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第50話 鞄の奥に、君の場所を少しだけ作る

 昼休みの終わりかけに、しらいさんから写真が届いた。


 最初、何が写っているのか分からなかった。


 黒っぽい布地。

 ファスナーの金具。

 内側に小さく縫いつけられたポケット。

 たぶん、鞄の中だ。


 春日悠真は、会社の休憩スペースでスマホを見ながら首を傾げた。


 写真の下に、短いメッセージが続く。


『ここ』


 それだけ。


 悠真はしばらく考えてから返す。


『鞄の中ですか』


 すぐ既読がついた。


『うん』


『ここに春日くん用の何か入れたい』


 その一文を読んだ瞬間、悠真は飲んでいたお茶を少し詰まらせそうになった。


 春日くん用の何か。


 昨日の夜、そんな話をした。

 悠真の部屋には、しらいさん用のものが少しずつ増えている。

 マグカップ。コースター。喉飴。蜂蜜。ハーブティー。予備のペン。


 それを受けて、彼女が言ったのだ。


 私も、春日くん用の何かを鞄に入れたい、と。


 その続きが、昼休みの鞄の写真だった。


『急ですね』


 悠真が送ると、すぐ返ってくる。


『朝から考えてた』


『仕事中に?』


『休憩中』


『本当に?』


 少し間。


『少し仕事中も』


 悠真は思わず笑ってしまった。


 そのタイミングで、向かいの席から三崎が顔を上げる。


「春日」


「何」


「今の笑い方、完全に彼女」


「見なくていい」


「いや、昼休みの春日観察は俺の趣味だから」


「最悪の趣味だな」


「で、何。良いこと?」


「……まあ」


「お前、最近“まあ”で幸せを隠そうとするよな」


「うるさい」


 三崎は笑いながら、コンビニの唐揚げをひとつ食べた。


「いいんじゃね。隠せてないけど」


「隠してるんだよ」


「うん。努力は見える」


「それは隠せてないって意味だろ」


「そうとも言う」


 悠真はそれ以上相手にせず、スマホに視線を戻した。


『何を入れるんですか』


 送る。


 しらいさんからの返事は、少し遅れた。


『分からないから相談』


『今日、少しだけ外で会える?』


 外。


 その文字に、悠真は少しだけ姿勢を正した。


 河川敷でも部屋でもなく、外。

 しかも、小物を選ぶために。


『大丈夫です。場所は?』


『駅から少し離れた雑貨屋』


『人少ないところ』


『理沙さんにも言った』


 そこまで書かれていて、悠真は少し安心した。


『分かりました』


『何時ですか』


『十九時半』


『行きます』


 既読。


『知ってる』


 いつもの言葉なのに、今日は少しだけ弾んで見えた。


    ◇


 その雑貨屋は、駅前の大通りから一本入ったところにあった。


 大きなチェーン店ではない。

 木の扉と小さな看板。

 店内には、食器、文具、ハンカチ、キーホルダー、革小物などが静かに並んでいる。


 休日ならもう少し客がいるのかもしれないが、平日の夜はかなり空いていた。


 悠真が店の前に着いたとき、しらいさんはすでに少し離れた街灯の下に立っていた。


 黒いキャップ。

 薄いマスク。

 ベージュのコート。

 鞄は、昼の写真に写っていたものだろう。小さめの黒いショルダーバッグだった。


 目が合うと、彼女は軽く手を上げる。


「来た」


 声はもう、かなり戻っていた。

 まだ少しだけ大事に使っている感じはある。けれど、普通に会話するぶんにはほとんど違和感がない。


「来てくれてよかったです」


「それ、今日はこっちが言うやつ」


「どっちでもいいでしょう」


「うん。どっちでもいい」


 しらいさんは少しだけ笑った。


 マスク越しでも分かる。

 今日は、声の不安よりも別の緊張がある顔だった。


「鞄の中、見せてくるのはかなり攻めてますね」


 悠真が言うと、彼女は一瞬だけ目を丸くした。


「写真だけでしょ」


「でも、鞄の中ですよ」


「……確かに」


「しらいさん、たまに大胆ですよね」


「春日くんにだけだから」


 さらっと言ってから、彼女は自分で少し固まった。


 悠真も少し固まった。


 店の前で、二人とも数秒だけ黙る。


「……今の」


 悠真が言う。


「忘れて」


「無理です」


「じゃあ、保存しないで」


「もう保存されました」


「春日くん、そういうところある」


「どちらかというと、今のはしらいさんが」


「店入ろ」


「逃げた」


「入る」


 しらいさんは扉を開けた。

 悠真もその後に続く。


 店内は、外より少し暖かかった。

 木の棚と、やわらかい照明。

 どこか乾いた紙と布の匂いがする。


 しらいさんは、まず文具の棚の前で足を止めた。


「小さいものがいい」


「鞄に入れるなら、そうですね」


「あと、目立たないもの」


「はい」


「でも、見たら春日くんのこと思い出すもの」


 彼女は真面目な顔で言った。


 こういうときのしらいさんは、少しだけ難しい。

 照れているくせに、本当に欲しいものは誤魔化さない。


 悠真は棚を見ながら言う。


「キーホルダーとか?」


「それは見えすぎる」


「確かに」


「チャームも、ちょっと目立つ」


「じゃあ、ポーチの中に入るもの」


「うん」


 二人はゆっくり店内を見て回った。


 小さな革のしおり。

 布製のハンカチ。

 金属のブックマーカー。

 小さなメモ帳。

 木製のペン。


 しらいさんは一つひとつ手に取って、少し考えては棚に戻す。


「これ、きれい」


 彼女が手に取ったのは、細い青灰色のハンカチだった。

 無地に近いが、端にだけ白い刺繍が入っている。


 青灰色。


 悠真の部屋にある、彼女のコースターと少し似た色だった。


「コースターと似てますね」


 悠真が言うと、しらいさんは小さく頷いた。


「うん。そこがいい」


「春日くん用というより、しらいさん用っぽくないですか」


「違う」


「違う?」


「これは、春日くんの部屋にある私の場所を思い出すもの」


 しらいさんはハンカチを両手で持ったまま、少しだけ目を伏せる。


「だから、春日くん用」


 悠真は、何も言えなくなった。


 その言い方は、少しずるい。


 彼女の鞄の中に入れるものなのに、悠真の部屋の彼女の居場所を思い出すもの。

 それが、彼女にとっての春日くん用になる。


「……それ、かなりいいですね」


「かなり?」


「かなり」


「春日くんがかなりって言った」


「移りました」


「知ってる」


 しらいさんは少し嬉しそうに笑った。


 でも、すぐに少し悩む顔になる。


「でも、ハンカチって使うよね」


「使いますね」


「使ったら汚れる」


「洗えばいいのでは」


「そういう合理的な話じゃない」


「すみません」


「春日くん用だから、あまり普通に使いたくない」


「じゃあ、もう少し小さいものにしますか」


 しらいさんは悩みながら棚を移動した。


 次に見つけたのは、小さな布製のカードケースだった。

 名刺入れほど大きくはない。鞄の内ポケットに入るくらいの薄いケース。

 色は、やはり青灰色に近い。内側が白く、端に細いステッチがある。


 しらいさんはそれを手に取った瞬間、少しだけ目を止めた。


「これ」


「いいですね」


「中に何か入れられる」


「メモとか?」


「うん」


「春日くん用のメモ?」


 悠真が軽く言うと、しらいさんは真面目にこちらを見た。


「書いて」


「え」


「春日くんが」


「何をですか」


「何か」


「急に雑ですね」


「何でもいい」


「何でもが一番難しいんですよ」


「じゃあ、いつもの」


「いつもの?」


「待ってます、とか」


 悠真は、そこで少しだけ息を止めた。


 待ってます。


 何度も言ってきた言葉だ。

 メッセージでも、電話でも、部屋でも、河川敷でも。


 彼女が戻ってくる場所を用意するように、何度も言った。


 それを、彼女の鞄に入れる。


「……重くないですか」


「軽い紙に書けば大丈夫」


「そういう意味ではなく」


「知ってる」


 しらいさんは少しだけ笑った。


「でも、欲しい」


 その一言で、悠真は負けた。


「分かりました」


「いいの?」


「書きます」


「今?」


「今は紙がないです」


 すると、しらいさんはすぐ近くの棚から、小さな無地のメッセージカードを手に取った。


「ある」


「用意がいい」


「店がいい」


「確かに」


 二人はカードケースと、小さなメッセージカードを持ってレジへ向かった。


 会計のとき、悠真が払おうとすると、しらいさんがすぐに止めた。


「これは私が買う」


「でも、春日くん用なんですよね」


「私の鞄に入れるから」


「それはそうですが」


「春日くんには、書いてもらう」


「分かりました」


 店員が少しだけ微笑んでいた。

 たぶん、普通のカップルに見えたのだろう。


 そのことが少しだけくすぐったくて、同時に慎重になった。


 店を出ると、夜風が少し冷たかった。


    ◇


 近くに、小さなベンチのある広場があった。


 人はほとんどいない。

 街灯の下で、しらいさんは買ったばかりのカードケースを袋から出した。


「ここで書く?」


「本当に今ですか」


「今がいい」


「なぜ」


「持って帰るまで待つと、緊張する」


「書く側も緊張します」


「一緒」


 彼女はバッグからペンを取り出した。


「準備がいいですね」


「仕事道具」


「なるほど」


 悠真は小さなメッセージカードを受け取った。


 白いカード。

 余白が多い。

 そこに何を書くか。


 待ってます。


 それだけでもいい。

 でも、それだけだと少し短い気がする。


 悠真はしばらく考えた。


 しらいさんは隣で待っている。

 急かさない。

 けれど、かなり見ている。


「見られると書きにくいです」


「見たい」


「ですよね」


 悠真は諦めて、ペンを走らせた。


『待ってます。

声がある日も、ない日も。

戻りたい日に、戻ってきてください。

春日悠真』


 書き終えてから、少しだけ恥ずかしくなる。


「……長かったかもしれません」


 しらいさんはカードを受け取り、黙って読んだ。


 読む間、顔が少しずつ変わっていく。

 最初は真剣に。

 次に、少し驚いて。

 最後に、目元がゆっくり柔らかくなった。


「しらいさん?」


 彼女は何も言わず、カードを胸元に引き寄せた。


「……これ」


「はい」


「かなりだめ」


「だめでしたか」


「うれしいほう」


「ならよかった」


「出た」


 彼女は小さく笑った。

 でも、その声は少し震えていた。


「これ、鞄に入れる」


「はい」


「仕事場にも持っていく」


「大丈夫ですか」


「見えないようにする」


「無理はしないでください」


「大丈夫。これは私だけが分かるものだから」


 しらいさんはカードを小さなケースに入れた。

 そして、昼に写真で送ってきた鞄の内ポケットへ、そっと差し込む。


 その仕草は、マグカップをコースターに置くときと少し似ていた。


 大事なものを、大事な場所に置く手つき。


「入った」


「入りましたね」


「……春日くんの場所、できた」


 彼女は小さく言った。


 鞄の奥の、小さなカードケース。

 そこに、悠真の書いた言葉がある。


 部屋には、しらいさんのマグカップがある。

 彼女の鞄には、悠真のカードがある。


 お互いの場所が、少しずつ増えていく。


「何か、不思議ですね」


 悠真が言うと、しらいさんは鞄を閉じながら頷いた。


「うん」


「俺の部屋にしらいさんのものが増えて」


「うん」


「しらいさんの鞄に、俺のものが入る」


「……うん」


「かなり」


「かなり?」


「近いです」


 しらいさんは一瞬だけ息を止めた。


 そして、少しだけ照れたように視線を逸らす。


「春日くん、最近そういうこと言うの上手くなった」


「上手くなってますか」


「なってる」


「それは良いことですか」


「心臓には悪い」


「すみません」


「謝らないで」


 彼女はそう言って、少しだけ笑った。


 そのあと、鞄の上から内ポケットのあたりにそっと触れる。


 そこにカードがあることを確かめるように。


「明日」


「はい」


「控室で、これ見るかも」


「はい」


「紙コップの横に、こっそり置くかも」


「写真、送ってください」


「送る」


「無理のない範囲で」


「理沙さん側」


「継続です」


「知ってる」


 また少し笑う。


 外は冷えているのに、その短いやり取りで指先が少し温かくなる気がした。


    ◇


 帰り道、二人は少しだけ遠回りした。


 長くはない。

 理沙さんとの約束もあるし、彼女の喉もまだ完全ではない。

 それでも、雑貨屋から駅までの最短ルートではなく、少し静かな通りを歩いた。


 しらいさんは何度か鞄に触れた。


「そんなに気になります?」


 悠真が聞くと、彼女は少しだけ恥ずかしそうに言った。


「あるか確認してる」


「さっき入れたばかりですよ」


「でも、あるか見たくなる」


「分かる気がします」


「春日くんも?」


「俺も朝、マグカップ確認します」


「知ってる」


「そうでした」


 しらいさんは、少しだけ嬉しそうだった。


「春日くん」


「はい」


「明日から、ちょっと平気かも」


「何がですか」


「控室とか、移動中とか」


「……」


「春日くんの部屋に戻れない日でも、鞄の中に少しだけあるから」


 悠真は、すぐには返せなかった。


 そんな小さなカード一枚で、全部が平気になるわけではない。

 忙しさも、不安も、声の怖さも、消えるわけではない。


 それでも、少しだけ平気になれるなら。


「書いてよかったです」


「うん」


「本当に」


「うん。私も、入れてよかった」


 駅の明かりが見えてきた。


 人通りが増える前に、しらいさんは少しだけ立ち止まる。


「今日はここで大丈夫」


「はい」


「春日くん」


「はい」


「カード、ありがとう」


「どういたしまして」


「……声で言えるの、やっぱりいいね」


「戻ってきましたね」


「うん。でも大事に使う」


「そうしてください」


「理沙さん側」


「彼氏側もです」


「……それ、好き」


 彼女はそう言って、鞄を軽く抱え直した。


「明日の朝も写真」


「送ります」


「マグカップ」


「コースターの上」


「私も送る」


「カードケース?」


「うん。紙コップと一緒に」


「待ってます」


「知ってる」


 その“知ってる”は、もうほとんど以前の声だった。


 しらいさんは手を振り、駅のほうへ歩いていく。


 悠真はその背中を見送った。


 鞄の奥に、自分の書いたカードがある。

 彼女は明日、それを控室で見るかもしれない。

 疲れたとき、声が少し怖いとき、紙コップの横で、こっそり取り出すかもしれない。


 そう思うと、胸の奥が静かに熱くなった。


 彼女の居場所が、自分の部屋に増えた。

 そして今度は、自分の言葉の居場所が、彼女の鞄にできた。


 お互いの日常が、少しずつ重なっていく。


 それは目立たない。

 誰にも見えない。

 けれど、確かにそこにある。

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