第55話 当落を待つ時間は、君を遠くから見る練習みたいだった
応募を済ませてからの数日は、思っていたより落ち着かなかった。
春日悠真は、朝起きるたびにスマホを確認するようになった。
舞台挨拶の当落発表はまだ先だと分かっている。それでも、何か案内が来ていないか、ついメールアプリを開いてしまう。
もちろん、届いていない。
その代わり、しらいさんからはいつもの写真が届く。
紙コップ。
喉飴。
青灰色のカードケース。
たまに、ホワイトボード。
悠真も、いつものように写真を送る。
マグカップ。
コースター。
蜂蜜。
喉飴。
少しだけ右から。
少しだけ左から。
しらいさんから細かい指定が入る日もある。
『今日は真正面』
『証明写真みたいになりますよ』
『いいから』
『分かりました』
真正面から撮ったマグカップの写真を送ると、しらいさんからすぐ返事が来た。
『まじめ』
『カップが?』
『写真が』
『注文通りです』
『春日くんっぽい』
それだけのやり取りで、朝が少し柔らかくなる。
けれど、その奥にはずっと舞台挨拶のことがあった。
当たるかもしれない。
外れるかもしれない。
当たれば、悠真は客席に座る。
白瀬アカリを、観客の一人として見る。
外れれば、少し残念で、少しほっとするのかもしれない。
そんなことを考えてしまう自分がいた。
行きたい。
それは本当だ。
でも、怖い。
彼女が遠く見えることが怖い。
同じ場所にいるのに、名前も呼べず、目が合っても何もできず、ただ拍手するしかないことが怖い。
そして何より、その遠さを見たあとで、自分の部屋のマグカップを今までと同じように見られるのか。
悠真は、そのことをまだうまく整理できずにいた。
◇
昼休み、会社の休憩スペースで弁当を食べていると、三崎が向かいに座った。
「春日」
「何」
「最近、メール見る回数多くない?」
悠真は箸を止めた。
「そんなことない」
「いや、ある。しかも仕事メールじゃない顔」
「どんな顔だよ」
「当選発表待ってる顔」
図星すぎて、少しだけ固まった。
三崎はそれを見て、にやっとする。
「当たった?」
「まだ」
「やっぱ何か応募してるんだ」
「……まあ」
「ライブ? イベント? 映画?」
悠真は返事をしなかった。
三崎は少し考えるように天井を見てから、ふっと笑う。
「白瀬アカリの舞台挨拶?」
心臓が、少しだけ強く鳴った。
けれど、今度は慌てなかった。
「……よく分かったな」
「最近テレビでやってたし、お前あの名前に反応するし」
「反応してない」
「してる」
三崎は弁当の唐揚げを口に入れてから、少しだけ声を落とした。
「彼女と行くの?」
「一人」
「一人で?」
「ああ」
「へえ」
その“へえ”に、余計な含みはあまりなかった。
珍しく、ただ受け止めている感じだった。
「いいじゃん」
「そうか?」
「うん。気になるものを一人で見に行くの、普通にいいと思う」
「……普通に」
「普通だろ。映画だし」
その“普通”が、少しだけ眩しかった。
三崎にとっては、本当にただの映画イベントなのだ。
人気女優を客席から見るだけ。
気になるなら行けばいい。
もちろん、悠真にとってはそんなに単純ではない。
でも、その単純さに少し救われる。
「緊張してる?」
三崎が聞いた。
「してる」
「白瀬アカリ、そんな好きなの?」
悠真は少しだけ考えた。
好き。
その言葉は間違っているようで、間違っていない。
白瀬アカリとしての彼女を好きなのか。
しらいさんとしての彼女を好きなのか。
そんなふうに分けること自体、もう少し違う気がする。
「すごい人だからな」
「またそれ」
「便利だから」
「便利なんだ?」
しらいさんの言い方に似ている。
そう思って、悠真は少し笑ってしまった。
三崎はそれを見逃さない。
「お前、今の笑い方」
「何だよ」
「誰か思い出しただろ」
「……」
「分かりやす」
「うるさい」
三崎は少しだけ笑って、それから弁当の蓋を閉じた。
「まあ、当たったらちゃんと見てこいよ」
「ちゃんと?」
「うん。ただ眺めるんじゃなくて」
「……」
「お前がそこまで緊張するくらい見たいものなら、ちゃんと見たほうがいい」
悠真は、思わず三崎を見た。
「今日、まともなこと言うな」
「いつもまともだろ」
「それはない」
「ひど」
三崎は軽く笑ったが、すぐに少しだけ真面目な顔に戻る。
「でもさ、見に行く前から遠いとか近いとか考えすぎても、たぶん分かんないだろ」
「……」
「見てから考えればいいんじゃね」
それは、とても三崎らしい雑な助言だった。
でも、妙に正しかった。
悠真は小さく頷いた。
「そうだな」
「お、素直」
「今日だけだ」
「毎回それ言う」
三崎は満足そうに笑って席を立った。
◇
午後、しらいさんから写真が届いた。
紙コップ。
カードケース。
今日はその横に、舞台挨拶用の進行表らしき紙の端が少し写っていた。もちろん、詳しい内容は見えないように隠されている。
『打ち合わせ中』
悠真は、少しだけ画面を見つめた。
向こうではもう、その日の準備が始まっている。
自分が当たるかどうか分からない客席のために落ち着かないでいる間も、彼女は登壇する側として準備をしている。
『おつかれさまです』
『喉は大丈夫ですか』
既読。
『九割』
『本人評価?』
『本人評価』
『理沙さん評価は?』
『八割七分』
『刻み返されてる』
悠真は少し笑った。
『理沙さんも細かいですね』
『春日くんも細かい』
『俺も?』
『マグカップの向き直すから』
『それはしらいさんが採点するので』
『大事』
いつものやり取り。
けれど、今日の彼女からはどこか落ち着かなさも感じる。
悠真は少し迷ってから送った。
『舞台挨拶、緊張しますか』
既読。
少し間。
『する』
『もう何度も経験してるのでは?』
『してる』
『でも今回は春日くんが来るかもしれない』
その文を見て、悠真は少しだけ息を止めた。
『まだ当たるか分かりません』
『分かってる』
『でも、来るかもしれないだけで緊張する』
悠真は、どう返すべきか少し考えた。
嬉しい。
でも、仕事の邪魔になりたくない。
意識してほしいけれど、意識しすぎてほしくない。
難しい。
『俺も緊張しています』
まず、それを送った。
続けて、
『でも、当たって行けたとしても、俺は客席にいます』
『しらいさんは、白瀬アカリとして立ってください』
既読。
長い間が空く。
送ったあとで、少しだけ怖くなった。
冷たく聞こえただろうか。
線を引いたように見えただろうか。
けれど、返事はやわらかかった。
『それ、必要だった』
『冷たくなかったですか』
『ううん』
『春日くんが客席にいる』
『私は舞台にいる』
『でも、終わったら戻る』
少し間が空いて、
『それでいいんだよね』
悠真は、ゆっくり返信した。
『はい』
『それでいいと思います』
『遠い時間と、近い時間が両方あっていいです』
既読。
『春日くん、今日いいこと言う』
『三崎に似たことを言われました』
『うるさい同僚さん?』
『はい』
『ちょっと悔しい』
『なぜ』
『私効果がいい』
悠真は会社のデスクで、思わず笑いそうになった。
『しらいさん効果です』
『よし』
その一言で、少しだけ空気が戻った。
◇
夜、悠真は映画の公式サイトをもう一度開いた。
舞台挨拶のページ。
出演者名。
日時。
会場。
注意事項。
当落発表予定日。
何度見ても、内容は変わらない。
それでも見てしまう。
画面の中には、白瀬アカリの宣材写真があった。
きれいに整った表情。
光の当たった髪。
落ち着いた微笑み。
悠真はその写真を見ながら、少しだけ胸が静かになるのを感じた。
以前なら、遠いと思った。
今も遠い。
でも、その遠さをすぐに怖がらなくてもいいのかもしれない。
遠いところに立つ彼女がいる。
近いところに戻ってくる彼女もいる。
どちらか一つにしなくていい。
スマホが震えた。
しらいさんからだった。
『今、少し電話できる?』
悠真はすぐに返す。
『できます』
着信。
「もしもし」
「春日くん」
「おつかれさまです」
「うん。春日くんも」
声はかなり自然だった。
少しだけ慎重さは残っているが、もう以前のようなかすれはほとんどない。
「声、九割ですね」
「本人評価九割二分」
「刻みましたね」
「理沙さん評価は八割八分」
「理沙さん、最後まで厳しい」
「でも、今日は褒められた」
「よかったです」
「出た」
「出ます」
しらいさんが小さく笑う。
その笑い声も、今日はあまり辛そうではなかった。
「舞台挨拶のページ見てた?」
「見てました」
「分かるの?」
「今ちょうど見ていたので」
「そっか」
「はい」
「私の写真、出てる?」
「出てます」
「どう?」
「きれいです」
「……」
「しらいさん?」
「今の、普通に照れた」
「仕事の写真ですよね」
「でも春日くんに言われると違う」
「そういうものですか」
「そういうもの」
電話の向こうで、彼女が少しだけ息を整えた。
「春日くん」
「はい」
「客席から見たら、たぶん私はあの顔に近いと思う」
「はい」
「仕事の顔」
「はい」
「部屋の私とは、少し違う」
「はい」
「でも、違うだけで、別人じゃない」
悠真は、ローテーブルの上を見る。
今日もマグカップはコースターの上に置いてある。
「分かっています」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ、もし当たって来られたら」
「はい」
「ちゃんと見て」
「はい」
「遠いなって思っても、見て」
「はい」
「きれいだなって思っても、見て」
「はい」
「知らない人みたいだなって少し思っても」
「……はい」
「でも、終わったら」
彼女は少しだけ言葉を止めた。
「春日くんの部屋に戻る私のことも、思い出して」
悠真は、静かに頷いた。
電話だから、見えない。
それでも頷いた。
「思い出します」
「うん」
「というか、忘れません」
「うん」
「今も、マグカップあります」
「見たい」
「送ります」
通話をつないだまま、写真を撮る。
青灰色のコースター。
白いマグカップ。
今日は、映画の公式サイトを開いたスマホ画面は写さない。
あくまで、部屋の中の彼女の場所だけを撮った。
送る。
「届きました?」
「見た」
「はい」
「……ある」
「あります」
「この写真、今日すごく効く」
「ならよかった」
「出た」
「はい」
しらいさんは少しだけ黙った。
「春日くん」
「はい」
「舞台に立つ前、たぶんこれ見る」
「マグカップの写真ですか」
「うん」
「俺は、客席に行けたらカードケースのことを思い出します」
「何で?」
「しらいさんの鞄に、俺のカードがあるので」
「……」
「舞台に立つしらいさんの近くに、少しだけ俺の言葉があると思えるので」
電話の向こうで、彼女が小さく息を吸った。
「それ、かなりだめ」
「うれしいほうですか」
「うん」
「ならよかった」
「出た」
何度目か分からないやり取りなのに、今日はいつもより大事に感じた。
◇
その夜、二人は舞台挨拶の話をした。
長すぎないように。
喉を大事にしながら。
でも、避けずに。
「もし当たらなかったら」
しらいさんが言った。
「はい」
「がっかりする?」
「します」
「正直」
「はい」
「でも、少しほっとする?」
悠真は少し黙った。
嘘はつきたくなかった。
「少し」
「うん」
「でも、当たりたいです」
「……うん」
「怖いのと、見たいのが両方あります」
「私も」
「しらいさんも?」
「うん。来てほしいのと、見られるの怖いのと、両方」
「同じですね」
「同じ」
しらいさんの声が少しだけやわらかくなる。
「じゃあ、当落が出るまで、両方持ってることにしよう」
「両方?」
「怖いと、楽しみ」
「いいですね」
「どっちかにしなくていい」
「はい」
「春日くんが言ったんだよ。遠い時間と近い時間が両方あっていいって」
「そうでした」
「だから、怖いと楽しみも両方」
「……分かりました」
怖いと楽しみを両方持つ。
その考え方は、今の二人に合っている気がした。
「春日くん」
「はい」
「明日の朝も写真」
「送ります」
「舞台挨拶まで毎日」
「はい」
「マグカップ」
「コースターの上」
「少しずつ角度変えて」
「注文が細かい」
「大事」
「分かっています」
「私も、カードケース送る」
「はい」
「名前見えないように」
「理沙さんの教え」
「守る」
「偉いです」
「雑」
「本当に偉いです」
「じゃあよし」
しらいさんが小さく笑った。
その笑い声を聞いて、悠真は少し安心した。
当落を待つ時間は、まだ続く。
でも、ただ不安に待つだけではなくなった。
マグカップの写真を送り、カードケースの写真を受け取り、怖いと楽しみを両方持つ。
それは、客席から彼女を見るための小さな練習みたいだった。
◇
通話を切ったあと、悠真はもう一度公式サイトを見た。
白瀬アカリの写真。
舞台挨拶の予定。
当落発表まで、あと二日。
画面の中の彼女は遠い。
けれど、ローテーブルの上にはマグカップがある。
遠さと近さ。
怖さと楽しみ。
どちらかを消すのではなく、両方持ったまま当日を待つ。
そう思うと、胸のざわつきは消えないまま、少しだけ居場所を見つけた気がした。




