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第52話 名前は言えなくても、大事な人がいることまでは隠せなかった

 朝のマグカップ写真を送ると、数分遅れてしらいさんからも写真が返ってきた。


 控室の紙コップ。

 喉飴。

 小さな青灰色のカードケース。

 ただし今日は、メッセージカードの中身は見えないように、ケースの端だけが写っていた。


『理沙さんの教えを守った』


 その一文に、春日悠真は部屋で少し笑った。


『偉いです』


 送ると、すぐ既読がついた。


『雑』


『本当に偉いです』


『じゃあよし』


 その短いやり取りだけで、朝の空気が少し整う。


 しらいさんの声は少しずつ戻っている。

 けれど、まだ油断はできない。

 彼女自身も、理沙さんも、そして悠真も、そこだけはかなり慎重になっていた。


 声を大事にする。

 戻る場所を大事にする。

 持っていける場所も大事にする。


 気づけば二人の間には、そんな小さな約束がいくつも増えていた。


 悠真はマグカップを棚へ戻し、コースターの位置を軽く整えてから部屋を出た。


    ◇


 会社に着くと、三崎が椅子に浅く座ったまま、こちらを見ていた。


「春日」


「何」


「今日、顔がカードケース」


「意味が分からない」


「何か小さい秘密を鞄に入れてます、みたいな顔」


 悠真は、鞄を置く手を止めた。


「……お前、本当に気味が悪いな」


「当たってるの?」


「当たってない」


「今の間は当たってる」


「仕事しろ」


「まだ始業前」


 三崎はにやにやしているが、どこか本気で観察している目だった。


 最近、この男の勘が本当に怖い。


 白瀬アカリのことはもちろん知らない。

 しらいさんという名前も出していない。

 河川敷も、部屋のマグカップも、カードケースも知らない。


 なのに、悠真の表情の変化だけは妙に拾ってくる。


「で、昨日は何かいいことあった?」


「何で毎日報告しなきゃいけないんだ」


「いや、春日観察日記的に」


「書くな、そんなもの」


「書いてない。心の中にある」


「もっと嫌だ」


 三崎は笑ったあと、ふと真面目な顔になった。


「でもさ」


「何」


「最近のお前、分かりやすいけど、前より変な無理はしてない気がする」


 悠真は少しだけ眉を動かした。


「そうか?」


「うん。前は何かあったら一人で勝手に抱えて、顔だけ死んでること多かった」


「そんなに?」


「そこそこ」


「……」


「今もたまに死にかけるけど、少し戻るの早い」


 三崎の言葉は、いつもの軽さを残しているのに、妙に刺さるところがあった。


 戻るのが早い。


 それは、たぶん本当だ。


 しらいさんがいるから。

 マグカップがあるから。

 写真が来るから。

 短いメッセージで、気持ちの置き場が少し変わるから。


 悠真はパソコンを立ち上げながら、短く答えた。


「……そうかもな」


「お、認めた」


「うるさい」


「大事な人効果?」


 その言葉で、指が止まる。


 三崎は、ふざけた顔をしていなかった。


 からかってはいる。

 でも、それだけではない。


 悠真はしばらく画面を見つめたあと、小さく言った。


「まあ、そうかもしれない」


 三崎は少しだけ目を丸くする。


「お前、今日やけに素直じゃん」


「詳しくは言わないぞ」


「言わなくていいよ」


「……」


「ただ、ほんとに大事なんだなって思っただけ」


 悠真は返事をしなかった。


 言葉にすると、少しだけ怖い。

 でも、否定はできない。


 大事な人。

 そうだ。

 しらいさんは、もうそういう人だ。


 名前を言えなくても。

 誰なのか明かせなくても。

 そのことだけは、たぶん隠しきれない。


「三崎」


「何」


「お前、意外と人を見てるんだな」


「意外とって何だよ」


「普段がうるさいから」


「うるさいのと見てるのは両立するんだよ」


「嫌な両立だな」


 三崎は軽く笑って、自分の席へ戻っていった。


 その背中を見ながら、悠真は少しだけ息を吐いた。


 秘密は守らなければならない。

 でも、全部を無かったことにする必要はない。


 しらいさんが言ってくれた言葉を思い出す。


 誰かを大事にしてる春日くんまで、隠さなくていい。


 たぶん、こういうことなのだろう。


    ◇


 昼休み、悠真は休憩スペースの窓際に座った。


 いつものコンビニ弁当。

 いつものペットボトルのお茶。

 ただし、今日は鞄の中に小さなのど飴の袋が入っている。


 自分用ではない。

 気づくと買ってしまうようになったものだ。


 スマホを見ると、しらいさんからメッセージが来ていた。


『一本文字取材終わった』


『声、温存できた』


 悠真はすぐに返す。


『よかったです』


『理沙さん評価は?』


『八割半継続』


『本人評価は?』


『八割七分』


『刻んできましたね』


『回復を実感している』


 その言い方が妙に真面目で、悠真は少し笑った。


『カードケースは使いました?』


 既読。


 少し間が空いて、写真が届いた。


 紙コップの横に、青灰色のカードケース。

 名前は見えない。

 メッセージカードの中身も見えない。

 けれど、そこにあることは分かる。


『取材前に見た』


『効いた』


 悠真は、画面を見つめたまま胸の奥が温かくなるのを感じた。


『俺の部屋のマグカップも、今朝ちゃんとありました』


『知ってる』


『写真見たから』


『明日は少し右からでしたね』


『覚えてた』


『注文されたので』


『偉い』


『雑』


 自分で打ってから、思わず笑ってしまった。


 しらいさんの言い方が移っている。


 向かいに座っていた三崎が、それを見逃さなかった。


「春日」


「何」


「今、彼女に似てきた?」


 悠真はむせかけた。


「何で分かる」


「あ、当たった」


「いや、違う」


「もう遅い」


 三崎は箸を止めて、少し楽しそうに身を乗り出す。


「言葉移るよな」


「……」


「好きな人の口癖とか、いつの間にか使うやつ」


「経験者みたいに言うな」


「ドラマで見た」


「薄いな」


「でも今のお前、明らかに誰かの言い方が混ざってた」


 悠真はスマホを伏せた。


 たしかに、そうなのかもしれない。

 “雑”という返しも、“よし”も、“かなり”も、いつの間にか二人の間で行き来する言葉になっている。


 そして今、それが三崎の前で少し漏れた。


「春日」


「何」


「別に、誰かとか聞かないけど」


「うん」


「お前がその人を大事にしてるのは分かる」


「……」


「あと、その人もたぶん、お前のこと大事にしてるんだろうなって」


 悠真は、思わず三崎を見た。


「何でそこまで」


「お前の顔が、片想いで溺れてる顔じゃないから」


「変な表現やめろ」


「いや、何ていうか。ちゃんと返ってきてる顔してる」


 ちゃんと返ってきてる顔。


 その言い方が妙に胸に残った。


 しらいさんは返してくれている。

 言葉で。

 写真で。

 マグカップで。

 カードケースで。

 ただいまと、好きで。


 隠してはいる。

 けれど、関係そのものは一方通行ではない。


「……そうだな」


 悠真が小さく言うと、三崎は少しだけ表情を和らげた。


「ならいいじゃん」


「いいのか」


「いいだろ。大事にしとけ」


「……してる」


「うわ、今日ほんと素直」


「今日だけだ」


「毎回今日だけって言ってるぞ」


 三崎は笑いながら弁当に戻った。


 悠真はスマホをもう一度手に取る。


 しらいさんから、追いメッセージが来ていた。


『春日くん?』


 また止まっていたからだ。


『三崎に、言葉が似てきたって言われました』


 送る。


 すぐ既読。


『え』


『何が?』


『雑、とか』


 既読。


 少し間が空いて、


『移ってる』


『らしいです』


『ちょっとうれしい』


 悠真は画面を見て、自然に笑ってしまった。


『俺も、しらいさんに何か移ってます?』


 送る。


 返事はすぐだった。


『ならよかった、が増えた』


『あと、ちゃんと食べました?って理沙さんにも聞きそうになった』


『それは俺というより理沙さん側では』


『春日くん側でもある』


 その文字に、悠真は少しだけ照れた。


『光栄です』


『硬い』


『すみません』


『それも春日くん』


 そのやり取りだけで、午後の仕事へ戻る気力が少し湧いた。


    ◇


 夕方、社内で小さなトラブルがあった。


 急ぎの確認資料に差し替えが入り、チーム全体で少し慌ただしくなった。

 悠真も修正作業に加わり、何度かデータをチェックする。


 以前なら、こういう日は気持ちがすぐに削られていた。

 終わりの見えない修正、誰かの焦った声、迫る期限。


 もちろん今でも疲れる。

 けれど今日は、不思議と踏ん張れた。


 鞄の中に、朝買ったのど飴がある。

 部屋には、しらいさんのマグカップがある。

 彼女の鞄には、自分のカードがある。


 仕事とは何の関係もないものばかりだ。

 でも、そういうものがあるだけで、人は少しだけ踏ん張れるのかもしれない。


 十九時前、ようやく作業が落ち着いた。


 三崎が隣で伸びをする。


「春日、今日わりと集中してたな」


「お前も珍しく黙ってたな」


「俺だって仕事中は黙るわ」


「嘘つけ」


「まあ八割嘘」


 悠真は少し笑った。


 三崎は机の上を片づけながら、ふと思い出したように言う。


「今日、帰って何かあるの?」


「特には」


「彼女と会うとか」


「今日は会わない」


「ふーん」


「何だよ」


「いや、会わなくても平気な顔になったなと思って」


「平気ではないけど」


「でも前より安定してる」


 悠真は、鞄を閉じながら少し考えた。


「会えない日でも、完全に何もないわけじゃないから」


「連絡?」


「まあ、そういうもの」


「なるほどね」


 三崎は、納得したように頷いた。


「いいじゃん。そういうの」


「軽いな」


「重く言ってほしいのか?」


「いや、いい」


「だろ」


 三崎は椅子から立ち上がる。


「じゃあ、お疲れ。大事な人によろしく」


「言えないだろ」


「心の中で」


「それなら」


「おう」


 その言い方が少しだけ照れくさくて、悠真は曖昧に頷いた。


    ◇


 夜、部屋に帰ると、最初にローテーブルを見た。


 コースターはいつもの場所。

 マグカップを棚から下ろし、コースターに置く。

 今日は、少し右から写真を撮る約束だった。


 角度を調整する。

 マグカップの縁に、部屋の明かりが少し映る。


 撮影。


『少し右からです』


 送信。


 既読はすぐについた。


『合格』


『採点制ですか』


『今日は九十五点』


『五点は?』


『カップの向きが少し違う』


 悠真は慌てて写真を見返した。


 確かに、いつもより少しだけ取っ手の角度が違う。


『細かいですね』


『大事』


『直します』


『直した写真ください』


 悠真は笑いながら、マグカップの向きを整えた。

 もう一度写真を撮って送る。


『百点』


『ありがとうございます』


『春日くん』


『はい』


『今日、三崎さんに何て言われたの?』


 悠真は少しだけ迷ってから、正直に打った。


『大事な人がいるのは分かる、と』


 既読。


 少し間が空いた。


『そっか』


『嫌でしたか』


『嫌じゃない』


『ちょっと泣きそう』


 悠真は胸の奥がきゅっとなる。


『泣く予約、使います?』


 送ると、すぐ返ってきた。


『今日は仮予約』


『正式予約が増えていきますね』


『春日くんの部屋、泣く場所にもなりそう』


『泣いてもいい場所です』


『声がある日も、ない日も』


 しらいさんは、自分でその文をなぞるように返してきた。


『戻りたい日に、戻ってきてください』


 悠真はスマホを見つめた。


 自分が書いた言葉。

 彼女の鞄の中にある言葉。

 それが今、彼女から返ってきている。


『はい』


『戻ってきてください』


 既読。


『戻る』


 短い返事だった。


 でも、十分だった。


 そのあと、短い通話をした。


 声はかなり戻っていた。

 ただ、しらいさんはまだ長く話さないようにしている。


「春日くん」


「はい」


「三崎さんに、少しだけ感謝」


「何で」


「春日くんの日常に、私が少し滲んでるって分かったから」


「滲みすぎると危ないですが」


「うん。だから気をつける」


「はい」


「でも、少しだけならうれしい」


「俺もです」


「春日くんの周りの人が、春日くんが大事な人を大事にしてるって分かってくれるの」


「……」


「それ、うれしい」


 悠真は、ローテーブルのマグカップを見た。


「俺も、しらいさんの周りに理沙さんがいるの、安心します」


「うん」


「今日、理沙さんにカードケース見られたんですよね」


「見られた」


「何て?」


「支えになるものは禁止しないって」


「かっこいいですね」


「でしょ」


「はい」


「でも、出しっぱなしは注意」


「そこも理沙さんですね」


「うん」


 しらいさんは少し笑った。


 その笑い方は、もうかなり自然だった。


「春日くん」


「はい」


「私たち、少しずつ周りにも見えてきてるのかな」


「全部ではないですけど」


「うん」


「でも、大事にしてることまでは、見えるのかもしれません」


「……」


「名前を言わなくても」


「うん」


「誰かまでは言えなくても」


「うん」


「大事な人がいることは、少しだけ」


 しらいさんは、電話の向こうで静かになった。


 それから、柔らかい声で言う。


「それ、怖いけど、少しうれしい」


「俺もです」


「うん」


「でも、ちゃんと守ります」


「うん」


「隠すところは隠して」


「うん」


「消さなくていいところは、消さずに」


 彼女は小さく息を吐いた。


「春日くん、今日かなりいいこと言う」


「三崎効果ですかね」


「それはちょっと悔しい」


「なぜ」


「私効果がいい」


 悠真は思わず笑った。


「しらいさん効果です」


「よし」


「採点ですか」


「百点」


「今日は多いですね」


「いい日だから」


 そのあと、少しだけ他愛ない話をして通話を切った。


 部屋に静けさが戻る。


 悠真は、ローテーブルの上のマグカップを棚へ戻した。

 コースターはそのままにする。


 秘密は、まだ秘密のままだ。


 でも、その秘密の周りにある温度まで、完全には隠せない。


 自分の日常に、しらいさんの気配が少しずつ滲んでいる。

 彼女の日常にも、春日悠真の書いた言葉が小さく入り込んでいる。


 それは危うい。

 けれど、悪いことばかりではない。


 誰かを大事にしている自分まで、消さなくていい。


 そう思えるだけで、明日が少しだけ軽くなった。

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