第60話 遠かった君を見た夜、いつものカップの音で帰ってきた
部屋に戻ると、思っていたより静かだった。
玄関の鍵を閉める音が、やけに大きく聞こえる。
上着を脱ぎ、いつもの場所にかける。手を洗い、顔を少しだけ水で濡らした。
鏡の中の自分は、どこか映画館の暗さをまだ連れているような顔をしていた。
泣いたあとだと、目元で分かる。
悠真はタオルで顔を拭きながら、少しだけ苦笑した。
「……泣いたな」
誰に言うでもなく呟く。
舞台挨拶。
スクリーン。
白瀬アカリ。
役の女性。
しらいさん。
全部がまだ、胸の中で混ざっていた。
ローテーブルの前に座る。
青灰色のコースターは、いつもの場所にあった。
悠真は棚からしらいさんのマグカップを下ろした。
いつも通り、コースターの上に置く。
ことん。
その音がした瞬間、ようやく少し息が戻った。
映画館の拍手の音でもなく、舞台上のマイクの音でもなく、スクリーンから流れてきた音楽でもない。
この部屋の、小さなカップの音。
帰ってきた音。
悠真はしばらく、そのマグカップを見ていた。
映画館では、彼女は遠かった。
本当に遠かった。
でも今、このカップは近い。
遠さと近さが、同じ日の中に両方ある。
そのことにまだ慣れない。
でも、嫌ではなかった。
悠真はスマホを取り出し、写真を撮った。
マグカップ。
コースター。
いつもの部屋の明かり。
少し迷って、今日買った映画のパンフレットを、画面の端にほんの少しだけ入れた。
表紙がはっきり見えすぎないように、でも今日見てきたことが伝わるくらいに。
送信。
『帰りました』
『今日もあります』
すぐには既読がつかなかった。
彼女はまだ仕事の途中かもしれない。
移動中かもしれない。
理沙さんと確認をしているのかもしれない。
悠真はスマホを伏せ、湯を沸かした。
コーヒーではなく、今日はハーブティーにした。
蜂蜜を少し入れる。
自分が喉を使ったわけではないのに、そうしたかった。
湯気を眺めていると、スマホが震えた。
『見た』
続けて、
『マグカップ、あった』
さらに、
『パンフ買ってる』
悠真は少し笑った。
『買いました』
既読。
『恥ずかしい』
『なぜですか』
『春日くんが私の載ってるパンフ持ってる』
『映画のパンフです』
『分かってるけど』
『ちゃんと読みます』
『もっと恥ずかしい』
そのやり取りで、胸の中の緊張が少しほどけた。
映画館を出てから、言葉を探し続けていた。
でも結局、いつもの会話からしか始められないのだと思った。
『まだ仕事中ですか』
悠真が送ると、少し間が空いた。
『移動中』
『理沙さん隣』
『泣いたのばれてる』
悠真は思わず口元を緩めた。
『怒られました?』
『少し』
『でも今日は許された』
『ハンカチのおかげですね』
『うん』
『青灰色のハンカチ、強かった』
その返事を見て、悠真は映画館で受け取った彼女の写真を思い出した。
カードケースとハンカチ。
少し湿っていた端。
舞台に立った彼女も、泣きそうになっていたのだ。
『春日くん』
『はい』
『遠かった?』
その一文で、指が止まった。
来ると思っていた。
でも、実際に届くとすぐには返せない。
しらいさんもきっと、答えを怖がっている。
悠真は少し時間をかけて打った。
『遠かったです』
送信。
既読がつく。
すぐには返ってこない。
悠真は続けた。
『舞台の上のしらいさんは、本当に遠かったです』
『スクリーンの中はもっと遠かったです』
そこで一度、手を止める。
そして、ちゃんと続けた。
『でも、遠いから別人になったわけじゃなかったです』
『遠い場所にいる同じ人でした』
既読。
長い沈黙。
ハーブティーの湯気が細く揺れる。
やがて、返信が来た。
『それ』
『今日いちばん聞きたかった』
悠真は、静かに息を吐いた。
『言えてよかったです』
『怖かった』
『何がですか』
『春日くんが映画を見て』
『舞台の私を見て』
『しらいさんじゃなくなるんじゃないかって』
胸が痛くなった。
彼女はずっと、それを怖がっていたのだ。
白瀬アカリとして見られること。
女優として、作品の中で、舞台の上で、多くの人と同じように見られること。
それによって、春日悠真の中の“しらいさん”が消えてしまうのではないかと。
悠真は、ローテーブルのマグカップを見た。
『消えません』
『今日、むしろ増えました』
既読。
『増えた?』
『はい』
『河川敷のしらいさん』
『部屋でミルクティーを飲むしらいさん』
『声が出ない日にホワイトボードを使っていたしらいさん』
『舞台の上の白瀬アカリ』
『映画の中の役の人』
『全部、別々に見えたけど』
『でも、全部見たあとで、同じ人だと思いました』
送ってから、少し恥ずかしくなる。
長い。
重い。
でも、今日はこれくらい言わないと足りなかった。
返事は、しばらく来なかった。
悠真はスマホを見つめたまま待った。
やがて届いたのは、短い一文だった。
『今、泣いたら理沙さんに怒られる』
悠真は少し笑った。
『泣かないでください』
『今日は理沙さん側です』
『分かってる』
『でも、かなり危ない』
『深呼吸してください』
『してる』
『理沙さんにも言われた』
『二人がかりですね』
『守られてる』
その文字が、少しだけ震えているように見えた。
◇
しばらくして、しらいさんから「あとで少しだけ電話できる」と連絡が来た。
悠真はそれまでに、ハーブティーを飲み終え、パンフレットを開いた。
白瀬アカリのインタビュー。
撮影中の写真。
役についてのコメント。
読むたびに、さっき見た映画の場面が戻ってくる。
でも、文章の中の彼女は、やっぱり仕事の顔だった。
丁寧で、慎重で、作品を大事にしている。
その隣に、ローテーブルのマグカップがある。
この距離感が不思議だった。
公式のパンフレットに載る白瀬アカリ。
悠真の部屋に置かれた、しらいさんのマグカップ。
同じ夜に、同じテーブルの上にある。
スマホが震えた。
着信。
悠真はすぐに出た。
「もしもし」
「……春日くん」
声は少し疲れていた。
でも、ちゃんとしらいさんの声だった。
「おつかれさまです」
「春日くんも」
「今日は、本当におつかれさまでした」
「うん」
短い沈黙。
その向こうに、車の音が微かに聞こえる。
まだ移動中なのかもしれない。
「声、大丈夫ですか」
「大丈夫。九割」
「本人評価ですか」
「今日は理沙さん評価」
「上がりましたね」
「舞台終わったから、少し甘い」
「理沙さんが?」
「たぶん」
しらいさんは小さく笑った。
その笑い声を聞いて、悠真はようやく少し安心した。
「映画」
彼女が言う。
「はい」
「見てくれてありがとう」
「こちらこそ」
「見せてくれて、って言ってくれたの」
「はい」
「あれ、かなり効いた」
「本当にそう思ったので」
「うん」
「俺、今日初めて、ちゃんと白瀬アカリを見た気がします」
電話の向こうが少し静かになった。
「今までも見てたでしょ」
「はい。でも、たぶん怖がりながら見てました」
「……」
「遠い人だって思い知らされるのが怖くて」
「うん」
「でも今日は、遠いところにいるしらいさんを見たというか」
「うん」
「遠くても、見ていいんだと思いました」
しらいさんは、すぐには返事をしなかった。
車の音だけが少し流れる。
「春日くん」
「はい」
「私も、今日ちょっと思った」
「何をですか」
「遠くから見られても、大丈夫かもしれないって」
「……」
「春日くんが客席にいるの、怖かった。探さないようにしてたけど、いるって分かってた」
「はい」
「でも、舞台に立ってる間、ちゃんと仕事できた」
「はい」
「終わったあと、すごくほっとした」
「はい」
「遠くから見られても、しらいさんが消えなかった」
その言葉に、悠真は胸が熱くなった。
彼女も同じことを感じていたのだ。
遠くから見られること。
それで、近い自分が消えるわけではないこと。
「消えません」
悠真は言った。
「うん」
「今日、それが分かりました」
「うん」
「かなり大きかったです」
「私も」
また沈黙。
でも、その沈黙は重くない。
「映画の中の私」
しらいさんが言う。
「はい」
「怖くなかった?」
「怖かったです」
「正直」
「はい」
「どこが?」
悠真は少し考えた。
たくさんあった。
けれど、一つだけ選ぶなら。
「声を出さずに泣くところです」
「……うん」
「あそこは、少し」
「うん」
「しらいさんを思い出しました」
電話の向こうで、彼女が息を止めた気がした。
「ごめんなさい。役と現実を混ぜるのは、よくないかもしれません」
「ううん」
「でも、思い出しました」
「うん」
「ホワイトボードで、泣く予約って書いてた日のこと」
「……」
「声が出なくても戻ってきてくださいって言った日のこと」
しらいさんは、しばらく何も言わなかった。
悠真は、言いすぎただろうかと思った。
けれど、彼女は静かに言った。
「あのシーン、撮ったとき」
「はい」
「まだ春日くんに会う前だった」
「そうですよね」
「でも、今日春日くんに見てもらったら、今の私にも繋がった気がした」
「……」
「変だね」
「変じゃないと思います」
「そう?」
「はい。作品は撮ったときだけのものじゃなくて、見るときにも変わるんだと思います」
「春日くん、急に評論家みたい」
「すみません」
「でも、分かる」
しらいさんの声が少し柔らかくなった。
「今日、春日くんに見てもらって、あのシーンが少し変わった」
「……」
「怖いだけじゃなくなった」
悠真は、何も言えなかった。
そんなふうに言われるとは思っていなかった。
「俺、見に行ってよかったです」
「うん」
「本当に」
「私も、来てくれてよかった」
その声は、とても近かった。
映画館ではあんなに遠かったのに。
電話越しの声は、ちゃんといつもの距離に戻っていた。
◇
通話の途中で、理沙さんの声が少しだけ聞こえた。
遠くから、
「長電話しない」
という声。
しらいさんが小さく息を吐く。
「聞こえた?」
「聞こえました」
「理沙さん側」
「今日は理沙さん側です」
「春日くんも?」
「もちろん」
「じゃあ、そろそろ切る」
「はい」
「でも、最後に一つだけ」
「はい」
「今日、舞台の上で、心の中でただいまって思った」
悠真は、ローテーブルのマグカップを見る。
「俺は、おかえりなさいって思いました」
「知ってる」
「本当に?」
「うん。何となく」
「すごいですね」
「春日くんがそうすると思った」
彼女は少し笑った。
「映画のあとも?」
「はい」
「何て思った?」
「おつかれさまでした、と」
「うん」
「あと、ちゃんと戻ってきてくださいって」
「……うん」
「今日じゃなくても」
「うん」
「いつでも」
「うん」
しらいさんの声が少しだけ揺れた。
「戻る」
「はい」
「今度、部屋に行ったら」
「はい」
「映画の話、ちゃんと聞きたい」
「話します」
「いいところだけじゃなくて」
「はい」
「泣いたところも」
「はい」
「遠かったところも」
「……はい」
「でも、最後はおかえりって言って」
悠真は静かに頷いた。
「言います」
「よし」
「採点ですか」
「今日は、百点超え」
「何点ですか」
「まだ決められない」
「珍しいですね」
「今日はいろいろ大きすぎる」
「そうですね」
「だから、保留」
「分かりました」
「おやすみ、春日くん」
「おやすみなさい」
「帰ったら、マグカップの写真もう一枚見たい」
「今から送ります」
「うん」
「でも、今日はもう返信しなくていいです」
「理沙さん側」
「はい」
「……分かった。見るだけ」
「偉いです」
「雑」
「本当に偉いです」
「じゃあよし」
通話が切れた。
悠真はしばらくスマホを持ったまま座っていた。
それから、もう一度マグカップの写真を撮った。
今度は、パンフレットを入れずに。
ただ、マグカップとコースターだけ。
送信。
『おかえりなさい用です』
既読はすぐについた。
返事は来なかった。
言った通り、彼女は見るだけにしたのだろう。
それでいい。
悠真はスマホを置き、ローテーブルの上を見た。
遠い彼女を見た。
スクリーンの中の彼女を見た。
客席の一人として拍手した。
そして今、いつものカップの音で部屋に戻ってきた。
遠さは消えない。
消さなくていい。
その遠さを見たあとでも、この部屋の近さはちゃんと残っている。
それが、今日いちばん大きな答えだった。




