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第59話 スクリーンの中の君は遠くて、それでも確かに君だった

 白瀬アカリは、舞台の上で笑っていた。


 客席から見上げるその姿は、やはり遠い。


 照明を浴びて、マイクを持ち、司会者の問いに丁寧に答える。

 隣に立つ共演者の話に耳を傾け、タイミングよく笑い、監督の言葉に少しだけ目を細める。


 その一つひとつが、きれいだった。


 きれいすぎて、春日悠真は時々、自分が知っているしらいさんと同じ人なのか分からなくなりそうになった。


 けれど、完全に分からなくなる前に、必ず何かが引き戻してくる。


 マイクを持ち替えるときの指先。

 質問を受ける前に、一瞬だけ息を整える癖。

 言葉を選ぶとき、視線を少しだけ下げる仕草。


 それを、悠真は知っている。


 河川敷のベンチで、ほうじ茶を両手で包んでいた人。

 部屋でミルクティーを飲み、カップをコースターに置いて「帰ってきた音」と言った人。

 声が出なくなりそうな夜に、ホワイトボードへ「戻りたい」と書いた人。


 舞台の上の白瀬アカリは、遠い。


 でも、その奥にしらいさんがいる。


 司会者が、映画で演じた役について質問した。


「今回、白瀬さんが演じられた役は、弱さを人に見せられない女性でもありますよね。演じるうえで大切にされたことはありますか?」


 客席が静かになる。


 白瀬アカリは、少しだけマイクを持ち直した。


 その仕草を見て、悠真は思わず背筋を伸ばした。


 彼女は微笑んだまま、ゆっくり答える。


「そうですね。弱さを隠すことって、ただ強がっているだけではないと思うんです。誰かを困らせたくなかったり、自分の役割を守りたかったり、理由はいろいろあって」


 声は、会場にまっすぐ届いていた。


 まだ少し大事に使っているような響きがある。

 でも、揺れてはいない。


「でも、ずっと隠し続けると、自分がどこで息をすればいいのか分からなくなることがある。だからこの役では、弱さを見せるというより、一度ちゃんと息をする場所を見つけることを大切にしました」


 悠真は、膝の上で手を握った。


 息をする場所。


 その言葉を、彼女が舞台の上で言った。


 誰かに向けてではない。

 客席全体に向けて。

 映画の話として。


 けれど悠真には、その奥にあるものが少しだけ分かってしまう。


 マグカップ。

 コースター。

 喉飴。

 ハーブティー。

 ただいまと、おかえり。


 彼女がそのまま言うことはない。

 言ってはいけない。


 それでも、言葉の奥に確かにある。


 客席から拍手が起こった。


 悠真も拍手した。


 特別な合図ではない。

 ただの観客として。

 舞台上の彼女へ向けて、普通に拍手した。


 そのことが、思ったより胸に来た。


 自分は今、彼女を独り占めしているわけではない。

 大勢の観客と同じように、白瀬アカリへ拍手を送っている。


 それでいいのだと思った。


 これは、彼女の仕事だ。

 彼女が立っている場所だ。

 ここでは自分も、観客の一人でいるべきなのだ。


 でも、心の中では小さく言う。


 ちゃんと届いています。


 あなたの声は、ちゃんと届いています。


    ◇


 舞台挨拶は、思っていたより短く感じた。


 登壇者が順番に話し、司会者が進行し、フォトセッションがあり、最後に主演として白瀬アカリが締めの挨拶をした。


 彼女はマイクを両手で持ち、客席を見渡した。


 探してはいない。

 約束通り、春日悠真を探してはいない。


 けれど、同じ空間にいることは、たぶん分かっている。


「今日は、この作品を観に来てくださって、本当にありがとうございます」


 声が静かに響いた。


「観終わったあとに、誰かの顔を思い出したり、自分の中にある言えなかった気持ちを少しだけ大事にしてもらえたら嬉しいです」


 その言葉のあと、彼女は丁寧に頭を下げた。


 拍手が広がる。


 悠真も拍手した。


 目頭が少し熱い。

 まだ映画は始まっていない。

 舞台挨拶だけでこれなら、映画本編はかなり危ない。


 しらいさんに言った通り、ハンカチを持ってきて正解だった。


 登壇者たちが袖へ戻っていく。


 白瀬アカリも、他の出演者たちと一緒に舞台を降りる。

 最後にもう一度だけ客席へ微笑む。


 その顔は、最後まで白瀬アカリだった。


 悠真を探さなかった。

 崩れなかった。

 ちゃんと舞台に立ち切った。


 悠真は、心の中で小さく言った。


 おつかれさまです。


 そしてすぐに、もう一つ。


 おかえりなさい。


 まだ彼女は戻ってきていない。

 でもきっと、どこかで戻り始めている。


    ◇


 舞台挨拶が終わると、会場の空気が少し変わった。


 登壇者が去ったあとの余韻。

 観客たちの小さなざわめき。

 隣の席の人が「生で見るとやっぱりすごいね」と囁く声。


 悠真は、それらを聞きながら、スマホには触れなかった。


 今、彼女に連絡する時間ではない。


 舞台を降りたあとも、彼女には仕事がある。

 関係者への挨拶。

 写真確認。

 移動。

 理沙さんとの確認。


 ここで自分が「見ました」と送るのは、少し違う気がした。


 今日、自分は観客として来た。

 なら、観客として最後まで見る。


 スクリーンが暗くなる。


 場内の照明が落ちた。


 映画が始まる。


 悠真は背もたれに背中を預け、静かに息を吸った。


 舞台の上の白瀬アカリは、さっきまで目の前にいた。

 今度は、スクリーンの中に彼女が現れる。


 もっと遠い。

 手の届かないどころではない。

 別の世界の中にいる。


 それでも、見る。


 ちゃんと。


    ◇


 映画の中の白瀬アカリは、舞台挨拶の彼女とも違っていた。


 そこには、女優として話す白瀬アカリはいない。

 しらいさんもいない。


 ただ、役としての彼女がいた。


 名前も違う。

 表情も違う。

 話し方も、歩き方も、視線の置き方も違う。


 弱さを隠す女性。

 誰にも頼れず、平気なふりをして、けれど少しずつ心の奥から崩れていく人。


 悠真は、途中から自分が白瀬アカリを見ているのか、役の人物を見ているのか分からなくなった。


 それくらい、彼女は映画の中にいた。


 すごい。


 何度も思った。


 知っている人だからすごいのではない。

 好きな人だからすごいのでもない。


 ただ、役者としてすごかった。


 画面の中で彼女が笑う。

 でも、その笑いはしらいさんの照れ笑いではない。

 白瀬アカリの舞台上の笑顔でもない。

 役の女性が、壊れそうになりながらそれを隠すための笑みだ。


 胸が苦しくなる。


 映画の中で、彼女は何度も「大丈夫」と言った。


 そのたびに、悠真は声が出なくなった夜のメッセージを思い出した。


『声出ないの怖い』


『ちょっと怖い』


 あのときの彼女は、白瀬アカリではなく、しらいさんだった。

 でも、この役の「大丈夫」と、あの夜の「怖い」は、どこかで繋がっている気がした。


 演技と現実は違う。

 それは分かっている。


 けれど、完全に切り離されているわけでもない。


 彼女はきっと、自分の中にある痛みや不安や優しさを、役の中へ少しずつ溶かしている。

 だから、スクリーンの向こうの人物がこんなにも生きて見える。


 中盤、主人公が誰もいない部屋で一人、声を出さずに泣く場面があった。


 客席が静まり返る。


 悠真は、そこで耐えられなかった。


 ハンカチを出す。


 泣くつもりはなかった。

 少しは覚悟していたが、まだ早いと思っていた。


 けれど、その場面の彼女は、あまりにも静かに泣いた。


 声を出さずに。

 誰にも気づかれないように。

 でも、肩だけが少し震えている。


 ホワイトボードに「泣く予約」と書いていたしらいさんを思い出した。


 あのとき、彼女は本当に泣きそうだった。

 でも喉に悪いからと我慢していた。


 スクリーンの中の彼女も、声を殺して泣いている。


 偶然ではない。

 いや、映画の撮影はその前のはずだ。

 現実の出来事とは関係ない。


 それでも、悠真の中では繋がってしまった。


 ハンカチで目元を押さえる。


 隣の人に気づかれないように、静かに息を整えた。


 スクリーンの中の彼女は、泣いたあと、ゆっくり立ち上がった。


 その背中が、舞台挨拶で立っていた白瀬アカリの背中と重なる。


 戻る。


 きっと、そういう映画なのだと思った。


 強くなるためではなく。

 完璧になるためでもなく。


 弱いままでも、怖いままでも、自分の足でどこかへ戻っていくための物語。


    ◇


 終盤、主人公が誰かに初めて本音を言う場面があった。


 長い台詞ではない。

 叫ぶわけでもない。

 ただ、息を落とすように言う。


「もう少しだけ、ここにいてもいい?」


 その一言で、客席の空気が変わった。


 悠真は、喉の奥が詰まるのを感じた。


 聞いたことがある気がした。


 正確には、その台詞を聞いたことがあるわけではない。

 でも、その気配を知っている。


 春日くんの部屋に、もう少しだけいたい。

 声が出なくても戻りたい。

 泣いてもいいかと尋ねる。


 そういう、彼女の奥にあるものを知っている。


 だからこそ、この台詞が深く刺さった。


 映画のラストで、主人公は誰かのもとへ走るわけではなかった。

 劇的な告白も、大きな和解もない。


 ただ、朝の光の中で、自分の足で扉を開ける。


 その向こうへ行く。


 それだけだった。


 けれど、その一歩がとても強かった。


 エンドロールが流れる。


 客席はすぐには動かなかった。


 悠真も、動けなかった。


 画面に、白瀬アカリの名前が流れる。


 その名前を見た瞬間、さっきまで役として見ていた人物が、少しずつ現実へ戻ってくる。


 白瀬アカリ。

 しらいさん。

 自分の部屋にマグカップを置いている人。


 全部、同じ人だ。


 悠真は、ハンカチを握りしめたまま、エンドロールを最後まで見た。


    ◇


 上映が終わり、場内に明かりが戻った。


 観客たちが少しずつ立ち上がる。

 感想を言い合う人。

 涙を拭く人。

 パンフレットを見直す人。


 悠真は席に座ったまま、しばらく動けなかった。


 スマホを見る。


 しらいさんからのメッセージは来ていない。


 それでいい。


 こちらからも、まだ送れなかった。


 言葉がまとまらない。


 よかった。

 すごかった。

 泣いた。

 遠かった。

 近かった。

 白瀬アカリだった。

 しらいさんだった。

 役だった。


 全部、本当だ。


 でも、どれか一つだけを送ると、何かが足りなくなる。


 悠真はゆっくり立ち上がった。


 映画館を出る。

 ロビーには、さっき見たポスターがまだそこにあった。

 上映前に見たときとは、少し違って見えた。


 ただ綺麗な女優のポスターではなかった。

 今は、その作品の中で生きた人の顔に見える。


 ポスターの前で立ち止まる。


 他の人も写真を撮っている。

 悠真は撮らなかった。


 代わりに、少しだけ頭を下げた。


 誰にも気づかれないくらい小さく。


 おつかれさまでした。


 心の中でそう言った。


 映画館の外に出ると、夜の空気が少し冷たかった。


 そこでようやく、スマホが震えた。


 しらいさんからだった。


『終わった?』


 たった一文。


 悠真はしばらく画面を見つめた。


 そして、ゆっくり返信する。


『終わりました』


 既読。


 すぐに次が来る。


『どうだった?』


 簡単な問い。


 でも、答えは簡単ではない。


 悠真は何度か打っては消した。


 そして、最終的に送った。


『すごかったです』


 それだけでは足りない。


 続ける。


『白瀬アカリでした』


『役の人でもありました』


『でも、ちゃんとしらいさんでもありました』


 送信。


 既読がつく。


 返事はなかなか来なかった。


 悠真は映画館の壁際に寄り、夜風の中で待った。


 やがて届いた。


『今それ読んだら泣く』


 悠真は少し笑いそうになり、でも胸が痛くなった。


『理沙さんに止められますか』


『もう止められてる』


『でしょうね』


 少し間が空く。


『春日くん』


『はい』


『ちゃんと見てくれた?』


 悠真は、迷わず返した。


『見ました』


『ちゃんと』


 既読。


『ありがとう』


 その一言で、胸の奥が熱くなった。


『こちらこそ』


『見せてくれて、ありがとうございます』


 既読。


 しばらくして、


『今日はすぐ会えない』


 と来た。


 それは分かっていた。


 舞台挨拶のあとも、彼女には仕事がある。

 関係者との挨拶や確認、移動もある。


『分かっています』


『今日はまっすぐ帰ってください』


『理沙さん側』


『完全に』


『でも』


『はい』


『戻りたい』


 その一文で、悠真は静かに息を吸った。


『待ってます』


『今日じゃなくても』


『マグカップあります』


 既読。


『知ってる』


 それから、写真が届いた。


 青灰色のカードケース。

 その横に、青灰色のハンカチ。

 少しだけ端が湿っているように見えた。


『ちょっとだけ泣いた』


 悠真は、画面を見ながら小さく笑った。


『理沙さんに怒られませんでしたか』


『怒られた』


『でもハンカチあった』


『お守り、効きましたね』


『うん』


『春日くんは泣いた?』


 悠真は少し迷って、正直に打った。


『泣きました』


『どこで?』


『声を出さずに泣く場面で』


 既読。


 長い間。


『そこか』


『はい』


『あそこ、私も撮影のときしんどかった』


『そうだと思いました』


『分かった?』


『少し』


 既読。


『春日くんには、少し分かるんだね』


 悠真は映画館の外の夜空を見上げた。


『全部は分かりません』


『でも、少しは分かりたいです』


 送る。


 その返事は、少し遅れて来た。


『それ、前にも言われた』


『はい』


『今日も効く』


『ならよかった』


『出た』


 いつものやり取り。


 でも、今日は少し違う。


 白瀬アカリを見たあとで、それでもしらいさんといつもの言葉を交わせる。

 そのことが、何よりも大きかった。


    ◇


 駅へ向かう道で、悠真は一度だけ振り返った。


 映画館の明かりが遠くに見える。


 あの中で、白瀬アカリを見た。

 舞台に立つ彼女を見た。

 スクリーンの中で別の人生を生きる彼女を見た。


 遠かった。


 本当に遠かった。


 けれど、遠いまま終わらなかった。


 スマホの中には、しらいさんからのメッセージがある。

 部屋には、彼女のマグカップがある。

 彼女の鞄には、悠真のカードがある。


 遠さと近さが、今はどちらも嘘ではなかった。


 悠真は歩き出した。


 今日は部屋で一人、マグカップの写真を撮ろう。

 そして送ろう。


 ちゃんと見たこと。

 ちゃんと遠かったこと。

 それでも、ちゃんと同じ人だったこと。


 言葉にするには、もう少し時間が必要だ。


 でも、帰ったらまず、いつもの場所を撮る。


 そこからなら、たぶん話せる。

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