第49話 始まりの場所で、君はもう一度ただいまと言った
久しぶりに河川敷へ向かう夜は、少しだけ足取りが違った。
春日悠真は、駅前のコンビニで温かいほうじ茶を二本買った。
それから少し迷って、蜂蜜入りの喉飴も一袋かごに入れる。
もう喉飴は部屋に十分ある。
それでも買ってしまうのは、たぶん癖になっているからだ。
レジを済ませ、店を出る。
夜風は冷たい。けれど、真冬のように刺す寒さではない。季節が少しずつ深くなっていく途中の、静かな冷え方だった。
スマホを見る。
『少し遅れるかも』
しらいさんから、十分ほど前に届いたメッセージ。
悠真は返している。
『待ってます』
それに対する返事は、
『知ってる』
だった。
久しぶりの河川敷。
声が戻ってから、初めて二人で行く始まりの場所。
たったそれだけなのに、妙に緊張していた。
部屋はもう、かなり二人の場所になり始めている。
マグカップがある。コースターがある。喉飴も、ハーブティーも、蜂蜜もある。
しらいさんはそこで「ただいま」と言い、悠真は「おかえりなさい」と返した。
けれど、河川敷はまた別だ。
最初に出会った場所。
彼女がまだ白瀬アカリだと認めなかった場所。
地味なお姉さんとして缶チューハイを飲んでいた場所。
何でもないふりをしながら、少しずつ何でもなくなくなっていった場所。
そこへ戻る。
坂道を下りると、川の匂いがした。
いつものベンチは空いていた。
街灯の明かりが少しだけ遠く、川面はほとんど黒い。車の音も、人の声も、駅前よりずっと薄くなる。
悠真はベンチに座った。
少し冷たい。
けれど、この冷たさも懐かしい気がした。
膝の上にコンビニ袋を置き、ほうじ茶を一本取り出す。
もう一本は袋に入れたまま。
彼女が来たら渡す。
ただ待つだけの時間なのに、前よりずっと意味がある。
五分ほどして、土手の上に人影が見えた。
黒いキャップ。
薄いマスク。
長めのコート。
歩き方は少し慎重で、でも数日前のような弱さはない。
しらいさんだった。
彼女は坂道をゆっくり下りてくる。
悠真の前まで来ると、少しだけ息を整えた。
そして、マスクを少し下げる。
「……来た」
声は、ほとんど戻っていた。
まだ少しだけ低く、慎重な響きは残っている。
でも、ちゃんと彼女の声だった。
悠真は静かに笑う。
「来てくれてよかったです」
しらいさんは、目元だけで笑った。
「それ、久しぶりに外で聞いた」
「そうですね」
「うん。……ちょっと効く」
「喉は?」
「八割半」
「本人評価ですか」
「本人評価」
「理沙さん評価は?」
「八割」
「厳しい」
「でも今日は、河川敷なら少しだけいいって」
「理沙さん公認ですか」
「短時間なら」
「では、短時間で」
しらいさんは少し不満そうに目を細めた。
「春日くん、最近本当に理沙さん側」
「守るためです」
「それ、ずるい」
「知ってます」
「取られた」
二人で小さく笑った。
しらいさんは悠真の隣に座る。
以前より、自然に近い距離だった。
悠真はコンビニ袋から温かいほうじ茶を取り出し、彼女に渡す。
「これ」
「ありがと」
「今日はお酒じゃなくて」
「うん。今日はこっちがいい」
しらいさんは両手でボトルを包んだ。
部屋でマグカップを持つときと似た仕草。
でも、ここでは少しだけ違って見える。
河川敷の風の中で、彼女はほうじ茶の温度を確かめるようにして、ゆっくり息を吐いた。
「……戻ってきた」
小さな声だった。
悠真はすぐには返さなかった。
今の言葉を、急いで受け取るのは違う気がした。
しらいさんは川のほうを見ている。
「変な感じ」
「何がですか」
「部屋には戻ったでしょ」
「はい」
「仕事にも、少し戻った」
「はい」
「でも、ここに戻るのは、また別だった」
「……」
「ここ、始まった場所だから」
その言葉で、悠真の胸の奥が少しだけ熱くなった。
自分も同じことを思っていた。
けれど、彼女の声で聞くと、もっと確かなものになる。
「俺も、今日少し緊張してました」
「春日くんが?」
「はい」
「何で」
「ここに戻ったら、前と同じなのか、少し違うのか分からなかったので」
「……」
「部屋が増えて、理沙さんにも会って、声のこともあって」
「うん」
「それでもここがちゃんと二人の場所なのか、少しだけ考えてました」
しらいさんは、ほうじ茶のボトルを膝の上で転がした。
それから、小さく笑う。
「春日くん、私より考えてる」
「しらいさんも考えてたでしょう」
「考えてた」
「ですよね」
「うん」
彼女は少しだけ肩をすくめた。
「私ね、ちょっと怖かった」
「はい」
「部屋があんなに安心する場所になったから」
「うん」
「河川敷が、過去の場所になっちゃったらどうしようって」
その言い方が、胸に残った。
過去の場所。
確かに、部屋は今の二人にとって大きくなった。
マグカップがあり、ただいまがあり、おかえりがある。
そこはもう、ただの春日悠真の部屋ではない。
けれど。
「過去の場所にはならないと思います」
悠真は言った。
「何で?」
「ここがなかったら、部屋もなかったので」
「……」
「しらいさんのマグカップも、コースターも、ただいまも」
「……」
「ここで会わなかったら、何も始まってないです」
しらいさんは黙った。
冷たい夜風が、二人の間を通り抜ける。
けれど、その沈黙は寒くなかった。
「春日くん」
「はい」
「今日、それ言うの、かなりずるい」
「本当なので」
「知ってる」
彼女は少しだけ笑った。
その笑顔は、初めて河川敷で見たものとはもう違う。
疲れて、隠れて、少しだけ逃げるように座っていたお姉さんの笑い方ではない。
今は、戻ってきた人の顔だった。
「私、ここで言いたいことがあった」
「はい」
「声で」
「待ってました」
「……それ、昨日も言われた」
「何度でも言います」
「うん」
しらいさんは、ほうじ茶をベンチの横に置いた。
そして、少しだけ姿勢を正す。
喉に手を当てる。
無理をしないように、ゆっくり息を吸う。
それから、川のほうではなく、悠真を見た。
「ただいま」
部屋で聞いたときとは、少し違う「ただいま」だった。
部屋に帰るただいまではない。
河川敷へ戻ってきたただいま。
始まりの場所へ、もう一度自分の足で来た人の言葉。
悠真は、静かに返した。
「おかえりなさい」
しらいさんは目を細めた。
マスクをしていない口元が、ほんの少しだけ震える。
「……言えた」
「聞けました」
「ここでも」
「はい」
「部屋だけじゃなくて、ここでも」
「はい」
彼女はほうじ茶のボトルをまた両手で包んだ。
少しだけ俯く。
「私、戻る場所が増えるの、最初ちょっと怖かった」
「はい」
「弱くなる気がしたから」
「うん」
「でも違った」
「……」
「戻る場所が増えると、戻っていける場所も増えるんだね」
悠真は、その言葉を胸の中でゆっくり受け止めた。
戻る場所。
戻っていける場所。
似ているようで、少し違う。
彼女は部屋に戻る。
河川敷に戻る。
そして、白瀬アカリとして仕事にも戻っていく。
その全部が、今の彼女を支えている。
「しらいさん」
「何」
「ここにも、また戻ってきましょう」
「うん」
「声が出る日も」
「うん」
「出ない日も」
「……うん」
「元気な日も」
「うん」
「疲れた日も」
「うん」
「缶チューハイじゃなくて、ほうじ茶の日も」
しらいさんは、そこで少しだけ笑った。
「最後、急に現実的」
「大事です」
「大事だね」
彼女は夜の川を見た。
前は、彼女が川を見ている横顔を、悠真は少し遠いものとして眺めていた。
今は違う。
隣にいる。
ちゃんと隣にいる。
「春日くん」
「はい」
「私、河川敷にも、部屋にも戻りたい」
「はい」
「仕事にも戻る」
「はい」
「たぶん、これからも忙しいし、声が怖くなる日もあるし、理沙さんに止められる日もあるし」
「はい」
「会えない日もある」
「はい」
「でも」
彼女は、そこで少しだけ言葉を切った。
喉のために休ませたのか、気持ちを整えたのかは分からない。
でも、その先の言葉は、ちゃんと声で届いた。
「春日くんのところに、戻ってくる」
悠真は、息を止めた。
その言葉は、告白よりも生活に近くて、約束よりも体温があった。
「……待ってます」
ようやく言うと、しらいさんは少しだけ不満そうに目を細める。
「知ってる、って言いたいのに」
「言ってください」
「喉、節約」
「そこは守るんですね」
「理沙さん側だから」
「俺もです」
しらいさんはボトルを持ったまま、少しだけ肩を揺らして笑った。
声は出さない。
でも、笑っているのは分かる。
◇
短時間のつもりだった。
実際、長居はしなかった。
それでも、二人は少しだけ昔のように話した。
最初に会ったとき、悠真がどこまで気づいていたのか。
しらいさんが、どれくらい「この人、絶対気づいてる」と思っていたのか。
本人じゃないと言い張っていたころの無理のある言い訳。
「春日くん、最初から目が怪しかった」
「怪しかったのは、しらいさんのほうです」
「私はただの地味なお姉さんだった」
「どう見ても違いました」
「ひどい」
「褒めてます」
「それ、褒めてる?」
「かなり」
「かなり、便利に使ってる」
「しらいさんが移しました」
「人のせい」
久しぶりに、河川敷でいつものやり取りができた。
それだけで十分だった。
時計を見て、悠真は言った。
「そろそろ」
しらいさんは、明らかに嫌そうな顔をした。
「……早い」
「短時間の約束です」
「理沙さん側」
「今日は完全にそうです」
「彼氏側は?」
「またここに来てほしいので、今日は帰って休んでほしいです」
しらいさんは、少しだけ口を尖らせた。
けれど、すぐに諦めたように笑う。
「それ言われると、帰る理由になる」
「前も言ってましたね」
「うん。効く」
二人はベンチから立ち上がった。
川のほうを一度だけ振り返る。
街灯の明かりが水面に少し揺れていた。
しらいさんは、その景色をしばらく見つめてから、小さく言った。
「また来る」
「はい」
「ここにも」
「はい」
「部屋にも」
「はい」
「仕事からも、ちゃんと戻ってくる」
「はい」
悠真は頷いた。
そのひとつひとつが、今の彼女にとって必要な言葉なのだと思った。
土手の上まで一緒に歩く。
人通りは少ない。
それでも、手はつながない。
今はそれでいい。
代わりに、しらいさんはほんの少しだけ悠真の袖に触れた。
一瞬だけ。
でも、ちゃんと分かるくらいに。
「春日くん」
「はい」
「今日、来てよかった」
「俺もです」
「河川敷、過去になってなかった」
「なりませんよ」
「……うん」
彼女は少しだけ安心したように笑った。
駅へ向かう分かれ道で、しらいさんは立ち止まる。
「今日はここまでで大丈夫です」
「本当に?」
「うん。理沙さんにも報告する」
「偉いです」
「雑」
「本当に偉いです」
「じゃあよし」
彼女は少し笑ってから、声を落とした。
「おやすみ、春日くん」
「おやすみなさい」
そして、いつものように少し歩いてから振り返る。
今日はホワイトボードを持っていない。
だから彼女は、声で言った。
「知ってる」
何に対する「知ってる」なのか、少し分からなかった。
でも、たぶん全部だ。
待っていること。
戻る場所があること。
好きでいること。
悠真は笑って、頷いた。
しらいさんも頷き返して、夜の道へ歩いていった。
その背中は、初めて見た夜よりずっと近くて、少しだけ強かった。




