エピソード6 河川敷の外で、地味なお姉さんは少しだけ遠い
日曜日の朝、春日悠真は珍しく目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光がやけに明るい。
枕元のスマホを掴んで時間を見ると、まだ八時前だった。待ち合わせは昼。どう考えても早すぎる。
なのに二度寝する気になれない。
布団の上に仰向けになったまま、天井を見上げる。
日曜の昼。駅前の本屋の前。
文字にするとそれだけだ。特別なデートというには少し味気ないし、買い物の付き添いと呼ぶには少しだけ響きがやわらかい。
けれど、河川敷の外で会う、という事実が思った以上に大きかった。
あそこではない場所。
ベンチも夜風も川の音もない場所。
そこに、しらいさんは来る。
ちゃんと来てね。
別れ際にそう言った声が、妙に頭に残っていた。
悠真は起き上がり、顔を洗いながら鏡の中の自分を見る。
「……何着ればいいんだよ」
独り言が出る。
別に気合を入れるつもりはない。
でも、仕事帰りのよれたシャツや、家で適当に着ているパーカーで行くのも違う気がする。かといって、いかにも“頑張ってます”みたいな服装をしたら、それはそれで恥ずかしい。
結局、白の無地Tシャツに薄手のネイビーのシャツを羽織り、黒の細身のパンツにした。
無難と言えば無難だ。
でも今日ばかりは、その無難さがちょうどいい気がした。
髪もいつもより少しだけ丁寧に整える。
整えながら、こんな自分を三崎に見られたら面倒だな、と思う。絶対に面倒だ。
昼までにはまだ時間があったので、早めの昼食を軽く済ませた。
食べ終わっても、やはり落ち着かない。部屋をうろうろして、スマホを見て、また時間を確認して、結局待ち合わせより三十分近く早く家を出た。
早すぎるだろ、と自分でも思う。
駅前までの道は、平日の夜とは全く違って見えた。
家族連れ。買い物袋を提げた若い夫婦。高校生くらいのカップル。休日の街は少し浮ついていて、でもどこか穏やかだ。
駅前の本屋は大きな商業ビルの一階に入っている。
待ち合わせ場所としてはたしかに無難だった。人通りは多いが多すぎず、誰かが立っていても不自然じゃない。
悠真は約束の十分前には着いてしまった。
店の入口脇の柱にもたれて、行き交う人をなんとなく見送る。
来るだろうか。いや、来ると言っていた。
でも、もし何か急な仕事が入ったら。あるいは、やっぱり外で会うのはやめようと気が変わったら。
そんなことを考え始めたところで、スマホが震えた。
『着いた。春日くん、もういる?』
短いメッセージ。
その文面だけで少しだけ息が緩む。
『います。本屋の入口の左側です』
送って、すぐに顔を上げる。
人の流れの向こうに、黒いキャップが見えた。
河川敷で見慣れたキャップ。
でも、今日は少し違う。
ゆるい黒のキャップに、ベージュのシャツワンピース。その上に薄いグレーのカーディガンを羽織っている。足元は白いスニーカー。大きめのトートバッグを肩に掛け、帽子のつばの下から覗く顔にはうっすらとマスク。
派手ではない。むしろかなり地味だ。
なのに、地味なはずなのに、やっぱり目を引く。
歩き方だ。
立ち止まったときの重心の置き方だ。
それから、周りの景色に自然に馴染んでいるのに、完全には埋もれない妙な空気。
しらいさんは人混みの向こうから悠真を見つけると、ほんの少しだけ足を止めた。
それから、ゆっくりこちらへ歩いてくる。
「……早い」
「そっちも」
「春日くん、待ち合わせだとちゃんと来るんだ」
「それ、どういう認識なんですか」
「河川敷だとふらっと現れる人」
「まあ否定はしませんけど」
マスク越しでも、彼女が少しだけ笑っているのが分かる。
「こんにちは」
「こんにちは」
昼の挨拶が、少しだけくすぐったい。
夜の河川敷では“こんばんは”しか言わなかったからだ。
改めて向かい合うと、距離感が分からなくなる。
ベンチに並んで座るのとは違う。
休日の昼間、駅前、本屋の前。
それだけで、同じ相手なのにまるで別の人みたいに見える。
「……何」
しらいさんが少しだけ首を傾げた。
「いや」
「何か変?」
「変じゃないです」
「じゃあ何」
「外だなって」
「それはそうでしょ」
「河川敷じゃないと、ちょっと雰囲気違うなと」
「……春日くんも」
「俺も?」
「うん。仕事帰りじゃないからかもだけど、ちょっとまとも」
「褒めてる?」
「一応」
「一応か」
彼女は目元だけで笑う。
その笑い方を見て、少しだけ安心した。
ちゃんとしらいさんだ。
昼の光の下でも、河川敷の外でも、完全に別人になるわけじゃない。
「で」
悠真が言う。
「今日は何を買うんですか」
「靴」
「靴」
「仕事でも使えて、普段でも履けるやつ」
「普通に実用的ですね」
「そういうの要るから」
「確かに」
「あと、春日くんは荷物持ち」
「雑な役割分担だ」
「でも向いてそう」
「それ、まだ言うんだ」
「言う」
彼女はそう言って、本屋の入口から少し離れた方向へ歩き始める。
悠真は一歩遅れて隣に並んだ。
休日の駅前は人が多い。
自然と肩の距離が近くなったり、少し離れたりする。
そのたびに妙に意識する自分が面倒だった。
「春日くん」
「はい」
「今日、ちょっとだけ緊張してる?」
「……少し」
「正直」
「そっちもでしょ」
「私はかなり」
「かなりなんだ」
「うん。夜の河川敷って、ずるいんだよね」
「ずるい?」
「顔ちゃんと見えないし、空気が誤魔化してくれるから」
「……」
「昼って、何か全部はっきりしすぎる」
その言い方に、悠真は少しだけ納得した。
たしかにそうだ。
昼の光は容赦がない。服も表情も距離感も、夜よりずっとあからさまになる。
河川敷では、少しくらい曖昧でもよかったものが、今日は全部輪郭を持ってこちらに迫ってくる。
「でも」
悠真は言う。
「来てくれてよかったです」
「……そういうの、すぐ言う」
「本音なので」
「知ってる」
しらいさんはまた、その言葉を使った。
最近それを言われるたびに、悠真の胸のどこかが少しだけ軽くなる。
靴屋は駅ビルの二階にあった。
大手のチェーン店で、休日らしくそこそこ人が入っている。
しらいさんは店に入る前にマスクを少しだけ上げ直し、キャップのつばを深くした。
「そんなに警戒します?」
「一応」
「分かりますけど」
「今日の私は、たぶん“しらいさん七割、白瀬アカリ三割”くらいだから」
「配分が絶妙だな」
「でしょ」
彼女は少しだけ得意そうに言ってから、店内へ入る。
靴を見る目は思ったより真剣だった。
ヒールの高さ、色、素材、履き心地。
手に取っては戻し、店員に勧められそうになるとさりげなく距離を取る。その動きが妙にうまい。
「春日くん」
「はい」
「これとこれ、どっちがいいと思う?」
差し出されたのは、似たようなローファー二足だった。
黒で、少しだけつや感が違う。
「こっちですかね」
「何で」
「しらいさん、あんまり“頑張ってます感”あるの好きじゃなさそうなので」
「……」
「何ですか」
「何か、分かってきててちょっと怖い」
「悪い意味で?」
「悪い意味じゃないけど」
「ならいいです」
「あと」
「はい」
「それ、当たってる」
少しだけ嬉しそうに言う。
悠真は自分でも気づかないうちに、彼女の好みを少しずつ掴み始めているのかもしれなかった。
結局、黒のローファーと、休日用の白に近いスニーカーを一足買うことになった。
会計を済ませ、紙袋を悠真が持つ。
役割分担としては正しいのだが、実際に持つとちょっとだけ“それっぽい”感じがして落ち着かない。
「重い?」
「いや、全然」
「じゃあそのまま」
「当然持ちますけど」
「素直でえらい」
「褒め方が雑だなあ」
「でも助かる」
靴屋を出たあと、二人で駅ビルの通路をゆっくり歩く。
予定としては買い物だけでもよかったのだろう。
でも、どちらからともなく足が遅くなる。
「……まだ時間ありますよね」
悠真が言う。
「ある」
「どうします?」
「春日くんは?」
「俺は、どっちでも」
「ずるい言い方」
「そっちこそよく使うじゃないですか」
「確かに」
しらいさんは少しだけ考えてから、通路の先にあるカフェを見た。
ガラス張りで、休日の午後らしくそこそこ混んでいる。
「お茶、する?」
「……します?」
「嫌ならいいけど」
「嫌じゃないです」
「なら決まり」
「早いな」
「決めないと、どっちも気を遣うから」
そういうところが、やっぱりちゃんとしている。
店に入り、窓際の二人席に案内される。
向かい合って座るのは、ベンチに並ぶのと比べ物にならないくらい落ち着かなかった。
メニューを開く。
しらいさんはアイスティーとプリンアラモード、悠真はアイスコーヒーを頼んだ。
「……甘いの好きなんですね」
「悪い?」
「いや、ちょっと意外で」
「河川敷で果実系飲んでるのに?」
「確かに」
「春日くん、そういうとこだけ鈍い」
「何ですか、それ」
「分からないならいい」
「気になる言い方するなあ」
運ばれてきた水のグラスに手をつけながら、しばらく会話が途切れる。
沈黙が苦ではないのは河川敷と同じだ。
でも向かい合っているぶん、その静けさが少しだけ密度を持って感じられる。
先に口を開いたのは、しらいさんだった。
「今日、思ったより普通だね」
「何がですか」
「私たち」
「普通って」
「外で会うの、もっと変な感じするかと思ってた」
「……俺も」
「でも意外と、しない」
「昼のしらいさんも、しらいさんだったので」
「それ、ちょっと嬉しい」
彼女はそう言ってから、ふと真顔に戻った。
「ただ」
「ただ?」
「ちゃんと、外でも会えるんだって思うと」
「うん」
「もう少し会いたくなるから、やっぱり少し困る」
「……」
悠真は、返す言葉を探して少しだけ遅れる。
「俺も」
「うん」
「今の話聞いて、ちょっと安心しました」
「何で」
「俺だけじゃなかったので」
「……そういうの、ほんとにずるい」
でもその声は、責めるようではなかった。
むしろどこか、ほっとしたみたいに聞こえた。
注文したものが運ばれてくる。
プリンアラモードを見た瞬間、しらいさんの目元が少しだけやわらかくなる。
その変化が子どもみたいで、悠真は思わず笑ってしまった。
「何」
「いや、好きなんだなって」
「好きだけど」
「分かりやすい」
「春日くんも、そういう顔することあるよ」
「俺?」
「うん。河川敷で私見つけたとき」
「……」
「黙った。図星」
彼女は小さく笑い、スプーンでプリンをすくった。
「ねえ、春日くん」
「はい」
「今度から」
「うん」
「河川敷じゃない約束、たまに入れてもいい?」
その問いかけは、軽いようでいて、思ったよりずっと大きかった。
悠真は即答する。
「いいですよ」
「早い」
「嫌じゃないので」
「……ほんと、そこは早いよね」
「しらいさんが嫌じゃないなら」
「嫌じゃない」
「じゃあ、それで」
彼女はスプーンを持ったまま、少しだけ視線を落とした。
それから、静かに言う。
「今日、来てよかった」
「俺もです」
「あと」
「はい」
「荷物持ちも、向いてた」
「そこ評価されるんだ」
「大事でしょ」
「まあ、役に立てたなら」
「役に立った」
その一言が妙に真っ直ぐで、悠真は少しだけ照れた。
カフェを出るころには、外の光が少し傾き始めていた。
駅前のざわめきも、昼より少しだけやわらいでいる。
別れ際、駅の入口近くで立ち止まる。
河川敷ではなく、休日の駅前。
そこに立つ二人は、まだ少しだけ不思議だった。
「じゃあ、また」
悠真が言う。
「うん」
「次は……河川敷?」
「たぶん」
「たぶん?」
「でも、外もあり」
「了解です」
「春日くん」
「はい」
「今日の私は、ちゃんと地味だった?」
「いや」
「え」
「どう見ても、目立つ人は目立つなって思いました」
「それ、褒めてる?」
「半分」
「残り半分は?」
「困る、です」
「……そっか」
彼女はマスクの奥で少しだけ笑った気配を見せる。
「じゃあ、次はもっと地味にする」
「たぶん無理ですよ」
「何で」
「しらいさんなので」
「……そういうの、ずるいって言った」
「知ってる」
最後に、彼女はほんの少しだけ目を細めた。
その表情は、昼の駅前でも河川敷と同じ温度を持っていた。
そして背を向けて、人の流れの中へ消えていく。
悠真はその後ろ姿が見えなくなるまで、少しのあいだその場に立っていた。
手には彼女の買った靴の紙袋がない。
代わりに胸の内側に、河川敷だけではなかった時間の感触が残っている。
外でも会える。
ちゃんと約束できる。
そして、それを少しずつ当たり前にしていけるかもしれない。
その事実は、嬉しい。
でも同じくらい、少しだけ怖い。
たぶんこれは、今までの“夜の逃げ場”だけの関係ではいられなくなるということだからだ。




