第61話 白瀬アカリを見たあとで、しらいさんにおかえりを言う
映画を観た翌日の夜、春日悠真はいつもより早く部屋を整えていた。
ローテーブルの上には、青灰色のコースター。
その上に、しらいさんのマグカップ。
隣には蜂蜜入りの喉飴と、ハーブティー。
そして、昨日買った映画のパンフレット。
パンフレットを置くかどうかで、悠真はしばらく迷った。
見せたい気持ちはある。
けれど、テーブルの真ん中に置くと、なんだか「感想を語る準備をしています」と主張しているようで落ち着かない。
結局、パンフレットはローテーブルの端に置いた。
しらいさんが気づく位置。
でも、押しつけがましくない位置。
自分でも妙な気遣いだと思う。
でも今日は、どうしても少しだけ緊張していた。
舞台の上の白瀬アカリを見た。
スクリーンの中の彼女も見た。
役として泣く彼女を見て、自分も泣いた。
それを、今夜は本人に話す。
メッセージや電話では少し話した。
でも、顔を見て話すのは初めてだった。
何をどこまで言えばいいのか。
どう言えば、彼女を傷つけずに、でも嘘にならないのか。
褒めるだけなら簡単だ。
すごかった、きれいだった、泣いた。
それだけなら言える。
けれど、しらいさんはたぶん、それだけを聞きたいわけではない。
白瀬アカリを見たあとで、春日悠真が何を感じたのか。
遠かったのか。
怖かったのか。
それでも、しらいさんだと思えたのか。
そこを聞きたいはずだ。
インターフォンが鳴った。
悠真は一度だけ息を整えて、玄関へ向かった。
ドアを開けると、しらいさんが立っていた。
黒いキャップ。
ベージュのコート。
薄いマスク。
肩にはいつもの鞄。
目元に少し疲れはある。
けれど、昨日の大きな仕事を終えたあとの、どこか静かな顔をしていた。
「……来た」
声は、ほとんど元に戻っていた。
けれど、まだ無理をしないように少し抑えている。
悠真は自然に言った。
「おかえりなさい」
しらいさんは、一瞬だけ目を伏せた。
それから、マスク越しでも分かるくらい小さく笑う。
「ただいま」
その一言で、部屋の空気が少し戻った。
昨日、舞台の上で白瀬アカリとして立っていた人。
スクリーンの中で別の人生を生きていた人。
その人が今、自分の玄関で「ただいま」と言っている。
遠かった彼女が、ちゃんと帰ってきた。
「入ってください」
「うん」
しらいさんは靴を脱ぎ、部屋に上がった。
ローテーブルを見る。
マグカップ、コースター、喉飴、ハーブティー。
そして、端に置かれたパンフレット。
彼女はそこで少しだけ動きを止めた。
「……買ってる」
「買いました」
「端に置いてる」
「真ん中は、ちょっと緊張感が出るので」
「春日くんらしい」
「そうですか」
「うん。すごく」
しらいさんはコートを脱ぎ、椅子の背にかけた。
鞄を横に置く前に、内ポケットのあたりに軽く触れる。
カードケースがあるのだろう。
「持ってきたんですね」
「うん」
「カードケース」
「今日は、持ってきたかった」
彼女はそう言って、ローテーブルの前に座った。
悠真はキッチンへ向かう。
「ミルクティーでいいですか」
「うん。今日はミルクティー」
「蜂蜜は?」
「少し」
「分かりました」
湯を沸かし、ミルクティーを作る。
蜂蜜を少しだけ入れると、甘い匂いが立った。
カップを運ぶと、しらいさんは両手で受け取った。
いつものように、青灰色のコースターの上へ置く。
ことん。
小さな音。
しらいさんはその音を聞いて、静かに息を吐いた。
「帰ってきた音」
「はい」
「昨日、舞台袖でこの音思い出してた」
「本当に?」
「うん。理沙さんに、水飲めって言われたとき」
「そこなんですね」
「紙コップ置く音が、全然違った」
「そうでしょうね」
「でも、これを思い出したら少し落ち着いた」
彼女はマグカップを指先で軽く撫でた。
「春日くん、昨日ちゃんと見てた?」
「見てました」
「舞台挨拶も?」
「はい」
「映画も?」
「はい」
「途中で目、逸らさなかった?」
「逸らしてません」
「泣いた?」
「泣きました」
しらいさんは少しだけ目を丸くした。
「即答」
「昨日も言いましたから」
「でも、顔見て聞くと違う」
「……はい」
「どこで?」
「声を出さずに泣く場面です」
しらいさんの指が、カップの持ち手に触れたまま止まった。
「……やっぱり、そこ」
「はい」
「そんなに?」
「かなり」
しらいさんは、少しだけ困ったように笑った。
「春日くん、あそこ刺さると思った」
「分かってたんですか」
「少し」
「何で」
「春日くん、私が声出なかった日のこと、たぶん思い出すから」
悠真は黙った。
その通りだった。
映画の撮影は、その出来事より前だった。
本来なら繋がるはずはない。
でも、見ている自分の中では繋がってしまった。
「混ぜてしまいました」
悠真は言った。
「役と、しらいさんを」
「うん」
「それが良い見方なのかは分かりません」
「うん」
「でも、混ざりました」
しらいさんは、怒らなかった。
ただ静かに聞いていた。
「映画の中の人は、しらいさんじゃないです」
「うん」
「でも、声を出さずに泣いているところを見たら、ホワイトボードで話していた夜を思い出しました」
「うん」
「泣く予約って言ってたことも」
「……うん」
「声が出なくても戻ってきてくださいって、俺が送ったことも」
しらいさんは、マグカップを両手で包み直した。
目線はカップに落ちている。
「嫌でしたか」
悠真が聞くと、彼女は小さく首を振った。
「嫌じゃない」
「はい」
「役と私を、全部同じにされたら困るけど」
「はい」
「春日くんが見た時間の中で繋がったなら、それはたぶん間違いじゃない」
「……」
「映画って、そういうものだと思う」
その言い方が、女優らしかった。
少しだけ仕事の顔。
でも、声はしらいさんのままだった。
「撮ったときの私と、昨日見た春日くんと、今ここにいる私」
「はい」
「全部違う時間だけど、同じ映画で繋がるんだね」
「そうですね」
「ちょっと不思議」
「かなり不思議です」
「かなり」
しらいさんは少し笑った。
その笑いで、部屋の空気が少しだけ柔らかくなった。
◇
悠真はパンフレットを手に取った。
「これ、読みました」
「全部?」
「まだ途中です」
「全部読まれるの恥ずかしい」
「映画のパンフなので」
「分かってるけど」
「インタビュー、かなり丁寧でした」
「それは仕事だから」
「でも、言葉がしらいさんっぽいところもありました」
「どこ?」
しらいさんは身を乗り出しかけて、すぐに姿勢を戻した。
「やっぱり聞きたいんですね」
「聞きたい。でも恥ずかしい」
「どっちですか」
「両方」
「両方持つんですね」
「春日くんが教えた」
「そうでした」
悠真はパンフレットを開いた。
白瀬アカリのインタビュー欄。
そこには、演じた役についての丁寧な言葉が並んでいる。
「ここです」
悠真は指で示した。
「『強さとは、傷つかないことではなく、傷ついたあとに自分の呼吸を取り戻すこと』」
しらいさんは、急に目を逸らした。
「……それ読む?」
「読みます」
「本人の前で?」
「本人の前で」
「春日くん、たまに容赦ない」
「感想を聞きたいと言われたので」
「言ったけど」
しらいさんは少し照れたようにミルクティーを飲んだ。
「その言葉、昨日の舞台挨拶でも少し近い話をしていましたよね」
「うん」
「息をする場所」
「うん」
「すごくしらいさんだと思いました」
「白瀬アカリじゃなくて?」
「白瀬アカリとして話していたんだと思います」
「うん」
「でも、しらいさんでもありました」
しらいさんは、カップを置いた。
ことん。
音が、二人の間に落ちる。
「その言い方、昨日のメッセージでもしてた」
「はい」
「白瀬アカリで、役の人で、でもしらいさんでもあったって」
「そう見えました」
「……怖かった」
「はい」
「春日くんにそう見えるのが、怖くて、でも聞きたかった」
彼女は自分の胸元に軽く手を当てた。
「舞台の上にいる私、遠かったでしょ」
「遠かったです」
「映画の中の私は?」
「もっと遠かったです」
「うん」
「でも」
「うん」
「遠いから、嫌だったわけじゃありません」
しらいさんが顔を上げる。
悠真はゆっくり言った。
「遠いところにいるしらいさんを見られて、よかったです」
しらいさんは、すぐには返事をしなかった。
目元が少し揺れる。
「それ、今日いちばん危ない」
「泣きそうですか」
「少し」
「正式予約にします?」
「まだ仮予約」
「増えますね」
「増える」
二人は少しだけ笑った。
でも、彼女の目元は本当に少し赤かった。
◇
しばらくして、しらいさんは鞄からカードケースを出した。
青灰色の小さなケース。
中には、悠真の書いたカードが入っている。
彼女はそれをローテーブルに置いた。
マグカップの隣に。
「昨日、これ持ってた」
「はい」
「舞台袖で、一回だけ見た」
「泣きませんでしたか」
「ぎりぎり」
「理沙さんは?」
「横にいた」
「完全に見張られてましたね」
「うん。でも、見ていいって言ってくれた」
しらいさんはカードケースを指で軽く押した。
「このカード、昨日ちょっと意味変わった」
「どう変わりました?」
「前は、戻りたい日に戻ってきてって、春日くんの部屋に戻る言葉だと思ってた」
「はい」
「昨日は、舞台に行く前にも効いた」
「うん」
「戻る場所があるから、行けるって」
「はい」
「でも映画が終わったあと」
彼女は少しだけ言葉を探した。
「春日くんも、こっちに戻ってきてくれた気がした」
「俺が?」
「うん」
「どういうことですか」
「客席で白瀬アカリを見て、映画の中の私を見て」
「はい」
「それでも、春日くんがこの部屋のマグカップに戻ってきてくれた」
悠真は、何も言えなくなった。
そんなふうに見えていたのか。
自分はただ、映画を観て帰って、マグカップの写真を送っただけだ。
でも彼女にとっては、それが“戻ってきてくれた”ことだったのかもしれない。
「そうですね」
悠真は言った。
「戻ってきました」
「……うん」
「白瀬アカリを見て、役の人を見て、それからこの部屋に戻ってきました」
「うん」
「それで、マグカップの音を聞いて、ああ、しらいさんの場所があるって思いました」
しらいさんは、少しだけ俯いた。
声が小さくなる。
「よかった」
「はい」
「ほんとに、よかった」
その声は、舞台の上では絶対に聞こえない声だった。
客席に向けた白瀬アカリの声ではない。
映画の役の声でもない。
この部屋でだけ聞ける、しらいさんの声。
悠真はそれを聞いて、胸の奥が静かに満たされるのを感じた。
◇
感想は、すぐに全部は話せなかった。
映画の細かい場面。
好きだった台詞。
泣いたところ。
少し苦しかったところ。
舞台挨拶で彼女が話した言葉。
一つ話すたびに、しらいさんは照れたり、黙ったり、少しだけ仕事の顔になったりした。
「ここ、よかったです」
「そこ? 地味な場面だよ」
「地味だからよかったです」
「春日くん、そういうところ見るんだ」
「見ました」
「恥ずかしい」
「かなり自然でした」
「それ、役者には嬉しいやつ」
「ならよかった」
「出た」
いつものやり取りの中に、昨日の映画が少しずつ混ざっていく。
パンフレットを見ながら話しているのに、ローテーブルの上ではマグカップが湯気を立てている。
公式の白瀬アカリと、部屋のしらいさんが、同じテーブルの上に並んでいる。
不思議なのに、少しずつ慣れていく。
「春日くん」
「はい」
「昨日、私を見て、寂しくなった?」
唐突に聞かれた。
でも、たぶん彼女はずっと聞きたかったのだろう。
悠真はごまかさなかった。
「少し」
しらいさんは、ゆっくり頷いた。
「どこで?」
「舞台に出てきたときです」
「うん」
「すごく遠かったので」
「うん」
「この人は、たくさんの人の前に立つ人なんだって思いました」
「うん」
「それで、少しだけ寂しかったです」
しらいさんは、何も言わずに聞いていた。
「でも」
「うん」
「嫌ではなかったです」
「……」
「寂しいけど、誇らしいみたいな」
言ってから、自分で少し恥ずかしくなった。
けれど、しらいさんは笑わなかった。
ただ、少しだけ目元を赤くした。
「それ、聞けてよかった」
「本当ですか」
「うん」
「寂しいって言ったのに」
「言ってくれたから」
彼女はカップの縁を指でなぞった。
「春日くんが平気なふりしたら、たぶん私、不安になった」
「……」
「遠かったって言ってくれて、少し寂しかったって言ってくれて」
「はい」
「でも嫌じゃなかったって言ってくれたから、大丈夫かもって思えた」
悠真は、その言葉を静かに受け止めた。
平気なふりをしなくてよかった。
寂しさを隠さなくてよかった。
二人は少しずつ、そういうことを覚えている。
「しらいさんは」
悠真は聞いた。
「はい」
「昨日、俺が客席にいること、怖かったですか」
「怖かった」
即答だった。
「かなり?」
「かなり」
「でも」
「うん」
「嬉しかった」
「……」
「探さなかったけど、いるって思ってた」
「はい」
「心の中に、カードと一緒に置いてた」
「俺を?」
「うん」
「舞台に?」
「舞台には持っていけないから、心の中に」
彼女は少し照れたように笑った。
「それで、立てた」
悠真は、言葉に詰まった。
そんなことを言われたら、何を返せばいいのか分からない。
「……ありがとうございます」
「またお礼」
「言いたくなるので」
「春日くんらしい」
「しらいさんも、最近言いますよ」
「移った」
「お互いですね」
「うん」
◇
夜が少し更けると、しらいさんはパンフレットを閉じた。
「今日はここまで」
「感想、まだあります」
「うん。でも一気に聞くと、私の心臓がもたない」
「心臓」
「褒められるのも、遠かったって言われるのも、寂しかったって言われるのも、全部体力いる」
「すみません」
「謝らないで。聞きたいから」
「はい」
「また聞かせて」
「もちろん」
しらいさんは立ち上がり、マグカップを持ってキッチンへ向かった。
いつものように洗う。
水の音。
カップを拭く音。
棚に戻す音。
そして、コースターを整える。
戻ってきた音のあとに、戻していく音。
それも、もうこの部屋の一部だった。
玄関で靴を履く前、しらいさんは振り返った。
「春日くん」
「はい」
「昨日、白瀬アカリを見ても」
「はい」
「今日、しらいさんにおかえりって言ってくれた」
「はい」
「それ、かなり大きかった」
「……」
「ありがとう」
悠真は少しだけ笑った。
「こちらこそ、帰ってきてくれてありがとうございます」
「お礼合戦になる」
「なりますね」
「じゃあ、今日は引き分け」
「分かりました」
しらいさんは少しだけ笑う。
そして、静かに言った。
「また帰ってくる」
「おかえりって言います」
「知ってる」
その声は、もうほとんど元通りだった。
でも悠真には、少し違って聞こえた。
舞台に立ったあと。
スクリーンの中の自分を見られたあと。
それでもこの部屋に戻ってきた人の声。
強くなったわけではない。
ただ、少しだけ深くなった気がした。
ドアが閉まる。
部屋に静けさが戻る。
ローテーブルの端には、映画のパンフレット。
コースターは、いつもの場所。
悠真はその二つを見比べた。
遠かった彼女。
近い彼女。
どちらも、もうこの部屋にある。
そして、どちらも同じ人だと、昨日より少しだけ自然に思えた。




