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河川敷で缶チューハイを飲んでる地味なお姉さん、どう見ても人気女優なのに俺の前では絶対に認めない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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エピソード1 河川敷の缶チューハイと、認めないお姉さん

 四月も半ばだというのに、夜風はまだ少しだけ冷たかった。

 昼間は汗ばむくらいだったのに、日が落ちると急に季節が若返る。そんな微妙な気温差まで、今日は妙に腹立たしかった。


 春日悠真は、駅前のコンビニの袋を片手に、重たい足取りで土手道を歩いていた。スーツの襟元は緩めている。ネクタイはとっくに鞄に突っ込んだ。ワイシャツの袖も雑にまくっている。社会人一年目にしては少し疲れすぎた格好だと自分でも思うが、そんなことを気にする余裕はもう残っていなかった。


 今週三度目の残業。

 いや、正確には毎日残業しているのだから、三度目も何もない。今日はたまたま、上司に「春日くん、若いんだから体力あるでしょ」と笑いながら資料の修正を押しつけられ、そのあと先輩の数字の打ち間違いまで尻拭いしただけだ。


 若いんだから。

 新人なんだから。

 まだ独り身なんだから。


 便利な言葉だな、と悠真は思う。言われる側からすると、少しも便利じゃないのに。


 まっすぐアパートに帰る気になれなくて、駅前から少し離れた河川敷まで歩いてきた。ここは高校生の頃から、なんとなく気持ちを落ち着けたいときに来る場所だった。川幅はそこそこ広く、対岸のマンションの灯りが水面にぼんやりと滲んでいる。ジョギングする人も、自転車を押して歩くカップルも、平日のこの時間になればほとんどいない。


 ただ、今夜は先客がいた。


 土手を降りた先、街灯の明かりがぎりぎり届くベンチに、一人の女が座っていた。


 キャップを目深にかぶり、ゆるいグレーのパーカーに黒の細身パンツ。足元は使い込んだ白いスニーカー。年齢は二十代半ばくらいに見える。派手な格好ではない。むしろ驚くほど地味だ。近所のコンビニ帰りだと言われたら、そのまま信じてしまいそうなほど。


 なのに。


「……は?」


 声が漏れた。


 横顔だった。街灯の角度のせいで輪郭がはっきり見えた。通った鼻筋。整った顎の線。キャップの影から覗く長い睫毛。テレビや広告や駅前の大型ビジョンで、何度も見た顔だった。


 どう見ても、白瀬アカリだ。


 いやいやいやいや、と悠真は心の中で全力で否定する。


 そんなわけがない。

 人気女優が。今いちばん勢いのある若手女優が。CMにドラマに映画に引っ張りだこの、あの白瀬アカリが。

 近所の河川敷のベンチで、コンビニの袋を足元に置いて、缶チューハイを飲んでいるわけがない。


 だが、似ているとかそういうレベルではなかった。

 本人にしか見えない。


 見なかったことにしよう。そう思って踵を返しかけた、そのときだった。


「……見た?」


 女が口を開いた。


 低すぎず、高すぎず。よく通る、けれど今は少しだけ気だるげな声。


 悠真は固まったまま振り返る。


「え?」

「今、“うわ、白瀬アカリだ”って顔したでしょ」

「いや、えっと……」


 どう返すのが正解なんだ。


 近づいてはいけない気がする。けれど、ここで不自然に否定しても怪しい。そもそも向こうから話しかけてきている。


 女は缶を軽く揺らしながら、ため息交じりに言った。


「安心して。違うから」

「……違う?」

「違います」

「でも」

「似てるだけです」

「いや、かなり」

「よく言われます」


 会話のテンポが妙に早い。

 というか、本人確認のやり取りに慣れすぎていないか、この人。


 悠真はおそるおそるベンチから少し離れた位置に立ったまま、もう一度顔を見た。やっぱり本人にしか見えない。口元は缶に隠れているのに、それでも圧倒的に見覚えがある。


「……白瀬アカリさん、ですよね?」

「違います」

「でもどう見ても」

「だから、似てるだけです」

「声も似てる」

「物真似が得意なんです」

「そういうレベルじゃなくて」

「本人だったら、こんなところで缶チューハイ飲みません」


 言って、彼女はぐいっと缶を傾けた。


 やけに様になっているのが逆に腹立たしい。というか説得力があるのかないのか分からない。


「……そういうものですか」

「そういうものです」

「人気女優って河川敷で缶チューハイ飲まないんですか」

「少なくとも私じゃない」

「今、自分で“私”って」

「日本語の一般表現です」


 悠真は思わず噴き出した。


 女はむっとした顔をする。たぶん。


「何」

「いや……すみません」

「笑うとこあった?」

「ちょっとだけ」

「失礼」


 それきり会話が途切れる。

 川の音がする。遠くの橋を走る車の音。少しだけ湿った夜風。コンビニ袋の中で、買ったばかりの弁当がぬるくなっていく気配。


 帰るべきだろう。

 でも妙に、立ち去りがたい。


 女のほうが先に口を開いた。


「座らないの?」

「いいんですか」

「ベンチ、私のじゃないし」


 それもそうだ。


 悠真は少し距離を空けてベンチの端に腰かけた。近い。いや、隣に人が座ればこのくらいの距離なのは普通なのだが、相手が相手だと妙に神経を使う。


 女はそんな悠真をちらりと見て、鼻で笑った。


「緊張しすぎ」

「そりゃしますよ」

「なんで」

「……どう見ても人気女優なので」

「だから違います」

「じゃあ誰なんですか」

「通りすがりの、似てる人」

「雑だなあ」

「細かいことは気にしないで」


 また缶を傾ける。アルコールの甘い匂いが夜風に薄く混じる。


 よく見ると、足元のコンビニ袋には二本目らしい缶が入っていた。完全に“飲みに来ている人”だ。人気女優かどうかはさておき、この河川敷をかなり使いこなしている雰囲気がある。


「春日くんは、何しに?」

「……え?」

「そういう顔してる。仕事帰りで、真っ直ぐ帰りたくない顔」

「分かります?」

「分かる」


 即答だった。


 悠真は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。

 その言い方が、思ったより優しかったからだ。


「まあ……残業です」

「かわいそ」

「ひどい」

「でもかわいそう。顔死んでる」

「そこまで?」

「うん。コンビニ飯が主食の顔してる」

「それは今まさにそうです」


 女がふっと笑った。

 今度は仕事用の完璧な笑顔ではなく、喉の奥で転がしたような、小さな笑いだった。


 その瞬間、悠真は確信に近いものを抱く。

 やっぱりこの人は、白瀬アカリだ。


 だが、それを口に出したところで、たぶん彼女は認めない。認める気がない。そこだけはなぜか、はっきり分かった。


 だから悠真も、それ以上は追及しなかった。


 代わりにコンビニ袋を持ち上げて言う。


「俺、弁当食べてもいいですか」

「だめって言ったら?」

「帰ります」

「じゃあ食べていい」

「許可制なんだ」

「今決めた」


 ベンチに座ったまま、悠真はコンビニの鮭おにぎりと唐揚げ棒を取り出す。社会人一年目の切ない夕食だ。せめて家で温めればいいのに、今日はもうそんな元気もない。


「それ、晩ごはん?」

「そうです」

「若い男の食事としては終わってるね」

「残業終わりに期待しないでください」

「味噌汁とか飲みなよ」

「この時間に」

「じゃあおでんでも」

「季節外れです」

「文句多いなあ、春日くん」


 初対面で名前を呼ばれたことに少し遅れて気づく。

 あれ、名乗ったか? いや、名乗ってない。


「なんで俺の名前……」

「今つけた」

「雑だなあ」

「じゃあ違う?」

「いや、合ってますけど」

「ほら」


 適当すぎる。だが、たぶん本当に当てずっぽうではなく、さっき財布か社員証を見たのだろう。気づかないうちに。妙に観察眼が鋭い。


 そんなところまで、やっぱり“普通の人”っぽくない。


 唐揚げ棒をかじりながら横を見ると、彼女はまた川のほうを眺めていた。横顔が綺麗すぎる。夜の光が輪郭だけを拾って、余計に絵になる。


 本人じゃないと言い張るには、少し無理がある。


 それでも。


 今ここで、「やっぱり白瀬アカリさんですよね」ともう一度聞くのは野暮な気がした。

 たぶんこの人は、認めないことで何かを守っている。


 だから悠真はその夜、それ以上何も聞かなかった。


 食べ終えて立ち上がる。

 コンビニ袋の口を結ぶと、彼女がこちらを見もせずに言った。


「……このこと、誰にも言わないでね。“似てる人”に会ったってこと」

「言いませんよ」

「本当に?」

「言ったところで信じてもらえないと思うんで」

「それもそうか」


 彼女は少しだけ肩を揺らして笑った。


 悠真は軽く会釈して、土手へ向かって歩き出す。

 数歩進んだところで、なんとなく振り返った。


 街灯の下、缶チューハイを片手に座る地味なパーカー姿の女。

 なのに、その横顔だけがやけに華やかで、どうしようもなく浮いて見えた。


 やっぱり、本人にしか見えなかった。


    ◇


 翌日、悠真は朝からずっと落ち着かなかった。


 通勤電車の中でも、会社のデスクでも、昼休みの弁当の時間でも、昨夜の河川敷のベンチが何度も頭に浮かぶ。


 まさか。

 いやでも。

 だってどう見ても。

 でもまさか。


 そんな堂々巡りをしているうちに、昼休みになった。


 同僚の三崎がスマホを見ながら「うわ、白瀬アカリ新ドラマの制作発表出てるじゃん」と声を上げる。


「見ろよ春日、これ。めっちゃ綺麗じゃね?」

「え、ああ」

「なんか透明感すごくない? 同じ人類とは思えん」

「……そうだな」

「でもスキャンダル全然ないよな。この人。逆に私生活どうなってんだろ」


 悠真は缶コーヒーを飲みながら、三崎のスマホ画面をちらりと見た。


 映像の中で、白瀬アカリは完璧に笑っていた。柔らかなワンピースを着て、司会者の質問に淀みなく答え、共演者の言葉に上品に微笑む。どこから見ても、手の届かない世界の人間だった。


 なのに昨夜、あの人は河川敷で、レモン味の缶チューハイ片手に「本人だったらこんなところで飲みません」と言っていた。


 頭がおかしくなりそうだ。


「春日?」

「ん?」

「ぼーっとしてんな。お前、白瀬アカリ好きだったっけ?」

「いや、別に」

「ふーん。なんか珍しく食いついた顔してたから」


 食いついていたつもりはない。だが、顔に出ていたのかもしれない。


 午後の業務も上の空だった。

 いや、上の空では仕事にならないので手は動かしたが、思考のどこかでずっと考えていた。


 今夜、河川敷に行ったら、また会えるんだろうか。


 偶然だったのか。

 それとも。


 定時はとうに過ぎ、結局今日も一時間ほど残業した。昨日ほどではないにせよ、疲れはちゃんと溜まっている。普通ならまっすぐ帰る。風呂に入って寝る。


 なのに足は勝手に駅とは逆方向を向いていた。


 河川敷へ続く坂道を下りる。

 夜風が昨日より少しだけぬるい。


 ベンチが見えた瞬間、悠真は自分でも分かるほどあからさまに足を止めた。


 いた。


 同じベンチ。

 同じような地味なパーカー。

 ただ今日は缶チューハイではなく、コンビニのアイスコーヒーを持っている。


 彼女は悠真に気づくと、別に驚く様子もなく言った。


「また来た」

「そっちこそ」

「散歩です」

「アイスコーヒー持って?」

「水分補給です」

「昨日も似たこと言ってましたよね」

「気のせい」


 悠真は思わず笑った。

 彼女は少しだけ眉を寄せる。


「何」

「いや、またいるんだなって」

「いたらだめ?」

「だめじゃないです」

「じゃあいいでしょ」


 その言い方が、少しだけ拗ねた子どもみたいで妙に可愛かった。

 それを顔に出さないようにしながら、悠真は昨日と同じように少し距離を空けてベンチに座る。


「今日はお酒じゃないんですね」

「毎日飲んでるみたいに言わないで」

「飲んでるんじゃないんですか」

「……日による」

「昨日は?」

「飲んでた」

「今日は?」

「我慢してる」

「偉い」

「雑な褒め方」


 少し沈黙が落ちる。

 昨日より気まずくない。

 なぜかもう、ここで会話することが自然なことになり始めている。


「春日くん」

「はい」

「昨日、誰かに言った?」

「何をですか」

「似てる人のこと」

「言ってないです」

「そう」

「言ったところで信じてもらえないと思いますし」

「正解」


 やっぱりそこは認めないらしい。


 悠真は少しだけ意地悪な気分になって聞いてみた。


「じゃあ、名前は?」

「なんで」

「毎回“似てる人”だと不便じゃないですか」

「不便かな」

「不便ですよ」

「……通りすがりの人、でよくない?」

「長い」

「じゃあ、地味なお姉さん」

「もっと長い」

「注文多いなあ」


 彼女はストローをくわえたまま、少し考えるように川面を見た。

 それから、興味がなさそうに言う。


「あなたは?」

「何がですか」

「名前」

「ああ……春日悠真です」

「そう。春日くん」


 今度はちゃんと名乗った。

 彼女はうなずいただけで、自分の名は明かさない。


「そっちは?」

「似てる人です」

「それ名前じゃないです」

「機能としては十分でしょ」

「雑すぎる」

「じゃあ……」

 

 少し間を置いて、彼女は言った。


「しらい、でいいよ」

「しらい?」

「適当」

「いや、適当なのは分かりますけど」

「じゃあ嫌?」

「嫌じゃないですけど……しらいさん?」

「うん」


 その返事が妙にしっくりきた。


 しらいさん。

 どう考えても、白瀬に寄せただけの雑な偽名だ。

 でも、それをあえて指摘しないのがたぶん今の正解なんだろう。


「で、春日くんは今日も帰りたくなかったの?」

「まあ、そうですね」

「仕事」

「仕事です」

「つらそ」

「顔に出てます?」

「出てる。昨日よりマシだけど」

「昨日どんだけひどかったんだ……」

「コンビニ飯が主食の顔」

「まだ引っ張るんですか、それ」

「気に入った」


 彼女は少し機嫌よさそうに言った。


 その横顔を見ながら、悠真は思う。

 テレビの中では完璧に見える人が、今こうしてどうでもいいことで少し笑っている。

 そのことが、なんだか不思議で、少しだけ嬉しい。


 川の向こうを電車が走っていく。窓の明かりが帯みたいに流れる。

 しらいさんはそれを眺めながら、ぽつりと口を開いた。


「ここ、静かでいいよね」

「昔からたまに来てます」

「春日くんも?」

「はい。なんか、考えたくないときに」

「ふーん」

「しらいさんは?」

「……誰にも話しかけられない場所だから」


 悠真は少しだけ驚いて横を見る。


 彼女は川面から目を離さないまま、ストローを指先で弄んでいた。


「夜だし、人少ないし。みんな他人のこと見てないし」

「確かに」

「明るすぎないのもいい。顔、ちゃんと見られないから」


 その言い方は冗談めかしていた。

 でも、半分以上は本音に聞こえた。


 ああ、この人は。

 ここを、本当に“逃げ場”にしているんだ。


 悠真の胸に、昨日とは少し違う感情が生まれる。

 興味本位ではなく、もっと静かな何かだ。


 追及したら、この場所ごと壊れてしまいそうな気がした。


 だから悠真は、ただ言う。


「いい場所ですよね」

「……うん」


 彼女は短く答えた。


 しばらく二人で黙って川を見る。沈黙が苦ではない。

 会話がなくても、隣にいること自体は不自然じゃない。そんな妙な空気が、もう少しずつでき始めていた。


 立ち上がろうとしたとき、しらいさんがふいに言った。


「春日くんって、変だよね」

「いきなりひどい」

「普通、もっと騒ぐでしょ」

「騒がれたいんですか、騒がれたくないんですか」

「……騒がれたくない。少なくとも、ここでは」

「じゃあ騒ぎません」

「そう」


 そこで初めて、彼女は少しだけ安心したように息を吐いた。


 悠真はその顔を見て、やっぱりこれでよかったんだと思う。


「じゃあ、また」

「また?」


 聞き返したくせに、声の調子は少しだけ嬉しそうだった。


「え、だめですか」

「だめじゃない」

「じゃあ」

「……うん。また」


 土手を上がる途中、悠真は一度だけ振り返った。


 ベンチに座る地味なパーカー姿の女。

 相変わらずどう見ても人気女優。

 なのに今は、その肩書きよりも先に、“河川敷で会うしらいさん”という印象が心に残っていた。


    ◇


 三日目、悠真は自分でも苦笑した。


 仕事が終わった瞬間に、頭の中で「今日はいるだろうか」が浮かんだのだ。

 これはもう、会いに行っているのと同じではないか。


 いや、別に会いに行くわけじゃない。

 ただいつもの河川敷に寄るだけだ。

 その結果として、たまたま、もしも、しらいさんがいたら話すだけで。


 我ながら苦しい言い訳を胸の中で並べながら、今日も坂道を下りる。


 いた。


 今日は先にベンチに座っていた。

 缶チューハイではなく小さなペットボトルの緑茶。代わりに足元には見覚えのあるコンビニ袋がある。飲んでいるわけではなさそうだ。


「……毎日来てます?」

「来てません」

「今の間は何ですか」

「考えてた」

「何を」

「週に何回なら“毎日”じゃないかを」

「発想がだめじゃないですか」


 しらいさんが小さく笑う。


「春日くんこそ」

「俺は昔からたまに来てます」

「じゃあ今日は“たまたま”なんだ」

「そうです」

「そっか」

「何ですか、その顔」

「別に」


 なんだか今日は少しだけ、彼女の機嫌がいい気がした。


 悠真がベンチに座ると、しらいさんは足元のコンビニ袋を持ち上げる。


「これ」

「え?」

「余ったから」

「何がですか」

「唐揚げ」

「余ることあります?」

「……あったの」

「じゃあもらいますけど」


 袋の中には小さなパックの唐揚げが入っていた。昨日、自分が差し出した唐揚げ棒の返礼だろうか。だとしたら律儀すぎる。


「ありがとうございます」

「いいよ。別に」

「しらいさんって、意外とちゃんとしてますね」

「どういう意味?」

「いや、もっと適当な人かと」

「失礼だなあ。私、ちゃんとしてるよ」

「本人確認は雑なのに」

「そこはいいの」


 袋を受け取ったとき、ふわりと彼女の指先が視界に入る。細くて綺麗な指だった。やはりどこか、“普通の人”とは違うところがある。


「今日、疲れてます?」

「なんで」

「ちょっと顔」

「見えるの?」

「少し」

「……見ないでよ」

「無茶言いますね」

「じゃあ見なかったことにして」

「便利だなあ」


 しらいさんは肩をすくめ、それから川のほうを見る。


「今日、なんかあったんですか」

「別に」

「そういう顔してますけど」

「似てる人にもそういうの言うんだ」

「しらいさんだからです」

「……何それ」


 少しだけ、彼女の目元がやわらぐ。


 悠真はあえて深追いしなかった。聞けばたぶん、何かしら答えてくれるのだろう。けれど、ここで無理に聞き出すのは違う気がした。


 代わりにコンビニ袋を開いて、今日は自分で買ってきたおにぎりを取り出す。


「食べます?」

「何」

「ツナマヨ」

「いらない」

「即答」

「子どもみたいで嫌」

「偏見」

「じゃあ何持ってるの」

「昆布」

「……それならちょっと欲しい」

「どっちが子どもですか」


 しらいさんは不服そうな顔をしながらも、おにぎりを半分受け取った。包装を丁寧に剥がす仕草まで綺麗で、変なところで感心してしまう。


 一口食べて、彼女は小さく言った。


「……おいしい」

「コンビニに失礼なほど普通の感想」

「褒めてる」

「ならいいですけど」


 二人で同じものを食べながら、川を見る。

 なんだろう、この状況は。


 人気女優そっくりの、でも絶対に本人だと認めない地味なお姉さんと、河川敷でおにぎりを分け合う。

 冷静に考えれば意味が分からない。

 なのに今は、その意味の分からなさが妙に心地いい。


 風が少し強くなった。キャップのつばを押さえながら、しらいさんがぽつりと呟く。


「今日、笑うの疲れた」

「……え?」

「ずっと愛想よくしてたら、顔がどれか分からなくなる」


 そこまで言ってから、彼女はしまったというように口を閉じた。


 でも悠真は、驚きはしたものの、問い詰めることはしなかった。


「じゃあ今日は笑わなくていいんじゃないですか」

「簡単に言うね」

「ここでは、ってことです」

「……ここでは」

「はい。ここでは」


 彼女は少しだけ目を見開き、それから緩く息を吐いた。


「春日くんって、たまにずるい」

「なんでですか」

「そういう言い方するから」


 責めるような口ぶりではない。

 むしろ少しだけ、助かったような声だった。


 しばらく沈黙が落ちる。

 今日はその沈黙も、昨日までより近かった。


「春日くん」

「はい」

「明日も残業?」

「多分」

「そ。じゃあ来るの遅いね」

「……来る前提なんですか」

「違うけど」

「違うんだ」

「別に、聞いただけ」

「そうですか」

「そうです」


 そっぽを向いたままの横顔が、ほんの少しだけ赤く見えたのは、街灯の色のせいかもしれない。


 でも、たぶん違う。


 悠真はその夜、家に帰る途中でようやく気づいた。


 自分はもう、「あの人は本当に白瀬アカリなのか」だけを気にしているわけじゃない。

 明日も会えるだろうか、ということのほうが、少しだけ大きくなり始めていた。

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