エピソード3 秘密のベンチ
その夜から数日、春日悠真の生活には、明らかにひとつの習慣が増えた。
仕事が終わる。
コンビニに寄る。
河川敷へ行く。
誰かに言えば、たぶん笑われるだろう。
社会人一年目の男が、夜な夜な河川敷へ通っている理由が、“人気女優そっくりの地味なお姉さんと話すため”なのだから。
しかも本人は絶対に認めない。
いや、認めないどころではない。
最近のしらいさんは、妙な方向にノリが良くなっていた。
「というわけで、私は白瀬アカリではありません」
「何ですか、その入り」
「今日はちゃんと、本人じゃない証拠を挙げようと思って」
「急にプレゼン始めるじゃないですか」
「春日くんがしつこいからでしょ」
「最近そんなに聞いてませんよ」
「心の中では聞いてる」
「エスパーか」
六月が近づき始めた夜だった。
風は少しぬるく、川面には街灯の色がゆるく伸びている。
悠真がベンチに腰かけると、しらいさんはいつもより妙に偉そうな顔――たぶん――で、缶チューハイを膝の上に置いた。
「いい? まず第一に」
「はい」
「私は演技なんてできません」
「そうなんですか」
「できません」
「へえ」
「疑ってる」
「少しだけ」
「失礼だなあ」
言いながら、彼女は缶を開ける。
ぷし、と軽い音がして、甘い果実系の匂いが風に混じった。
「第二に、ダンスも苦手です」
「ダンス」
「そう。あと振り付けとか覚えるのもたぶん遅い」
「たぶん、なんだ」
「細かいことは気にしないで」
「そこ一番大事では」
「第三に、高いお店よりコンビニのほうが落ち着きます」
「それは分かります」
「第四に、私は酒癖がそんなによくありません」
「それは、まあ」
「認めるんだ」
「たまに言葉が雑になるので」
「春日くんにだけです」
「それはそれで光栄ですけど」
しらいさんは、むっとしたように缶の縁を指で弾いた。
「で、第五に」
「はい」
「白瀬アカリは、もっとキラキラしてます」
「……」
「何」
「今のが一番、本人っぽいなと思って」
「なんで?」
「そういうことを自分で言うの、本人しかいない気がして」
「どういう理屈?」
悠真は少しだけ笑う。
彼女の“本人じゃない証拠”は、どれも証拠になっていなかった。
むしろ逆だった。
演技もダンスも苦手だと言う口ぶり、高い店が苦手だとこぼす感じ、そして最後の一言に混じったわずかな自嘲。
それら全部が、表に立つ人間のものに見えた。
「でも、白瀬アカリって」
「違う」
「最後まで聞いてください」
「……何」
「演技、すごいですよね」
「……」
彼女が黙る。
缶に触れていた指先が、わずかに止まった。
「ドラマとか映画とか、そんなに詳しく見てるわけじゃないですけど」
「うん」
「この人、目だけで感情変わるなって思うときあります」
「……知らない」
「いや、見たことあるから言ってるんですけど」
「他人の空似です」
「便利だなあ、その言い方」
しらいさんはそっぽを向いた。
耳のあたりが少しだけ赤く見えたのは、街灯の色のせいではないと思う。
「そういうこと、軽々しく言わないで」
「褒めたつもりなんですけど」
「分かってる」
「じゃあいいじゃないですか」
「よくない」
「何で」
「……困るから」
その声は小さかった。
酔いのせいで輪郭が少し曖昧になっていて、だからこそ本音っぽく聞こえた。
悠真はそれ以上踏み込まない。
代わりに、買ってきたポテトチップスの袋を開けて差し出した。
「食べます?」
「何味」
「コンソメ」
「……それはずるい」
「何が」
「好き」
「じゃあどうぞ」
「春日くん、たまに餌付けみたいなことするよね」
「野生動物扱いですか」
「違う。野良猫」
「より微妙になったな」
彼女は少し笑って、袋から一枚取る。
ぱり、と小さな音がする。
そのまま川を見る。
風が吹く。
ほんの数日前までは、隣に座ること自体が少し不思議だったのに、今はもう、この沈黙が当たり前みたいになっていた。
「春日くん」
「はい」
「もし本当に私が白瀬アカリだったとして」
「はい」
「こんなとこでこうやって飲んでるの、イメージ崩れると思う?」
「……どうだろう」
「正直に」
「むしろ、ちょっと安心するかもしれません」
「安心?」
「ちゃんと人なんだなって」
彼女はその答えをすぐには返さなかった。
しばらくしてから、ふっと息を吐く。
「それ、ずるい」
「今日よく言われますね」
「春日くんがよく分かんないこと言うから」
「褒め言葉なら受け取ります」
「違う」
「違うんだ」
「でも嫌いじゃない」
最後のほうは、ほとんど独り言みたいな声だった。
悠真は、そこに何か返そうとしてやめた。
今返すと、少しだけこの空気が崩れそうだったからだ。
代わりに、ベンチの背にもたれて夜空を見る。
雲は薄く、星はほとんど見えない。
それでも、この河川敷の空は、会社帰りに見上げるオフィス街の空よりずっと広く感じた。
「で」
「はい」
「結論として、私は白瀬アカリじゃありません」
「まだ続いてたんですね、その話」
「締めは大事でしょ」
「そうですね」
「理解した?」
「難しいところです」
「なんで」
「証拠が全部弱いので」
「もういい。春日くんには分かってもらえなくていい」
唇を尖らせるみたいな声でそう言って、彼女は缶をあおる。
少しだけ子どもっぽいその拗ね方が、妙に愛嬌があった。
そのまましばらく話して、悠真が立ち上がる。
帰る支度をすると、しらいさんは前を向いたまま言った。
「……明日、雨かも」
「天気予報ですか」
「さっき見た」
「じゃあ来ないほうがいいですかね」
「何で」
「濡れるし」
「私は来るかもしれない」
「じゃあ来ます」
「即答」
「そっちが先に言ったんじゃないですか」
「……まあ、そうだけど」
帰り道、悠真は少しだけ笑っていた。
白瀬アカリそっくりの地味なお姉さんが、“本人じゃない証拠”を真面目に挙げる夜。
冷静に考えればおかしい。
でも、そのおかしさがもう、ずいぶん愛おしくなり始めていた。
翌日の空は、昼までは妙に明るかった。
天気予報は夜から雨だと言っていたのに、午後の段階ではまだ青さが残っている。こういう日はだいたい、帰る頃に一気に崩れる。
案の定、定時を少し過ぎたころ、窓の外の色が急に鈍った。
「春日くん、このあと外回りの報告まとめといて」
「はい」
「あと、先方に送る文面も一応作って」
「はい」
「急ぎじゃないけど今日中ね」
「急ぎではありますよね、それ」
上司は笑ってごまかした。
ごまかしきれていない。
パソコンの画面とにらめっこしながら、悠真は心の片隅で天気のことを気にしていた。
雨。
しらいさんは“来るかもしれない”と言っていた。あの言い方だと、たぶん来る。
いや、来ないほうがいい。
人気女優かもしれない人が、雨の河川敷で缶チューハイを飲んでいたら、さすがに色々どうかしている。
けれど同時に、あの人ならやりかねない、という妙な確信もある。
会社を出るころには、小さな雨粒が街灯に照らされて見えるようになっていた。
傘を差し、駅前のコンビニでホットコーヒーと小さな焼き菓子を買う。
もはや完全に、会う前提の行動だった。
河川敷に続く坂道を下りる。
当然、いつものベンチには誰もいない。濡れた木の座面だけが街灯に光っている。
やっぱり帰ったか。
それが正しい。
そう思いながら引き返しかけたとき、土手の上の東屋の暗がりに、人影が見えた。
キャップ。パーカー。
片手に缶。
「……何してるんですか」
「それ、こっちの台詞」
しらいさんは濡れかけた足元を見下ろしながら言った。
屋根はあるが、横殴りの雨で少しだけ肩口が濡れている。
「今日はさすがにいないかと思いました」
「私も」
「じゃあ何で」
「来るかもって思ったから」
「誰が」
「……春日くんが」
あっさり言ってから、彼女は自分で少し目を逸らした。
悠真は東屋の柱に傘を立てかけ、彼女の隣に並ぶ。
距離は近い。雨の日の狭い場所だから仕方ない。たぶん。
「それ、飲んでるんですね」
「一本だけ」
「もう飲まないって決めてませんでした?」
「決めてない」
「昨日言ってたような」
「昨日の私は昨日の私だから」
便利な理屈だな、と悠真は思う。
でもそれを口に出すと少し野暮な気がして、代わりにコンビニ袋を差し出した。
「これ」
「何」
「ホットコーヒー」
「……私に?」
「たまたま買ったんですけど」
「その“たまたま”好きだね」
「しらいさんもよく使うじゃないですか」
「じゃあ相殺か」
彼女は缶チューハイを脇に置き、温かいカップを受け取った。
両手で包むように持つ。
雨の日の薄暗い空気の中で、その仕草だけが妙に柔らかく見えた。
「春日くん」
「はい」
「ちょっと話決めたい」
「話」
「ルール」
悠真は首を傾げる。
しらいさんは東屋の外の雨を見ながら、少しだけ真面目な声で続けた。
「ここで会ったこと、外で言わない」
「はい」
「名前とか仕事とか、必要以上に聞かない」
「はい」
「連絡先も、今は聞かない」
「今は、なんだ」
「うるさい」
「はい」
「あと、ここではお互い、ただの疲れた人」
雨の音が、しばらくその言葉のあとを埋めた。
悠真はすぐには返事をしなかった。
軽い決めごとに聞こえて、その実、彼女にとってはかなり大事な線引きなのだと思ったからだ。
ここを守りたいのだ。
この東屋も、ベンチも、川の音も、夜風も。
“誰にもならなくていい場所”として。
「分かりました」
「ほんとに?」
「はい」
「意外とあっさり」
「だって、そうしたいんでしょう」
「……したい」
「なら、それで」
彼女は少しだけ驚いたように悠真を見た。
それから、小さく息を吐く。
「春日くんって、そういうとこだけ話が早い」
「褒め言葉として受け取ります」
「違うかも」
「じゃあ撤回します」
「それも違う」
少しだけ笑いが混じる。
張っていた糸が、ほんの少し緩んだ気がした。
「でも」
「はい」
「名前はないと不便」
「ありますよ。しらいさん」
「それ、適当につけただけだし」
「じゃあ変えます?」
「……どうしようかな」
彼女は考えるふりをして、すぐに諦めたように肩をすくめた。
「やっぱり、それでいい」
「しらいさん?」
「うん」
「本人っぽい偽名ですね」
「何それ」
「いや、何となく」
「気づいてても言わないのが優しさだと思う」
「今さらですか」
「今さらです」
雨足が少し強くなる。
東屋の屋根を叩く音が細かく跳ねる。
しらいさんはカップを口元に寄せながら、ぽつりと言った。
「外では、他人みたいなもんだから」
「……はい」
「見かけても、無理に話しかけないで」
「分かりました」
「でも」
「でも?」
「ここでは、ちゃんと春日くんでいて」
その言い方が、妙に胸に残った。
ここでは、ちゃんと。
たぶんそれは、ただ名前で呼ぶとか、会話をするとか、そういう意味だけではない。
彼女が“誰でもない自分”でいるために、こちらもまた、“誰かのファン”でも“騒ぐ人”でもなく、春日悠真としてここにいてほしい、ということだ。
「分かりました」
「さっきからそればっかり」
「大事なことなので」
「……まあ、いいけど」
彼女は笑った。
雨の日のせいか、いつもより少しだけ声が近い。
「じゃあ春日くんも、私に何かルールある?」
「俺からですか」
「うん」
「そうですね……」
「何」
「無理して笑わないこと」
「……またそれ」
「あと、あんまり飲みすぎないこと」
「それは善処します」
「善処じゃ弱い」
「厳しいなあ」
「俺、意外とちゃんとしてるので」
「知ってる」
その“知ってる”が、なんだか妙に嬉しかった。
しばらくして雨が少し弱まる。
東屋の縁から落ちる雫が細くなり、川面の輪もまばらになる。
「春日くん」
「はい」
「今日、来てよかった」
「俺もです」
「……そういうの、さらっと言うよね」
「本音なので」
「困る」
「何で」
「困るから困るの」
そう言ってそっぽを向く横顔は、たぶん少し赤かった。
別れ際、傘を差して土手の上まで一緒に歩く。
そこで彼女は、不意に立ち止まった。
「春日くん」
「はい」
「ここでは私、しらいさんだから」
「知ってます」
「うん。……忘れないでね」
「忘れませんよ」
彼女は小さくうなずき、反対方向へ歩いていく。
街灯の下で振り返りもしない背中を見送りながら、悠真は思った。
名前を偽ることは、嘘というより祈りに近いのかもしれない。
この時間が壊れませんように。
ここではただのしらいさんでいられますように。
たぶん彼女は、そんなふうに願っている。
週末の土曜日、悠真は駅前の大型書店にいた。
仕事で使うファイルを買うついでに、新刊コーナーを眺めて時間を潰していただけだ。
休みの日にまで会社関連のものを買うのはどうなんだと思うが、平日に寄る元気はない。社会人一年目とはそういうものだ、と勝手に納得する。
店内には明るいポップが並び、雑誌コーナーからは軽快なBGMが流れていた。
ふと芸能誌の棚を見ると、表紙に白瀬アカリの顔があった。
薄いベージュの服を着て、少しだけ大人っぽい表情で笑っている。
見出しには新作映画のインタビューと、主演ドラマについての特集。
足が止まる。
――外では、他人みたいなもんだから。
――見かけても、無理に話しかけないで。
あの雨の日の言葉が、やけにはっきり蘇った。
悠真は雑誌を手に取ることはせず、少し離れた位置から眺めた。
画面や広告で見るのとはまた違う。紙の上の白瀬アカリは、きちんと作られた“商品”の顔をしている。隙がない。弱さも迷いも見せない。
河川敷で「笑うの疲れた」とこぼした人とは、やっぱり別の存在みたいだった。
そのとき、店内の一角が少しだけざわついた。
何気なく視線を向ける。
文具売り場の奥。帽子をかぶり、白いマスクをして、ゆるい黒のパーカーを着た女がいる。隣には、細身のパンツスーツを着た女性。三十代前半くらい、髪をひとつにまとめた、いかにも仕事ができそうな顔立ち。
黒パーカーの女が、ほんの少しだけ横を向く。
心臓が、変な跳ね方をした。
しらいさんだった。
いや。
たぶん、白瀬アカリだった。
マスクと帽子でかなり隠れている。
けれど歩き方と、立っているときの重心の置き方と、そして何より、ふとした横顔の線が見間違えようもない。
隣の女性――おそらくマネージャーだろう――は、スマホを見ながら何かを低い声で伝えている。しらいさんはそれに小さくうなずく。
河川敷では見たことのない顔だ。静かで、真面目で、少しだけ張り詰めている。
悠真は思わず一歩出かけて、止まった。
声をかけるのは簡単だ。
春日くん、と呼ばれる距離に、彼女はたしかにいる。
でも、それは“ここでは”の外側だ。
彼女もまた、こちらに気づいたかもしれない。
ほんの一瞬だけ、視線が交わったような気がした。
だが悠真は、何もしなかった。
軽く会釈をすることも、手を挙げることも、名前を呼ぶこともせず、ただファイルを手に取ってレジへ向かった。
それでいい。
そうするべきだ。
そう約束したのだから。
なのに、レジ待ちの列に並びながら、胸の奥が妙にざわついていた。
正しいことをしたはずなのに、少しだけ寂しい。
◇
その夜、河川敷のベンチには、いつもより少し早い時間からしらいさんがいた。
今日は缶チューハイではなく、炭酸水。
足元のコンビニ袋も小さい。たぶんもう飲む気はないのだろう。
「こんばんは」
「……こんばんは」
声の調子が、少しだけ固い。
悠真はベンチに座る。
距離はいつも通り。
なのに、空気だけが少し違った。
「今日、休みでしたよね」
「うん」
「何してたんですか」
「色々」
「雑だなあ」
「春日くんこそ」
「俺は買い物です」
「ふーん」
会話がそこで切れる。
いつものしらいさんなら、もう少し何か言うはずだった。
でも今日は、川面を見たまま、缶ではなくペットボトルのラベルを指で剥がしている。
悠真は少し迷ってから、口を開いた。
「……今日、見ました」
「何を」
「駅前の書店」
「……」
彼女の指が止まる。
やはり気づいていたのだ。
もしかすると、ずっとその話を待っていたのかもしれない。
「声、かけませんでした」
「うん」
「ここじゃないので」
「……うん」
短い返事。
怒っているわけではなさそうだ。けれど、安心しているだけでもない。
「正しかった?」
「え?」
「話しかけなかったの」
「たぶん」
「たぶん、か」
「だって、しらいさんがそう言ったから」
「……そうだね」
彼女は小さく笑った。
でも、その笑いには少しだけ寂しさが混じっていた。
「ちゃんと守るんだ」
「守りますよ」
「意外」
「そんなに信用ないですか」
「ないわけじゃないけど」
「けど?」
「……少しくらい、困ればいいのにって思った」
「俺が?」
「ううん。私が」
その意味が、すぐには分からない。
悠真が黙っていると、彼女はペットボトルを膝の上に置いて、ぽつりと続けた。
「外で見ると、違うでしょ」
「……少し」
「でしょうね」
「遠い感じはします」
「そう」
遠い。
その言葉は、たぶん彼女自身がいちばんよく知っている。
「でも」
「何」
「ここで会うしらいさんのほうが、俺にはちゃんと本物に見えます」
言ってから、少し早かったかもしれないと思った。
けれど撤回はしない。
彼女は目を見開いたまま、しばらく黙っていた。
風が吹いて、キャップのつばが揺れる。川向こうのマンションの灯りが水面で細かく滲む。
「……そういうこと、簡単に言う」
「本音です」
「春日くんの本音、たまに重い」
「悪い意味で?」
「……分かんない」
そう言って彼女は顔を背ける。
けれど口元は、少しだけやわらいでいた。
「外では、話しかけないでくれてよかった」
「はい」
「でも」
「でも?」
「ここで、ちゃんと言ってくれてよかった」
それはたぶん、すごく小さな許可だった。
外の世界では他人。
でもこの河川敷では、ただの無関係ではない。
その線引きが、少しだけ明確になった気がする。
「しらいさん」
「何」
「ここでは、他人じゃないですよね」
「……」
「この前、そう言いかけてたじゃないですか」
「よく覚えてるね」
「覚えてます」
「……ここでは、他人じゃない」
「よかった」
「そんなに安心する?」
「します」
「変なの」
そう言いながら、彼女はほんの少しだけ笑った。
今夜初めて、ちゃんと力の抜けた笑いだった。
悠真はその横顔を見て、ようやく胸のざわつきが落ち着くのを感じた。
昼の書店で見た遠い人と、今目の前にいる近い人。
そのどちらも同じかもしれない。
でも、少なくとも今この瞬間、彼女はしらいさんとしてここにいる。
それだけで、十分だった。
「春日くん」
「はい」
「今日のこと、ちょっとだけ嬉しかった」
「どのへんが」
「ちゃんと約束守ったとこ」
「ありがとうございます」
「でも、少しだけ」
「少しだけ?」
「見つけてくれて、うれしかった」
声は小さかった。
川の音に混ざって消えそうなくらい。
それでも、ちゃんと届いた。
悠真は少しだけ視線を逸らしてから言う。
「俺も」
「何が」
「見つけてしまったのが、ちょっと嬉しかったです」
「……そう」
彼女はそれ以上何も言わなかった。
ただ、ペットボトルを持つ手の力がほんの少し緩んで、肩の線がやわらかくなる。
そのまま二人でしばらく黙って川を見ていた。
外では他人。
ここでは、そうじゃない。
たったそれだけの確認なのに、今夜はやけに大きな意味を持っている気がした。




