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河川敷で缶チューハイを飲んでる地味なお姉さん、どう見ても人気女優なのに俺の前では絶対に認めない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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エピソード5 河川敷の外で、約束を持ち帰る夜

翌日の仕事は、珍しく少しだけ気が軽かった。


 理由ははっきりしている。

 机の引き出しの奥に、昨夜しらいさんから渡された缶チューハイが二本、音もなく転がっているからだ。


 甘い果実系と、レモン系。

 ラベルの明るい色が、無機質な事務机の中では妙に浮いて見える。


 普通に考えればおかしい。

 会社のデスクの中に、人気女優そっくりの地味なお姉さんから渡された缶チューハイを隠している社会人一年目。

 文字にするとだいぶだめな気がする。


 でも、その“だいぶだめ”な事実が、今の悠真にはちょっとしたお守りみたいに思えた。


 朝から電話対応を二件、先輩の修正依頼を三件、昼前には営業資料の差し替え。

 いつもと何ひとつ変わらない、細かく消耗する仕事の積み重ね。

 なのに昨日までとは違って、どこかで気持ちに余白がある。


 終われば、行く場所がある。

 そこへ行けば、誰かがいるかもしれない。

 いや、昨夜はっきり「来る」と言っていたのだから、たぶんいる。


 たったそれだけで、一日が少しだけ持ちやすくなる。


「春日」


 呼ばれて顔を上げると、三崎がパソコンの向こうから怪しい目つきでこちらを見ていた。


「何」

「お前、最近ちょっと顔が穏やかになったな」

「そうか?」

「うん。前はもっと“全部滅びろ”みたいな顔してた」

「そんな顔してないだろ」

「してたしてた。今は“今日はまだ生きててもいいかも”くらい」

「細かいな表現が」

「で?」

「で?」

「何があった」


 にやり、と嫌な笑い方をする。

 この男は、人の変化に気づく無駄な嗅覚だけは本当に鋭い。


「別に」

「別に、で人の顔ってそんな変わらないんだよな」

「仕事に少し慣れただけかもしれない」

「それならもっと死んだ目になる時期だろ」

「どんな理論だ」

「社会人二年目の俺理論」

「信用ならないな」

「でも当たってる」


 三崎は椅子を寄せてきて、声を潜めるふりをしながらまったく潜めずに言った。


「相手、やっぱ年上?」

「だから違うって」

「いや“違う”の否定の仕方が弱いんだよ」

「恋愛前提で話進めるな」

「じゃあ恋愛じゃないのに、夜の予定ができてテンション上がってると?」

「……」


 そこで黙ったのが失敗だった。


「うわ、あるんじゃん」

「うるさい」

「河川敷?」

「お前ほんと何なんだよ」

「当たりかよ!」


 三崎が笑いをこらえきれずに肩を震わせる。

 悠真はため息をつきながらモニターに向き直った。これ以上付き合うと面倒な方向に転がる。


「まあいいや」

「よくない」

「でも顔見たら分かるって。最近、お前ちょっとだけ楽しそうだし」

「……」

「その相手が誰かは知らんけど、大事にしろよ」


 最後の一言だけ、少しだけまともだった。


 悠真は返事をしなかった。

 でも心のどこかで、その言葉が小さく引っかかる。


 大事にしろ。

 そう言われるほど、何かを持っている実感なんてまだない。

 ただ、河川敷に行けば会えるかもしれない相手がいる。それだけだ。


 それだけのはずなのに、失くしたくないと思っている自分がいる。


    ◇


 終業後、今日は寄り道をせずにコンビニへ向かった。


 冷えた缶チューハイ二本を袋から移して、保冷のきく小さなバッグに入れてきている。そこへ追加で、しらいさんが好きそうな塩味のポテトスティックと、唐揚げ、あと念のためにミネラルウォーターも買った。


 買いすぎでは、とレジに並んでから思う。

 でもまあ、いい。今日はそういう日だ。


 土手道を下りる。

 夕暮れの名残が少しだけ空に残っていて、川面はまだ完全な黒にはなっていない。


 ベンチには、もう彼女がいた。


 いつも通りのキャップにパーカー。

 けれど今日は缶を持っていなかった。膝の上に小さな紙袋だけ乗せて、前を向いて座っている。


「こんばんは」

「……こんばんは」


 声をかけると、彼女はすぐにこちらを見た。

 昨日より顔色はずっといい。目元の疲れも薄い。


「今日は元気そうですね」

「昨日よりは」

「よかった」

「そういう顔、ちょっと困る」

「何ですか、その言い方」

「安心した、みたいな顔」

「安心しましたよ」

「……そう」


 しらいさんは少しだけ視線を落とした。

 その反応が妙に素直で、悠真は少しだけ笑う。


「何」

「いや、昨日より元気そうで本当によかったなって」

「……今日、ちょっと春日くん優しすぎる」

「昨日の反動です」

「そういうの、ずるい」


 言いながらも、彼女の口元は少しだけやわらいでいた。


 悠真はベンチに座り、持ってきたバッグを開ける。


「ほら」

「え」

「昨日のやつ」

「……持ってきたんだ」

「持ってきますよって言ったので」

「ほんとに持ってくるんだ」

「俺、意外とちゃんとしてるので」

「知ってる」


 その“知ってる”が、最近すっかり彼女の口癖みたいになっている。


 悠真が缶を二本取り出すと、しらいさんはそれを見て少しだけ嬉しそうに目を細めた。


「冷やしてある」

「当然です」

「えらい」

「雑な褒め方」

「でも本当にえらい」


 彼女はそう言って、悠真の手から果実系の缶を受け取った。

 指先が少しだけ触れる。ほんの一瞬なのに、妙に意識してしまう。


「乾杯します?」

「河川敷で?」

「河川敷だから、ですかね」

「何その理屈」

「雰囲気です」

「……まあ、いいけど」


 缶同士が軽く触れ合う。

 小さな音がして、それだけでなんだかちゃんと約束が形になった気がした。


「昨日、ちゃんと眠れました?」

「そこまで聞く?」

「気になるので」

「……まあ、少しは」

「少しは、か」

「でも、春日くんに雑炊もらって、だいぶ助かった」

「それはよかった」

「あと」

「あと?」

「春日くんがいてくれたのも、助かった」


 さらっと言われて、悠真はレモンの缶を開ける手を少しだけ止めた。


「そういうの、急に言いますよね」

「本当のことだから」

「本当でもびっくりはします」

「じゃあ慣れて」

「無茶だな」


 しらいさんは少しだけ笑ってから、缶に口をつけた。

 今日はちゃんと、前みたいなやけ酒じゃない。

 ただ少しだけ、夜を緩めるための飲み方に見えた。


「春日くん」

「はい」

「昨日、会社で何回くらい思い出した?」

「何をですか」

「私のこと」

「……」

「黙った」

「質問が雑です」

「答えて」

「そういうの、セクハラでは」

「じゃあ私も言うから」

「何を」

「私も何回か思い出した」


 そう言ってから、彼女は勝ち誇ったみたいに少しだけ顎を上げた。

 いや、その勝負はいったい何なんだ。


「何ですか、その顔」

「引き分けかなって」

「勝負してたんですか」

「してないけど」

「してるじゃないですか」

「細かいなあ」


 会話のテンポは、最初に比べてずっと自然になっていた。

 今では沈黙と同じくらい、このどうでもいい応酬が心地いい。


 悠真は買ってきたポテトスティックを取り出して差し出す。


「これ好きそうだなと思って」

「……何で分かったの」

「何となく」

「春日くんの“何となく”、ちょっと怖い」

「当たってます?」

「当たってる」

「じゃあいいでしょう」

「よくない。こういうの、慣れるとだめだから」

「何がですか」

「甘やかされるの」

「甘やかしてるつもりはないですけど」

「あるよ」

「そうですか」

「うん。かなり」


 そう言われると、少しだけ意識する。

 たしかに最近、自分は彼女に対してかなり自然に何かを差し出すようになっていた。

 食べ物だったり、飲み物だったり、言葉だったり。


 それが彼女を甘やかしているのか、それともただ普通に気にかけているだけなのか、自分でもまだよく分からない。


「しらいさん」

「何」

「今日は何か持ってきてるんですか」


 膝の上の紙袋に視線をやると、彼女は「あ」と小さく声を漏らした。


「忘れてた」

「またですか」

「春日くんに会うと、たまに順番がおかしくなる」

「失礼だな」

「褒めてる」

「褒められてる気がしない」


 彼女は紙袋を差し出した。

 中には、コンビニのスイーツが二つ入っている。小さなカップタイプのプリンだった。


「これ」

「え」

「昨日のお礼」

「雑炊の?」

「うん」

「律儀すぎる」

「こういうの、ちゃんとしたいから」

「……」

「何」

「いや、しらいさんってそういうとこありますよね」

「どういうとこ」

「適当そうなのに、変なところできっちり返してくる」

「適当そうって失礼だなあ」

「本人じゃないって言い張るあたりとか」

「そこは別枠」


 彼女はそう言ってから、少しだけ視線を逸らした。


「でも」

「はい」

「昨日の、ほんとに助かったから」


 プリンの入った紙袋は軽い。

 けれど、それを受け取ったときの感触は、妙に胸に残った。


 夜風が少しだけ強く吹く。

 河川敷の草が揺れて、遠くの川面に細かな波が立つ。


「春日くん」

「はい」

「たぶん、私」

「うん」

「ここだけじゃ足りなくなったら困るんだよね」


 唐突な言葉だった。


 悠真はすぐには意味がつかめず、彼女の横顔を見る。

 しらいさんは缶を持ったまま、視線だけを川に向けている。


「足りなくなくなる?」

「うん」

「何が」

「……ここで会うだけ、っていうのが」


 その言い方は、独り言に近かった。


 河川敷だけでは足りなくなる。

 それはつまり、外でも会いたくなるとか、もっと知りたくなるとか、そういう話なのだろうか。

 だとしたら、それは――。


「困るんですか」

 悠真はできるだけ静かに聞いた。


 彼女は少しだけ迷ってから、小さくうなずく。


「困る」

「何で」

「ルール、作ったから」

「……」

「ここはここ、外は外、って決めたのに。そういうの、曖昧になるとたぶんだめ」

「そうですか」

「うん」


 しらいさんはレモン系の缶を軽く揺らした。


「春日くんは?」

「俺ですか」

「困る?」

「……正直、少しは」

「少しなんだ」

「かなり、にすると重いので」

「もう十分重い」


 そう言って彼女は笑った。

 でも、その笑いの奥に少しだけ本気の色がある。


 悠真は缶に口をつけてから、息を吐く。


「でも」

「うん」

「困るからって、何もしないでいいとも思ってないです」

「……それ、ずるい」

「今日何回目だ」

「春日くんがずるいのが悪い」

「責任転嫁が上手いなあ」


 しらいさんは少しだけ肩をすくめる。


「じゃあ、一個だけ」

「何ですか」

「外でも会う理由、作る?」

「理由」

「うん。偶然じゃなくて、ちゃんと」

「……」


 心臓が妙にゆっくり打つ。

 期待していいのか分からない。

 でも、今の言葉を聞き間違いにはしたくなかった。


「例えば」

「はい」

「私、今度ちょっと買い物したいものがあるの」

「うん」

「一人だと面倒」

「うん」

「春日くん、荷物持ち向いてそう」

「扱いが雑だな」

「でも信頼してる」

「それは……ずるいですね」

「真似しないで」


 彼女はようやくこちらを向いた。

 キャップの影の奥で、目元だけが少しだけやわらかい。


「嫌ならいいよ」

「嫌じゃないです」

「早い」

「嫌じゃないので」

「……そっか」


 その“そっか”は、思ったよりほっとした響きだった。


「じゃあ」

「はい」

「今週の日曜、昼。駅前の本屋の前」

「本屋」

「無難でしょ」

「無難ですね」

「外で会っても、ぎりぎり変じゃないし」

「確かに」

「私、たぶん地味な格好で行くから」

「いつも地味ですよね」

「河川敷の私はそうだけど」

「じゃあ外でも変わらないか」

「ちょっと傷つくなあ、それ」


 二人で少しだけ笑う。

 その笑いのあと、悠真はようやく、今の会話が本当に約束になったのだと実感する。


 河川敷の外で会う。

 偶然ではなく、理由を作って。


 それはたぶん、今までのルールを壊すのではなく、少しだけ次の場所へ進めるということなんだろう。


「春日くん」

「はい」

「今の、ちゃんと覚えといて」

「忘れませんよ」

「ほんとに?」

「プリンまで受け取って忘れるほど薄情じゃないです」

「それはよかった」


 しらいさんはそう言って、缶を空にした。

 風が少し収まって、河川敷の空気がやわらぐ。


「じゃあ今日は、そろそろ帰る?」

「ですね」

「明日も仕事?」

「仕事です」

「かわいそ」

「また言う」

「でも春日くん、前より顔死んでない」

「そうですか」

「うん。ちょっとだけ、生きててよさそう」

「三崎と同じこと言いますね」

「誰」

「会社のうるさい同僚」

「その人、たぶんちょっと好き」

「会わせませんよ」

「何その即答」

「面倒なので」


 しらいさんは声を立てずに笑った。

 その笑い方が、また少しだけ近く感じる。


 土手の上で別れる前、彼女はふと立ち止まった。


「日曜」

「はい」

「ちゃんと来てね」

「行きますよ」

「……うん」


 短く返してから、彼女は少しだけ視線を揺らした。


「河川敷じゃないとこで会うの、ちょっと緊張する」

「俺もです」

「じゃあ引き分け」

「また勝負してる」

「してない」


 そう言って歩き出す背中を見送りながら、悠真は手に提げたプリンの紙袋を見た。


 甘い匂いがする気がする。

 気のせいかもしれない。

 でも、その気のせいまで含めて、今日は妙に世界が軽い。


 河川敷だけじゃ足りなくなると困る。

 そう言ったくせに、彼女は外で会う理由を作った。


 たぶんそれは、困るからこそ踏み出した一歩だ。

 壊したいわけじゃない。

 失くしたくもない。

 それでも、少しだけ先へ進みたい。


 その気持ちは、きっと自分も同じだった。

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