第51話 紙コップの横に置いた小さなカードは、思ったより強かった
控室のテーブルには、いつものように紙コップが置かれていた。
白い紙コップ。
ペットボトルの水。
喉飴の袋。
折り目のついた台本。
そして、端に寄せられた小さなホワイトボード。
しらいさん――白瀬アカリは、椅子に座ったまま、しばらくその光景を眺めていた。
見慣れたものばかりだ。
ここ数日で、紙コップと喉飴とホワイトボードは、すっかり仕事場の定番になってしまった。
声はもう、かなり戻っている。
理沙さんの評価では八割半。自分の評価では八割。
普通に話すことはできる。短い取材なら問題ない。けれど、長時間の収録や感情を大きく使う芝居は、まだ少し怖い。
怖い、と認められるようになっただけ、前よりましなのかもしれない。
前なら、きっと認めなかった。
怖くても、平気な顔をした。
喉が変でも、何とかなると言って、いつも通りに立とうとした。
でも今は、理沙さんに止められる。
春日くんにも止められる。
そして自分でも、少しだけ止まることを覚えた。
しらいさんは、鞄に手を伸ばした。
黒いショルダーバッグ。
その内ポケットに、昨日買った青灰色のカードケースが入っている。
指先でそっと探る。
あった。
薄い布の手触り。
小さくて、目立たない。
けれど、その存在だけで胸の奥が少しだけ落ち着く。
しらいさんは周囲を確認した。
控室には、今は一人だけ。
メイクスタッフもスタイリストも、まだ来ていない。
理沙さんは外で今日の進行を確認している。
今なら大丈夫。
カードケースを取り出す。
それから、中に入れた白いメッセージカードを少しだけ引き出した。
『待ってます。
声がある日も、ない日も。
戻りたい日に、戻ってきてください。
春日悠真』
何度読んでも、心臓に悪い。
悪いのに、読みたくなる。
しらいさんは、唇を少しだけ噛んだ。
春日くんの字は、きれいすぎるわけではない。
でも、読みやすい。
変に格好つけていない。
あの人らしい、まっすぐで、少しだけ真面目な字。
待ってます。
何度も聞いた言葉。
何度もメッセージで見た言葉。
けれど、カードに書かれて鞄の中に入っていると、少し違って感じる。
画面の中ではなく、紙としてそこにある。
通知が消えても、電池が切れても、通信が悪くても、そこにある。
そのことが、思っていた以上に心強かった。
しらいさんはカードをケースに戻し、紙コップの横へそっと置いた。
写真を撮る。
紙コップ。
喉飴。
ホワイトボード。
そして青灰色のカードケース。
送信先は、春日くん。
短く添える。
『置いた』
すぐには返事が来ない。
たぶん、彼も仕事中だ。
それでいい。
ただ、送れたことが少し嬉しかった。
そのとき、控室のドアがノックされた。
「入るわね」
相沢理沙の声だった。
しらいさんは慌ててカードケースを隠そうとして、途中で手を止めた。
隠すほどのものではない。
見られて困るようなことは、書かれていない。
でも、見られると恥ずかしい。
その判断の隙間に、理沙さんが入ってきた。
「おはよう、アカリ。喉の調子は?」
「おはようございます。昨日よりは、だいぶ」
「声は少し低いけど、悪くないわね。朝は無理に出さないこと」
「はい」
理沙さんはテーブルにタブレットを置き、今日のスケジュールを確認しようとして、ふと視線を止めた。
紙コップの横。
青灰色のカードケース。
しらいさんは、背筋を少し伸ばした。
「それ」
理沙さんが言う。
「……はい」
「新しいもの?」
「はい」
「春日さん?」
直球だった。
しらいさんは、少しだけ目を逸らす。
「……はい」
「そう」
理沙さんはそれ以上、すぐには聞かなかった。
ただ椅子に座り、タブレットを開く。
その沈黙が、逆に少し落ち着かなかった。
「あの」
「何?」
「見ますか」
「あなたが見せたいなら」
理沙さんは、そう言った。
見せろ、ではない。
隠すな、でもない。
あなたが見せたいなら。
その言い方が、少しだけずるい。
しらいさんは、カードケースを手に取った。
中のカードを少しだけ出し、理沙さんに渡す。
理沙さんはそれを受け取り、静かに読んだ。
表情は大きく変わらない。
けれど、一行目を読んだあたりで、ほんの少しだけ目元が柔らかくなった気がした。
「……春日さんらしいわね」
返ってきたのは、それだけだった。
しらいさんは、思わず聞き返す。
「分かるんですか」
「一度会っただけでも、少しは」
「……」
「大げさなことを書いていないのが、あの人らしい」
理沙さんはカードを戻した。
「でも、必要なことは書いてある」
しらいさんは、カードを受け取る手を少しだけ強くした。
「……はい」
「持っていたいの?」
「はい」
「仕事場にも?」
「……はい」
「分かった」
理沙さんはタブレットに視線を戻す。
「見えるところに出しっぱなしは避けて。写真に写り込む場合も、名前が読めないように気をつけて」
「はい」
「ただ、鞄の中に入れておくぶんには問題ないわ」
「……いいんですか」
「いいも悪いも、あなたの私物でしょう」
「でも」
「アカリ」
理沙さんは顔を上げた。
「支えになるものを全部禁止するほど、私は暇じゃないわ」
少しだけ、いつもの厳しい言い方だった。
でも、しらいさんはその中にある優しさを聞き取れるようになっていた。
「ありがとうございます」
「お礼を言う場面かしら」
「言いたくなったので」
「そこ、春日さんに似てきたわね」
「え」
「すぐお礼を言うところ」
しらいさんは、少しだけ言葉に詰まった。
「……似てますか」
「ええ」
「嫌ですか」
「悪いとは言っていないわ」
理沙さんはスケジュール表を開きながら、淡々と言う。
「今日の取材は二本。どちらも短め。ただし二本目は映画の役について少し踏み込んだ質問が来る予定だから、答えを長くしすぎないこと」
「はい」
「声は八割半。本人の気持ちは?」
「……八割です」
「慎重ね」
「はい」
「悪くないわ」
しらいさんは、カードケースを鞄に戻そうとして、もう一度だけ触れた。
その仕草を、理沙さんは見ていた。
「本番前に見るのは構わないけど、読みすぎて泣かないように」
「泣きません」
「そういう顔をしているわ」
「……してません」
「してる」
理沙さんは、少しだけ笑った。
「泣くなら仕事が終わってからにして」
「理沙さん」
「喉に悪いでしょう」
「春日くんと同じこと言いますね」
「正しいことだから」
その言葉に、しらいさんは少し笑った。
春日くんと理沙さん。
まったく違う二人なのに、最近は時々同じ方向から自分を止める。
それが少し窮屈で、少し安心する。
◇
昼前の取材は、思っていたより穏やかに終わった。
喉は少し疲れたが、声が出なくなるような怖さはなかった。
理沙さんが横で時間を見ていて、長くなりそうな答えはさりげなく切ってくれた。
終わったあと、控室に戻る。
紙コップの水を飲む。
喉飴を一つ口に入れる。
それから、鞄の内ポケットに触れる。
青灰色のカードケース。
あった。
しらいさんは、それだけで少し呼吸が楽になるのを感じた。
スマホを見ると、春日くんから返信が来ていた。
『置かれてますね』
『紙コップの横にあると、少し不思議です』
続けて、
『でも嬉しいです』
しらいさんは、控室で一人、少しだけ頬が緩むのを感じた。
『理沙さんに見られた』
送る。
すぐに既読。
『大丈夫でしたか』
『大丈夫』
『見えるところに出しっぱなしは注意って』
『正しいですね』
『春日くんも理沙さん側』
『今日は理沙さん側です』
しらいさんは、少し笑う。
『支えになるものは禁止しないって』
送ると、少し間が空いた。
『理沙さん、優しいですね』
『うん』
『言い方は硬いけど』
『そこも理沙さんです』
春日くんから、すぐに返事。
『好きな人の周りにそういう人がいてくれるのは、安心します』
しらいさんは、その文字を読んで少し黙った。
好きな人。
何度聞いても、何度見ても、まだ少し心臓が跳ねる。
でも、前よりちゃんと受け取れるようになってきた気もする。
『私も』
『春日くんの周りに三崎さんがいるの、少し安心』
『本人には言わないでください』
『言わない』
『たぶん』
『たぶん?』
しらいさんは小さく笑った。
そのあと、メッセージを打つ。
『午後、少し重めの取材』
『カード見てから行く』
春日くんからの返事は、すぐだった。
『行ってらっしゃい』
たったそれだけ。
でも、効いた。
しらいさんは、カードケースからカードを少しだけ出して、もう一度読む。
待ってます。
声がある日も、ない日も。
戻りたい日に、戻ってきてください。
戻りたい日に、戻ってきてください。
その言葉は、仕事へ向かう前にも効くのだと知った。
戻る場所があるから、行ける。
行けるから、戻れる。
どちらかだけではない。
「アカリ、そろそろ」
ドアの外から理沙さんの声がした。
しらいさんはカードをしまい、鞄の内ポケットに戻す。
「はい」
立ち上がる。
喉はまだ完璧ではない。
少し怖い。
でも、足は前に出る。
◇
二本目の取材は、少しだけ苦しかった。
映画の役について聞かれた。
弱さを隠してしまう女性を演じることについて。
自分自身と重なるところはあるか。
どう向き合ったのか。
よくある質問だ。
答え方も、ある程度は準備している。
けれど今日は、胸の少し深いところに触れられた気がした。
弱さを隠す。
ちゃんとしている顔をする。
戻る場所が怖かったこと。
声が出なくなった夜に、泣きそうだったこと。
それらをそのまま話すわけにはいかない。
でも、完全に切り離すこともできない。
しらいさんは、ゆっくり言葉を選んだ。
「弱さを見せることは、負けることではないのだと思います。誰かに寄りかかるというより、自分がまた立つために、一度ちゃんと息をする場所を持つことなのかなと」
言ってから、自分で少し驚いた。
春日くんの部屋を思い出していた。
マグカップ。
コースター。
ミルクティー。
ただいまと、おかえり。
そして、鞄の中のカード。
インタビュアーは静かに頷いた。
「白瀬さんご自身も、そういう場所が大切だと思われますか」
理沙さんが少しだけ視線を上げるのが分かった。
しらいさんは、慌てなかった。
「はい。大切だと思います」
少し間を置く。
「もちろん、それが特別な場所とは限らなくて。小さな習慣だったり、温かい飲み物だったり、誰かからの何気ない言葉だったり。そういうものが、人を支えることはあると思います」
嘘ではない。
でも全部は言っていない。
それでいい。
取材は無事に終わった。
控室に戻ると、理沙さんがドアを閉めたあとで言った。
「今の答え、よかったわ」
「……大丈夫でしたか」
「大丈夫。具体的すぎず、でも空っぽではない」
「よかった」
「春日さんの影響?」
しらいさんは、少しだけ言葉に詰まった。
「……少し」
「でしょうね」
「分かりますか」
「分かるわ」
理沙さんはタブレットを閉じる。
「悪くない影響なら、仕事にも出る」
「……」
「ただし、出しすぎないように」
「はい」
「でも、今日のは悪くなかった」
しらいさんは、鞄の内ポケットにそっと触れた。
「……はい」
理沙さんはそれを見て、何も言わなかった。
◇
夜、しらいさんは春日くんに電話をした。
声は少し疲れていたが、昨日よりずっと安定している。
長く話さない約束で、短い通話。
「もしもし」
「春日くん」
「おつかれさまです」
「うん」
「声、昨日よりいいですね」
「本人評価八割半」
「理沙さん評価は?」
「八割半」
「一致した」
「記念日」
「何の記念ですか」
「声評価一致記念」
「地味ですね」
「でも大事」
「大事です」
電話の向こうで、春日くんが少し笑った。
その声を聞くだけで、今日の疲れが少し落ちる。
「カード」
しらいさんは言った。
「はい」
「かなり効いた」
「本当ですか」
「うん。紙コップの横に置いたら、ちょっと強かった」
「強かった」
「うん。マグカップの写真とは違う強さ」
「どう違いました?」
「マグカップは、戻る場所」
「はい」
「カードは、持っていける場所」
春日くんが、少し黙った。
「……それ、いいですね」
「でしょ」
「かなり」
「かなりもらった」
「どうぞ」
しらいさんは少し笑う。
「理沙さんにも見られた」
「怒られませんでしたか」
「見えるところに出しっぱなしは注意って」
「正しいですね」
「でも、支えになるものは禁止しないって」
「理沙さん、やっぱり優しいです」
「うん」
しらいさんはベッドに腰かけたまま、鞄を膝に乗せた。
内ポケットに触れる。
そこにある。
「春日くん」
「はい」
「鞄に入ってるの、思ったよりいい」
「よかったです」
「仕事の場所にも、ちょっとだけ春日くんがいる感じ」
「……」
「何で黙るの」
「今の、かなり効きました」
「ならよかった」
「取られた」
「今日は取る」
少しだけ笑い合う。
そのあと、しらいさんは声を落とした。
「今日ね、取材で、弱さを見せることの話になった」
「はい」
「ちゃんと答えられた気がする」
「よかったです」
「春日くんの部屋のことは言ってないよ」
「それはもちろん」
「でも、思い出してた」
「……」
「マグカップとか、コースターとか、ただいまとか」
春日くんの息が、電話の向こうで少しだけ変わった。
「それで答えられたなら」
「うん」
「部屋、役に立ちましたね」
「役に立った」
「ならよかった」
「出た」
「出ます」
「でも、本当にそう思う」
しらいさんは、鞄のカードケースを取り出した。
声で読み上げるのは、まだ少し恥ずかしい。
だから、ただ指先でなぞるだけにした。
「春日くん」
「はい」
「戻りたい日に、戻ってきてくださいって書いてあるでしょ」
「はい」
「あれ、仕事へ行く前にも効いた」
「……」
「戻れるから、行けるんだなって」
電話の向こうが、静かになった。
「しらいさん」
「何」
「書いてよかったです」
「うん」
「本当に」
「私も、入れてよかった」
しらいさんは、カードケースをそっと鞄に戻した。
明日もきっと、紙コップはある。
取材もある。
声も使う。
怖くなる瞬間もあるかもしれない。
でも、鞄の奥にはカードがある。
春日くんの部屋には、マグカップがある。
その二つが、見えない糸みたいに今の自分を支えている。
「春日くん」
「はい」
「明日の朝も写真」
「送ります」
「マグカップ」
「コースターの上ですね」
「私も送る」
「カードケース?」
「うん。今度は名前見えないように」
「理沙さんの教え」
「守る」
「偉いです」
「雑」
「本当に偉いです」
「じゃあよし」
いつものやり取りに戻って、しらいさんは少しだけ安心した。
声はまだ大事に使わなければならない。
でも、こうして話せる。
それが今は、素直にうれしかった。




