第56話 当選の二文字が、君を少し遠くして、少し近くした
当落発表の日は、朝からスマホが重かった。
物理的に重いわけではない。
けれど、ポケットに入れているだけで、そこに小さな石を抱えているような気分になる。
春日悠真は、いつものようにローテーブルの前に座り、青灰色のコースターの上にしらいさんのマグカップを置いた。
写真を撮る。
今日は、彼女から指定された通り、少し斜め上から。
カップの縁と、コースターの丸い形がちょうど分かる角度だ。
『今日もあります』
送る。
すぐには返事が来ない。
しらいさんも、今日は落ち着かないはずだ。
舞台挨拶の当落発表日。
悠真が当たるかどうかを、彼女も待っている。
おかしな話だと思う。
登壇する側の彼女が、客席のチケットの結果を気にしている。
それも、自分が見に行けるかどうかを。
少し前なら、想像もできなかった。
スマホが震えた。
『見た』
続けて、
『今日はカップ、緊張してる』
悠真は少し笑った。
『カップもですか』
『うん』
『春日くんも?』
悠真は、正直に返した。
『かなり』
既読。
『私も』
その三文字で、少しだけ呼吸が戻る。
緊張しているのは自分だけではない。
舞台に立つ彼女も、客席に来るかもしれない自分を思って緊張している。
『発表、何時でしたっけ』
送る。
『昼過ぎ』
『仕事中ですね』
『春日くん、見られる?』
『たぶん見られます』
『無理しないで』
『でも早く知りたいです』
少し間が空いて、
『私も』
その返事を見て、悠真はスマホを伏せた。
見たい。
でも怖い。
当たってほしい。
でも当たったら、もう本当に客席から彼女を見ることになる。
怖いと楽しみを両方持つ。
そう決めたはずなのに、やはり当日になると、胸の奥は落ち着かなかった。
◇
会社に着くと、三崎がこちらを見てすぐに言った。
「春日、今日顔が抽選結果」
「……朝から嫌な精度だな」
「当落今日?」
「何で覚えてるんだよ」
「お前が分かりやすすぎるから」
三崎はコーヒーを片手に、椅子の背にもたれた。
「白瀬アカリの舞台挨拶だっけ」
「声が大きい」
「小さく言っただろ」
「この話題そのものが大きいんだよ」
「なるほど」
三崎は少しだけ笑って、それからいつもより真面目な声になった。
「当たるといいな」
悠真は、一瞬返事に詰まった。
「……おう」
「何その間」
「いや」
「怖い?」
「怖い」
「でも行きたい?」
「行きたい」
「じゃあ当たったほうがいいじゃん」
あまりにも単純な結論だった。
けれど、その単純さにまた少し救われる。
「そうだな」
「お前、最近よく素直になるな」
「今日だけだ」
「毎回それ言う」
三崎は笑って、自分の席へ戻っていった。
悠真はパソコンを立ち上げる。
仕事のメールが並んでいる。
確認事項、修正依頼、共有資料。
いつも通りの日常。
けれど、その下にずっと発表時刻がある。
昼過ぎ。
その言葉が、時計を見るたびに胸を少し押した。
◇
しらいさんから昼前に届いた写真には、紙コップとカードケースが写っていた。
カードケースは、いつもより少し紙コップに近い位置に置かれている。
『待機中』
その一言だけ。
悠真は、休憩スペースの隅で返信した。
『俺もです』
既読。
『心臓に悪い』
『登壇する側なのに?』
『春日くんの結果だから別』
その文字が、妙にまっすぐで、悠真はしばらく画面を見つめた。
自分の結果。
それを、彼女が仕事場で気にしている。
うれしい。
けれど、やはり少し申し訳ない気もする。
『仕事に影響しませんか』
送ると、返事はすぐだった。
『するかも』
『でも隠してもする』
『だから認めてる』
悠真は、少し笑った。
最近のしらいさんは、自分の揺れを以前より少し素直に認めるようになった。
怖い。
緊張する。
寂しい。
うれしい。
そのどれもを、全部なかったことにはしない。
『理沙さんには?』
『ばれてる』
『でしょうね』
『今、横で「落ち着きなさい」って顔してる』
悠真は思わず笑った。
『理沙さんによろしくお伝えください』
既読。
少しして、
『伝えた』
『「春日さんも落ち着いてください」だって』
悠真は思わず背筋を伸ばした。
『はい』
『とお伝えください』
しらいさんから、すぐに返ってくる。
『笑ってる』
『理沙さんが?』
『少し』
『珍しいですね』
『かなり珍しい』
そのやり取りだけで、少し緊張がほどけた。
けれど、発表時刻は近づいてくる。
◇
十三時を少し過ぎたころ、メールが届いた。
件名を見た瞬間、悠真は息を止めた。
舞台挨拶抽選結果のお知らせ。
指先が、一瞬動かなくなる。
開けば分かる。
当選か、落選か。
たったそれだけなのに、画面がやけに遠く見えた。
「春日」
三崎の声がした。
悠真は顔を上げる。
「何」
「来た?」
「……来た」
三崎は少し目を開いたあと、椅子ごとこちらへ少し近づいた。
「見る?」
「見る」
「ここで?」
「……いや」
悠真はスマホを握り、立ち上がった。
休憩スペースへ向かう。
三崎はついてこなかった。
それが少しありがたかった。
誰もいないわけではないが、窓際の端なら少し落ち着ける。
悠真はそこで立ち止まり、スマホの画面を開いた。
メールをタップする。
本文が表示される。
最初の数行を読む前に、目が結果の文字を拾った。
当選。
その二文字を見た瞬間、周りの音が少し遠くなった。
当たった。
行ける。
客席から、彼女を見ることになる。
白瀬アカリとして舞台に立つ彼女を。
客席の一人として、ただ見上げることになる。
嬉しさが先に来た。
そのあと、遅れて怖さが来た。
胸の奥が、ぎゅっと狭くなる。
悠真は、しばらく画面を見ていた。
当選。
受付番号。
当日の注意事項。
読みながら、手が少し震えていることに気づいた。
すぐにしらいさんへ送ろうとして、指が止まる。
何と送るべきか。
当たりました。
それだけでいい。
でも、それだけでは足りない気がする。
結局、最初に送ったのは、飾り気のない一文だった。
『当たりました』
送信。
既読は、ほとんどすぐについた。
返事は来ない。
一分。
二分。
その時間が、やけに長い。
やがて、メッセージが届いた。
『本当に?』
悠真は画面のスクリーンショットを撮り、個人情報が見えないように結果部分だけを切り取って送った。
『本当です』
既読。
少し間が空く。
『春日くん、来るんだ』
その一文だけで、悠真の胸がまた強く鳴った。
『行きます』
『客席から見ます』
既読。
長い沈黙。
そのあと、短く。
『やばい』
悠真は思わず笑いそうになった。
『語彙が』
『無理』
『今、白瀬アカリじゃない』
『しらいさんになってる』
その文字を見て、悠真の胸が少しだけ温かくなる。
仕事場で、彼女がしらいさんになってしまっている。
けれど、すぐ次のメッセージが来た。
『理沙さんに戻された』
さらに、
『落ち着きます』
悠真は小さく笑って、返信した。
『俺も落ち着きます』
既読。
『嬉しい?』
悠真は、迷わず打った。
『嬉しいです』
続けて、
『怖いです』
さらに、
『でも、ちゃんと行きたいです』
既読。
今度の返事は、少し時間を置いて届いた。
『私も嬉しい』
『怖い』
『でも、ちゃんと見てほしい』
その言葉に、悠真は静かに頷いた。
『見ます』
『ちゃんと』
既読。
『客席で?』
『はい』
『普通のお客さんとして』
『でも、心の中ではおかえりって言います』
送ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
けれど、返事はすぐだった。
『それ、今かなりだめ』
『うれしいほうですか』
『うん』
『泣きそう』
悠真は、休憩スペースの窓の外を見た。
『今日は泣いても喉、大丈夫ですか』
送る。
既読。
『理沙さんに止められた』
『正しい判断です』
『春日くんも理沙さん側』
『今日は完全にそうです』
『でもありがとう』
そのあと、しらいさんから写真が届いた。
紙コップ。
カードケース。
ホワイトボード。
ホワイトボードには、少し乱れた字で書かれていた。
『当たった』
その三文字を見て、悠真は胸の奥がじんとした。
彼女の現場に、自分の当選が小さく置かれている。
紙コップとカードケースの隣に。
遠いのか近いのか、よく分からなかった。
でも、確かに繋がっていた。
◇
席へ戻ると、三崎が何も言わずにこちらを見た。
悠真は椅子に座る。
「……当たった」
小さく言うと、三崎は一瞬だけ目を丸くし、それから笑った。
「おお。すげえじゃん」
「うん」
「行くんだな」
「行く」
「緊張してるな」
「してる」
「嬉しい?」
「嬉しい」
「怖い?」
「怖い」
「両方か」
「両方」
三崎は頷いた。
「いいじゃん。両方持って行けよ」
その言い方に、悠真は少しだけ驚いた。
しらいさんと話していたことと同じだった。
「……そうする」
「お前、今日ずいぶん素直だな」
「今日だけだ」
「出た」
「何が」
「いつものやつ」
三崎は笑った。
そのあと、少しだけ声を落とす。
「ちゃんと見てこいよ」
「……ああ」
「白瀬アカリを?」
悠真は少しだけ間を置いた。
「白瀬アカリを」
そして、小さく付け足す。
「ちゃんと」
三崎は、その言葉の奥にあるものまでは知らない。
でも何かを察したように、それ以上は聞かなかった。
「おう」
それだけ言って、仕事に戻った。
◇
その日の夜、しらいさんは部屋には来られなかった。
仕事が遅くなったこともある。
それに、今日会うとお互い落ち着かなくなりすぎる気がする、と彼女が言った。
だから、通話だけになった。
悠真はローテーブルの前に座り、マグカップをコースターの上に置いた。
彼女の鞄には、カードケースがあるはずだ。
着信。
「もしもし」
「春日くん」
声は少し弾んでいた。
でも、その奥に緊張がある。
「当たりましたね」
「うん」
「本当に」
「うん」
「まだ変な感じです」
「私も」
しらいさんは、小さく息を吐いた。
「春日くんが客席にいる」
「はい」
「私、舞台にいる」
「はい」
「遠い」
「はい」
「でも、同じ場所」
「はい」
「変なの」
「かなり」
彼女が少し笑った。
その笑い声が、電話越しにやわらかく届く。
「今日、結果見たとき」
「はい」
「一瞬、仕事の顔が全部落ちた」
「しらいさんになったって書いてましたね」
「なった」
「理沙さんに戻された」
「うん。『今は白瀬アカリに戻りなさい』って」
「理沙さんらしい」
「でも、そのあと少し笑ってた」
「安心しました」
「理沙さんも、たぶん少し嬉しかったんだと思う」
「そうなんですか」
「うん。春日くんが来るの、悪いことじゃないって思ってくれてる」
その言葉は、思ったより深く胸に入った。
理沙さんに認められた、というほど簡単ではない。
でも、少なくとも「悪いことではない」と思ってもらえている。
それは、大きい。
「春日くん」
「はい」
「当日、私を見ても、声かけないでね」
「当たり前です」
「目が合っても」
「何もしません」
「手も振らないで」
「振りません」
「泣かないで」
「それは分かりません」
「え」
「映画で泣く可能性はあります」
「そっち?」
「はい」
しらいさんが電話の向こうで笑った。
「春日くん、映画見て泣くタイプ?」
「作品によります」
「今回、泣くかも」
「そうなんですか」
「たぶん」
「じゃあ、ハンカチ持っていきます」
「私も持っていく」
「舞台側も?」
「うん。心の中で」
「泣いたら理沙さんに怒られますよ」
「怒られる」
「喉にも悪いです」
「春日くんまで」
「理沙さん側です」
「知ってる」
その“知ってる”は、少しだけ照れていた。
しばらく、二人とも黙った。
でも、電話は切らない。
「春日くん」
「はい」
「当日、舞台の上から春日くんを探さないようにする」
「はい」
「探したら、たぶん仕事の顔が崩れる」
「探さないでください」
「でも、いるんだなって思う」
「はい」
「どこかにいるんだなって」
「います」
「それだけで、たぶん少し強い」
悠真は、マグカップを見る。
「俺も、舞台の上にしらいさんがいると思います」
「白瀬アカリだよ」
「はい」
「仕事の顔だよ」
「はい」
「でも?」
「でも、しらいさんです」
電話の向こうが静かになった。
悠真は続ける。
「遠くても」
「うん」
「舞台の上でも」
「うん」
「俺の部屋にマグカップを置いてる人です」
しらいさんは、しばらく何も言わなかった。
それから、少しだけ震えた声で言った。
「春日くん」
「はい」
「今日それ言うの、だめ」
「うれしいほうですか」
「うん」
「ならよかった」
「出た」
彼女は小さく笑った。
でも、その笑いは少しだけ泣きそうだった。
◇
通話の最後に、二人は当日の約束をした。
悠真は一人で会場へ行く。
会場では連絡を取りすぎない。
終わってすぐに会おうとしない。
彼女は仕事として最後まで立つ。
悠真は観客として最後まで見る。
そして、全部終わったら。
「部屋で」
しらいさんが言った。
「はい」
「すぐじゃなくてもいい」
「はい」
「その日じゃなくてもいい」
「はい」
「でも、終わったあと、春日くんの部屋に戻りたい」
「待ってます」
「知ってる」
「ミルクティー、用意します」
「うん」
「マグカップも」
「コースターの上」
「はい」
「映画のあと、ちゃんとしらいさんに戻る」
「おかえりって言います」
「……うん」
声が少しだけ小さくなった。
「それ、今から効く」
「当日までもたせてください」
「カードもある」
「はい」
「鞄に入れていく」
「俺は、客席にいます」
「うん」
「それで、ちゃんと見ます」
「うん」
通話が切れたあと、悠真はしばらくスマホを置けなかった。
当選。
その事実が、まだ胸の中で揺れている。
彼女が遠くなる日が決まった。
そして、同じ場所にいられる日も決まった。
遠くて近い。
怖くて楽しみ。
その両方を持ったまま、悠真はローテーブルの上のマグカップを見た。
白瀬アカリを見に行く。
でも、ここにはしらいさんの場所がある。
そのことを、当日まで何度でも確かめようと思った。




