エピソード7 河川敷に戻ったら、前より少しだけ近すぎた
日曜の待ち合わせから二日後、春日悠真はいつもより少しだけ遅い時間に河川敷へ向かっていた。
月曜は仕事が立て込み、火曜はそのしわ寄せがきた。
社会人一年目の毎日というのは、本当に、何もなくても勝手に擦り減っていく。
電話に出て、数字を直して、上司の「これどうなってる?」に答えて、先輩の「悪い、これも見て」に頷いているうちに、気づけば時計の針が夜を指している。
でも今日は、それだけじゃなかった。
日曜のことが、ずっと頭のどこかに残っていた。
駅前の本屋。
昼の光の中のしらいさん。
靴屋でローファーを選ぶ横顔。
カフェでプリンアラモードを前に少しだけ目をやわらげた顔。
そして、「今度から河川敷じゃない約束、たまに入れてもいい?」と聞いた声。
あのあと、何かが少しだけ変わってしまった気がする。
壊れたわけじゃない。重くなったわけでもない。
ただ、河川敷に行けば会える“逃げ場の相手”だった人が、それだけではなくなった。
だから今夜、土手道を下りながら、悠真は少しだけ緊張していた。
会えるのは楽しみだ。
でも、会ったときに何をどう話せばいいのか、前より少しだけ分からなくなっている。
いつものベンチが見えてくる。
いた。
キャップ。パーカー。
見慣れた、夜の河川敷のしらいさん。
でも彼女もまた、悠真を見つけた瞬間にほんの少しだけ目を止めた。
「……遅い」
第一声はいつも通りだった。
「仕事です」
「知ってる」
「何で」
「顔」
そこまで言ってから、彼女は少しだけ視線を逸らした。
それが、いつもならもっと自然に言えていたはずの台詞を、今日は少しだけ意識して口にしたように見える。
悠真も、なぜかすぐにはベンチに座れなかった。
「何」
「いや」
「何か変?」
「変じゃないです」
「じゃあ何」
「……ちょっと、河川敷のしらいさんだなって」
「何その感想」
彼女は呆れたみたいに言ったが、声の奥に少しだけ照れが混じっていた。
悠真はようやくベンチの端に腰かける。
いつもの位置。
少しだけ距離を空けて、それでも自然に会話できる場所。
なのに今日は、その“いつもの位置”が前より少しだけ近く感じる。
「春日くん」
「はい」
「今、意識してるでしょ」
「……何をですか」
「私のこと」
「言い方が雑だなあ」
「してるんだ」
「してないです、とは言いにくいですね」
「正直」
しらいさんは小さく笑う。
缶チューハイを膝の上で転がしながら、キャップのつばを少しだけ下げた。
「私も少しだけしてる」
「……」
「何で黙るの」
「いや、そっちが言うんだなと」
「何それ」
「いや、もっとこう、誤魔化すかと思って」
「今日の私はあんまり元気ないから、誤魔化すの面倒」
「なるほど」
「それに」
「はい」
「日曜のあとだし」
やっぱり彼女も、同じことを考えていたのだ。
夜風が吹く。
川の匂い。
遠くで犬の鳴く声。
変わらない河川敷の空気の中で、変わってしまったのはたぶん自分たちのほうだった。
「……日曜、楽しかったです」
悠真が言う。
「うん」
「思ったより普通で」
「私もそう思った」
「でもそのぶん、今日ちょっと変ですね」
「うん」
「なんで素直なんですか」
「疲れてるから」
「便利だな、それ」
「便利でしょ」
しらいさんは缶を開ける。
ぷし、と軽い音がした。
「春日くんは何飲むの」
「今日は水です」
「偉い」
「そっちは飲むんですね」
「一本だけ」
「昨日もそう言ってませんでした?」
「昨日の私は昨日の私」
「また出た」
そこで二人とも少しだけ笑った。
ようやく、ぎこちなさの表面が少し剥がれる。
悠真はコンビニ袋から、小さなサンドイッチのパックを取り出した。
「これ、食べます?」
「何」
「ハムと卵」
「……たぶん食べる」
「たぶん?」
「今はちょっと食欲ないけど、春日くんが出すなら食べるかも」
「それ、地味に嬉しいこと言ってます?」
「知らない」
受け取った彼女は、パックを膝の上でしばらく見つめてから、少しだけ端を開ける。
一口食べる。
噛む。
それから、前を見たままぽつりと言った。
「外で会ったあとに、ここでまた会うと、変だね」
「変ですね」
「春日くん、昼の顔もちゃんとあるんだなって思った」
「それはありますよ」
「知ってるけど、見たことなかったから」
「俺も、しらいさんの昼の顔見ました」
「どっちの」
「どっちの?」
「河川敷じゃないほうの」
「……ああ」
「ちょっとだけ、遠かったでしょ」
「少し」
「うん。私も、春日くんが少し遠かった」
「俺が?」
「そう。ちゃんと普通の男の人だった」
「普段何だと思ってたんですか」
「河川敷に住んでる人」
「ひどい」
「でもちゃんと荷物持ってくれた」
「まだそこ評価するんだ」
「結構大事」
しらいさんはそこで少しだけ笑って、サンドイッチをもう一口かじった。
「ねえ」
「はい」
「また外で会うの、嫌じゃない?」
「嫌じゃないです」
「早い」
「それは前も言いました」
「うん。でも、今聞きたかった」
「じゃあ今も同じです」
「……そっか」
その“そっか”は、小さく安心したみたいに聞こえた。
悠真は少し迷ってから、口を開く。
「しらいさん」
「何」
「こういうのって」
「うん」
「河川敷の外でも会うようになったら、河川敷が変になるのかと思ってました」
「……」
「でも今のところ、そうでもないですね」
「そうだね」
「むしろ」
「むしろ?」
「戻ってきた感じがします」
彼女は視線だけをこちらに向けた。
キャップの影の奥で、目元が少しだけやわらいでいる。
「何それ」
「いや、うまく言えないですけど」
「言って」
「……外で会えたから、ここがなくなるんじゃなくて、ちゃんと戻ってこられる場所なんだなって」
「……」
しらいさんは缶を持つ手を少しだけ止めた。
それから、息を吐くみたいに言う。
「それ、ちょっと分かる」
「ほんとですか」
「うん。日曜のあと、少しだけ怖かったんだよね」
「怖い?」
「外で会っちゃったら、もうここに戻れなくなるかもって」
「……」
「でも戻れた」
「戻れましたね」
「うん。……春日くんとなら、大丈夫かも」
最後の一言だけ、かなり小さかった。
でも、ちゃんと聞こえた。
悠真は、それにすぐ返せなかった。
軽い返事ではだめだと思ったし、かといって重すぎる言葉を返すのも違う気がした。
沈黙が落ちる。
けれど今夜の沈黙は、気まずいものではない。
むしろ、少しだけあたたかい。
「春日くん」
「はい」
「今日、何か会社であった?」
「何でですか」
「顔がちょっと疲れてる」
「……ああ」
「当たり?」
「ちょっと、先輩のミスのしわ寄せが」
「かわいそ」
「またそれ言う」
「でもかわいそう。そういうとき、雑炊要る?」
「俺がもらう側ですか」
「だめ?」
「いや、嬉しいですけど」
「じゃあ次、作れないけど、それっぽいの買う」
「しらいさん、たまに本当に優しいですよね」
「たまに?」
「かなり」
「……そういうの、ちょっと困る」
「何で」
「優しい自覚、そんなにないから」
「じゃあ今持ってください」
「重いなあ」
言いながらも、彼女の声は少しだけ笑っていた。
それからしばらく、二人でどうでもいい話をした。
コンビニの新商品の話。
会社のコピー機が最近やたら紙を詰まらせる話。
靴屋の店員がやたらタイミングよく近づいてきた話。
カフェのプリンアラモードの生クリームが思ったより多かった話。
そういう話が、河川敷の夜にはちょうどいい。
やがて、しらいさんが空になった缶を足元の袋にしまったとき、不意にこう言った。
「春日くん」
「はい」
「今度、平日の夜でもいい?」
「何がですか」
「外」
「外?」
「ちょっとだけ寄りたいとこあるの」
「また買い物?」
「今回は食べるほう」
「……」
「そういう顔しないで」
「いや、何か急だなと」
「急だけど」
「嫌じゃないです」
「だから早いって」
「本音なので」
「知ってる」
しらいさんは少しだけ前を向いたまま、膝の上で指を組む。
「……撮影の帰りとかじゃなくて、ほんとに少しだけ寄り道したい日があるの」
「うん」
「そういうとき、春日くんがいたら、ちゃんと寄り道になるかなって」
「……」
「一人だと、ただの時間つぶしになるから」
その言い方が、妙に好きだった。
時間つぶしじゃなくて、寄り道。
なんとなく過ぎる時間じゃなくて、一緒にいる意味を持った時間。
「いいですよ」
「……うん」
「寄り道」
「うん」
「しましょう」
「即答」
「嫌じゃないので」
「それ、もう分かった」
彼女は少しだけ笑って、それから立ち上がった。
「今日は帰る」
「珍しく早いですね」
「明日ちょっと早い」
「仕事?」
「まあ」
「無理しないでください」
「春日くんも」
悠真も立ち上がる。
いつものように、土手の上まで一緒に歩く。
別れ際、彼女は少しだけ足を止めた。
「ねえ」
「はい」
「日曜のこと、ちゃんとよかったって思ってる?」
「思ってますよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「……そっか」
それだけ言ってから、彼女はほんの少しだけ視線を揺らした。
「じゃあ、次」
「はい」
「河川敷でも、外でも、ちゃんと来て」
「行きます」
「うん」
短い返事のあと、彼女は歩き出す。
今日は振り返らない。
でも、その背中は前より少しだけ遠くない気がした。
悠真はその場に少しだけ立ち尽くしてから、夜空を見上げる。
河川敷の空は相変わらず暗くて、街の灯りに押されて星はほとんど見えない。
それでも、この場所に戻ってきて、またしらいさんと話して、前と同じように別れられたことに、妙な安心があった。
外で会う約束をしても、ここは消えない。
ここで話す時間が、外の約束に食われてなくなるわけじゃない。
たぶん、自分たちはそうやって少しずつ場所を増やしていける。
夜の河川敷。
昼の駅前。
そのどちらにも、しらいさんはいる。
そしてそのどちらにも、自分も行ける。
それはたぶん、思っていた以上にうれしいことだった。




