんと甘えてるのかなって」
「誰に」
「そこからなんだ」
「いや、甘える場所そんなにないでしょう」
「……」
「何ですか」
「今の、ちょっと放っておけない」
しらいさんは小さく息を吐いてから、クレープを持っていないほうの手でバッグの中を探った。
「これ」
「え」
「飴」
「飴?」
「今日、現場でいっぱいもらった」
「いっぱいもらったから?」
「うん。春日くん、たぶんこういうの後回しにするタイプだから」
「……」
手のひらに乗せられたのは、個包装の小さな塩レモン飴だった。
「飴で甘えたことになるんですか」
「ならないかも」
「ですよね」
「でもちょっと休む感じはする」
「……そうかも」
悠真は飴をポケットにしまう。
彼女はそれを見て少しだけ満足そうにした。
「しらいさん」
「何」
「今日、急に呼んだのって」
「うん」
「本当にクレープだけですか」
「……半分」
「残り半分は?」
「顔見たかった」
あまりにも静かに言われて、悠真は一瞬、ちゃんと聞き取れなかった気がした。
「今」
「聞こえたでしょ」
「聞こえましたけど」
「じゃあいい」
「よくないです」
「何で」
「こっちは心の準備ってものが」
「平日の外で会うって言ったじゃん」
「それとこれとは別です」
「別なんだ」
「別です」
しらいさんは肩を揺らして笑う。
でも笑ったあと、少しだけまじめな声で言った。
「でも本当。今日ちょっとしんどくて」
「仕事ですか」
「仕事もある」
「も?」
「……何か、昼の顔が長かった日」
「……」
「そういう日、春日くん見ると、ちょっと楽になる」
またそれだ。
河川敷でも聞いた言葉。
でも、今日は河川敷じゃない。
この人はもう、夜の逃げ場だけじゃなく、平日の街の途中にも自分を呼んだ。
それが持つ意味を、悠真はまだうまく整理できない。
けれど、軽く扱いたくない気持ちだけははっきりあった。
「俺も」
「うん」
「呼ばれて、うれしかったです」
「……そっか」
「クレープもおいしいですし」
「それはよかった」
「あと」
「何」
「こういう平日の途中、いいですね」
「うん」
「河川敷とは別で」
「うん」
「ちゃんと覚えたくなる感じがします」
「……春日くん」
「はい」
「それ、結構反則」
「何でですか」
「今のは少し照れる」
「お互いさまでは」
「私は言っていいの」
「ずるいなあ」
二人で笑う。
笑ったあと、路地の空気が少しだけやわらかくなる。
クレープを食べ終わるころには、時間はもう九時を回っていた。
駅前のざわめきも少し落ち着き始め、代わりに仕事帰りの遅い人たちの足音が増える。
「送る?」
悠真が自然に言う。
「駅まででいいよ」
「分かりました」
二人で並んで歩く。
河川敷より人は多い。
でもなぜか、今日のほうが沈黙はやわらかかった。
「春日くん」
「はい」
「今度、甘くない寄り道もできる?」
「甘くない?」
「夜ごはん系」
「……いいですね」
「よかった」
「それも急にですか」
「今日は少しそういう気分」
「便利だな、その言い方」
「便利でしょ」
駅の改札が見える場所まで来て、二人で立ち止まる。
しらいさんはキャップのつばに軽く触れてから、悠真を見る。
「今日、来てくれてありがとう」
「呼んだのそっちですけど」
「うん。でも来てくれたから」
「行きますよ」
「そういうの、ほんとに自然に言う」
「本音なので」
「知ってる」
その“知ってる”が、今夜はいつもより少しだけ近く聞こえた。
「じゃあ、次は河川敷?」
悠真が聞く。
「たぶん」
「たぶん?」
「でも、また途中でも呼ぶかも」
「待ってます」
「……うん」
彼女は短くうなずいて、改札のほうへ歩き出す。
数歩進んでから、一度だけ振り返った。
「春日くん」
「はい」
「平日の顔、ちょっと好きかも」
「え」
「じゃあね」
それだけ言って、今度こそ人混みの中へ消えていく。
残された悠真は、しばらくその場に立ち尽くした。
平日の顔、ちょっと好きかも。
たったそれだけの言葉なのに、妙に効く。
河川敷の夜だけじゃない。
仕事に削られた途中の顔まで、この人は見ようとしている。
それがどうしようもなく、うれしかった。
帰り道、ポケットの中で飴の包みが小さく触れ合う。
甘いクレープの余韻はもうほとんど消えているのに、胸の奥にはまだ別の甘さが残っていた。
平日の寄り道は、河川敷より少しだけ落ち着かなくて、少しだけ近い。
そしてたぶん、こういう時間が増えるほど、自分たちはもう前のままではいられない。
それを怖いと思うより先に、次はどんな寄り道になるだろうと考えている自分がいた。




