エピソード2 どう見ても本人なのに
翌朝、通勤電車の窓に映る自分の顔を見て、春日悠真は「分かりやすいな」と少しだけ呆れた。
寝不足だ。
いや、正確には眠れなかったわけではない。ちゃんと布団に入って、ちゃんと目を閉じて、ちゃんと朝は来た。社会人として最低限の睡眠は取れているはずだ。
ただ、眠りに落ちる前に、何度も何度も昨夜の河川敷を思い出してしまっただけで。
――今日、笑うの疲れた。
あの一言が、思ったより深く残っている。
笑うのが仕事の人。
いや、まだ“仕事が何なのか”すら聞いていない。聞かないままでいる約束もしていない。けれど、あの言葉の輪郭は、どうしても世間で知られている“白瀬アカリ”という名前に重なった。
電車が駅に滑り込む。人の流れに押されるようにしてホームに降り、改札を抜け、会社まで歩く。空はよく晴れていて、朝の街は妙に明るい。こんな日に夜の河川敷のことを考えている自分だけが、少しだけ場違いな気がした。
オフィスに着いてパソコンを立ち上げると、すぐに隣の島から賑やかな声が飛んできた。
「見た? 白瀬アカリの新しいCM」
「あー、炭酸水のやつ?」
「そうそう、朝から流れてた。めっちゃ可愛くなかった?」
またその名前だ、と悠真は思う。
いつもなら聞き流すだけの芸能人の話題が、今日はひとつひとつ妙に耳に引っかかる。しかも最悪なことに、会社の共用モニターにちょうどそのCMが流れ始めた。
薄いブルーのワンピース。やわらかな日差し。透明なグラス。
白瀬アカリがカメラに向かって笑う。まっすぐで、涼しげで、文句のつけようがない笑顔だった。
同僚たちが「うわ、強い」「透明感やば」と口々に感想を言う。
悠真も、客観的にはそう思う。
綺麗だ。華がある。たしかに遠い。
けれど同時に、昨夜ベンチに座って緑茶を飲みながら「ツナマヨは子どもみたいで嫌」と言っていたパーカー姿の女の顔が頭に浮かぶ。
完璧すぎる画面の中の笑顔と、河川敷で少しだけ肩の力を抜いた横顔。
どちらも同じ人間かもしれないという事実が、未だにうまく呑み込めない。
「春日、お前も見る?」
背後から、同僚の三崎恒一が椅子を寄せてくる。
相変わらず声がでかい。
「何を」
「白瀬アカリのインタビュー。なんか新作映画の話してる。お前、昨日から妙に食いつくよな」
「食いついてない」
「そうか? でもお前、芸能人とか普段どうでもよさそうなのに」
「仕事しろよ」
「やってるやってる」
三崎は言いながらも、しっかり動画を最後まで見ていた。
器用なのか不真面目なのか分からない男だ。
「でもさあ、この人ほんと隙ないよな。スキャンダルもないし、変な噂も聞かないし。なんか“ちゃんとしてる大人”って感じ」
「……そうだな」
ちゃんとしている、か。
河川敷のしらいさんも、たしかに変なところでちゃんとしている。
名前を雑に誤魔化すくせに、余ったからと唐揚げを差し出してきた。
本人だと認めないくせに、こちらの言葉の選び方にはちゃんと反応していた。
隙がないというより、見せるものと見せないものをきっちり分けているのだろう。
そう考えた瞬間、悠真は小さく息を吐いた。
――今日は、会えるだろうか。
その発想が自然に浮かぶこと自体、もうだいぶまずい。
◇
その日の仕事は、昼までは平和だった。
午後二時すぎにその平和が死んだ。
「春日くん、悪いんだけど、この資料の数字差し替えてくれる?」
「今日中ですか」
「うん、できれば」
「できれば、じゃなくて確実に今日中ですよね」
「察しがいいなあ」
上司は朗らかに笑った。
朗らかに押しつけるのがいちばん質が悪い。
差し替えだけならまだいい。結局、営業から戻ってきた修正依頼が二件、先輩がまとめきれなかった表の体裁直しが一件、最後には「春日くん、これ印刷もお願い」と付け足される。気づけば定時を一時間過ぎていた。
オフィスの窓の外は、すっかり夜だ。
コピー機の駆動音だけが妙に空虚に響く。
悠真は肩を回してから席に戻り、パソコンを落とした。
目が痛い。背中も重い。腹も減った。コンビニに寄らなければ食べるものがない。
普通なら、もう河川敷に寄る余裕なんてない。
なのに。
会社を出て駅前のコンビニで適当に夕飯を買ったあと、足はやっぱりあの土手道へ向いていた。
自分でも呆れる。
あれだけ疲れているくせに、夜風に当たりに行く理由が、ただひとつしか思い浮かばない。
坂を下りる。
遠目にベンチが見える。
いた。
ただ、今日は様子が違った。
いつもと同じように座ってはいる。キャップもパーカーも変わらない。けれど足元には空き缶が二本転がっていて、今手にしているのは三本目らしい。姿勢も少し崩れていて、肩の力が抜けきっている。
そして、近づくにつれて分かった。機嫌が悪い。
「こんばんは」
「……遅い」
第一声がそれだった。
悠真は一瞬、聞き間違いかと思った。
「え?」
「遅かったね」
「いや、仕事で」
「知ってる」
「何で」
「顔」
それだけ言って、彼女は缶をあおる。
アルコールの匂いが昨夜より強い。
悠真はベンチの端に座りながら、彼女の横顔を盗み見た。今日はいつもより目元が険しい。疲れているというより、削れているような感じだった。
「……何かあったんですか」
「別に」
「そういう顔してますけど」
「そういう顔ってどんな顔」
「すごく機嫌悪い顔」
「失礼だなあ、春日くん」
語尾だけ柔らかい。
だが、それが余計に無理している感じを強くしていた。
「今日は飲んでるんですね」
「飲んでる」
「我慢は」
「やめた」
「潔いな」
「褒めないで」
「褒めてないです」
会話はいつも通りだ。
なのに、何かが明らかに違う。
風が吹いて、彼女のキャップのつばが少し揺れた。
その拍子に、頬のあたりまで見える。綺麗だ。けれど綺麗すぎるせいで、目元のかすかな疲れや、口元に残る力みまで妙に目立ってしまう。
「今日、なんか食べました?」
「食べた」
「何を」
「ちゃんとしたやつ」
「ふわっとしてるなあ」
「でも足りない」
「じゃあこれ、食べます?」
悠真はコンビニ袋から、買ったばかりのからあげクンを出した。
本当は自分の晩ごはんの一部だったが、今は別に惜しくない。
彼女は一瞬だけ目を丸くしてから、ふいと視線を逸らす。
「……雑」
「昨日そう言われると思って、今日はちゃんとパックじゃなくて箱にしました」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ何の問題ですか」
「なんで毎回、そういうの出してくるの」
「腹減ってそうだったので」
「……減ってる」
小さく認めた。
悠真は思わず笑ってしまう。
彼女がむっとする。
「何」
「いや、素直だなって」
「別に素直じゃない」
「今のはかなり素直でした」
「酔ってるから」
「便利な言い訳だ」
「便利でしょ」
結局、彼女は箱を受け取った。
一個つまんで口に入れ、もぐもぐと噛む。その仕草が妙に普通で、普通すぎて、画面の向こうの完璧な女優と重ならない。
なのに、食べ終わって悠真のほうを見た瞬間の表情だけが、やっぱりやけに印象に残る。
「……おいしい」
「コンビニに伝えておきます」
「春日くん、ちょっと嫌い」
「ちょっとならセーフですね」
彼女は少しだけ笑った。
それが、今夜初めて見た柔らかい表情だった。
けれどすぐに、その笑みは薄れる。
彼女は箱を膝に置いて、川のほうを見ながら呟いた。
「今日、ほんと疲れた」
「昨日もそんなこと言ってましたね」
「昨日より疲れた」
「何があったんですか」
「……笑ってた」
「はい」
「ずっと。朝から」
そこで言葉が切れる。
悠真は待った。
無理に続きを促すのは違う気がしたからだ。
しばらくして、彼女は缶を見つめたまま言う。
「求められる顔があるの、分かる?」
「……会社でも、似たようなのはちょっと」
「うん。たぶんそういうの」
「“新人らしく元気に”みたいな?」
「そうそう」
彼女の口元が、ほんの少しだけ苦く歪む。
「元気そうにしてると、“この子は大丈夫”って勝手に思われるし。笑ってると、“嫌じゃないんだ”ってことにされるし。ちょっと黙ると、“機嫌悪いのかな”って空気になるし」
「めんどくさいですね」
「めんどくさいでしょ」
「めんどくさいです」
「……よかった」
「何がですか」
「すぐ励まさない人で」
悠真は少しだけ息を止めた。
ああ、この人は本当に、疲れているのだ。
綺麗事や正論じゃなくて、ただ「めんどくさいですね」と言ってもらえることに安心するくらいには。
「じゃあ、今日は笑わなくていいんじゃないですか」
「またそれ言う」
「ここでは、です」
「……ここでは」
彼女は繰り返してから、少し目を細めた。
「春日くんって、変なとこだけ優しいね」
「変なとこだけって何ですか」
「全部じゃない」
「全部優しい人みたいに言わないでください」
「違うの?」
「会社ではたぶん死んだ目してます」
「それは知ってる」
知ってる、と言われて、悠真は少しだけ笑う。
そのまま二人で黙った。
川の音。遠くの車の音。コンビニ袋が風でかすかに鳴る音。
静かだった。
でも、居心地が悪い静けさではない。
やがて彼女が、箱の中の最後のひとつを取って言う。
「……春日くん、明日も残業?」
「多分」
「そ。じゃあ、来るの遅いね」
「またそれですか」
「別に」
「待ってるみたいに聞こえますよ」
「聞こえ方が悪い」
「日本語の問題じゃなくて」
「じゃあ春日くんの解釈が悪い」
口ではそう言うくせに、彼女の声は少しだけ柔らかい。
「もし本当に待ってたら、どうするんですか」
「……どうもしない」
「なんで」
「恥ずかしいから」
「今の、かなり正直でしたね」
「酔ってるから」
「また便利な言い訳」
「便利なんだってば」
彼女はそう言って缶を傾ける。
少しだけ頬が赤い。酒のせいだけではない気がした。
別れ際、悠真が立ち上がると、彼女は前を向いたままぽつりと言った。
「……明日は遅くてもいいよ」
「え?」
「どうせ来るなら、だけど」
「来る前提なんですね」
「違う」
「違うんだ」
「違わないかも」
「どっちですか」
「うるさいなあ、もう」
その声は、さっきよりずっと軽かった。
◇
翌日は朝から最悪だった。
資料の数字にミスが見つかり、上司の機嫌が悪く、先輩は外出続きで捕まらない。電話は鳴るし、メールは溜まるし、誰かの「これ急ぎで」が三件重なるしで、気づけば昼休みすらまともに取れていなかった。
夕方、ようやく一息ついたところで、三崎が椅子を引き寄せてくる。
「春日、今日も死んでんな」
「死んでる」
「珍しく素直」
「今の俺は優しさに飢えてる」
「じゃあこれやる」
三崎がデスクの上に置いたのは、コンビニの小さいチョコだった。
たぶん商談帰りに余ったやつだろう。
「……ありがとう」
「おう。で、最近なんかあった?」
「何が」
「いや、お前、ここ数日ちょっと変だぞ。仕事の疲れとは別の顔してる」
「どんな顔だよ」
「夜に予定あるやつの顔」
「曖昧すぎる」
「でもあるだろ」
「ない」
「へえ」
三崎はにやにやしていた。
勘がいい男は面倒くさい。
「河川敷とか行ってそう」
「何で分かる」
「いや行ってんのかよ」
「しまった」
三崎は腹を抱えて笑い出した。
うるさい。
「いや、お前そういうタイプじゃないと思ってたから。何、失恋でもした? 黄昏れてんの?」
「違う」
「じゃあ恋してんの?」
「違う」
「どっちにしろ面白いな」
「うるさい」
「まあ頑張れよ。知らんけど」
知らんなら口を出すな、と言い返したかったが、仕事の呼び出しでそれどころではなくなった。
結局、会社を出たのはいつもよりさらに遅い時間だった。
もう十時近い。
自分でもさすがに、今日はやめておくべきだと思った。腹も減っているし、足も重い。河川敷に寄ったところで、彼女はもう帰っているだろう。
なのに、駅前で立ち止まったあと、悠真は無意識にコンビニに入っていた。
いつもより少しだけまともなものを選ぶ。
温かいレモンのペットボトルと、小さめのサンドイッチ。
買ってから、「何をしてるんだ」と気づく。
これでは完全に、会いに行く人の買い物だ。
夜風は昨日より冷たかった。
土手道を下りるころには、川面の光も少し揺らいで見える。
ベンチが見えた瞬間、悠真は思わず足を止めた。
いた。
しかも、本当に待っていた顔でこちらを見た。
「……遅かったね」
昨日と同じ言葉。
でも今夜は、その響きが少し違う。
彼女は缶チューハイではなく、何も持っていなかった。膝の上で手を組んで、じっと前を見ていたらしい。待っている以外の理由があまり浮かばない座り方だった。
「待ってたんですか」
「違います」
「即答」
「たまたま長くいた」
「寒いのに?」
「……たまたま」
「昨日より言い訳が弱いですね」
「うるさいなあ」
それでも、その声に棘はなかった。
悠真はベンチに座り、コンビニ袋を差し出す。
「これ」
「何」
「温かいレモン」
「……私に?」
「たまたま買ったんですけど、もし飲むなら」
「たまたま、ね」
「そっちこそ」
「こっちは本当にたまたま」
ふん、と鼻を鳴らしながらも、彼女はペットボトルを受け取った。
キャップを開けて一口飲み、少しだけ目を丸くする。
「……あったかい」
「そのために買ったので」
「優しい」
「変なとこだけです」
「覚えてたんだ」
「何を」
「自分で言ったやつ」
彼女は笑った。
今日は、笑い方が最初から少し柔らかい。
「仕事、長かったの?」
「長かったです」
「大変だね」
「しらいさんも」
「私は……まあ、普通」
「普通の人は河川敷で人を待ったりしません」
「だから待ってないってば」
拗ねたように言ってから、彼女はペットボトルを両手で包む。
温もりを逃がさないようにするその仕草が、妙に可愛い。
「それにしても、ほんとに遅かった」
「だから仕事で」
「別に責めてない」
「少し責めてましたよ」
「……少しだけ」
「正直だ」
「寒かったから」
その言い訳に、悠真は少しだけ黙る。
ああ、この人は本当に待っていたのだ。
しかも、それを全部は隠しきれないくらいには。
「しらいさん」
「何」
「こういうの、慣れてるんですか」
「何が」
「人を待つの」
「全然」
「じゃあ何で」
「……春日くんが来ないと、思ったよりつまらないから」
夜風が、一瞬だけ止まったような気がした。
悠真は言葉に詰まる。
こういうことを、もう少し平気で言う人だと思っていた。違った。
彼女自身も言ったあとで少し驚いたように目を伏せている。
「今のは」
「酔ってないから言い訳できない」
「言い訳前提なんだ」
「だって恥ずかしいでしょ」
耳が少し赤い。
街灯のせいではないと思う。
「……俺も、来ないほうがいいかなってちょっと思いました」
「なんで」
「遅いし、疲れてるし」
「でも来た」
「来ました」
「じゃあよかった」
彼女はそう言って、またペットボトルに口をつけた。
その横顔は、画面の中のどんな笑顔よりも近くて、静かで、少しだけ無防備だった。
「しらいさん」
「何」
「ここ、気に入ってるんですね」
「うん」
「俺が来るのも含めて?」
「……そこまで言うと調子に乗るから嫌」
「否定しないんだ」
「しないときもある」
その答えが妙に嬉しくて、悠真は少しだけ笑った。
風が吹く。
川の向こうの灯りが揺れる。
いつもの河川敷なのに、今夜は少しだけ違って見えた。
たぶん、自分の中で何かが変わったからだ。
この人はもう、ただの“白瀬アカリそっくりの地味なお姉さん”ではない。
河川敷で会うしらいさんで、笑うのに疲れて、温かいレモンを両手で持って、俺が遅いと少しだけ不機嫌になる人だ。
遠いはずなのに、近い。
近いくせに、何ひとつ確かなことはない。
その不安定さごと、もう心地よくなり始めているのがいちばん危ない。
しばらく黙って川を見たあと、彼女がふいに言った。
「……春日くん」
「はい」
「明日も残業?」
「多分」
「そっか」
「また来ます?」
「どうしようかな」
「待ってるんですか」
「……少しなら」
「少しだけ?」
「ほんの少し」
「便利ですね、その言い方」
「便利でしょ」
彼女は少しだけ笑う。
その笑い方は、昨日までよりずっと自然だった。
たぶん、この夜からだ。
偶然に見えていた再会が、もう偶然ではなくなったのは。




