エピソード4 会えなかった夜の向こう側
それから三日間、しらいさんは河川敷に来なかった。
一日目は、たまたまだと思った。
仕事が長引いたのかもしれない。
撮影だか打ち合わせだか、そういうものが長引くことだってあるだろう。
そもそも、彼女は一度も「毎日来る」と約束したわけじゃない。こちらだって「会えなくて当然」くらいの顔をしているべきだ。
そう頭では分かっていた。
でも、河川敷に続く坂道を下りて、いつものベンチが空いているのを見ると、思った以上に胸の内側がすうっと冷える。
濡れてもいない木のベンチ。
風で少し揺れる雑草。
遠くの橋を走る車のライト。
どれも何一つ変わっていないのに、そこにしらいさんがいないだけで、景色が妙に薄く見えた。
「……たまたまだろ」
小さく呟いて、自分に言い聞かせる。
その日は、買ってきたコンビニの焼き鳥を一人で食べて帰った。
味なんてほとんど覚えていない。
二日目は、少しだけ嫌な予感がした。
仕事中も妙に集中できない。
数字を入力していても、メールを書いていても、頭の隅に「今日は来るだろうか」がずっと居座っている。
自分でも笑えるくらい分かりやすい。
「春日、最近ほんとどうした?」
昼休み、三崎が購買のパンを齧りながら言った。
「何が」
「いや、恋してるやつの顔してる」
「してない」
「してるしてる。しかもたぶん、自分で気づいてないタイプのやつ」
「うるさい」
「相手、年上?」
「何で」
「図星か」
「違う」
「じゃあ年下?」
「そういう話じゃない」
「じゃあ年上だな」
「お前、会話する気ないだろ」
三崎はけらけら笑っていた。
こいつに事情を話したら、たぶん面白がるだけでは済まない。絶対に済まない。
終業後、また河川敷へ行く。
いない。
その日は、ベンチに腰かけることもせずに少しだけ立ち尽くした。
もしかしたら、どこか別の場所にいるかもしれない。土手の上か、東屋か、少し離れた階段のところか。そう思って歩いてみたけれど、結局どこにも見当たらなかった。
夜風が少し強かった。
それが妙に寂しく感じる。
三日目になると、さすがに笑えなくなってきた。
書店で見かけたあのスーツ姿の女性。おそらくマネージャーだろう人。
張り詰めた空気。
画面の中の完璧な笑顔。
「外では、他人みたいなもんだから」と言った声。
何かあったのかもしれない。
仕事か、人間関係か、それとも本当に自分なんかが知らないところで、もっと大きな何かが動いているのかもしれない。
いや、当たり前だ。
あの人は、たぶん普通じゃない世界で生きている。
自分が知っているのは、そのうちのほんの欠片だけだ。
それでも。
それでも、会えないという事実がこんなに落ち着かないものだとは思わなかった。
四日目の夜、会社を出たのはいつもより少しだけ早かった。
別に急いだわけじゃない。急いだつもりはない。
ただ、終わった瞬間に手を止めて、余計な雑談にも付き合わず、すぐに鞄を持って立ち上がっただけだ。
駅前のコンビニで、なんとなく雑炊とスポーツドリンクを買った。
買ってから、何でこんなものを選んだんだと思う。
風邪を引いた相手に差し出すみたいな買い物だ。
河川敷へ続く坂道を下りる。
四日目ともなると、期待しすぎないようにする術を少しだけ覚える。
どうせいないかもしれない。いても、たまたまだ。いなければ、そのまま帰ればいい。
――いた。
ベンチに、いた。
いつものキャップ。いつものパーカー。
でも姿勢が少し違う。背もたれにもたれず、前かがみになって、肘を膝に乗せている。
しかも近づくにつれて分かった。顔色が、明らかに悪い。
「……しらいさん?」
声をかけると、彼女はゆっくり顔を上げた。
「あ」
「何ですか、その“あ”」
「春日くんだ」
「見れば分かりますよ」
「うん……分かる」
いつもより少しだけ声が弱い。
酔っている感じではない。むしろ飲んでいない気配のほうが強かった。足元にも缶はない。
悠真はすぐ隣に座る。
「大丈夫ですか」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない人の顔してます」
「そういう顔ってどんな顔」
「今はすごく無理してる顔です」
「……厳しいなあ」
彼女は小さく笑おうとして、途中でやめた。
その動きだけで、いつもよりずっと弱っているのが分かる。
「来てなかったですね」
「うん」
「仕事ですか」
「まあ」
「まあ、じゃ分からない」
「分からなくていいの」
言い方はいつも通りだ。
なのに、そこに含まれる力が少ない。
「しらいさん」
「何」
「無理して来なくていいのに」
「……」
彼女が黙る。
言い過ぎたかもしれない、と悠真は一瞬思った。
でも引っ込める気にもなれなかった。会えてほっとしたのと、三日間ずっと会えなかったことへのもやもやが、そのまま言葉に混じっていた。
「顔色悪いし、しんどそうだし」
「うん」
「こういうときまで来なくていいじゃないですか」
「……やだ」
「え?」
「やだ、って言った」
「子どもですか」
「そうかも」
彼女はそう言ってから、ふっと視線を落とした。
「無理してでも、来たかったの」
その一言で、悠真は何も言えなくなった。
風が吹く。
川面の光が細かく揺れる。
少し離れたところを自転車が一台通り過ぎて、また静けさが戻る。
「何で」
ようやく出たのは、それだけだった。
彼女は膝の上で指を組み直して、少しだけ迷うような間を置く。
「……ここに来ると、やっと終わった感じがするから」
「終わった?」
「今日一日が」
「……」
「朝からずっと、誰かの見たい顔をして、誰かの期待する返事をして、笑って、うなずいて、気を遣って。そういうの全部、ここまで来てようやく脱げる気がする」
「……そうですか」
「うん」
彼女はそこで少しだけ息を吐いた。
「それで」
「はい」
「春日くんが来ると、終わったって感じがちゃんとする」
「俺で?」
「うん。春日くんで」
言葉が、思ったよりまっすぐ胸に入ってくる。
河川敷そのものだけじゃない。
自分が来ることまで含めて、この場所が彼女にとって意味を持ち始めている。
それが嬉しい。
でも同時に、少しだけ怖い。
重たくないだろうか。
自分なんかが受け取っていいものなんだろうか。
「……何でそんな顔するの」
「いや」
「困ってる?」
「少しだけ」
「何で」
「いや、こう……思ったより、ちゃんと特別みたいな言い方するので」
「……嫌だった?」
「嫌じゃないです」
「ならいい」
彼女は少しだけ笑った。
その笑いは小さくて、でも数日前の雨の夜よりもずっと素に近かった。
悠真はコンビニ袋を開ける。
「これ」
「何」
「雑炊」
「……何で」
「何となく」
「何となくで雑炊買う?」
「買ったんだから仕方ないでしょう」
「春日くん、たまに本当に変」
「知ってます」
「あとスポドリ」
「完璧じゃん」
「大丈夫そうじゃなかったので」
「……そっか」
彼女は袋の中を覗き込んで、それからほんの少しだけ目を細めた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「今、春日くんのそういうとこ、かなり助かる」
「褒めすぎると調子に乗りますよ」
「乗ればいいじゃん。少しくらい」
いつもなら軽く流せるその言葉が、今夜は妙に近く聞こえる。
彼女は雑炊のふたを開けた。まだ温かい。
スプーンで一口すくって、ふっと息を吹く。食べる。少しだけ眉が緩む。
「……おいしい」
「コンビニに伝えておきます」
「それ今は要らない」
「すみません」
「でもちょっと笑った」
「ならよかった」
しばらく、彼女が雑炊を食べる音だけが続く。
川の音と、時々吹く風と、その小さな音が不思議なくらい馴染んでいた。
「春日くん」
「はい」
「私、ここだと誰にもならなくていいんだよね」
「……うん」
「名前も、顔も、仕事も、全部ちょっと脇に置いとける」
「はい」
「で、春日くんの前だと、ちゃんとしてなくていい気がする」
最後の一言だけ、少しだけかすれていた。
ちゃんとしてなくていい。
それはたぶん、思っている以上に重い信頼だ。
外で見せる顔を何枚も持っている人が、そのどれでもない状態でいられると言うのだから。
「だから、来たかった」
「……」
「会いたかったし」
「……」
「春日くんが、また来るかなって思ったし」
悠真は、膝の上で手を握り直す。
何か返さなければいけない。
でも、適当な言葉ではだめだと思った。
「俺も」
「うん」
「会えなくて、思ったより変でした」
「変?」
「落ち着かない感じです」
「……そっか」
「だから、来てくれてよかったです」
しらいさんは、雑炊の容器を持ったまま少しだけ目を見開いた。
それから、何かを確かめるみたいに悠真の顔を見る。
「本音?」
「本音です」
「春日くん、今日ほんとに重い」
「悪い意味じゃないといいですけど」
「……悪くない」
そう言ってから、彼女はふっと笑った。
今度の笑顔は、今まででいちばん力が抜けていた。
テレビの中の綺麗な作り物の笑顔じゃない。河川敷でだけ見せる、少しだけ疲れて、少しだけ甘えて、少しだけ安心した人の笑い方だった。
悠真はそれを見て、ようやく胸の奥に溜まっていた息を吐いた。
「春日くん」
「はい」
「明日も来る?」
「来ますよ」
「即答」
「そっちが聞いたんでしょう」
「聞いたけど」
「しらいさんは?」
「……来る」
「無理しない程度に」
「それは善処します」
「またそれだ」
「だって便利だから」
その返しに、二人で少しだけ笑う。
笑ったあと、彼女は空になった容器を袋に戻してから、コンビニ袋の底を探るように手を入れた。
「……あ」
「何ですか」
「これ、渡すの忘れてた」
「何を」
「買ってた」
取り出したのは、缶チューハイが二本。
よく見る甘い果実系のやつと、もう一本はレモン系だった。
「え」
「今日、最初は飲むつもりだったから」
「飲んでないじゃないですか」
「気分変わった」
「じゃあ自分で飲めばいいのに」
「……春日くんにあげる」
「俺そんなに飲まないんですけど」
「知ってる」
「知ってて?」
「うん。……明日、来るなら一緒に開けようかなって思って」
言ってから、彼女は少しだけ視線を逸らした。
「今日来て、よかったから」
「……」
「だから、明日も来るなら」
それはたぶん、ただの缶チューハイではなかった。
明日の約束だ。
しかも彼女のほうから差し出された。
悠真は袋ごと受け取る。
「じゃあ、持ってきます」
「うん」
「絶対」
「……うん」
その短い返事が、どうしようもなく嬉しかった。
帰り道、土手の上で彼女と別れる。
いつもならそこで終わる。
でも今夜、彼女は数歩進んだところで足を止めて振り返った。
「春日くん」
「はい」
「今さらだけど」
「何ですか」
「ここで会えてよかった」
それだけ言って、彼女は今度こそ歩いていく。
キャップを深く被った地味な後ろ姿は、夜の街に紛れればすぐに見えなくなりそうなのに、悠真にはなぜか、どの景色よりはっきり見えた。
河川敷で缶チューハイを飲む地味なお姉さん。
どう見ても人気女優なのに、俺の前では絶対に認めない人。
たぶんその人は、もうただの“気になる相手”ではない。
しらいさんは、俺が思っていたよりずっと前から、俺を自分の夜の終わりに組み込んでいた。
そしてたぶん、俺も同じだ。
家に帰ってから、悠真はコンビニ袋の中の缶チューハイを取り出して机に置いた。
明日になれば冷やして持っていこう。
そう思うだけで、妙に気持ちが静まっていく。
本人だと認めたら壊れるものがあるのかもしれない。
名前を明かしたら遠くなる距離があるのかもしれない。
それでも、今はまだこれでいい。
河川敷の夜に、しらいさんがいて。
そこへ行けば、春日くんと呼ばれる。
それだけで、明日を少しだけちゃんと迎えられる気がした。




