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第54話 客席から君を見る日が、思ったより近くまで来ていた

 月曜日の昼休み、休憩スペースのテレビから白瀬アカリの名前が聞こえた。


 春日悠真は、ちょうどコンビニの弁当を開けたところだった。

 箸を割ろうとした手が、一瞬だけ止まる。


 画面では、情報番組の芸能コーナーが流れていた。

 新作映画の公開日が近いらしく、出演者たちの写真が並び、明るい声のアナウンサーが舞台挨拶の予定を紹介している。


『主演の白瀬アカリさんも登壇予定で――』


 その瞬間、休憩スペースにいた数人が何気なく画面を見た。


「白瀬アカリ、最近ほんと見るな」

「映画、ちょっと気になってる」

「舞台挨拶とか倍率すごそう」


 そんな会話が、すぐ近くから聞こえてくる。


 悠真は何でもない顔で弁当の蓋を外した。

 何でもない顔のつもりだった。


 けれど、向かいに座っていた三崎は箸を持ったままこちらを見ていた。


「春日」


「何」


「今、テレビに反応した」


「してない」


「した。白瀬アカリの名前で、箸が止まった」


「偶然だろ」


「箸が偶然止まるって何だよ」


 悠真は返事に困って、お茶を飲んだ。


 三崎は画面をちらりと見てから、少しだけ面白そうに目を細める。


「白瀬アカリ、好きなの?」


「前も聞いただろ」


「前は“すごい人だと思う”って答えた」


「じゃあ今回もそれで」


「テンプレ回答」


「便利だから」


「便利なんだ?」


 その言い方が、どこかしらいさんに似ていて、悠真は少しだけ嫌な顔をした。


「何その顔」


「いや」


「何」


「こっちの話」


 三崎は弁当の唐揚げを一つ口に入れながら、テレビのほうを見た。


「舞台挨拶か。行けば?」


「簡単に言うな」


「いや、チケット取れたらだけど」


「倍率高いだろ」


「まあな。でも映画は普通に見に行けるじゃん」


 悠真は、弁当のご飯を少しだけ箸で崩した。


 映画。


 それは、ずっと頭のどこかにあった。

 画面の中の白瀬アカリを見ることには、少しずつ慣れてきた。インタビュー動画も見た。情報番組で名前を聞くことも増えた。


 でも、映画館で、客席から彼女を見る。


 それはまた別のことだ。


 隣に座る恋人としてではなく、世間の一人として。

 白瀬アカリという女優を、スクリーンの向こうに見る。


 その距離を、自分はどう受け止めるのだろう。


「春日」


「何」


「今、また難しい顔してる」


「仕事のことを考えてた」


「昼休みに?」


「人は昼休みにも仕事のことを考える」


「お前が今考えてたの、絶対映画だろ」


「……」


「当たりかよ」


 三崎は笑ったが、すぐに少しだけ声を落とした。


「まあ、何か気になるなら行けばいいんじゃね。映画くらい」


「映画くらい、か」


「違うの?」


 悠真は返事をしなかった。


 違う。

 たぶん、普通の人にとっては映画くらいだ。


 でも悠真にとっては、彼女がいる世界を客席から見ることになる。


 その差を、三崎に説明することはできない。


「……考えてみる」


 それだけ言うと、三崎は少し驚いた顔をした。


「お、行く気あるんだ」


「考えるだけだ」


「はいはい」


 三崎はそれ以上踏み込まなかった。


 それが少しありがたかった。


    ◇


 午後、しらいさんから写真が届いた。


 紙コップ。

 台本。

 青灰色のカードケース。

 今日はその横に、映画の宣伝用らしい小さなチラシの端が写っていた。


『舞台挨拶の告知出た』


 悠真は、会社のデスクでその文字を見た。


 さっきテレビで見たばかりの情報。

 彼女の側から届くと、急に距離が変わる。


『昼に会社のテレビで見ました』


 送る。


 既読はすぐについた。


『見たんだ』


『名前が出てました』


『うん』


 少し間が空いた。


『春日くんは、来たい?』


 その文字を見て、悠真は手を止めた。


 来たい。


 舞台挨拶に。

 映画館に。

 白瀬アカリの前に、客席の一人として。


 すぐには答えられない。


 行きたい。

 それは間違いない。


 でも、怖い。

 それも本当だ。


 彼女が遠くに見えたらどうしよう。

 客席から見た白瀬アカリが、あまりに眩しくて、しらいさんの「ただいま」と結びつかなくなったらどうしよう。


 そんな不安が、少しだけあった。


 悠真はゆっくり返信した。


『行きたいです』


『でも、少し怖いです』


 既読。


 返事は、少し遅れた。


『私も怖い』


 短い文だった。


 悠真は画面を見つめる。


『しらいさんも?』


『うん』


『客席に春日くんがいるって思ったら、たぶん変に緊張する』


『仕事なのに』


 その言葉が、少し意外で、少しうれしかった。


 自分だけが緊張しているわけではない。

 彼女も、白瀬アカリとして立つ場で、悠真の存在を意識するのが怖いのだ。


『無理に行かないほうがいいですか』


 送ると、すぐ既読がついた。


『それは違う』


 続けて、


『来てほしい気持ちもある』


『でも、来たらたぶん照れる』


『仕事中なのに』


 悠真は少し笑った。


『照れないでください』


『無理』


『女優なのに』


『女優でも無理なものはある』


 いつもの調子が戻ってきて、悠真は少しだけ安心した。


『チケット取れるか分かりません』


『倍率高いと思います』


『取れたら?』


 悠真は少し考えた。


 取れたら。


 その仮定が、思ったより胸を鳴らす。


『取れたら、行きます』


 既読。


『客席から?』


『はい』


『普通のお客さんとして』


 少し間が空く。


『それ、かなり不思議』


『俺もです』


『でも、ちょっと嬉しい』


 その文字を見て、悠真は胸の奥が少し温かくなった。


『俺も、嬉しいです』


『画面じゃなくて、同じ場所で見られるので』


 既読。


 返事はしばらく来なかった。


 言いすぎただろうかと思い始めたころ、ようやく届く。


『今日それ、効く』


『ならよかった』


『出た』


『出ます』


『春日くん』


『はい』


『もし来るなら、私、ちゃんと白瀬アカリでいる』


 悠真は、その文字を何度も読んだ。


 しらいさんではなく、白瀬アカリでいる。

 それは宣言のようだった。


『はい』


『見ます』


『ちゃんと』


 既読。


『でも、終わったらしらいさんに戻る』


『戻ってきてください』


『知ってる』


 その一言で、午後のざわついた気持ちが少しだけ落ち着いた。


    ◇


 夜、しらいさんは部屋に来なかった。


 スケジュールの都合で、今日はまっすぐ帰る日だった。

 それでも、短い通話だけはできた。


 悠真はローテーブルの前に座り、しらいさんのマグカップをコースターの上に置いていた。

 向こうは自宅らしく、電話越しの音は静かだった。


「もしもし」


「春日くん」


 声はかなり戻っている。

 まだ長話は控えめだが、もう普通の会話に近い。


「おつかれさまです」


「春日くんも」


「舞台挨拶の告知、かなり出てましたね」


「うん。今日ずっとその話だった」


「大変でした?」


「大変というか、いよいよだなって感じ」


「映画公開」


「うん」


 彼女の声が、少しだけ仕事の顔に近づく。


「怖いですか」


 悠真が聞くと、しらいさんは少し沈黙した。


「怖いよ」


「はい」


「映画が公開されるのって、自分の手を離れる感じがする」


「……」


「撮ってる間は、作品の中にいるんだけど。公開されると、みんなのものになる」


「はい」


「それが嬉しくもあるし、怖くもある」


 悠真は、彼女のマグカップを見る。


 みんなのものになる。


 その言葉は、少しだけ胸に刺さった。


 白瀬アカリは、多くの人の前に立つ人だ。

 映画も、演技も、インタビューも、世間に向けられている。


 でも、しらいさんのマグカップはこの部屋にある。

 彼女のカードケースは、鞄の中にある。


 その二つを、どう繋げればいいのか。


「春日くん」


「はい」


「今、遠いって思った?」


「……少し」


「うん」


「でも、嫌な遠さではないです」


「前も言ってくれた」


「はい」


「今日も?」


「今日もです」


 電話の向こうで、しらいさんが少し息を吐いた。


「ならよかった」


「取られました」


「今日は取る」


「どうぞ」


 彼女が小さく笑う。


「客席から見るの、嫌じゃない?」


「嫌じゃないです」


「遠いよ」


「はい」


「たぶん、私は仕事の顔してる」


「はい」


「春日くんを見つけても、反応できない」


「分かってます」


「目が合っても、たぶん何もできない」


「はい」


「それでも?」


「それでも、見たいです」


 悠真は、自分でも驚くくらいはっきり言えた。


「白瀬アカリとして立ってるしらいさんを、ちゃんと見たいです」


 電話の向こうが静かになった。


 しばらくして、彼女が小さく言う。


「それ、今日いちばんだめ」


「うれしいほうですか」


「うん」


「ならよかった」


「出た」


 また少し笑う。


 それから、しらいさんは少しだけ声を落とした。


「でも、約束して」


「何をですか」


「客席で私を見ても」


「はい」


「春日くんの部屋に戻ってくる私のこと、忘れないで」


 悠真は、すぐに答えられなかった。


 その言葉は、彼女の不安そのものだった。


 スクリーンの中の白瀬アカリ。

 舞台挨拶で微笑む白瀬アカリ。

 観客に手を振る白瀬アカリ。


 その姿を見たあとでも、部屋でミルクティーを飲み、コースターの位置を気にし、ただいまと言うしらいさんを忘れないで。


 悠真は静かに言った。


「忘れません」


「本当に?」


「はい」


「白瀬アカリを見ても?」


「はい」


「すごく遠く見えても?」


「はい」


「それでも?」


「しらいさんのマグカップ、今ここにあります」


 電話の向こうで、彼女が黙る。


「白瀬アカリは客席から見ます」


「……うん」


「でも、しらいさんの場所はここにあります」


「……」


「だから忘れません」


 長い沈黙。


 それから、小さく息を吸う音がした。


「春日くん」


「はい」


「今、泣きそう」


「今日は泣いても喉、大丈夫ですか」


「まだ少しだめ」


「じゃあ仮予約で」


「仮予約ばっかり増える」


「正式予約、いつでも受け付けます」


「……うん」


 声が少し震えていた。


 でも、彼女はちゃんと笑った。


「春日くん」


「はい」


「チケット、取れたら来て」


「はい」


「取れなかったら?」


「映画は普通に見に行きます」


「それも緊張する」


「なぜ」


「スクリーンの私を、春日くんが見るから」


「もう動画で見てます」


「映画は違う」


「そうですね」


「たぶん、かなり違う」


「覚悟して見ます」


「覚悟って何」


「心の準備です」


「春日くんらしい」


 そのあと、二人はしばらく舞台挨拶の話をした。


 チケットの応募方法。

 本人確認があること。

 座席は選べないこと。

 当たるかどうかはかなり運であること。


 しらいさんは、あくまで仕事として話している。

 でも時々、こちらを気にしているのが分かった。


「無理に応募しなくていいからね」


「応募します」


「早い」


「行きたいので」


「……そういうの、ほんと最近自然に言う」


「慣れてきました」


「慣れないで」


「またそれ」


「慣れて。でも慣れないで」


「難しいです」


「知ってる」


 いつものやり取りで、少し空気がやわらかくなった。


    ◇


 通話を終えたあと、悠真は舞台挨拶の応募ページを開いた。


 必要事項を入力する。

 作品名。

 日時。

 希望枚数は一枚。


 一枚。


 当たり前だ。

 誰かと行くわけではない。

 三崎を誘えるはずもない。

 しらいさんと並んで見るわけでもない。


 客席に、一人で座る。


 そのことに、少しだけ胸がざわついた。


 でも、指は止まらなかった。


 申し込みを完了する。


 画面に受付完了の文字が出た。


 悠真はスクリーンショットを撮るか迷い、やめた。

 代わりに、しらいさんへ短く送る。


『応募しました』


 すぐ既読がついた。


『早い』


『行きたいので』


 少し間が空く。


『ありがとう』


『お礼を言うことですか』


『言いたくなった』


『移ってますね』


『うん』


 続けて、写真が届いた。


 青灰色のカードケース。

 今日は紙コップの横ではなく、彼女の部屋らしき机の上に置かれている。


『私もこれ持っていく』


『舞台挨拶の日?』


『うん』


『見えないところに』


『春日くんの部屋にはマグカップ』


『私の鞄にはカード』


『客席には春日くん』


 その三行を読んで、悠真は静かに息を吐いた。


『はい』


『ちゃんと行きます』


『当たったら』


『当たって』


 彼女にしては珍しく、少し子どもっぽい願い方だった。


『当たりますように』


 送る。


 既読。


『知ってる』


『それ、知ってることですか』


『願いだから』


『なるほど』


『春日くん』


『はい』


『もし客席にいても、私、仕事の顔で立つね』


『はい』


『でも、心の中でただいまって思う』


 悠真はスマホを見つめた。


 舞台の上で、白瀬アカリとして立つ彼女。

 心の中で、ただいまと言う。


 その光景を想像しただけで、胸の奥が熱くなる。


『俺は心の中で、おかえりなさいって言います』


 既読。


 返事は少し遅れた。


『それ、かなりだめ』


『うれしいほうですか』


『うん』


『ならよかった』


『出た』


 そのあと、彼女から最後に一通だけ来た。


『映画、怖いけど楽しみになった』


 悠真は、ゆっくり返信した。


『俺もです』


 スマホを置く。


 ローテーブルの上には、しらいさんのマグカップがある。

 青灰色のコースターの上で、静かにそこにある。


 客席から白瀬アカリを見る日が来るかもしれない。

 そのとき、彼女は遠い場所にいる。


 でも、この部屋には彼女の場所がある。

 彼女の鞄には、自分の言葉がある。


 遠さと近さが、同時に存在している。


 少し怖い。

 けれど、今はその怖さごと、楽しみにしてみたいと思った。

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