第53話 いつか話せる日のことを、まだ秘密のまま少しだけ考えた
金曜日の夜は、会社を出た瞬間から少しだけ空気が軽かった。
仕事が早く終わったわけではない。
むしろ夕方に資料の差し替えが入り、最後の一時間はいつも以上に慌ただしかった。
それでも、週末の前の夜には、独特のゆるさがある。
駅へ向かう人の足取りも、どこか少しだけほどけている。コンビニの前で立ち止まる会社員も、改札へ急ぐ学生も、明日の朝に少しだけ救われているように見えた。
春日悠真は、駅前のコンビニに寄った。
手に取ったのは、温かいほうじ茶。
それから、小さな焼き菓子。
喉飴の棚の前では少しだけ立ち止まったが、今日は買わなかった。
部屋にはもう十分ある。
しらいさんが見たら、また「喉コーナーが育ってる」と言いそうなくらいには。
会計を済ませて外に出ると、スマホが震えた。
『今日、部屋行けるかも』
しらいさんからだった。
悠真はすぐに返す。
『来てください』
既読。
『早い』
『来てほしいので』
少し間が空いて、
『そういうの、最近自然に言う』
『慣れてきました』
『慣れないで』
『どっちですか』
『慣れて。でも慣れないで』
悠真は画面を見て、小さく笑った。
『難しいです』
『知ってる』
その文字を見て、肩の力が少し抜ける。
今日は、会える。
それだけで、さっきまでの疲れがほんの少しだけ軽くなった。
◇
部屋に戻ると、最初にローテーブルの上を整えた。
青灰色のコースター。
しらいさんのマグカップ。
喉飴と蜂蜜。
ハーブティー。
予備のペン。
それから、今日買った焼き菓子。
もう、どれをどこに置けば彼女が落ち着くのか、少しずつ分かるようになっていた。
カップの取っ手は右少し手前。
コースターはローテーブルの端から少し内側。
喉飴は手に取りやすい位置。
ティッシュは近いけれど、あまり目立たないところ。
自分でも少しおかしいと思う。
でも、嫌ではなかった。
湯を沸かしていると、インターフォンが鳴った。
玄関を開けると、しらいさんが立っていた。
黒いキャップに、ベージュのコート。マスクはしているが、目元はだいぶ元気だった。声の不安が深かったころの張り詰めた感じは、かなり薄れている。
「来た」
声は、もうほとんど以前の調子に近かった。
悠真は、少しだけ安心する。
「おかえりなさい」
しらいさんは一瞬だけ止まった。
それから、ゆっくり目元を緩める。
「……ただいま」
部屋に入る前の、玄関先の短いやり取り。
それだけで、この部屋の意味が少しだけ変わる。
彼女は靴を脱ぎ、部屋に上がった。
ローテーブルを見て、いつものように確認する。
「ある」
「あります」
「カップの向き、今日いい」
「合格ですか」
「百点」
「早いですね」
「今日は甘い採点」
「いい日ですか」
「うん。会えたから」
さらっと言ってから、彼女は少しだけ顔を逸らした。
悠真も少しだけ照れる。
「……ミルクティーでいいですか」
「逃げた」
「逃げました」
「うん。ミルクティーで」
しらいさんはローテーブルの前に座る。
鞄を横に置いたあと、内ポケットのあたりを軽く触った。
悠真はその仕草に気づく。
「カードケース、あります?」
「ある」
しらいさんは鞄を軽く抱えるようにして言った。
「今日も控室で見た」
「効きました?」
「効いた。紙コップの横に置いたら、ちょっと落ち着いた」
「よかったです」
「出た」
「出ますよ」
「でも本当に、よかった」
彼女の声は、穏やかだった。
悠真はミルクティーを淹れて戻る。
しらいさんは両手でカップを受け取り、青灰色のコースターに置いた。
ことん。
小さな音。
「帰ってきた音ですね」
悠真が言うと、彼女は少しだけ嬉しそうに頷いた。
「うん」
それから、焼き菓子に目を止める。
「それ」
「買ってきました」
「春日くん、今日ちょっと甘やかし」
「週末なので」
「理由になってるようで、なってない」
「でも食べますよね」
「食べる」
しらいさんは当然のように頷いた。
その自然さが、悠真にはうれしかった。
◇
二人で焼き菓子を分けて食べていると、ふと三崎の話になった。
きっかけは、悠真が会社でのことを話したからだった。
「今日、三崎にまた言われました」
「うるさい同僚さん?」
「はい」
「何て?」
「大事な人によろしくって」
しらいさんは、焼き菓子を持ったまま固まった。
「……それ、言われたの?」
「はい」
「何て返したの」
「言えないだろ、って」
「うん」
「そしたら、心の中で、って」
しらいさんは少しだけ目を伏せる。
怒っているわけではない。
困っているわけでもない。
ただ、どこか深く受け止めている顔だった。
「三崎さん、かなり踏み込んできてる」
「そうですね」
「春日くん、大丈夫?」
「詳しいことは言ってません」
「うん」
「誰なのかも、名前も、何も」
「うん」
「でも、大事な人がいることは、もう隠しきれてないみたいです」
しらいさんはミルクティーのカップを両手で包んだ。
「嫌じゃない」
「……本当ですか」
「うん。怖くはあるけど」
「はい」
「でも、嫌じゃない」
彼女はカップの縁を見つめたまま、少しだけ声を落とす。
「春日くんの日常の中で、私は名前を出せないでしょ」
「はい」
「白瀬アカリって言えないし、しらいさんって言っても説明できないし」
「そうですね」
「でも、大事な人がいるってことだけは、三崎さんに少し見えてる」
「はい」
「それが、ちょっとだけうれしい」
その言葉は、悠真にとって少し意外だった。
「うれしいんですか」
「うん」
「怖いじゃなくて」
「怖いもある」
「はい」
「でも、春日くんが誰かを大事にしてるって、周りに分かってもらえるのは、悪くない」
「……」
「春日くんが一人で隠して、全部なかったことみたいにしなくていいなら」
悠真は、すぐには返せなかった。
彼女は、そういうところを気にしていたのか。
自分の正体や仕事のことを守る一方で、悠真の日常から自分の存在が完全に消えてしまうことも、どこかで気にしていたのかもしれない。
「しらいさん」
「何」
「俺、少し考えたんです」
「うん」
「いつか、三崎みたいな友人にも、ちゃんと話せる日が来るのかなって」
しらいさんの指が、カップの取っ手に軽く触れた。
「……うん」
「今すぐじゃないです」
「うん」
「たぶん、簡単でもない」
「うん」
「でも、ずっと何も話せないままなのかなって思うと、少し不思議で」
「不思議?」
「はい」
悠真は、少しだけ言葉を選んだ。
「しらいさんのことを大事にしているのに、誰にも何も言えない」
「……」
「それは守るために必要なことなんですけど」
「うん」
「たまに、すごく不思議になります」
しらいさんは黙った。
その沈黙は、重くはなかった。
ただ、ちゃんと考えるためのものだった。
「私も」
彼女が言う。
「うん」
「理沙さんには話した。完全じゃないけど」
「はい」
「でも、友達には言ってない」
「そうなんですか」
「言えないよ。やっぱり」
「……」
「白瀬アカリとしての私を知ってる人ばかりだし、言ったらその人にも負担になる」
「はい」
「秘密を持たせることになるから」
その言葉で、悠真は少しだけ理解した。
話せるようになることは、ただ自分たちが楽になることではない。
相手にも秘密を渡すことになる。
三崎に話すということは、三崎に黙っていてもらう責任を背負わせることでもある。
「そうですね」
「だから、誰かに話すって、私たちが楽になるためだけにしちゃいけない気がする」
「はい」
「その人が知る必要があるか。その人を信じられるか。その人の生活に無理をかけないか」
「……」
「理沙さんは、仕事上知る必要があった」
「はい」
「三崎さんは、今はまだ、たぶん必要じゃない」
しらいさんは、少しだけ言いにくそうに続けた。
「でも」
「はい」
「いつか、必要になる日が来たら」
「……」
「そのときは、ちゃんと考えたい」
悠真は静かに頷いた。
拒まれたわけではない。
焦らされたわけでもない。
今はまだ必要ではない。
でも、未来を完全に閉じられたわけではない。
それだけで、少しだけ呼吸がしやすくなった。
「三崎、うるさいですけど」
「うん」
「悪いやつではないです」
「知ってる。春日くんの話で分かる」
「本当にうるさいですよ」
「それも分かる」
「もし、いつか話す日が来たら、たぶんかなり驚きます」
「そりゃ驚くよ」
「ですよね」
「春日くんの彼女が白瀬アカリだったら、普通驚く」
「改めて言われると、すごい状況ですね」
「私もそう思う」
二人は顔を見合わせて、少しだけ笑った。
笑えるくらいには、少しずつ受け止められている。
◇
しらいさんは鞄からカードケースを取り出した。
青灰色の小さなケース。
中には、悠真が書いたカードが入っている。
彼女はそれを手のひらに乗せて、ぽつりと言った。
「これも、秘密だよね」
「そうですね」
「誰かに見られたら、ただのカードケースだけど」
「はい」
「私には、春日くんの場所」
「……」
「春日くんの部屋のマグカップも、他の人から見たらただのカップ」
「はい」
「でも、私には私の場所」
しらいさんはカードケースをそっと撫でた。
「秘密って、隠すだけじゃないのかも」
「どういうことですか」
「大事にしまっておくことでもあるのかなって」
その言い方が、胸に残った。
隠す。
守る。
大事にしまっておく。
似ているけれど、少しずつ違う。
自分たちの関係は、今は大きな声で話せない。
でも、それは恥ずかしいからでも、なかったことにしたいからでもない。
大事だから、慎重にしまっている。
そう考えると、秘密という言葉の温度が少し変わった気がした。
「大事にしまっておく秘密なら」
悠真は言う。
「うん」
「少し、悪くないですね」
しらいさんは、ゆっくり頷いた。
「うん。悪くない」
「でも、いつか」
「うん」
「必要な人には、ちゃんと話せるようにしたいです」
「……うん」
「焦らずに」
「うん」
「しらいさんを守れる形で」
「春日くんも守れる形で」
彼女がすぐに足した。
悠真は少し驚いて彼女を見る。
「私だけじゃないよ」
「……」
「春日くんも守らないと」
「俺は」
「春日くんも」
しらいさんは少しだけ強めに言った。
「もし知られたら、春日くんの日常も変わるかもしれない」
「はい」
「会社とか、三崎さんとか、家族とか」
「……」
「私は春日くんを、私の世界に巻き込みたいわけじゃない」
「巻き込まれているとは思ってません」
「うん。でも、守りたい」
その言葉が、真っ直ぐ届いた。
悠真は、少しだけ目を伏せる。
彼女は自分のことだけを守られたいわけではない。
悠真の日常も、ちゃんと守ろうとしている。
それがうれしかった。
「ありがとうございます」
「またお礼」
「言いたくなるので」
「春日くんらしい」
「移ってます?」
「うん。かなり」
二人で少し笑った。
それから、しらいさんはカードケースを鞄に戻す。
いつもの内ポケットへ、慎重に。
「じゃあ、今のところ」
「はい」
「三崎さんには、大事な人がいることまで」
「はい」
「それ以上は、まだ」
「そうですね」
「でも、三崎さんが春日くんを心配してくれるのは、ちょっと嬉しい」
「本人に言ったら調子に乗ります」
「じゃあ言わない」
「お願いします」
「でも、いつか会ったら言うかも」
「やめてください」
「考えとく」
「それ、言うやつですね」
「知ってる」
しらいさんは楽しそうに笑った。
その声はもう、かなり自然だった。
無理に出している感じも少ない。
悠真は少し安心して、けれど習慣のように言った。
「喉、大丈夫ですか」
「大丈夫」
「本当に?」
「八割九分」
「また刻みましたね」
「明日は九割」
「理沙さん評価は?」
「八割半」
「厳しいまま」
「でも、それが安心する」
「分かります」
しらいさんは、ミルクティーを一口飲んだ。
「春日くん」
「はい」
「いつか、普通に紹介できる日が来たら」
「はい」
「三崎さんには、最初に何て言う?」
「……」
悠真は少し考えた。
想像するだけで、とんでもない場面だ。
三崎の前に、しらいさんがいる。
いや、白瀬アカリがいる。
彼はたぶん三秒くらい固まって、それから一気にうるさくなる。
「たぶん」
「うん」
「こちら、しらいさんです、って言います」
彼女は少し目を丸くした。
「白瀬アカリじゃなくて?」
「はい」
「何で?」
「俺にとっては、最初にしらいさんなので」
しらいさんは、カップを持ったまま固まった。
そして、少しだけ目元を赤くする。
「……春日くん」
「はい」
「今日、それはかなりだめ」
「うれしいほうですか」
「うん」
「ならよかった」
「出た」
「出ます」
彼女はカップをコースターに戻した。
ことん。
帰ってきた音。
今夜は、その音が少しだけ未来へ向いているように聞こえた。
◇
帰る時間になると、しらいさんはいつものようにマグカップを洗った。
水の音。
カップを拭く音。
棚に戻す音。
それからコースターを整える。
「今日の点数は?」
悠真が聞くと、彼女は少し考えた。
「百点」
「理由は?」
「秘密の未来を考えたから」
「大きいですね」
「うん」
「でも、まだ秘密です」
「まだ秘密」
「大事にしまっておく秘密」
「うん」
しらいさんは、少しだけ笑った。
玄関で靴を履き、コートを羽織る。
「春日くん」
「はい」
「いつか話せる日が来るまで」
「はい」
「ちゃんと大事にしようね」
「はい」
「秘密も」
「はい」
「部屋も」
「はい」
「河川敷も」
「はい」
「三崎さんに滲みすぎないように」
「そこもですね」
「そこ大事」
「気をつけます」
しらいさんは少しだけ得意げに頷いた。
ドアを開ける前に、彼女は声を落として言った。
「でも、少しだけ滲むのは、嫌じゃない」
「俺もです」
「うん」
それから、いつものように短く言う。
「また帰ってくる」
「おかえりって言います」
「知ってる」
その声は、もうほとんど元通りだった。
でも、少しだけ違う。
声を失いかけて、戻ってきたあとの声。
秘密の未来を、少しだけ一緒に考えたあとの声。
悠真は玄関の外まで見送りながら、静かに思った。
名前はまだ言えない。
誰かに紹介する日は、まだ遠い。
それでも、その未来を考えることはできる。
まだ秘密のまま。
大事にしまったまま。
少しずつ、二人で。




